2020年9月12日土曜日

“隔離された一角で” ~石井隆の時空構成(12)~


  ここまで読んで半数の人は呆れかえっているだろうが、残りは否定せず、然(さ)もありなんと捉える事だろう。石井隆の創る世界は奇妙で何だか粘度を感じる。職人芸というよりも作家性が前面に出て思われる。全作品を透徹した視線が貫き、また、柔らかく包みこむ。体温を帯びた吐息が付いてまわり、個別でありながらも連結して見える。漫画を熱心に愛し、映画を一定量以上楽しむひとなら容易に了解し得る事柄である。そんな風に思って頷いてくれる人は沢山いるのじゃないか。

 おまえ様は思い込みが酷いね、危ない妄想狂で実社会では関係を持ちたくはないけれど、確かに石井隆の作品には他より抜きん出たところがあるような気が自分でもする。可哀相だからもう少しだけ付き合ってやろうか。そんな心優しき幾たりかの愛すべき存在を信じ、さらに先に進もうと思う。

 石井の劇に登場する「時計」に纏わりつく特別な彩りにつき語ってきたが、これは時計に限らず様ざまな物象において同様に例示し得るところだ。貴方は「ライター」について何枚も原稿用紙を埋められるだろう。貴女は「コート」について触れることで石井隆論を展開出来るかもしれない。そこの君は「ネオン管」や照明で石井世界を誉め讃えることが可能だろう。

 私がここで言いたい事はそういった「物(モノ)語る」側面についてではなくて、石井が劇を描き続ける流れのなかで生じていく「物の描写や空間の微妙に変形していくこと」についてだ。過去作で試みたことが基礎となり、新たな作品では改良の手が加わる。画家の作風が徐々に変わっていきながら、総ての絵画がひとりの作家を浮き彫りにするにも似た性格が石井の劇にはそなわっている。

 石井隆はかつて美術誌のインタビュウにおいて、自作のヒロインに据える「名美」というおんなの名前やキャラクターへのこだわりを尋ねられ、以下のように答えている。

「女性って何なんだろう」と突き詰めていこうと居直ったんです。その時に、ひとりの女性も描き切れないのにどうして色々な女性を描けるのか、だったら名前もひとつでいいやと。(中略)探索する実験機というんですか、一緒につき合ってくれるアンドロイドみたいなもんですよね(*1)

 この「探索する実験機」という喩えは、ひとの口からそう容易く飛び出すまい。石井の実感がありありと伝わる言葉だ。深宇宙を突き進む黄金色の小型宇宙船や、地中掘削機を連想するが、石井の劇づくりはまさにそのような発見と接近、精密撮影、採掘と分析の繰り返しではなかったろうか。一歩進んでは岩盤に突き当たり、後退や迂回に迫られ、時にトンネルを掘りながら手探っていく。

 おんなとは何か、人生とか何か、そしてドラマとは何かの自問自答を重ねながら「隔離された一角」(*1)で突き詰めていった。セルフパロディなんて言って脱力する暇などまるで無い、その作歴は苦行と地道な研究の連続であった。

(*1):「映画へ 揺籃期としての八〇年代 石井隆」 インタヴューアー 斎藤正勝、栗山洋   「武蔵野芸術 №100」 武蔵野美術大学 所載

2020年9月11日金曜日

“雨に煙る時計” ~石井隆の時空構成(11)~

 


 劇画と映画は視覚に訴える表現媒体であるから、取りも直さず作り手は描いて描いて描きまくり、そうやって空隙を埋めることで期待に応えている。もちろん数ある美術作品の中には例外もあり、たとえばルネ・マグリット René Magritteの人物や鳩の絵のように、輪郭だけを残した「空白」として画布に描かれる場合も間々あるが、あれにしても人間と鳥の存在は誰の目にも明らかだ。自ずと鑑賞者のこころに飛び込み、静かな波紋をもたらす。

 また、彫刻を展示する一角に立ち入り首や腕を失ったトルソと対面すれば、私たちは胴体から延長として想像をめぐらし、かつて在った、もしくは、本来在るはずなのに作られなかった首や腕を幻視する。つまり作品自体が「空白」につき最初から雄弁なのだし、添えられた題や説明文を通じて「空白」はやんわりと埋められていくものだ。「空白」は「空白」なりにある種の押し出しをもって受け手に迫り来て、これを愉しく咀嚼して味わうのが大概の鑑賞の道筋であろう。

