それにしても食人行為と自死を同一場面に盛り込むなんて、さすがに狂ってはいないか。見分役の「愛」という名の少女も顔をひきつらせ、男の頭がどうにかなってしまったに相違ないと考える。この展開に呆気に取られた読者も娘の反応に自らを同調させ、あいつには狂死より他に途はなかったのだと納得する流れだ。しかし、突如いっさいの伏線もなく為された【魔奴】(1978)におけるこの食人行為は、単に狂気の発現のみを指し示していたのだろうか。
そもそも【魔奴】以外に石井が食人を扱ったこと、過去有ったものか記憶を辿ってみたもののまるで見当たらない。石井にとっても食人は奇異なこと、特別なことなのだ。近未来世界の混沌を描いた【デッド・ニュー・レイコ】(1990)にて、アンドロイド同士の共食いが描かれてはいた。ピーテル・パウル・ルーベンスとフランシスコ・デ・ゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」に似た構図であったのだけれど、あれは人間を超越した化け物として敵を意識させる装飾の一端であって、読者サービスの域にまだ幾らかあったように思われる。【魔奴】の終幕に貼りついた深刻さ、むっと寄せ来る煙霧のような重苦しさ、ひりひりした真剣味というのは読み手におもねった物ではない。石井の劇に時折出現しては観客を戸惑わせ、出口のない思索へといざなう“不自然さ”と通じる気配がある。
また始まった、なにが“不自然”なものか、ようするに石井が究極の愛の形を示した、ということをおまえは言いたいのだろう、本当に薄っぺらい奴だな、そう思われるかもしれない。確かにそうだ、その通りなのだ。石井は【魔奴】の食人行為をもって、一個の愛の完遂を描いている。
じゃあ別に問題はなかろう、めでたしめでたしだよ、そう誰もが了解し得るかもしれないが、待って欲しい、それは私たちが今の世に生きているからだ。性愛の様相が多様化し、異端へのまなざしもこの四十年のうちに随分と軟化している。それに年齢相応に性の巡礼を行ない、唾液や汗、分泌物や血液といったもろもろの体液を口にし匂いを嗅ぐという体験を経ているからだ。もしも結婚して子供を育てる道程を経ていれば、人間が人間に自身の一部を与える授乳を目の当たりにもしようし女性ならば体験さえしていよう。2010年代の終わりに生きる成熟した肉体の私たちから見れば、【魔奴】にあった永遠の一体化を目指す情死劇も素直に受け止め得る形だ。
けれど【魔奴】が描かれた年代や掲載誌の性格を考えれば、この石井の愛の景色の凄まじさがどれ程のものか分かるはず。あの時代においてSM誌とは確かに“先鋭”であった。しかしその荒れ狂う前線においても不文律はあったのだ。嗜虐的性向に関わる我が国の文化が折檻を土壌とするものでもあったから、肉体や精神に向けての力加減は暗黙のうちに上限が定められた。その枠があったにもかかわらず、極北の愛としての人肉食を真っ向から描いた石井の作劇がいかに厳しく異質のものであったか、どれだけの危険を冒したか。日本人留学生が友人である女性を殺害し、彼女の肉を食べたというパリ人肉事件(1981)より前の発表である点も、私たちは胸にしかと刻む必要がある。
【魔奴】の食人行為はわたしの中で“不自然”で妖しい光を帯びたまま滞留し、どのように主人公の言動を考えるべきか、いや、石井がどのように考えてあのような凄惨な場景を思い至ったか、なぜそこまで筆を尽くさねばならなかったかをずっと考えさせられて来た。愛情というプリズムを通じて生じる奇妙な波長として食人は実際にあるのか、もしかしたらこの私もそんな終末を刻むことが現実として有り得るものだろうか。迷想と不安から、その手の書籍や映画に敏感になった。
