2013年10月24日木曜日

“林道”



 先日の豪雨によって枯れ葉や土が斜面から流れ、びたびたとかさぶた状になって道を覆っている。にちゃりとした振動が背中にも伝わり、気色悪くて仕方がない。旅の友にと買い求めたコンパクトディスクの江守徹、それとも荻野目慶子だったか、さっきまで嬉しく聴いていた朗読はまるで耳に入らなくなり、苦しくなって停めてしまった。

 こんな奥に樹齢八百年と言われる古木が在るのだろうか。ホテルのロビーにあったリーフレットでその存在を知り、一期一会の機会をもらったと信じて足を伸ばしたのだった。途中立ち寄った小さな駅の、番をしていた背の高い駅員はどこまでも先へ進めと言ったはずだが、ナビゲーションを操作して彼方へ、さらにその向こうへと地図をたぐってみても、それらしき印や文字は全然出て来ない。そもそもが教わった分岐点を見誤り、自分はとんでもない方向へと迷い入っているのじゃなかろうか。どうしよう、いよいよ道は狭くなる、あきらめて引き返そうか。

 汗でぬめつく手で右へ左へとハンドルを切るうち、突然、朱色の鳥居が目に飛び込んで来た。どうやら辿り着けたのは良かったが、ああ、やっぱり、停まっている車は一台もなく、当然ながら辺りに人の気配はまるで無いのだ。安堵と不安がない交ぜになった溜息をつきながら、車外へと降り立つ。

 小板で土留めしてあつらえた階段の、半ば朽ちかけ、落ち葉の堆積してざらついた様子から、最近参拝なり観光に訪れる者がいない事が察せられた。直ぐ間近で、ぎゃうぎゃうという異様な鳴き声を聞く。耳を澄ますと無限の木立を通し、微かに、ぎゃう、ぎゃうと吼えて答えるのが分かるから、鳥ではなくって野猿かもしれない。

 こいつ一匹で来やがった、地上に這いつくばる馬鹿な奴、皆で襲って食ってやろうか、と、ひさしぶりに侵入した人間を樹上から監視しているだろう彼らの、群れてゆらゆらする影を想像すると恐怖が増すのだけれど、向き合った“神の木”の威容と妖しさはそれをねじ伏せ、忘れさせてくれるものはあった。恐るべき歳月を無心に、無欲に幹と根を伸ばしてここまで大きくなった、その存在感は強烈だった。飽かず眺め続け、柄にもなく祈りもした。何か願をかける気持ちはなくって、ただただ生命力に圧倒されて頭が下がるのだった。



 前置きが長くなってしまったが、道中の不安を追い払う目的もあって私は窓越しに流れる森の景色と石井隆の劇画とを重ね見ようと努めたのだった。主にタナトス四部作と【魔樂】(1986)であったのだが、この現実の寒々とした林道を石井の描いて来た名美に代表されるおんながふらつき、または追っ手を逃れて駆けてくる情景を思い描いた。

 が、どうしても上手くいかない。もわもわした草の茂りであるとか、男根や乳房のごとき瘤を抱いて佇立する樹木、空を覆って密生する枝葉などが頁の隅々まで丹念に描き込まれ、埋め尽くされたのが石井隆の森であるから、こうしてリアルな密度ある樹林に囲まれていると、確かにあの風景のようだ、あそこにそっくりだ、と感じられてくる。そこにおんなが配され、ふらふらと彷徨(さまよ)い出ることは、だから石井の世界をそっくり再現することになるはずなのだが、どこか味気なく、空疎でいんちき臭いものになってしまうのだった。

 本州の最北端に位置する地域の、さらに集落から離れた場処だからか。主に新宿の裏通りに寓居(ぐうきょ)する石井のおんなが、夢に破れ、自傷する己自身を繰り返し幻視したあげくに疲労を極め、ついに薬の小瓶(びん)を握りしめてしまう。はたまた、投身するきっかけを探って歩み出してしまう。そんな彼女たちがこころ定める目標としては、あまりにも此処は遠く隔たっているのは確かである。その途方もない距離感が、私のなかの夢想を妨げるところがあった。

 石井が劇中に用意する幽冥(あのよ)というのは、けれど、路地裏と荒野を、海中と雑居ビルを、風呂場と石切り場を容易に橋渡しするものであるから、新宿だ、東北だ、地の果てだとする言い訳は説得力を持たない。人がいる限りにおいて、石井の森というのは身近に在り続ける。

 結局、わたしの想像力の決定的な乏しさがおんなを招(よ)ばないのだろうか。いや、緑の屏風を背景とする一本道の向こうから、ワンピース姿のおんなが必死に手を伸ばすのは見えていたし、愛しく想う容貌風姿をそっと霊木の脇に立たせるくらいは決して難しくはない。しかし、それは日毎夜毎にお茶の間の液晶モニターに映し出される安直な犯罪ドラマか恋愛劇の一場面に何故か思えてしまい、これまで私が熱視(みつ)めてきた石井の描く劇画なり映画の手触りとは少し違うのだった。

 一体全体、何がどうして違うのだろう。帰ってから一ヶ月も経つのだけれど、そんなことをずっと考えてしまい、気持ちは林道から戻れずにいる。




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