2014年5月4日日曜日

“錯乱の域でなく”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[3]~


 1981年に上梓された石井隆の作品集「おんなの街」(*1)、いや、それに収まった【雨のエトランゼ】(1979)には、製本所内のミスによる乱丁があった。物語の流れがどう乱されたものか、ざっと記せば次の通りである。

 べたべたと愛着(あいじゃく)するカメラマン川島に根負けし、同棲を始めてしまう名美である。どこか己れと似た部分、たとえば暗いまなざしを端正な顔立ちに宿した編集者村木の方に惹かれるものがあったのだが、あいつは家庭を持つ身と川島から聞かされ、燃える芯に水をかける勢いで身体を許したのだった。川島は名美をモデル派遣会社に登録する。アマチュア向けの撮影会へ出張などしながら献身的にこたえる名美であったが、虚栄心が強く、金を浪費する川島はいつしかその状況に甘えていき、挙句の果てに一線を越してしまうのだった。身体をもてあそぶ目的の秘密の撮影会へと名美を差し出すのだった。

 縛られて自由の利かぬのを良いことに、取り囲んだ男たちの行いがエスカレートしていく。そばにいる川島は気づかぬふりをしたり、名美を拝むようにしてみたりして、いずれにしても男の風上にも置けない体たらくである。この時の写真が世に出まわり、週刊誌にも掲載されて名美を絶望の淵へと追い込んでいくのだった。ふたりの行状が気になる村木は仲間を通じて薄々は知っていたのであるが、街角の書店でその暴露記事を目の当たりにして憤激の念にかられる。

 これを口火として村木の推測を交えた撮影会の場景が紙面に再現されていき、名美の回想がそれに重なって奥行きを増す仕掛けとなっている。乱丁はこの推測と記憶とが交叉する箇所に生じている。滑らかなコマの運びが損なわれてえらく混沌としているのだった。

 再び私事となってしまうが、雑誌の連載を通じてではなく、単行本にて接触を果たした読者のひとりがどのように捉えたかを白状すれば、当初は例によって気付かないまま過ごしている。先述の白紙の挟まった【赤い教室】(1976)と【蒼い閃光】(1976)についてはさすがに程なく目が醒めて、おかしなものを掴まされたと気付いたのだったが、この【雨のエトランゼ】については察するまでに少し月数が掛かった。鈍感というかお人好しというか、今もそうかもしれないが救いようのない馬鹿である。

 最初から妙だとは感じていた。だけど、作者は意図的に混沌を産み落とし、生と死の境界に肉迫しようと試みていると解釈してしまった。これぐらいの“錯乱”は自死を選ばざるを得ない人間にとって当然かもしれないと考えた。

 名美というおんながその内側で過去を繰り返し再生し、今となってははっきり岐路と解かるその時と場処まで舞い戻りして目を伏し音もなくたたずんでいる、そんな哀切きわまる孤影の在ることを私は信じて怯えたのだった。人を想って全身全霊を捧げていくことで、喜びと誇りに身が震えるようだった温かい陽射しの午後と、何もかもが不確かで安定を欠くのが世の常と悟った泥沼のような夜とを狂ったように脳内で切り返す様を痛ましく、哀しく思い、もらい泣きしながら読んだ。

 ああ、これは頁が組み違いになっているのか、そりゃ跳ぶわなと気付いたのはいつだったか。思い込みというものは現実をどこまでも歪め、過誤を見えにくくしてしまうものである。しかし、だからといって自分が【雨のエトランゼ】を完全に読み違っていたとは思わない。遡行し得ない生の流れのなかで、追憶が重みを増して人を苛(さいな)んでいき、ときに耐え切れず瓦解する。【雨のエトランゼ】という劇の根幹に潜むそんな真実が、乱丁という物理的な破壊と偶然にも重なっていたのだった。もの恐ろしい気分を引きずって、幾月も呆然として過ごした。

 おいおい、それじゃおまえは製本事故を意味あるものと捉えているのか、おまえは創り手の行為をそんなにいい加減なものと思っているか、と叱声が飛んで来そうだ。落丁や乱丁を肯定しているわけではないし、それが石井隆と作品たちにダメージを与えこそすれ、プラスになるものは何もなかったと考えてもいる。いったい何を伝えたいかと言うと、そのような“石井作品にして石井の意に沿わぬもの”が私の前には最初からあって、目を凝らす時間が増えた。ごくごく自然な形で石井のリズムであったり色彩であったりに敏感になった、ということだ。二十年近い歳月を経て完全版(*2)を手にし、あるべき場所にあるべき頁が整列した【雨のエトランゼ】を読み直した。そこで浮上した感懐には“石井作品にして石井の意に沿わぬもの”を玩読した目線でしか判別し得ないもの、が含まれるということなのだ。


 石井劇画というものが骨太というか、きわめて堅牢な空間描写の積み重ねの上に成り立っているという認識がまず生まれた。一階の上に二階、二階の上には三階が載っていて、それぞれがきっちり作り込まれてある印象を受けた。

 また、時間や記憶に対してどう向き合うべきか、揺るがないものが個性として在って、石井の創作全般を貫いているように感じられた。登場人物が記憶をまさぐっても、その過去は現実空間と同じ密度と手触りで面前を流れていき、そこを泳ぐ人の体温を奪い、息苦しくさせ、消耗させていく。もちろん、その逆もしかりなのだが、過去が過去として忘却の一途に向かうことを許されず、同等の比重を保持しながら現実と並走していくところが特徴として読み解けるように思う。

 若かった私は乱丁を映画手法でいうカットバックと似たものと勘違いし、その過激さがおんなの魂のささくれ、ひきつれを代弁して見えたのであるが、石井の描くおんなは過去を生きて再度傷ついてしまうのだし、その果てに過去の堆積に負けて圧死するというのが本当であって、表現として正しいかどうか分からないが、しっかりと狂って、しっかりと死んでいくのである。錯乱という域でなくって、確実に圧し潰されていくのである。


(*1):石井隆作品集「おんなの街」 石井隆 少年画報社 1981
(*2):「おんなの街 Ⅰ 雨のエトランゼ」 石井隆 ワイズ出版  2000
引用画像は、雑誌「ヤングコミック」連載時のカラー頁

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