2018年5月21日月曜日

“兵(つはもの)”


 愛していれば何を言っても、何を書いても許される、ということではない。妄想ぐらいならよいだろうが暴想になってはいただけない。そのように友人に諭されて、穴があったら入りたい気持ちでいる。

 自戒の念を刻むつもりで再度記せば、この場に書いた内容には石井隆の作品と石井自身を大きく傷付けかねない「暴言」が含まれる。先述の振り向く、身体をひねるというありがちな動作を写し取った赤木圭一郎ほか日活無国籍アクションのスチルと漫画家つげ義春の作品とを各々石井の創作に結びつけたのは乱暴が過ぎたと反省するし、振り返れば『死んでもいい』(1992)と同名タイトルの映画でアンソニー・パーキンスが出ていた『死んでもいい Phaedra』(1962)とを安易にヒモ付けしたのも醜悪な放言だった。ベルイマンの『狼の時刻 Vargtimmen』(1968)と石井劇画の森を癒着させたのも安直だったように思う。石井が読んだらさぞかし哀しみ、怒りに震えることの連続じゃあるまいか。それを想像すると胸が苦しい感じになっていく。

 割合と石井の劇画や映画を観てきた方だと思っているが、それなのにこんなに沢山の失敗を犯してしまう。恋は盲目という喩えがここで正しいかどうか分からないけど、いつになっても本当のところを見切れない、まともな事が書けない。石井世界の美しさ、儚さ、烈しさを讃えるつもりが、かえって足を引っ張っているところがある。

 情報が削られると人は想像をめぐらせ無理矢理に物語を補完しようとする傾向がある。妄想はぐんぐんと膨らみ、あっという間に脳裏に映像と音声が次から次ぎと立ちあがって満杯になってしまう。時にひとを厄介な袋小路へと追い詰める。

 出版という桧舞台で作品論、作家論を闘わせていた往年の評論家にしたって人間である以上、時に筆禍に叩きのめされ、暗澹たる思いで机に俯(うつぶ)す夜もあったろう。強靭な劇画愛、映画愛がなければ多分立ち直れなかった。言われる作家も言う論者も兵(つはもの)でなければ到底務まらなかった。頑丈な弾機(ばね)が無ければ、たちまち胃に穴が開き、頭の血管は破れただろう。評論とか感想というのは本来そのぐらいも厳しいものだった。

 それと比べたらどうしようもない甘ちゃんだと思う。この場の即時的な機能に助けられ、こうして弁解や訂正の頁を与えられているだけ救われるところがあるけれど、粗忽で無遠慮な自分がつくづく情けない、創り手に申し訳ない。

2018年5月13日日曜日

“絵馬を探して”



 所用で遠出する際は、近在の寺社や遺跡の場処を下調べしておいて時間調整に利用する。靴を汚さぬよう、転んで尻餅をつかぬように気は遣うけれど、緑深い参道を歩くと精気を分けてもらえて緊張がほぐれる。霊験あらたかな古刹(こさつ)じゃなく、人がほとんど立ち寄らないところの方が好い。なるたけ保存の手が加わっておらず、古びる一方の物だとなお嬉しい。

 過日訪れた丘の上の社(やしろ)も、だから人気がなく、へびやハチもまだ活動しておらず、まったくの独り占め状態だった。辺りには白い野生の辛夷(こぶし)が群生していて、肉厚のたっぷりした花びらがいかにも爛熟した装いとなっている。こんなに大振りの花だったろうか。そうか、急斜面を登っていく途中に点々と生えているから、枝先や花が思いがけず目の前に迫るのだ。抑えきれない淫靡さをにじませ、開花の際にぱっこりぱこりという乾いた音でも出すのじゃなかろうかなんて余計な想像をさせる大きさだった。

