2015年1月12日月曜日

“魂の追尾”~「根津甚八」 根津仁香 著~


 市井のひとの評価は、内奥が透かし見える航跡の周知と思慕あふれる声掛けとで構成された“弔辞”に良くも悪くも集約される。その点において先日の会は清清しいものがあった。七十歳を目前にして病いに散った人の葬送で、生前の面影をあざやかに照射する一文が奉読された。壇上の遺影の微笑みが強まって感じられ、生き生きと血が通って見えてくるから不思議だったのだけど、多分会場のどこかで故人もこの手紙を聞いて喜んでおり、それが現われたのじゃなかったか。

 こころのこもったひとつでも聞けばそれだけで随分と救われた気持ちになるものだが、高齢化と核家族化が影響して赤十字社からの名ばかりの感謝状、それも代読という味気ない文面で幕をひく弔いがここのところ多い。そんな席に交ざるとつくづく生とは何かを考えさせられ、帰路に着く頃にはどんよりと重たいものに包まれる。痕跡を持たない泡(あぶく)のような終わり方、それが私たちの向う先かと嘆息せざるをえない場面が周りに増えていて、仕方ないと思う反面、やはり、どこかもどかしくも思う。

 交歓の日々の、せめて断片だけでも後世に残せれば素敵なのだけど、思い出は“かたち”に変換されずに朧(おぼろ)となるは避けがたい。弔辞はそれに抗するわずかな機会となるが、考えればその大半だって箪笥や机の引き出しの奥に程なく埋もれてしまう理屈だから、有るような無いような至極ぼんやりしたものであって、“かたち”あるものとは到底言えない。
 
 一部の著名人、芸術家たちの場合、かれらの半生なり思想、肉声といったものは良くも悪くも伝記やインタビュウという“かたち”となって複製され、時代をまたいで伝えられていく。天邪鬼なわたしは彼ら特別な存在の名声や富に対して左程の嫉妬を覚えないのだが、こういった航跡の在り在りと世に残せることには強い眩しさを感じてしまう。

 この流れで引き合いに出すのは失礼に当たるかもしれないが、たとえば「根津甚八(ねづじんぱち)」という、その名もずばりの一冊(*1)を先日読みながら、私はそこに書かれた俳優の足跡とこれを“かたち”にしてみせた執筆と編集の道程に深く嫉妬した。俗世とは表も裏も異なる芸能世界に暮らすことは想像を絶する苦難をともなうはずで、どれ程の緊張や衝撃を日毎夜毎に抱えるものか。加えて根津甚八という役者の半生の凄絶な様相はページを繰る指を震わせ、呼吸を乱すほども酷い顛末の連(つる)べ打ちだから、それを羨ましいと評するのは全くの間違いなのだけど、それでもやはりこの本は心底まぶしい。

 石井隆の絢爛たる映像世界の中軸に座り、疾走し、牽引したその姿は脳裏に刻まれて今も忘れられない。『月下の蘭』(1991)、『ヌードの夜』(1993)、『天使のはらわた 赤い閃光』(1994)、『夜がまた来る』(1994)、『GONIN』(1995)、そして『黒の天使 Vol.1』(1998)に相次いで出演し、石井がかつて描いた端正な顔立ちの川島や村木といった男の、胸元に立ちゆれる色香や遠いまなざしを見事に遺伝継承し、劇画世界の裾野を映画の山稜へと繋ぐ森の役目を果たした。ときに風を受けて鳴動し、ときに紅蓮に染まってつよく酔わせた。冬枯れした木立となって手招きし、肌恋しさにざわつく観客の孤弱を慰めた

 本書にはそのような石井各作品に関わったその時どきの根津の身体の調子や裏話も含まれてあるから、石井世界に耽溺する人は一読の価値がある本とは思うのだが、タレント本以上の重さと密度をもって胸に迫るところが正直言えばあるのだった。評論家や記者、はたまたゴーストライターの手になるのでなく、これが根津の細君によって編まれたものであり、夫の病症と事故の詳細、置かれた苦境が迂回されることなく実物大のディテールをともなって開示されていることが理由として大きい。

 加えて、ほとんどの男がそうだと思うのだけど、自宅では黙して語ることの少ない仕事場での軋轢や衝突、追悔につき、この妻は正確な記述を目指して当事者をひとりひとり訪ねて回り、そこで根津甚八という役者はいったい何だったのかを彼らに問い掛けるのだった。答えを手繰りあわせて、己と読者の視線を徐々に束ねていくその道程に宿る切実さ、清廉なるところがじんわりと甘く胸に堪えるのだ。

 第三者ではなく、共に暮らす妻に師弟や関係者を取材させる構図に対して、根津が、それとなく抵抗を示していく様子も文中に幾度も見てとれる。その辺りの生理も男同士としてよく伝わるものがあり、取材から編集、出版へと無事に到達出来るのか、読んでいてはらはらさせられる局面が雑(ま)じっていく。回顧録や資料本とはまるで違った感懐に捕らわれるのは、そんな心の綱引きが行間に常に垣間見れるからだ。

 石井が好んで描く題材に、おんなの過去を探すうちに身もこころも一体化していく記者や探偵の話があるが、あれとちょっと似た面持ちがある。根津の航跡と同時に筆者のそれも読者は発見してしまい、二本の筋が撚(よ)り合わされていくのを目で追う仕掛けであって、読み進むごとに胸のあたりが手のひらでゆっくりと押された具合に温まる。つまりは血が通ったルポルタージュであり、それも目的の粋をはるかに越えてしまっている。根津仁香(ねづじんか)というおんなが頼まれて根津甚八という男を調査し、そのうち彼の胸の奥の洞窟の深いところまで次第次第に下りて行く訳なのだが、過去を探りながら実際は“今”へと手を差し出しているのだった。内奥までを透かし見せる経歴の明示と思慕の言葉の数々が、現に生きている相手に向って愛する者の口から発せられていることに感動し、これは何だろうと、こんな本は読んだことがないと気付いて目の奥がぐんと明るさを増していく。

 プロローグを彩るのは自宅の居間で撮られた根津の孤影であったものが、終章での見開きには、ソファに座るその背中に寄り添う形で筆者もまた印画紙に取り込まれている。編集担当者の透徹したまなざしに助けられながら、一幅の絵巻が完成されているように思う。鈴木成一デザイン室の装丁も好い。照柿をより深くした趣きのカバーは、粗めの触感の地紙の選択と相まって光を吸い込み、根津という引力を具えた役者を巧く表現した。そこに幾らかにじむ感じで置かれたゴシック体の大きな題字「根津甚八」に従う、妻である筆者の名前がすっきりと胸張った感じの明朝体で控えめに置かれてあるのも、魂がもうひとつの魂に健気に追走していく、そんな崇高な両者の在りようを示して可憐過ぎる。

 奥付を見ると発行日は2010年の9月27日とあって、かなり前に出ていた本なのだけど、書店で見て手に取った記憶が一切ない。おそらく、その後しばらくして起きた震災でわたしの精神状態がひどく変調し、書棚の間をゆったりと回遊する余力を失っていたのだろう。人に出逢うタイミングがあるように、映画や本との出逢いもまた時期を選ぶ。今こうして遅れて手にする事は、きっと歳月がわたしの神経を慰撫して視界を拡げた結果なのだろう、と漠然とあれやこれやを想い描いている。

(*1):「根津甚八」 根津仁香  講談社  2010

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