2012年3月11日日曜日

“物質的な雑用”


 ボーヴォワールSimone de Beauvoirは台所に立つのを避けた。料理が出来なかったわけでなく、その行為の固定なることが女性を男性社会に隷属させる第一歩と捉えたからである(*1)。懐に余裕があるときにはホテル住まいをして、家事と名の付くことから距離を置いた。

 当然彼女とは視点が異なるだろうが、石井隆の“台所”というのも特殊な場処である。その創造世界における“台所”は私たちの身近なそれとどこか違って、隔絶されたような、なにか遠い処にあってぼんやりした印象を抱かせるものとなっている。性愛の景色や愁嘆場(しゅうたんば)が差し挟まれるとは言え、広義の区分けに従えばラブストーリーに相違ない石井の劇であるから、家庭臭、生活臭が希薄となるのは当然といえば当然だろう。

 されど、つぶさに作品を見つめ返していくならば、忌避(きひ)されている、とまで言うと極端かもしれないけれど、不穏な気配を漂わせる場処となって時折牙を剥くのが石井世界にとっての“台所”であると解かってくるのであって、これは到底無視できないかたちと思う。石井は名美に代表されるおんなたちを台所に立たせるのを避けている。料理が出来ないわけでなく、その行為の果てに待つのが情念の噴出や、憤怒の臨界と爆発だからだ。

 『GONIN2』(1996)に終盤描かれた“台所”については先に書いた。スクリーンを染めるのはほんの一瞬であり、加えて淡々として抑制の利いた筆致ゆえに多くの観客は刹那に見送り、直ぐにも忘れ去られる場面であるのだけれど、流れに棹差して内実を透かし見ればとても穏当とは言い難い、むしろ不吉な描写と言えるものだった。もっとも公開当時からその凶兆に気付いた訳ではなくって、後年私たちの心胆を寒からしめた『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)より逆照射されて、ようやくこの箇所がほかの石井作品の“台所”と根茎を繋ぐ可能性に思い至ったのだった。

 『人が人を──』は人間の魂の多層性、不可逆性を浮き彫りにした傑作で、喜多嶋舞が名美という存在を体現すべく全身全霊を捧げていく様子がもはや崇高とさえ評して過言でなかったのだけれど、その物語の軸心には『GONIN2』の志保(西山由海)の件(くだり)とよく似た面貌が埋め込まれていた。まず結婚生活の破綻があり、“台所”があって“包丁”があり、隣接した寝室で凄絶な凶行があり、という展開が見止められる。石井ファンには承知の通り、『人が人を──』は1991年9月より石井が発表した短篇連作【カンタレッラの匣(はこ)】中の【主婦の一日】のイメージを踏襲しているから、この三作品は尾根(おね)を結ぶ連山と称して問題ないだろう。石井らしい反復がここにはある。

 手土産のあわびを調理しようと“台所”に立って“包丁”を振るっている最中に、居間兼寝室に招いた恋人に開かずの間(ここではビデオテープ)を覗かれてしまい、急旋回(恐らくは鮮血飛び散る)の予兆を湛えた肉汁ぬめつく刃先のクローズアップで幕を閉ざす【降水確率】(1987)や、過去の暴行事件に関わる男たちの再訪にほとほと困惑し、その中の一人(鶴見辰吾)を“台所”で撲殺してしまう『フリーズ・ミー』(2000)、それに、衝動に駆られて自制が利かなくなった名美が、“台所”のガス台にかかっていた薬缶をだしぬけに掴んでその中身を肉親に浴びせ掛けてしまう【真夜中へのドア】(1980)なども思い出される。

 最近作『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)の冒頭でも“台所”は描かれていた。男との乱闘でしびれを切らして“台所”に走り、“果物ナイフ”をその手に持ち帰ったのは姉役の井上晴美であった。我が国の住宅事情が“台所”と寝室をごく近い場処に定めてしまい、愛憎の現場に“包丁”なり“果物ナイフ”なりを即座に調達可能にしている事は現実の刃傷沙汰(にんじょうさた)の顛末を見ればよくありがちであって、なにも石井隆の発案による特別な舞台装置ではないのだけれど、調理行為や料理を囲む団欒をこどこどく回避し(*2)、“台所”を武器庫としてだけ使っていく傾向はやはり独特であるように思う。

 その背景には女性という存在を男性社会に隷属された者として強く意識し、その解放を望む気持ちが働いているものと推察しているが、正直言ってよく分からない。ただ、頑(かたく)なまでに繰り返される一連の描写は常に直情的、直線的で、打算を帯びたものはあまりない。思惑が働いても計画は大概稚拙で、憐憫を誘うものばかりだ。おんなたちの側に視座が置かれ、その不可逆の、永劫の罪をまばたきなく静かに見守るばかりである。途切れることなく注がれるまなざしは誌面とスクリーンを貫き、どこまでもおんなの後ろ姿を追っているように思う。しなやかで且つ強靭であり、ボーヴォワールの意志に決して負けていない。

 さて、あの揺れ、あの混沌から一年が過ぎましたね。今もこうして好きな事に想いをめぐらせ、好きなことに勤(いそ)しむことが出来るだけ幸せなことと思います。これを読まれる人のこれからの時間の穏やかで哀しみの少ないことを祈ります。

(*1): ボーヴォワール「私たちの選んだ生きかたのおかげで、私がいつも女性の役割を演じなければならなかったことはありません。でも、ひとつだけ思い出があります。戦争中、だれかが食料を補給したり配給券を確保したり、ちょっとした料理をしなければなりませんでした。もちろん私がしました。サルトルにはまるで不可能でした。男性ですから。(中略)こうした物質的な雑用を私がひきうけたのは、私とサルトルとの関係のせいではなく、彼に能力がなかったからです。サルトルがこうしたことに無能なのは男性優位主義的教育が家事全般から彼を遠ざけた結果なのです。彼にできることといったら目玉焼くらいかしら。」
サルトル「そんなところかな。」
「ボーヴォワールは語る 『第二の性』その後」 Simone de Beauvoir aujourd’hui アリス・シュヴァルツァー 福井美津子訳 手元にあるのは平凡社ライブラリー51 1994 引用はその85-86頁で1973年ローマでのインタビュウ   
(*2): 『ヌードの夜 愛は─』の終幕のシーケンスはこれまでの流れと真っ向から対峙する。ちひろ(東風万智子)は調理行為を通じて村木(竹下直人)のこころに敢然と挑んでおり、料理を囲む団欒を遂に実現させている。石井世界が大きく変貌した証しと思う。ただ、村木の住まいの“台所”は機能しておらないし、カメラは最後まで引きっぱなしで作られた料理に肩入れしていない。どことなく変則的で、この辺りの微妙さ、繊細さも石井らしくて興味を覚える。


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