 建屋の内壁には江戸から明治に掲げられた絵馬が並んでおり、素朴な筆致や構図に見惚れた。半畳ぐらいの裁縫図絵馬が二枚並んでいて、華やいだ空気を放っている。裁縫図絵馬はこの辺りの寺社ではよく見かける物だ。ささやかな願いの成就を求めて古来よりひとは絵馬を掲げてきたけれど、昔はどの家庭も地味な暮らしをしていたから自ずと祈りの質にも量にも上限があったように思う。今なら趣味や習い事が星のごとくあるが、往時の女性は裁縫教室に通うぐらいしか選択肢はなかったし、ほかに知的好奇心や欲望を充足させる場処や職業が見当たらなかった。裁縫の上達を神仏に祈るという現在ではとても考えられぬ慎ましい願いが、漁り火みたいにちらちらと寄り添って描かれていた。

 プリント倶楽部も自撮りして世間に知らしめるソーシャルネットワークサービスも無い時代である。それどころか人生のうちに写真に撮られる機会が何度もはめぐって来ない、そんな人生が大概だった。目鼻立ちを詳細に写し取られたものでない、どちらかといえば型にはめられ単純化された描線ではあっても、自分が極彩色で大画面の板絵のなかに取り込まれることは眩(まばゆ)い快感があって身体の芯を明々と貫いたことだろう。衆人の視線を集めて、どうにも火照って仕方なかったのじゃあるまいか。

 それにしても実在した人物をモデルとした絵馬を面前にすると、淋しいというか、湿った土くれを触っている瞬間にも似た丸みのある諦観に胸を満たされる。かれらは一人残らずこの世から消えてしまい、絵馬のなかの微笑みだけが残響のように在りつづける。肉体的苦痛や慙愧にさいなまれた顔ではなく、一所懸命に、しかし端然として、わずかに微笑んだだけの穏やかな顔貌がこの世に焼付けられている。ある意味で生の理想像かもしれないな、こんな風に生き切ることが出来たならどんなに素敵だろうな、と彼女らにならってちょっとだけ口角を上げてみたりする。

 午後の陽射しが飛び込み、反射して明るくなった堂内の壁に裁縫図のおんなたちが浮き上がるのとちょうど向き合うようにして、薄墨の影のなかに一枚の小ぶりの絵馬が視止められ、今度はそちらの顔立ちに好奇心がからめ取られる。黒い額の中に一組の人物が向き合うように描かれているのだが、その顔がどちらも白く染まっている、と言うより溶けている。白絵具だけが経年により変質し、じんわりと流れ落ちて表情を奪うということがあるものだろうか。ドリアングレイじゃあるまいし、一体これはどうした現象だろう。

 醜いといえば醜い様相ながら不思議と清らかなものを感じる。フォーヴィスムの画家の作品に磔刑されたキリストを描いたものがあって、それが思い出された。宗教画のモティーフとしてはありきたりであるし、この画家も似た構図のものを大量生産しているのだけれど、私が目にした磔刑図は中央の聖者だけでなく、両側に控えて見上げたり深くうなだれる者たちも顔の部分が絵具でべったり覆われていて表情が読み取れない。未完成品という話もあるが三人揃って表情が失われた分、なにか理性の枠を越えた凄みというか奥行き、陰影がそなわって瞳を捕らえて離さない。あの西洋画とこの絵馬には同等の妖しさと聖域を主張する力がそなわっている。(*1)

 背伸びして再度絵馬に目を凝らせば、左側に立つのは若い婦人であり、着物の胸をはだけて乳房をむき出しにし、さらに手を添えて相手の顔に尖った乳首を差し出しているではないか。先にある人物の顔がやはり白く溶けているのだけど、なんだかおびただしい射乳によって顔面がすっかり濡れたように見えてきて、いけない物を垣間見てしまったような、後ろめたさと昂揚が同居する妙な気持ちの具合に今度はなった。

 出産して間もない女性と交わり、とろとろと生温かい乳にまみれた時間を過ごした体験もなければ願望も私のなかにはなく、想像するだけで頭が混乱して整理がつかなくなるのだけど、世の中には性交渉で重ね合わせる胸板をだらだらに濡らしながら相手と溶け合いたいと恋うる人もいるだろう。そんな奴はこの世にいない、いたら異常者だと貴方は笑うだろうか。
 