たとえば「人肉食の精神史」という書籍(*1)などは、思案を補強する上で大切なひとつとなった。著者の大西俊輝(おおにしとしてる)は人肉食を常軌を逸した行為と歴史の辺境に追いやることなく、むしろ人間の魂に直結する顛末として理解しようと筆を尽くしていく。飢餓や戦乱、淘汰といった緊急事態における食人行為にとどまらず、妄念や情報の錯綜から私たち人間はごくごく普通に人を殺めて、または死人の手足の肉を切り分けて口にする存在なのだと理解される。
大西の「人肉食の精神史」の秀でているところは、後段において行為を肯定的に捉えるだけでなく、魂の移ろいの積極的なもの、すなわち情愛や博愛の一形態と捉え、芸術や医療の分野での開花や将来にまで言及していく点である。歴史学者ではなく医師であり、熱心な著述家であればこその堂々たる横断であって、加えて一個人として家族や患者の臨終に立ち会う事で生じる生々しい感懐も具わっており、名著の風格がある。読んでいて世界の様相がまるで変わっていく、読書の醍醐味に満ちている。
西日本に時に見かける習俗「骨こぶり」への言及などはこの本の視野角の広さを証づけるところであるのだが、親近者として気持ちの決着をつける為に行なわれるそれは【魔奴】において独り置いていかれた男をがんじがらめにした寂寥とも結線を果たすように思うし、文中で紹介されていたジョヴァンニ・ボッカッチョ「デカメロンDecameron」の第四日目の第一話と第九話を噛み締めるようにして読んでみれば、石井の描く臨界の愛憎劇と通じる温度が認められたりもする。
大西の本からは離れるのだが、『フィギュアなあなた』(2013)に触発されて手を伸ばしたダンテ・アリギエーリの「新生 vita nuova」のなかには、ダンテが幻視するヴィジョンとして作者の分身と思われる愛神が出現し、眠っているベアトリーチェにそっと近付いて手にした己の燃える心臓を渡すくだりがある。受け取ったベアトリーチェは躊躇いつつもこれを口にするのだけれど、ダンテの「神曲 La Divina Commedia」に創作活動の初期から触発されていた石井が、この変則的な食人の景色を知っていたとしても不思議はなかろう。
歴史をさかのぼれば【魔奴】と同じ色相の景色は幾つも現実世界に、文芸のなかに見つかるのであって、それ等をトーチとして掲げていくならば、物語の終幕を翳らせていた不明は徐々に晴れていき、淡い反射光が認められるようになっていく。
石井は先人の絵画や映画、小説等を血肉とした上で全霊をかけて思考し筆を走らせる。生きること、死ぬこと、恋焦がれること、愛ゆえに傷つけることを突き詰めていく。私たち読者や観客の視線を背中に感じ、彼らの追尾を期待しつつも、決して歩調をゆるめることなく駆け続ける。衝撃波をともなう【魔奴】の疾走も、そのような過程を経て産み落とされたのだろうと想像をめぐらしている。
(*1):「人肉食の精神史」大西俊輝 東洋出版 1998
【魔奴】(1978)の終幕、モーテルの管理人室まで招き入れられた「愛」という名の少女に向け、主人公の館主は心の内奥を吐露していく。どうして客を際限なく次々に拷問し、あっという間に殺していくのか。殺意の裏側には何か目的があるのか、それとも単なる快楽殺人なのか。男は独白に近い形で、これまでの経緯をぽつりぽつりと話し始める。
両親を羽田沖の航空機事故で喪い、追い討ちをかける具合に妻までが喧嘩の果てに転倒し、頭を打って死んでしまう。「一時に愛する全てを失いかけて動転して」しまった男は、「死にゆく妻を抱きつづけながら得も言われぬ快感を味わって」いく。その烈しい感情の奔流を男は、「痺れる」に「(愉)楽」と続ける「痺楽」という造語で表現してみせる。この「痺楽」に取り込まれたが為、「死ぬ迄に悪魔の悦しみを味わい尽くさねばならない」という狂った執念に男は縛られていき、休憩に訪れる客を延々と殺めていく事になったのだ。「なんだってやってみたんだ!やり尽くしたはずなのに見つからない。違う!!これが悦楽かよぉ!違う!」と咆哮を繰り返す男なのだが、望みは詰まるところは一刻も早い「昇天」なのであり、救済を欲する被害者兼加害者という歪な立ち位置にいる。
