2013年9月1日日曜日

『壇蜜 仮面を脱ぐとき ~映画「甘い鞭」より~』


『甘い鞭』(2013)のメイキングDVD『壇蜜 仮面を脱ぐとき~映画「甘い鞭」より~』(2013)(*1)を購入し、ひそやかな鑑賞を終えている。末尾に挿入されたスタッフクレジットを見ると、石井本人は“構成”という曖昧な立場なのだと知る。

 衣装や美術にかかわる数限りない打ち合わせに忙殺されるし、撮影所に入れば俳優の所作に神経を注ぎつづける立場だから、石井が遊撃班的な記録(メイキング)係に対して具体的な指示を下せないのはもっともな話だ。後になって少し余裕が出てきたとしても、メイキングに関するいちいちの作業は信頼するスタッフに託していく、そんな間合いだったのではあるまいか。

 撮影は元より膨大なテープを見返しての編集も人まかせであるから、純粋な石井隆作品とは言い得ない『仮面を脱ぐとき』であるのだが、モニター画面を見つめながらこれまで抱いたことのない印象を得て私は無性に楽しかった。ここには石井隆の世界が写っている、石井の求める景色が在る、そう思えてならなかった。

 石井の近作は杉本彩、喜多嶋舞、佐藤寛子、佐々木心音といった女優陣を迎え、その素肌の露出、不敵な物腰、妖しくもうつくしい姿態を売り物にしている。先行して頒布されるこの手の宣伝媒体さえも身悶えして心待ちにするファンは多い。石井作品の“手ざわり”や“光と影”を好ましく思う者にとってもそれは同様で、かく云う私も立派な中毒者である。円盤をケースから気忙しく取り出し、ノートパソコンに投げ込み、明滅を開始する景色に身もこころも浸されていく。意味ありげなセットや小道具に色めき立ち、神話に取材した石像めいて佇立する男女の様子を見止めては惚れ惚れする。白い肌を覆っていく黒くて粘性のある血糊(ちのり)の途方もない量に息を呑み、大粒の銀の雨に打たれて、やがて道を見失う。

 暗い密閉された空間に照明がぎらついて、気持ちがざわめく。奥には半裸もしくは全裸のおんなの姿があって、周囲から掛けられる指示にしたがい懸命にポーズを続けていくのだった。日常では絶対にしないだろう極端な伸びや曲げに関節が悲鳴をあげていくのだが、カットの声が寄せられた瞬間に表情は一変し、疑うような、戸惑うような強いまなざしが光源奥にふき溜まる男たちに投じられる。迂闊であったが、そこには“撮る者”と“撮られる者”が対峙していて、往年の石井の劇画作品【緋の奈落】(1976)や【雨のエトランゼ】(1979)、【夜に頬よせ】(1979)、それにSM誌に載ったイラストなどをゆるゆると想起させるに十分だった。それ等はかしゃりかしゃりと連結して、螺旋を組み始める。無理なく石井世界に組み込まれていく。

 これ程までに貴女のことを凝視(みつ)めている男は俺以外には無い、俺がいちばん分かっているさ、とファインダー越しに撮影者は低く長く呻くようであり、黒い髪をふり乱し、白い肌に走る縦すじさえ大気に晒して声に応えるおんなはおんなで、男たちの影が自分とは土台から違う生物、まるで昆虫のがさごそと蠢くさまに思えてならぬのだった。どうせ表層止まりなんだ、私の深いところなど分かりっこないのよ、と口惜しさと諦観がこころを締め付け、耐え切れずに瞼を伏せるようでもある──もちろんこれは、過去に見た石井の映画や劇画の記憶を栄養にして芽吹いた幻想に過ぎない。森の微生物が倒木にやみくもに着床して菌糸の音なく伸ばすがごとき、意味を持たない妄念の茂りなのだけれど、その無遠慮で無責任な連想をひどく喜んでいる自分がいた。

 なぜ今ごろになって、そんな事に思い至ったのか。ナレーションが減らされ、迫真性がより増したせいもあるだろう。先の女優たちとこのたびの壇蜜(だんみつ)が内在する特性なり方向の相違が関わるのかもしれぬ。暴姦を劇の主軸とする『甘い鞭』の様相が、【紫陽花の咲く頃】(1976)、【白い汚点】(1976)といった石井の代表的な劇画の面貌と相似することも一因だろう。


 巧みな編集の賜物であるのか、それとも当初からの狙いであったのか分からぬが、本編撮影班(佐々木原保志、山本圭昭)の背後にまわった記録者が二台のムービーカメラ付属の小さなモニターににじり寄り、それ越しにおんなを凝視していくカットが『仮面を脱ぐとき』には幾度も挿し込まれていて、これが石井らしい詩的で複雑なまなざしを見事に醸成、再現していた。それが私の記憶を揺さぶり、想いを石井世界の沃野へ飛ばした理由の第一のように思える。