 酒宴に招かれて末席に座ることが誰でもあると思うが、酒量が増すとともにいつしか人はそろって陽気になり、他人の性的嗜好を酒の肴にするようになる。異端とか変態とかの言葉で断罪する人が出てくるが、あれは聞いていてちょっと苦しい気分になる。視野狭窄もよいところであって、自身の嗜好だけを正常と捉えているところがやや偏頗(けんぱ)と感じる。人間の性愛には一定の形はなく、無限の嗜好がある。互いのそれが合致したカップルには至高の時間が、不一致の彼らには苦悩が待ち受けるというだけの事だろう。乳を浴びるなり口に含むことで束の間の充実を得る恋人たちが世にいても、それは一向に構わないし、かえって人間らしい姿のようで微笑ましいと私は思う。そもそもが性愛とは一種の融合現象だから、お湯や汗と親和性がある。不思議なことではないだろう。

 つまり私は社に佇んでこの絵馬に聖的な雰囲気と性的なイメージを同時に連想し、脳裏にさまざまな妄想を描いて過ごしたのだった。もしかしたら絵馬内の射乳は快楽図でなんでもなくって、目にごみが入って難渋している旅人の救済を描いたのかもしれない。けれど、いずれにしても身体の一部を提供する女性の健気さと奇蹟を覗き見したような感覚があって面白く、小さなこの神社に足を運んで本当に良かったと思う。

 さて、謎を謎のままにしておくのも気持ちが悪いので今頃になって入念に調べてみれば、この絵馬は著名な中国の説話集「二十四孝(にじゅうしこう)」のひとつ、「唐夫人(とうふじん)」を描いたものと分かった。年老いて歯を失い十分に栄養を摂ることが出来なくなった姑のため、嫁が自分の乳を与えてその存命を図ったという故事である。なるほど言われてみれば乳房を与えられている側は細い肩で女性の骨格であり、また、背後には無邪気に笑う幼児も描かれている。

 偉そうに何が性的嗜好、何が親和性か。若い母親と老女をめぐる自宅介護の話なのだった。私の完全な勘違いであり、無茶苦茶恥ずかしい。まったくおまえは救いようがないね、軽率なところを丸出しにして末代まで恥を晒すことになるんじゃないのと笑われそうだけど、そんな自分の幼稚な早とちりを開陳してもなんでも記憶を書き留めておこうと考えた次第である。

 誰かに話してみたくもなったのだ。あの絵馬は聖なるものと卑俗なるものが同居して見え、あえかだけど忘れられない発光があった。

(*1):ジョルジュ・ルオー Georges Rouault 「十字架上のキリスト」 1935年頃
パナソニック汐留ミュージアム 所蔵



2018年5月4日金曜日

“重力にあらがうこと”(14)~雨のエトランゼ~


 石井隆の【雨のエトランゼ】(1979)の終幕部分について延々と書いて来たが、推測に頼ってばかりだし、自分でもさすがに脱線気味と分かる。いい加減そろそろ締めなければいけない。

 前に紹介したように【雨のエトランゼ】の完全版を収めた単行本の末尾には、墨入れ前の下書きであったり、厖大な数の反古原稿が付録として載せられている。そのこだわり方は単なる修正の域を越えていて、よく漫画家にありがちな、たとえば手塚治虫なんかがホワイトを使ったり小さな紙を上に貼り足しておこなう手直しとは様相が違う。

 天邪鬼の私は最初のうち瑣末なところばかりが目に付いてしまい、邪推をくり返していた。たとえば反古原稿には落下する名美の足首に靴のひもが巻き付いてみえる事から、誠実な石井は後になって屋上の光景に思いをめぐらし、高い金網を越えるときに靴は脱がなければいけない、名美は素足でなければならない、と思い至ったに違いない、うひひひ、きっと慌てたろうなあ、なんて考える。短絡過ぎるよね。それが本当なら、単行本化にあたり石井は白線一本を加えるだけで済んだのだ。あそこまで石井を駆り立て、足踏みをさせたものは一体全体何だったのだろう。