 ところが石井の場合はやや肌合いが異なる。とにかく説明を尽くすことをしない。「描かれていないもの」はどこまでも「自然な形で描かれない」ので、最後まで気付かない受け手が多い。ややこしい表現の連続で本当に申し訳ないのだが、石井は果敢にも「不在=見えないもの」ですらコマの中、銀幕といった「場処にそっと置こうとする」。それが石井隆という作り手の全く目立たない(当然そうならざるを得ない訳なのだが)、けれど、創作の軸芯に近接する特徴のひとつと言えるだろう。

 先述の通り、石井のまなざしはおんなの腕時計といった実に細かしい小道具にまで浸透していく。読者や観客にくどくど説明することもなく、唐突に消失と出現を重ねていくのだ。私の思い過ごしであろうか。敬愛の強さが裏目に出て、虹彩をどろんと曇らせ実体とかけ離れた連想を誘っているのか、いよいよ狂人の戯言へと陥っているのか。

 時間を遡り、石井隆が劇画家として世間を圧倒していた時期に舞い戻ろう。数々の傑作短篇と長篇【天使のはらわた】(1978)のハイパーリアルな世界で日本中の読者を陶然とさせていたあの頃、映画製作の各社が盛んにアプローチを行っていた。日活は【天使のはらわた】第一部を忠実に再現して見せた後、名美と呼ばれるおんなを主役に据えた物語空間を銀幕に映すべく、石井本人に脚本の執筆を依頼する。そうして仕上げられた石井の処女脚本『天使のはらわた 赤い教室』(1979)は曽根中生によって監督され、主演の水原ゆう紀と蟹江敬三の実直な演技も相まって観客の胸をえぐり、涙を絞って、今なお世間の評価が高いことは周知の通りである。

 その『天使のはらわた 赤い教室』脚本のなかで石井は次のような場面を書いているのだが、私にはこれが安易に読み流すに足りる単なる状況説明のト書きとはどうしても思えない。

33 ドシャ降りの中央公園(同日夜)

     立ち尽くしている名美、目には虚空を。

村木の声「信じてくれ……信じて」

     遠くのビルの電光掲示板の時計が、『九時』を差す。

     立って待ちつづける名美、微笑……

村木の声「もう一度だけ、俺という男に賭けてみてくれ……

     七時だよ、七時……」

    『十時』の電光掲示板。

     天を仰ぐ名美、その顔に雨。

     手の中に握りしめられた村木の名刺。立ち去る名美。

     足元にグシャグシャになった村木の名刺。(*1)

 男の声の裏側に自分への気遣い、暗澹たる我が逆境に手を差し出そうとする真摯な想いを感じ取ったおんなは、約束の公園で三時間に渡って待ち続ける。おんなは腕時計を装着せず、鞄の内やコートのポケットにそれを持たず、ひたすら遠くの電光掲示板に目を凝らしているのである。

 それが何だよ、別におかしくないさ、時計を持っていないんだから掲示板の近くに突っ立ってるしかなかろう。大部分の人はそう考えて笑うだろうけれど、石井隆の劇画群に、さらに彼の映画群に、「持続するもの、連結するもの」を感知する読み手ならば、このト書きにどれほど切実な心情が託されているかを納得するのではないか。

 この場面では「腕時計」の消失が語られると同時に、荒海越しの遙かな陸地で明滅する灯台のごとき電光掲示板が不意に出現している。時計を捨て、過去を封じ込め、息をころして隠棲し続けたおんななのである。雨に煙るビルに設置された電光掲示板を必死のまなざしで見つめて、今にも転がり落ちそうになる気持ちをどうにか鼓舞しながら、もう一度だけ「時計」を見ようとして、「時間」を信じようとして、少しだけ顎を上げ、はげしい雨に抗いながら未来を仰いでひとり佇んでいるおんななのである。

 ほんの目と鼻の先ではなく、わざわざ「遠くのビル」に設定しているところも実に「石井隆の劇」ではないか。現在時刻を確認すべく時計をちら見する単純な日常行為に対し、石井はここまで心情を託そうとする。

 曽根の演出は石井の脚本通りではなかった。前段の警察署内の場面は脚本に忠実に撮影されている。突如拘束されて泡を喰っている男の描写はそのままだが、時間の経過は取り調べ官が自分の腕から外して書類の上に無雑作に置いた腕時計のアップで告げていて、公園で待つおんなの周囲は闇に包まれ、視線の先に電光掲示板はなく、ただただ悄然として雨に濡れる姿である。