出口を手探るものの方角が定まらず、聡明なる案内役も現れず、結局はマグマとなって噴出する激情に身を焦がし、抑制出来ずに周りの者に手をあげて殺傷していく悪循環の狂態なのだが、これは哀悼傷身と共に石井の創作にはよく見られる図式のひとつであって、たとえば映画近作『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)や『甘い鞭』(2013)とも通底している。もちろん「痺楽(まらく)」に犯されて逃げられない男の姿は、後述する【魔樂】(まらく 1986)とも音の響きから一直線に繋がるのであって、石井世界における【魔奴】の重要性がどれ程のものか、その一点だけでも十分納得せられるところだ。
さて、【魔奴】最終話の直前、重傷を負った男はこれまで回避していたふたつの行動に出る。自刃と“食人行為”を続けざまにして、読者をひどく慌てさせ、不安と不快の黒い淵に突き落とすのだった。
秘密の小部屋は轟々と炎を吹き上げ、決定的な倒壊まであと数分足らずに見える。男は大怪我を負って出血が酷いのであるが、妻の遺骸へと這いずり抱き締め、何とか交接し、ようようひとつ身になったところで手にしたナイフを振りかざすと一体化した肉を深々と抉(えぐ)っていく。
石井隆は即物的なポルノグラフィーを描いているように見せかけ、実は皮膚や粘膜、性器といった人の生殖活動に関わる器官が、必ずしも魂の成り立ちと絶対的に結び付いてはいないのではないか、という霊肉の乖離や疑念、どんなに快楽を貪っても、どれほど欲望にもがいても空隙を完全に埋めることが叶わない現代人の寂寥といったものを描線の下に忍び込ませることが時にあって、その意味で実は快感至上主義者ではなく、むしろ諦観が見え隠れする禁欲的な修行者の面持ちを湛えている。妻なのか自身の一部なのか、それともその両方の肉塊なのか明確でないどろどろのものを両手で掲げて口元に寄せる姿というのは、もう扇情とかエロスの対象ではなく次の深刻な領域に踏み入って見える。
力尽きて遂に逝った男が、安堵の面持ちで妻の身体と重なり倒れ込んだその頭上の天井部分ががらがらと崩れ落ちて、神々しい一条の光がどっと天空より差し込み、一組の男女の愛の末路を照射する。神の不在を徹頭徹尾描きながら、宗教画以外の何ものでもない幕引きを仕掛けて、確かに石井は“救済”を男に与えようと試みている。
左右に常緑樹が生い茂る細路を延々と走った先に、一軒のモーテルが建っている。世間からひどく隔絶した場処、すなわち“ひとつ家”が【魔奴】(1978)という奇譚の舞台だ。館の主人は、まだ若く容姿もそう悪くないのだが、時折訪れる利用客を急襲しては自由を奪い、惨たらしい拷問の果てに殺していく。死骸は建屋近くの底無しの沼に放り投げていくのだった。ある日、教師に脅された女子高校生が連れられて来るのだが、客室で乱暴され、抵抗の末に教師を殺害してしまう。その一部始終を隠しカメラで観ていた男は娘を軟禁し、それからは自身の犯罪行為を平然と見せると共に今に至る経緯を語り始める。物語の輪郭を記すとこんな具合になる。
映画を観る人であればモーテルと沼の組み合わせから『サイコ』(1960)の系譜と捉えるだろうし、悪魔に取り憑かれたごとく異様な熱心さで人を殺めていく男の姿に『シャイニング』(1980)を重ねるかもしれない。また、実在の連続殺人鬼に着想を得た『悪魔のいけにえ』(1974)や『悪魔の沼』(1977)を連想するかもしれない。三作は【魔奴】発表の前の作品であるから、単純な人は石井がこれらを真似たと決めつけるだろう。(*1)
