2013年7月21日日曜日

“廃工場”


車で二時間ほど駆けて“廃墟”に向かう。正確には純然たる廃墟とはまだ呼べぬ、建材メーカーの工場跡である。撤退して空き家となってから随分と年数を経た場処で、あまりの巨大さに借り手が見つからずにいる。いつしか窓ガラスが割れ、雨が吹き入り、広いトタンの屋根を時折風が渡って、ガゴン、ゴゴンと音を鳴らす。外界から遮断された異空間が恐いながらも面白くて、近くを通るときは出来るだけ覗くことにしているのだった。

 ひさしぶりに見た建物は下屋(げや)が雪の重みに耐えられずに折れ下がり、植物の侵入も一部始まっているし、漂う空気の質もいくらか硬く、表情を失ってのっぺりしている。荒廃は確かに進んでいて、淋しさ、切なさが倍化していた。

 無人の湿った大空洞を歩きながら、先日読んだ文章を反芻した。「幻燈」という雑誌(*1)の巻末に漫画評論家の権藤晋(ごんどうすすむ)が石井隆の新作に触れた短文を寄せていた。石井の創作活動をその黎明の時期から着目し、まばたきをせずに丹念に追い続けた人だけに、頷かされる箇所、内省をうながす記述がたくさんあるのだった。

 権藤は文のなかでこんな事を言っている。「なぜ廃屋が、廃病院が、廃ビルが登場するのかは、もうほとんど石井の美意識=思想に裏付けられている。石井の美意識をフェティシズムに解消しようとする論調は、「趣味」と「拘泥(こうでい)」の落差が理解できないに違いない。」(*2)

 わたしも廃屋や幼児すら敬遠する古い遊具が肩寄せ合って在る公園、人通りの絶えた路地なんかを好んで歩く日があるが、これはその時の気分で選んでいるのではなく、生理が、気持ちの根っ子が否応なしに定めた行動である。どうして、と尋ねられても答えに窮してしまう、そういう景色が目の前に拡がる時が人にはあるように思う。ならば、どうして、と尋ねても詮無い映画があっても良い理屈だろう。

 先日まで私はキーボードにしがみつき、『フィギュアなあなた』(2013)のひどく混沌として見える景色につき、さらに言葉を選びつないで(自分を納得させる)道理を導こうと躍起になっていた。フレデリック・ショット Frederik L. Schodt に対して(*3)石井本人が吐露した言葉“相交じりあえない距離感”を手がかりに、『フィギュアなあなた』が逆説的な理想郷を描いたものと仮定し、その上で魂が歩み寄って“二方向”から“風景の変容”が加速し、激しくカットバックしたのではないか──そのように想うまま書き綴ろうとしたのだった。

 しかし、そんな勝手な推測や後付けの理屈というものは、権藤が別の箇所で指摘するそのままの、「理解している」ふりをして「自らをより高い位置に留めおくため」に施すメッキ細工にも思えて来た。絵画を眺めるように、分からないなら分からないまま、それを素直に受け止めることも大事と思えてきたところだ。

 そもそも、石井の『フィギュアなあなた』には額縁も音声ガイドも一切不要なのかもしれない。余計なお喋りをする暇があったら、もっと長く立ち止まって眺めよ、こころを開いて感じよ、そう言いたそうでもある。純粋なファンの立場にそろそろ戻って、深くシートに座り直す時が来たようだ。近いうちにもう一度、銀幕を見つめ直して石井の色と筆づかいを味わうつもりでいるが、その時は唇を閉じ、微笑むのみで静かに会場を後にしたいと思う。


(*1):「幻燈 13」 北冬書房 2013年6月15日発行 定価1600円+税
(*2):「石井隆の映画にふれて─切れ切れの感想」 権藤晋 214-215頁
(*3):「ニッポンマンガ論」フレデリック・ショット マール社 1998



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