 ぎりぎりまで接近し、時には相手の肌に指先を接しながらも容易には繋がらず、完全に溶け合うこともなく、やがては風の侵入を許してするりと乖離を始めていく。そんな石井らしい男とおんなの距離や宿命をそれとなく暗示しているようで、心の鐘を無闇に打つところがあった。


(*1): 『壇蜜 仮面を脱ぐとき ~映画「甘い鞭」より~』 角川書店 2013

2013年8月14日水曜日

山口椿「甘い鞭 アルゴスとラグネイア」



 いま書店に並ぶ「映画芸術」最新号(*1)には、石井隆の最新作に関わる文章がふたつ載っている。ひとつはヴィヴィアン佐藤が『フィギュアなあなた』に(2013)ついて語る「永遠の子供部屋の王国」(*2)であり、視角の広い読解が愉しく、粘り腰と瞬発力の混然としたところがここちよかった。確かに映画を楽しむ際の姿勢なり心もちには決まり事など一切無いのだけれど、石井世界に遊ぶ、石井の創作に踊るという事はどうあるべきか、その良いお手本が示されていると感じる。

  『フィギュアなあなた』ではいちいちの事象に主人公の青年(柄本祐)が反応し、おのれの意見を喋り散らす。物語の歯車が「主人公の独り言の“言葉”だけによって描写され」、刻まれていくことの妙を佐藤は指摘するのだった。「本来映像作品はその特徴として、言葉を超えた視覚によって訴えることが容易な媒体である」はずなのに、これは一体全体どういう訳なのか。

  さらには、天空を染めていく明け方の光の強弱に目を凝らし、先ほどの場面よりも暗くなっているではないか、太陽が地平方向に戻って夜の闇が勝ってしまっているではないか、と銀幕を指差していく。時間の錯綜する様子をおざなりな編集のためと単純に捉えるのではなくって、観客に対して「時間がいつの間にか引き戻されてしまう」世界を石井はあからさまな形で提示したがっていると推察をめぐらす。“閉じられた”しかし“完全に満たされた関係”を、計算づくで構築していると受け止めるのだった。

  この佐藤の指摘は、『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007 )以降に石井作品で目立っている不自然で膨大な数の独白、その奇妙さ、くどさに通じるものであって、石井の新たな“文体”の出現と用法を言い得ており、幾度も頷かされるところがあった。モノローグという絵具をパレットに大量にしぼり出し、筆先に載せては波打つように画布に塗りつけていく際の“画家”石井隆の狙いが、明瞭に表わされているように思う。石井が世界をどのように変えたいと希求しているか、私たちは佐藤の文をよく咀嚼した上で頭の片隅に覚えておいて損はないだろう。

   「映画芸術」に載ったもう一篇は何と言えばよいのか、なかなか適当な言葉が浮かんで来ないのだけど確実に気持ちが捕えられてしまっている。山口椿が『甘い鞭』(2003)に触れた「アルゴスとラグネイア」という文章(*3)であり、大変にうつくしく、読んでいて激しい揺れが内部に生じたのだった。世間に溢れる批評の定型に染まらずに、独り毅然としてたたずむ気配があって面白く感じた。

   浅学を恥じるばかりだが、“アルゴス”も“ラグネイア”もよく知らなかったものだから、一読した切りでは言わんとするところが皆目分からなかった。これは石井の映画『甘い鞭』とは全く無関係の山口個人の妄念じゃなかろうか。それとも、間近に迫った締め切りに慌ててマス目を埋まるだけ埋め、お茶を濁したのじゃあるまいか。そのように当初は勝手な推測をめぐらし、掲載誌の懐の深さに感心したり呆れたりしたのだった。薄馬鹿で呆れるのは手前の方である。ギリシャ語で前者が苦痛を、後者が快楽を指しており、サディズム、マゾヒズムよりもずっと根源的で厚みの在る語句と知って読み返していけば、この文章はなるほど石井の『甘い鞭』を目撃した者が石井世界に言及している内容であった。

  確かに文中にあるような「瘤だらけの女の頭」、「泥だらけの会陰」は映画では見えない(ように思う)。確かに「浅黒く鼻の平たい男は寝台のそばに蹲(うすくま)って切り裂かれた腹腔から膀胱をつかみ出していじり回した」りはしない(と思う)し、「隣の男は発狂してしまい」、「女の振りかざした杭に打たれ、血だらけなふたつの孔から跳び出した眼球(めだま)をもとに戻そうと、虚しい手つきで試みては失敗し、焦(じ)れた揚句そのぬるぬるを口に押し込んで噛もうとした」りはしない(と思う)。石井隆の美学から言って、そのような露骨な内臓描写を取り入れることは考えられないのであるが、山口の文章が『甘い鞭』の鑑賞に因ってほとばしったものであるのは間違いないし、その勢い、飛距離というものは確かに石井の『甘い鞭』に宿った強さ、烈しさと十分に似通っている。