真似た、影響下にあると結論することで思考の回路を閉じ、次の興味なり関心に気持ちをスライドしていくことはいちばん容易いことであるが、それでは物語の延髄にまでは辿り付けない。いったい石井の内部に何があり、どうしてこんな物語が産まれ落ちたかを知るには、手を離さずに突き進むしかない。
石井がショッキングな殺害場面を連続させる映画、例えば上に引いたトビー・フーパーの作品群やほかのカテゴリー、たとえばイタリアのジャロと呼ばれるをどう捉えて来たのか。極度の恐がりである私はフーパーもそうだけど、マリオ・バーヴァやルチオ・フルチの作品を断続的に眺めるのが精一杯であるのだが、石井世界に登場する魂の彷徨、夢魔的な時間、きわめて宗教的でありながらもありきたりな説教から分離している、そんな場面といくらか共振する感じを受けたりする。
評論家の権藤晋が石井世界に何かしらの波動を送った映画、つまり「記憶の映画」を確認していくロングインタビューが以前あった。その折りの石井の発言を追い、リストに載った未見の映画を探しては後追いすることは無上の喜びであったが、惜しくもインタビュウは尻切れとんぼとなっている。主に邦画中心の聞き書きになっていて、凄惨な魔窟を描いた洋画についての言及はなかった気がする。無類の映画好きで興が乗れば喜んで語り続ける石井が、ほかにいくつも機会が有るなかでジャロに一切触れずに沈黙するのは、実際それほど自身の趣味とは重ならないという宣言と捉えて良いだろう。
『血とバラ』(1961)と『血を吸うカメラ』(1961)、『吸血鬼ドラキュラ』(1958)、『サイコ』については何度も口にするところから言えば、石井隆の劇の源泉にあるのは、混沌というよりもむしろ理詰めの人間ドラマや古典的な浪漫活劇なのじゃないか。(*2) コンクリートに囲まれて冷え冷えした建屋なり大理石の重厚な採掘場で行われがちな石井描くところの血の祝祭と、これ等は一見肌合いがまるで違って見えるのだけれど、石井の映画体験の原点にして創作の起点として常に活きているのだろう。
思えば【魔奴】の舞台となる山のモーテルは西洋の城を真似た外観(*3)であって、そこで繰り広げられる劇の、特に後段の壮絶な死闘と建屋天井の崩落の様子など見ていると『サイコ』と骨格は似ていても、むしろ近しい関係にあるのは『吸血鬼ドラキュラ』や、これまで石井は言及したことはないが、同時期に公開されたポー原作の『アッシャー家の惨劇』(1960)(*4)ではないかと推察する。『アッシャー家の惨劇』で終幕に寝巻き姿の狂女が出現して暴走する様子は、石井が脚本と原作を担当した『ちぎれた愛の殺人』(1993 監督 池田敏春)や【20世紀伝説】(1995 画 たなか亜希夫)と二重写しにもなるから、何かしらの共振を生んだ可能性がある。
『サイコ』ではおんなはあっという間に殺されてしまうのに対し、【魔奴】の少女は生かされ、加害者の告白を身近で聞き、最期の扉を押し開く役割を担う。それはアッシャー家に招かれた語り手(映画においてはフィリップという名を与えられた)と立ち位置が同じであって、これもまた構造的に近接する。
『アッシャー家の惨劇』という作品が時代に何をもたらしたのか、また、石井が拘泥する『サイコ』が事象をどう描いたのか。銀幕を見つめる少年石井の胸に何を撃ち込んだのか、透かし見るには私はやや齢が若過ぎる。なにか良いテキストはないかと物色したところ、ジャンコヴィックという人の評論書が見つかった。スタイルや描写の烈しさといった点でなく、内包されたテーマに絞って考察を極めた識者の『アッシャー家の惨劇』と『サイコ』に関する言葉をここで書き写したい。これは【魔奴】に限らず、石井の劇のスクリュー軸の一本を上手く言い当てているように思う。
