2014年6月8日日曜日

“霊肉一致”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[10]~


 『天使のはらわた 赤い教室』(1979)での村木(蟹江敬三)のまなざしは、水面に落ちた油膜に似て四方八方に広がり、ややもすれば減速する。自制が効かないのか、それとも衝突を回避するためだったか、いずれにしても裕子に被さるその貌(かたち)は石井の劇からすれば軽挙に感じられるのだった。一体全体どうしてこんな事になったものか。噛み合わせの悪さはどこから生じるのだろう。

 劇画時代の石井の作品には、波打つ毛髪、皮膚の弾性やたわみ、皺寄るシュミーズがあり、湿りの拡がっていく下穿き、血走った目といったものが並んだから、執拗なその描写を前にして読者の一部は石井世界を情欲の蟻地獄と捉えた。劇中人物はいずれも性愛という名の疾病に侵され、世間から隔絶された場処に住まう獰猛な存在とさえ見える時があった。筆からカメラに道具を持ち替えても姿勢は同じであって、どうしても荒涼とした息吹を鑑賞後に抱くひとは多かろう。

 けれど、石井の作品にどっぷりと融け込んでいくと、どうやら淫夢と暴力の煮えたぎる溶解炉の底には思いのほか静謐で穏やかな冷泉がたゆたうことが分かってくるのだった。たとえば『花と蛇2 パリ/静子』(2005)という作品は、その辺りのことを明確に台詞によって告げている。『赤い教室』との間に四半世紀の開きがあるが、両者は時空を越えて音叉のごとく共振する。作家性のきわめて強い石井ならではの特徴であり、互いが互いを照射し合うから劇の根底に流れるものを探知しやすい。

 『パリ/静子』は、死を意識する遠山隆義(宍戸錠)という男が人を雇って若い妻(杉本彩)を罠にはめ、縛ったり叩いたりを繰り広げる異常性愛の物語であった。全篇にわたって淫虐の宴(うたげ)が続く訳だが、私はこれを涙なしに観終えることが出来ないのだった。感涙を誘うのは酷い目に遭って顔を歪ますおんなではなく、幕引き直前になって吐露される男の真情のあまりの淋しさ、切なさである。

 不可解な行動の動機となっているのが過剰な肉欲なり加虐嗜好ではなくて、単に愛する者に自分の中の引き出しを見てもらいたかった、という何ともいじましく、柔らかい性状の物なのだ。(*1)  散々に人を弄(もてあそ)んだ末に何を今ごろになって子供みたいな事を言うのだろうと呆れながらも、その愚直さ、純真さに気持ちが震えた。わたしも遠山と変わらない。いや、大概の人が遠山と同じ夢を素肌の裏に隠しながら、今日を明日へと繋いでいるのではないか。

 対人関係の根幹にある“意思の共有”なり“境涯への理解”といったものを激しく希求する点が石井の劇には見え隠れする。書いた端からどうにも青くさくて面映いが、石井世界にはそういう霊肉一致への願望が常に潜んでいるのであって、深読みする人には当然それが伝播するものだから“倫理的”と称されることも多いのだ。

 『赤い教室』に石井が託そうとしたものは、何よりこの共有と理解への切望であった。先述の第一稿を手繰っていくと、完成された映画では消失してしまった村木の台詞が幾つか目に刺さって来る。(*2) たとえば名美(水原ゆう紀)に向けられた言葉の中に「付き合いたいんだ……俺を判って欲しいし……信じて」と訴えるものがある。これに似た調子のものは完成された映画にもあるのだが、“俺を判って欲しい”といった無垢な表現はどうやら意識的に排除されている。

 「仕事に使いたかったのも本当だ、だけどあんたの生身に、惚れたんだよ、きっと……」という、やはり消失した台詞中の“あなたの生身”というのも同等に強い光を放つ。相手の存在を多層的にとらえ、奥まった箇所同士を結線させたいと祈る、実に村木らしい告白であった。至るところでそんな引き算が重なって、『赤い教室』は徐々に石井世界から離脱して行ったのだ。霊肉一致を目指す劇の原則が喪われてしまえば、石井らしさが薄らぐのは当然のことだ。

 「口では上手く言えないけどよ、あんたは、思ってた通りの女だったよ、フィルムから察した通りのね……いい女だよ」という独白だってそうだ。これは映画にも一応含まれてあるのだが、“女”という言葉が二度続けて書かれてあり、石井は末尾の方にだけ“ひと”というルビを振っていた。好い「おんな」の貴女に惹かれたのは事実だけれど、自分は人間をさんざん見てきたから判るのだ、貴女は善い「ひと」だ、と村木は真摯な面持ちで打ち明ける。おんなという肉体を透かして内実にこそ触れ合いたいのだ、そして自分の胸の奥の洞窟にも入って来て欲しいのだと手招いている。

 これに対して映画ではどうだったかと言えば、村木役の蟹江敬三は「口では上手く言えないけどよ、あんたは、思ってた通りの女(ひと)だったよ、フィルムから察した通りのね……いい女(おんな)だよ」と吹き込んでおり、石井の細やかな指示を完全にひっくり返して見せる。演出側の内部に石井の世界観を否定するものがあって、容赦ない修正が施されているのが分かる。

 「フィルムから察した通りのね……いい女(おんな)だよ」とは、それにしても何て乱暴な物言いだろう。ポルノグラフィーに囚(とら)われて疲労困憊の名美に対し、そこから手を引いて脱出させようとしないばかりか頸木(くびき)を締め直しにかかる。おまえはフィルムから察した通りの扇情的なおんなだから、そのおんなをずっと演じ続けよと諭しているようにも読める。女性を性的対象として愉しむことが至上命題である、そんなポルノグラフィーの製作現場の鉄の掟(おきて)を見せつけられた思いで少しばかり寒気がする。どうやら映画という媒体が名美を縛り続けている、そうして、石井の物語を破壊している。それが曽根中生版『赤い教室』の確かな一面ではなかろうか。

(*1):宍戸錠の台詞は聞き取りにくく、「見たかったんだ、死ぬ前に。静子にも、僕の中の引き出し」の後は、何度聞き返しても完全には書き取れないのだけど、固く閉じられていた小部屋の鍵を外して静子を招き入れる様子と、これに続く霊肉一致の崇高な夫婦の抱擁の場面などを見ると、男は「引き出しを見て解ってもらいたかった」のだと勝手ながら解釈している。
(追記):準備稿でこの台詞を確認したところ、宍戸錠演じる遠山は以下のように口を開いている。「その女には僕では引き出せない魅力があり、その女本人すら気付かない悪魔的な魅力だが、それこそが彼女を解放する魅力だった……。」そうか「引き出し(得ない魅力)」と言おうとして感情の大波に包まれ、その後嗚咽して前に進まなくなったんだな。また勝手な妄想を膨らませて、ひとり感涙にむせってしまった。人生は恥かきの連続だな。2018.12.16
(*2): 「別冊新評 石井隆の世界」 新評社 1979 208頁 台詞の引用はすべてここから


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