  山口が綴る男とおんなの心理描写のなかには、『甘い鞭』という砂時計構造に閉じられた二重の世界で息づく複数の登場人物の、悲鳴や独白の裏側でとぐろを巻く鋼鉄の意識、氷結した感情といったものがすくい取られた箇所がある。それらは石井の書く台詞ではもちろんないから、山口の綴ったものが『甘い鞭』と連結する保証はないのだけれど、綾織られた文中に目を凝らして探し求め、歩みをしばし止めて玩読(がんどく)することで、闇に集うおんなの、そして男たちの像は輪郭をより明確にするだろうし、瞳の明度を一段上げることだろう。そうすることで映画『甘い鞭』は、強靭さと艶をきっと増して読み手の心髄を射るに違いない。石井の美学に甘苦しい陶酔を覚え、再度の酩酊を期する人には機会を作っての一読をお薦めしたい。

(*1):「映画芸術」2013年夏号 第444号 編集プロダクション映芸
(*2):同44─45頁 ヴィヴィアン佐藤「フィギュアなあなた 永遠の子供部屋の王国」
(*3):同42─43頁 山口椿「甘い鞭 アルゴスとラグネイア」

2013年7月21日日曜日

“廃工場”


車で二時間ほど駆けて“廃墟”に向かう。正確には純然たる廃墟とはまだ呼べぬ、建材メーカーの工場跡である。撤退して空き家となってから随分と年数を経た場処で、あまりの巨大さに借り手が見つからずにいる。いつしか窓ガラスが割れ、雨が吹き入り、広いトタンの屋根を時折風が渡って、ガゴン、ゴゴンと音を鳴らす。外界から遮断された異空間が恐いながらも面白くて、近くを通るときは出来るだけ覗くことにしているのだった。

 ひさしぶりに見た建物は下屋(げや)が雪の重みに耐えられずに折れ下がり、植物の侵入も一部始まっているし、漂う空気の質もいくらか硬く、表情を失ってのっぺりしている。荒廃は確かに進んでいて、淋しさ、切なさが倍化していた。

 無人の湿った大空洞を歩きながら、先日読んだ文章を反芻した。「幻燈」という雑誌(*1)の巻末に漫画評論家の権藤晋(ごんどうすすむ)が石井隆の新作に触れた短文を寄せていた。石井の創作活動をその黎明の時期から着目し、まばたきをせずに丹念に追い続けた人だけに、頷かされる箇所、内省をうながす記述がたくさんあるのだった。

 権藤は文のなかでこんな事を言っている。「なぜ廃屋が、廃病院が、廃ビルが登場するのかは、もうほとんど石井の美意識=思想に裏付けられている。石井の美意識をフェティシズムに解消しようとする論調は、「趣味」と「拘泥(こうでい)」の落差が理解できないに違いない。」(*2)

 わたしも廃屋や幼児すら敬遠する古い遊具が肩寄せ合って在る公園、人通りの絶えた路地なんかを好んで歩く日があるが、これはその時の気分で選んでいるのではなく、生理が、気持ちの根っ子が否応なしに定めた行動である。どうして、と尋ねられても答えに窮してしまう、そういう景色が目の前に拡がる時が人にはあるように思う。ならば、どうして、と尋ねても詮無い映画があっても良い理屈だろう。

 先日まで私はキーボードにしがみつき、『フィギュアなあなた』(2013)のひどく混沌として見える景色につき、さらに言葉を選びつないで(自分を納得させる)道理を導こうと躍起になっていた。フレデリック・ショット Frederik L. Schodt に対して(*3)石井本人が吐露した言葉“相交じりあえない距離感”を手がかりに、『フィギュアなあなた』が逆説的な理想郷を描いたものと仮定し、その上で魂が歩み寄って“二方向”から“風景の変容”が加速し、激しくカットバックしたのではないか──そのように想うまま書き綴ろうとしたのだった。

 しかし、そんな勝手な推測や後付けの理屈というものは、権藤が別の箇所で指摘するそのままの、「理解している」ふりをして「自らをより高い位置に留めおくため」に施すメッキ細工にも思えて来た。絵画を眺めるように、分からないなら分からないまま、それを素直に受け止めることも大事と思えてきたところだ。

 そもそも、石井の『フィギュアなあなた』には額縁も音声ガイドも一切不要なのかもしれない。余計なお喋りをする暇があったら、もっと長く立ち止まって眺めよ、こころを開いて感じよ、そう言いたそうでもある。純粋なファンの立場にそろそろ戻って、深くシートに座り直す時が来たようだ。近いうちにもう一度、銀幕を見つめ直して石井の色と筆づかいを味わうつもりでいるが、その時は唇を閉じ、微笑むのみで静かに会場を後にしたいと思う。


(*1):「幻燈 13」 北冬書房 2013年6月15日発行 定価1600円+税
(*2):「石井隆の映画にふれて─切れ切れの感想」 権藤晋 214-215頁
(*3):「ニッポンマンガ論」フレデリック・ショット マール社 1998