2013年6月14日金曜日

“重なりあう絵”


  乱暴な例えになるが、劇作家が第一線で闘い続けることは終わりなき出産である。移り気な大衆に独創的な作品を送り続けるのは、どれ程の労苦であろう。

 1970年代の後半から三十年以上に渡って物語をつむいできた石井隆とて、踏破して来た道の険しさに変わりはない。名美、村木と名乗る男女が劇中に決まって配され、最後そのどちらかが死んでしまう(*1)──そのように石井のドラマをひと括りにする読み手もなかには在るが、それは枝ぶりを見ずに剪定(せんてい)した結果の坊主に近しいのであって、現実はそこまで単調ではない。街を舞台(一部を除いて)と定め、恋情と性愛を題材とし、時代設定を現在もしくは近過去に限定しているがために舞台は馴染みの風貌となる嫌いはあるが、よくよく見れば実に色彩に富んだ構成になっている。よくもまあこれだけ違った花果(かか)根茎を、鉢ひとつ(劇画と映画であるから、鉢はふたつか)に育て上げたものだと感服を禁じえない。

 さて、そのような堅く多彩な作歴を誇る石井世界のなかで、ほんの時折に限られるのだけれど、既視感(デジャ・ヴ)にも似たざわざわした心持ちにさせる構図や語り口に出会う瞬間がある。いや、そんな曖昧模糊としたものではないのだ。確信的に透過法を駆使し、“物語の上に物語を築く”ことが石井の作劇では稀に起きるのである。たとえば、AV業界で衣裳係として働く夏海と、共に暮らしている母親との葛藤を描いた短編【花の下にて】(1989)は、その終幕、蒼白き雷光が夜空を切り裂いていく凄絶な風景のなか、初期の代表作【紫陽花の咲く頃】(1976)との連結を果たして私を叩きのめした(*2)のだったし、麻雀誌に連載なった中篇【赤い微光線】(1984)では、名美と村木との間に【天使のはらわた】(1977)の主人公をほうふつさせる名前と顔立ちの“川島”という男が強引に割って入り、そのクライマックスは【天使のはらわた】で断絶したままとなった“道行き”に決着をつけて見える。(*3)

 前者は十三年、後者は七年以上の歳月を経て物語と物語を(作者はその事をおくびにも出さず、素知らぬ顔で)線で結んでいるから、ほとんどの読者は特別な感懐を覚えることなく読み終えるのだろうが、わたしのように石井の世界に長く囚われた身には相当の衝撃があった。おのれの十三年、作中人物の七年を当然振り返りもし、フレームの裏に隠されて見える記憶や景色といったものに想いは馳せたのだった。石井によって丹念に描かれていく“人の一生の奥行き”を真剣に見つめ、思考せぬわけにはいかなかった。

 過去の作品を写し描く(トレースする)ことは、だから、石井の積極的な想いが大量に注がれる瞬間なのであって、アイデアが枯渇したわけでは決してないのだし、マンネリズムの軍旗に降(くだ)ったのでも当然ない。過去が付かず離れずして、やがて現在を侵蝕するのである。表層に定着したドラマ以上の物語が派生し、膨張して世界をひたひたと潤すのである。

 高名な絵画作品をX線で透視すると別の作品が下に塗り込められているのが見つかることがあるが、感覚的にはあれに近い。下地の絵が先になければ新しい絵も存在しない。また、両方の絵を共に含んで世界が完遂することを密かに画家が望んでいる節もある。石井の謙虚さはその事をつまびらかにしないが、だからと言ってどうでも良いことと放擲(ほうてき)するでもなく、読者の眼識を試しているような気配も色濃く感じられる。石井の仕事(映画を含めて)を観る行為には、そのような“過去を視る”、そして“もう一枚の絵を読む”ことが多少要望されるように思う。


 前置きが長くなってしまった。先日の話に戻ると、新作『フィギュアのあなた』(2013)においても石井の作劇の特徴である“物語の縫合”は明らかに視止められ、それは横並び型の『天使のはらわた 赤い教室』(1979)とは少しちがった仕方であって、踏み入って考えていけば、それは原作であるコミック【無口なあなた】(1992)の成り立ちとどうやら関係がありそうなのだ。上に掲げた【花の下にて】と【紫陽花の咲く頃】、【赤い微光線】と【天使のはらわた】のように結線する相手を【無口なあなた】は持つのであって、その短編の題名を明かせば【女高生ナイトティーチャー】(以下【女高生】)という1983年発表の作品なのであった。(*4)(以下、物語の結末に触れる)

 両者の前半部は酷似しており、石井のなかで何がしかの結線が起きているのは違いない。主人公は出版社に勤めており、所属するのは編集部門である。このところ業績は悪化の一途をたどり、失職をおびえる日々だ。同僚たちが上手く立ち回るなか不器用な男だけが孤影を深めていき、逃げるように街を徘徊しては酒と風俗業に溺れていくのだった。けれど、元来の生真面目さがたたって鬱憤は去らぬばかりか酔ってチンピラに喧嘩を売る始末であり、当然のごとく叩き潰されるという顛末である。

