2013年6月23日日曜日

“森を歩くもの”


  「キネマ旬報」誌上の撮影現場ルポ(*1)と特集(*2)にもあるように、石井隆の新作『フィギュアなあなた』(2013)はポール・ギュスターヴ・ドレ描くところの「神曲」挿画で幕を開く。人生の途上で森に迷った男が、天上にて見守るひとりの女性“ベアトリーチェ”に導かれ、地獄めぐりをする話である。

 石井が過去ダンテ・アリギエーリの「神曲」に触れたのは、雑誌に掲載なった四頁の絵物語(*3)のみと記憶している。1974年に発表されており、作歴上ずいぶんと早い時期に置かれた作品だ。下降と上昇を劇中に織り込み、観客の生理を独特の緊張なり昂揚に導く石井の劇にはどことなく「神曲」の影響を感じさせるものが有るが、39年も前にそのものズバリをモティーフに選んでいて、世界観の交差が明示されている。石井の方では隠す意思など最初から無いのである。石井が「神曲」を劇中に再度掲げることは、その点から言っても奇異なことではない。

 それにしても劇の冒頭で高々と両手で掲げるようにして「神曲」を示す、その語り口の烈しさはどうだろう。幼少の頃から絵画集に親しみ、ルーベンスやデルヴォーをおのれの創作世界に(気負いなく)馴染ませる石井であるから、ドレの版画が新作を飾っていても何らおかしなところはないのだが、メインタイトルと同時に銀幕に長々と押し出される様子は只事ではない。劇の内実をひもとく鍵なり符号が含まれている、剋目すべしと石井が指差している、そのように解釈するのは当然だろう。

 四方田犬彦と伊藤俊治の両氏はだから揃って「神曲」にからめて解題して見せるし、その方向はたしかに誤っていないように思う。。“死者の召喚”(四方田)、“地獄を突き抜け、浄化力を秘めた煉獄へ向かう”(伊藤)という解釈は絶対的に正しい。(*4) 特集「映画作家の肖像 石井隆の性(エロス)/死(タナトス)」で先陣を切る石井自身のインタビュウの内容をこれに重ねれば、自ずと私たちが進むべき航路は示されるだろう。彼らの向こうを張る意識はないのだけれど、ここでは私なりに「神曲」越しに覗く『フィギュアなあなた』についてもう少しだけ踏み込んで語り、創作者の特質に幾らかでも近付きたいと思う。


  本当を言えばわたしが「神曲」を読んだのは年齢もだいぶ経ってからであり、あまり偉そうに語る資格はないかもしれない。ドレの版画を添えたA4変型の本を1989年に購入し、谷口江里也の訳で読んだのが最初であった。その前には星野之宣(ほしのゆきのぶ)の「美神曲 APHRODITE INFERNO」(1981)を「週刊ヤングジャンプ」で目撃して、其処にやや強き磁場を覚えもしたし、大江健三郎の「懐かしい年への手紙」(講談社1987)にも多数引用されていたことも幾らか背中を押したのだったが、そもそも体質的に冥界やら悪鬼、死人(しびと)といったものに惹かれることもあって、また、書店で手に取った際に挿画にも魅了されて自然に持ち帰ったように記憶する。

 地下深く漏斗状となってひしめく階層を一段一段と降り立つごとに凄惨この上ない地獄の情景が展開するのだったけれど、添えられたドレの絵画の緻密さは神々しくさえあって、裸身をさらす亡者たちの身をよじる様子も大層美しく感じられたものだった。ウイリアム・ブレイクによる水彩とは違い、単色でおごそかなあの世の状景は石井の劇画が懐中している鋭さ、冷たさとも似た気配があったように思う。友人に紹介したり、無理に押し付けて読ませてみたりもし、要するにわたしの波長に大いに合ったのだった。石井がいつか「神曲」とがっぷり組んで、その面影を劇中に取り込んだら面白かろう、さぞかし胸に迫る作品となるだろうと勝手な夢想もしていた。