「人物たちはしばしば、抑圧的な過去によって麻痺させられており、またそこに飲み込まれそうになってもいる。」「過去はその人物を取り巻く環境にも、その人物の心理にも影響を及ぼす。人格は自らが産み出した力によって抑圧されており、それによって絶えず消し去られ、抹消されそうになっている。」「『アッシャー家』において、主人公は選択によって自分の運命が決定できるとか、意志は必ず勝利すると思い込んでいるが、そのこと自体が映画のカタストロフをもたらし始めているのである。」(*5)
「『サイコ』においては怪物はもはや社会の外部において産み出されるのではなく、社会の根源的制度とされている家族のなかから生まれてくる」「怪物を産み出すのは「異常さ」ではなく「正常さ」なのだ」(*6)
フィクションに限ったことではない。私たちを常日頃つよく苛み、揉みくちゃにする普遍的な記憶や血縁の問題が綴られている。吸血鬼映画に心酔し、化け猫映画を憧憬しつつもなかなかそれの具現に手を染めないで来た石井のこころの奥には、誰に教わった訳でもないのにこの“家族のなかからこそ怪物は生まれる”という方程式が根付いたのではないか。私の知る限りでは石井が可視化された「妖怪」を描いたのは、アンドロイド同士の抗争を描いた【デッド・ニュー・レイコ】(1990)を除けば初期のおんな殺し屋もののエピソードのひとつぐらいであって、ほとんどは「怪物じみた人間」を描くにとどまる。
超常現象の描き方にしても具体的に立ち現われるのではなく、疾病による高熱、思い込み、異常な執心が生み出した幻影としての解釈余地を常に添えていく辺り、乱暴な表現を使えば頑固で地続きの世界観を守っているのが石井隆という作家である。
石井は【魔奴】においてハリボテ感のあるモーテルの外観を逆手に取り、現実から遊離した、思い切り観念的で突出した話を紡ごうと挑んだのだが、そこで繰り広げられるのは荒唐無稽の皮をかぶってはいるが人間なら誰でもが背負う確率がある呪わしき運命とそれに対する懸命な抵抗の顛末であった。近親者を死に追いやった男が親の遺産であるモーテルにて他人を巻き込みながらやむくもに奮戦し、じりじりと自滅に追い込まれていく行程が描かれていて、近作『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)や『甘い鞭』(2013)とも連結している。
(*1): サイコ Psycho 監督 アルフレッド・ヒッチコック 1960
シャイニング The Shining 監督 スタンリー・キューブリック 1980
悪魔のいけにえ The Texas Chainsaw Massacre 監督 トビー・フーパー 1974
悪魔の沼 Eaten Alive 監督 トビー・フーパー 1977
(*2): 血とバラ Et Mourir de Plaisir 監督 ロジェ・ヴァディム 1961
血を吸うカメラ Peeping Tom 監督 マイケル・パウエル 1961
吸血鬼ドラキュラ Dracula 監督 テレンス・フィッシャー 1958
(*3):目黒エンペラーに代表される西洋の城を模したもの。石井はこの建物をいつ取材したか不明であるが、【魔奴】に先駆けて【赤い滴り】(1975)にて採用している。【魔奴】において石井はこの野原にたたずむ建屋をそっくり森の奥へと移築し、ドラキュラ伯爵の城のような多弁な存在へと造り替えた。前景である人物劇と癒着し切り離せない存在として城があり、森が立ち現れている。風景画家としての躍進が両者の間で確認出来る。
(*4):アッシャー家の惨劇 House of Usher 監督 ロジャー・コーマン 1960
(*5):「恐怖の臨界―ホラーの政治学」 マーク ジャンコヴィック 青弓社 1997 125-126頁
(*6): 同 128頁 ここはジャンコヴィックが他の評論家の意見を紹介したもので、続けざまに「異常さ」「正常さ」について一考を促している。