 過日、宮城県の塩竃(しおがま)という町を訪ね、改築されて間もない公共施設を見学した。昭和25年建造の公民館に手を入れたもので、肌に馴染むうつくしい建築だった。二階の一角が当地ゆかりの杉村惇(すぎむらじゅん)という画家の美術館になっており、時間もあったので少しだけ回遊した。その画家のことは知らずにいたが、歳月をかけて何層にも重ね塗られた油絵具には色彩の優しさと同時に幽鬼めいた執着も感じられ、予想外の凄みがあった。

 額と額の隙間に貼られた複数の説明パネルのなかに画家のエッセイの一部が刷られており、読んでいるうちに低く呻いた。例によって病気が起きた訳である。石井隆を直ぐに想起した。

「具象の仕事では、モデルを使えば、描きたい時に向こうが都合が悪かったり、風景も亦、天候に左右されてイライラしたりするが、その点、静物は朝でも夜中でもジックリと腰を据えて、対象の核心と対決し得る強味がある。」(*1)

 「静物」という言葉が目にまぶしかった。杉村は静物画をライフワークとし、古いランプや雛人形、和箪笥や漁具を好んで題材にしていた。ひと言ごとに芯がある。彼の別の言葉が欲しくなって小冊子を買い求めて読んだ。以下の箇所に引力を覚えたが、なんだか石井に言われているような感じになっていく。

「物の中から押し出してくる自然の力、生命力、強い存在感を追求せよということです。表面を緻密(ちみつ)に描いただけでは本当の美は分からない。セザンヌにせよシャルダンにせよ、大家の作品には、単なる写実を超えた、底光りするものがありますね。私はそういう力を描き留めたいんです。そうして追求していくと、作品に画家が表れる。文も人なりというが、絵にも作者の人格や精神が出てくる。」(*2)

 石井隆という存在は劇画家、脚本家、映画監督として知られているが、もしかしたら本質は画家に近しいのではないかとふと思う。劇画製作の手法の具体的なところを口にすることはないが、台本に近しいものを書いた後に綿密な取材撮影を行ない、それを基にした紙面レイアウトを組み立て、いよいよ線描に入ることは誰にでも想像が付く。その工程で石井の魂に起きるものがどんなものであるかを想像すると、これは「静物」に向き合う画家そのものではなかったろうか。写真という媒体を挟んで、人間含めた静物としての景色を手に入れ、押し出してくる力、生命力、強い存在感を追求していく。

 「静物学者」の異名をとる杉村の描いては消し、塗っては消しを重ねて、物によっては5㎝以上も堆積した魂の軌跡を目のふちに蘇えらせ、あわせて【雨のエトランゼ】で描き直しを決めた大量の反古原稿を置くと、両者の間に共通の暗香がある。静止画の奥に事物の核心を描くことをほんとうに石井が本分とするのであれば、【雨のエトランゼ】のラストシークエンスに込められた願いはより密度を増すように思う。おのれの生命を削って筆を尽くせば死線を跨ぐ架橋となり、生命の絶たれようとする者を支配する重力と時間を堰き止め、逆に歳月を越えて永く生かすことも可能となるのではないか。まさに死に行く姿でありながら、実は生き続けるおんなを描いていたというのは、救済を劇の基本とする石井隆にしっくり来てきれいに胸におさまる話だ。

 石井劇画のコマのひとつひとつは完成度があり、その単体を取り出しても味わい深い。映画撮影時に入念に準備され、モニターに定着されていく光量と色彩のあれ程の豊かさがあるのも、そのように考えれば自然であるし、歓びや愉しみがかえって増すところがある。

(*1):塩竈市公民館本町分室・塩竈市杉村惇美術館 展示パネルより 
(*2):「黒への収束」 杉村惇 河北新報総合サービス 1994 16頁