 焼き鏝(ごて)で「神曲」と押印された具合の『フィギュアなあなた』は、だから石井にとっても、私にとっても(並べて書くとなんだか偉そうな感じになるが)意味深い作品となっている。生半可な感想を返しては済まないものと緊張するし、同時にこうして丹念に咀嚼するのが無性に楽しくもある。心もとない己の読解力をおぎない消化を進めるには薬の助けが是非とも必要と思われたものだから、いそぎ解説書を入手してひもとき、まずダンテの「神曲」を理解するところから始めたのだった。

 選んだテキストは(映画を観て興味を覚えた人には是非薦めたいのだけど、)「神曲」の翻訳者でもある比較文学者の平川祐弘(ひらかわすけひろ)が実際に講義した内容を文字に起こし、それに加筆を加えた「ダンテ『神曲』講義」(河出書房新社 2010)である。大著ではあるが、随所で頷かされ、笑わされ、驚かされしながらそれ程の日数をかけずに読了している。にわか仕込みの知識ではあるけれど其処を起点として振り返る『フィギュアなあなた』は、もしかしたら石井の劇で顕著になっている“救済の意志”がとんでもなく色濃い、そういった意味合いでは極めて大切な作品と考えられるのだった。“誰を救おうとしたか”について私たちはよくよく噛んで呑みこむ必要がありそうだ。

 文の最初の方で、「神曲」を人生の途上で森に迷った男が天上にて見守るひとりの女性に導かれ、地獄めぐりをする話、と説明した。ひとりの男(詩人=ダンテ)と永遠のおんな(ベアトリーチェ)との、高度差を物ともせずに注ぎつづけ、絡めあう視線の物語(*5)──平川の「講義」を読むまでは私もそのように「神曲」を理解していたのであるが、これは実際の旅の諸相ではない。名を付された登場人物すべてに力点は配分されており、おんなの影はむしろ後退するのだった。人生の森に迷った男が、天上の存在のこころを汲(く)んだ先師“ウェルギリウス”に導かれて地獄めぐりをするのが「神曲」という物語であり、ダンテはこの先師の描写に主人公やおんな以上に言葉を費やしていく。卒倒してばかりいる主人公をいたわり、声掛けしながら先導する先師の存在感には独特の密度と体温がある。

  『フィギュアなあなた』と「神曲」を重ねて透かし見れば、登場人物の輪郭は完全に合致はしないにしても誰がどの役割を担うのか、おおよその見極めはつくだろう。詩人は柄本祐(えもとたすく)演じる内山であるのは見ての通りだし、廃墟に巣食う悪漢三人組(伊藤洋三郎、山口祥行、飯島大介)は詩人の退路をはばむ三匹の野獣(豹、獅子、狼)、もしくは三つの頭を持つケルベロスではなかろうか。佐々木心音(ここね)演じる等身大フィギュアは若者に影となって終始寄り添うから、どうやらベアトリーチェではなくって、性別こそ違えどもウェルギリウスの立場を担わされている。

 それは佐々木の動作にも反映していないか。劇中でのフィギュアには急回転や飛翔といったアクションに付随する“浮遊感”と、身体に宿る“重量”が執拗に肉付けされ、それ等はめざましい勢いで交互に起こって“不自然”に強調されている。(山口祥行を弾き倒す、あの途轍もない重さは一体全体なんだろう!) 半ば崩壊してぐらつく岩場をウェルギリウスは悠然と渡り歩いて見せて、後を追う詩人を呆然とさせるのだったけれど、佐々木の劇中での遊泳はそれと同質の不可思議と言えるだろう。そうとなれば、私たちは一気に『フィギュアなあなた』の足元を見きわめ、この物語(地獄めぐり)がどんな使命を負っていたかを理解することが可能ではないか。

 ダンテより遥か以前に世を去った魂が、地獄にも幽閉されず、かと言って天国にも召されず、辺獄(へんごくlimbo)という中途半端な場所に止め置かれて物憂げにたたずんでいる、それが「神曲」におけるウェルギリウスの今である。そんな永久(とわ)に座礁して虚ろとなった魂をフィギュア(佐々木)は白い肌に写し染めしている訳なのだが、若者は地獄を模した廃墟からこれを連れ帰り必死に介抱していく。これの意味するところは何か。