 新宿辺りの解体工事現場であろうか、ずる剥けの鉄筋が無残な感じのコンクリート瓦礫が足元を埋めている。暗い夜空を屏風にして、何本かの高層ビルが墓石のように突き立っているのが見えるのだった。ぼこんとした窪地が出来ており、気を失った男が棒切れとなって伸びている。やること為すことが全て裏目に出て、捨て鉢になる寸前の男である。目覚めた男が傍らに見止めたのは、【無口なあなた】では一体の裸のマネキン人形であった訳だが、【女高生】では手提げ袋を持ってひとり佇む少女であった。朦朧の体で男は少女に声掛けし、連れ立って宿に入っていく。導かれて唇をようよう開いた少女は、自らのことを重い質感の声で語り始めるのだった。

 物欲や金銭欲に染まっては見えない。どんな理由によるものか数ヶ月前に学校を退学し、闇に獲り込まれてしまった娘である。表情も言葉も少なく儚げな影がさらに薄れていくような、それでいて下手に触れば一気に瓦解しかねない繊細な局面にある。そんな制服姿の娘の小さく丸まった背中を、男は黙って見つめ続けるのだった。抗(あらが)いがたい力で日常の平穏を切り裂き、子供時分には思いもしなかった方角へと圧し流していく黒い浪(なみ)。途轍もないその厚み、その密度、そして高さよ。私たちはただただ波間にあえぎ、かろうじて息をするのがやっとである。男は性差と年代こそ違え、人生に弄ばれ疲弊し、同じように途方に暮れている魂を目の当たりにしてようやく冷静さを取り戻すのだった。

 救済された感をつよく抱いた男は、ひと月に渡って娘の姿を探し求めたのだったが終(つい)ぞ再会は叶わない。傾くばかりの会社を自ら発って、男はライター業へと転身するのだった。物語は(私の目には【無口なあなた】の鏡像と映るのだが)、娘の非業の死を報せる新聞記事を男が見つけたところで終わっている。死因は十階の部屋からの転落であり、娘が好んだ歌の詞と奇(く)しくも符合するのだった。“鳥になって”苦境を脱出したい、飛翔したいという切なる祈りを歌った内容だった。それがあまりにも哀しい形で実現されたことに言葉もなく、身じろぎもならず、男は食卓に座り続ける。男の丸まった背中を長々と映して、劇は幕を閉じていく。

 『フィギュアなあなた』の謎解きがしたいのではない。『フィギュアなあなた』を丁寧に読んでいく過程の一部を開陳しながら、石井の劇の面白さ、奥深さ、恐ろしさを共有したいと願うのだ。映画のなかで佐々木心音(ここね)が演じるのは等身大のフィギュアであるが、その事は等身大のフィギュア“だけ”を佐々木が演じるのではなく、それと同時に(十年程も先行して描かれていた)表情も言葉も少なく、儚げな影がさらにぼんやりと薄れていくような、そんな制服姿の少女の容姿や想いをも同時に宿すことが期待されていた可能性を示すのだし、私たち観客も銀幕越しにそれを透かし見ることが望まれるわけである。

 屋上を蹴って佐々木が宙に舞うとき、視線はクラシックチュチュの下に集中してしまうのは仕方ないにしても、これは“鳥”の飛翔を表わすのではないかと感づき、唐突な死を逃れ得なかった若いひとつの魂へと想いを馳せてもここでは決して深読みには当らないはずである。原作に託された石井の想いを読むこと、観ることの域内であって妄想や暴想とは言えないのじゃないか、と固く信じてこれを書き留めている。

(*1):名美と村木のメロドラマは石井世界の機軸と思い、至宝とも思うけれど、全てをそれに集束さ
せてしまうと劇作家石井隆の面白みは半減するように思う。石井世界の沃野(よくや)は広大であり、収獲される作物の種類は膨大である。
(*2):【花の下にて】は「月物語」(日本文芸社)所載。【紫陽花の咲く頃】は「イルミネーション」(立風書房)ほかに所載。両者の連環については以前次の頁に書いた。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=526358041&owner_id=3993869
(*3):昭和59年(1984)3月から「別冊近代麻雀」に連載された【赤い微光線】と石井の代表作【天使のはらわた】(1977-79)との連環については、次の頁に述べている。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=216419068&owner_id=3993869
また、石井の創る物語に潜む多層構造や透過構造、または鏡像を例証するにおあつらえ向きなのが【象牙色のアイツ】(1983)、【ひとり遊戯(あそび)】(1984)、【昨年(こぞ)の恋】(1985)の三篇である。以下の頁に述べてある。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=233575013&owner_id=3993869
(*4):【女高生ナイトティーチャー】は「ラストワルツ 石井隆作品集②」(日本文芸社)所載。



0 件のコメント:

コメントを投稿