  洞窟のような昼とも夜とも判別出来ぬ場処のさらに奥深く、死骸のごとく硬直し続けるマネキンが山積みなっており、炎の舐め走るようにして真っ赤に照らされている、その光源は何だろうかと目を凝らせば、それは蓮(はす)の花弁のような形をしたライトであるのだし、人形たちの四肢に群がり絡んで床を波打つロープライトは、これも泥に埋まった黒い池を気味悪く這い茂る蓮の根っこのようである。思えば上に書いた石井の初期の絵物語は、地獄の第七圏、第二の環である“自殺者の森”を描いたものであった。亡者はその身体を樹木に変えられ、硬直して自由が利かず、魔鳥に目やら耳やら手足を突かれて痛みに泣き叫ぶも誰も救ってはくれないのである。両者は色彩こそ違えども植物の群生と死体の堆積が交錯して描かれて、同じ認識のもとで創出された風景と見て差し支えないと思われる。その森に交じり置かれていたフィギュアが呪縛を解かれて立ち上がり、からくもその場処を離脱して人間の街に戻っていく。これの意味するところは何か。

 石井が原作本を映画の脇に置くとき、そこに凄まじい救済の念が生じて劇の根幹を揺さぶることがあるのを、私たちは『花と蛇』(2004)で学んでいる。(*6) あの時と同じような劇烈な化学結晶が生じている気がしてならぬ。不況で組織から追い払われ、存在意義を見失ってのたうつ一人の若者を描くことが主旋律ではあるだろうが、裏側に縫い付けられたものは別の大胆不敵な救出劇ではなかったか。

  どこからそんな希求が湧き上がるのか、そこまでして手を差し伸べる気持ちになるのはどうしてなのか。問い掛けに答える者はおらないが、石井の指先が現世と彼岸の境を越えたところにも及びはじめた事だけは、どうやら確かなようである。「神曲」という壮大且つ永劫なる書の隙間から、希望を抱くことさえ許されぬ囚われし魂や、死して後に樹木に姿を変えられ泣き暮らすおんなを連れ還ろうとするのである。なんという救出劇であろうか、なんという気概であろうか。そのような強いまなざしを持った創作者を、私は石井隆以外には知らない。


(*1):「キネマ旬報 2013年5月上旬号 №1635」 86-87頁
(*2):「キネマ旬報 2013年6月下旬号 №1639」 36-49頁
(*3):【悲しい奴】 「SMキング」 1974年5月号
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=210007688&owner_id=3993869
(*4): そのようにして細やかな視線で鑑賞するに値する“読む映画”になるほど『フィギュアなあなた』は成っているとも思われ、ふたつの重い文章は私の目には石井世界に馴染んで思われた。映画という媒体が一過性のものではなく、木霊(こだま)を呼んでしばらく残響する“魂の交歓作業”であると伝えるところがあって、この度の「キネマ旬報」は読んでいて二重三重に幸せだった。
(*5):上にあげた星野の漫画作品にしてもそのような性急さが全篇を覆っている。灼熱の惑星に地質調査のために送り込まれた宇宙船のシステム“ダンテ”がエラーを起こし、作業員を次々に事故死させていく。それは地獄のごとき苛酷な環境に耐え切れなくなったコンピューターの嘆きや悲鳴が顕在化したものであった。最後、宇宙船は高温のガスと溶岩に沈むのであるが、溶解寸前の宇宙船から発せられたホログラムが一筋、天空に真っ直ぐのびて女神“ベアトリーチェ”像を結び、孤寂する存在からのまなざしを受け止めるという結び方である。ダンテとベアトリーチェは直線で結ばれ、他の者は傍観の身に徹するしかない。一応“ウェルギリウス”も登場するが、やはり添え物の域を出ることはない。
(*6): http://grotta-birds.blogspot.jp/2011/12/blog-post.html


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