 もちろん、ロケーションの制約が影響した可能性は高い。時間経過を刑事の時計に喋らせることで脚本上の狙いは果たせるとスタッフの意見がまとまったのだろう。実際それで何か問題はあるだろうか。三時間も公園で待ちぼうけを食らったという状況さえ観客に伝われば、もう十分と考えるのが大人の反応である。映画づくりは工夫と妥協の連続ではないか。

 誤解されたくないのだが、傑作と言われる『天使のはらわた 赤い教室』に難癖を付けたいのではない。あの映画がここまで世間に支持されているのは、多くの観客が展開に呻り、彼らのこころに映画が居着いた証しであり、素晴らしいことと思う。ただ石井隆という作家の凄味を再確認したいのだ。

 あの場面でのおんなは、筋書きの必然ではなく、石井世界の必然として「遠くの電光掲示板」を仰ぐべきであったと今も自分は考える。背景や小道具までも動員して人間の真情を形成しようと奮闘する、それが石井隆の現場だからだ。背景が書き割りとなっておらず、有機的に人物と融合して切々と歌い出す。常に総力戦で画面を構成していて、漫然と手前の人物だけを眺めていても読み切れない空間が確かに存在し、しっかりと息づいている、それが石井隆の描く風景画だからだ。

(*1):「シナリオ 天使のはらわた 赤い教室」第1稿 「別冊新評 青年劇画の熱風!石井隆の世界」1979所載 第2稿(シナリオ1984年9月号所載)においてもシーンナンバーこそ違うが一字一句同じである。


2020年9月1日火曜日

“腕時計が消える日” ~石井隆の時空構成(10)~

 


 石井隆の「劇画」がどれほど細かい彫飾をほどこした伽藍か、時計の描写を通じて説こうとしている。ここで思い切り飛躍して一本の「映画」、石井の監督作のなかでも人気が高い『ヌードの夜』(1993)に触れたい。美しいフィックスが目白押しで、また、俳優ひとりひとりが見事に演技をこなし、照明とカメラの支えもあって鮮やかな血流を得ている。確かな体温を帯びて観る者にひたひたと迫って来る作品だ。

 登場する名美というおんな(余貴美子)は、始終その手首に腕時計をはめている。血を浴びることを想定しての仮装や、飛び込む覚悟で海原を臨んで外すことはあっても、基本は腕時計を愛用するおんなである。例によってその現象にたいがいの観客は興味を覚えない。自然だからだ。おんなが腕時計を操作したところぱっくりと蓋がまくれ、中に妖しげな白い粉が入っていた訳ではないし、未知の科学で作られた通信機へとたちまち変形し、地球外生命体とぴゅるぴゅると妙は発声で会話する訳でもない。普通の腕時計を手首にはめ、普通に時刻を確認する姿でしかないから気に留めないのは当然の話だ。

 このおんなが日中は地味な制服に身を包み、地味な会社の地味な事務員として働き、地下鉄で毎日通勤している事も徐々に分かってくると、余計に腕時計の着装は目に馴染むところがある。また、制服を脱ぎ捨てたおんなは男好みの衣装に着替えて危うい逢瀬を重ねていくが、その手首にも腕時計は巻かれ続ける。いずれにせよ全くの自然体とある。都会に暮らす身寄りのない社会人として常に時間に追われる身であり、真面目な性分ゆえに時計を手放せないのだと誰もが考えるはずである。これがおんなの生活スタイルであり、望んでそのように装っているようにしか見えない。

 石井の脚本中には二度腕時計を確認する様子がト書きに綴られ、完成した映画でもこれを踏襲して時刻を気にする姿が描かれている。


   女、聞くでもなく腕時計の時間を気にしながら、

女 「六本木って凄いんでしょ?よくテレビでやるじゃない。なんてったかしら」(*1)


       女、また時計を気にしている。

次郎「あ、日帰りなんですか?」

女 「ハイ?」(*2)


 おんなは腐れ縁の男(根津甚八)の殺害を目論んでおり、それを今夜実行に移すと決めている。男をホテルに誘い込み、そこで区切りを付けようと考えているから、どうしても時計が気になって気になって仕方がない。これまた自然な振る舞いである。

 しかし、この「自然さ」自体が石井の劇では異例な展開であると気付き、どこか「不自然である」と捉え直せば、単なる腕時計がおんなの内実を光の粒として差し出す一種のマイクロスコープとして機能するのではないか。つまり、『ヌードの夜』のおんなは忌まわしい記憶と対峙し「時間」を丸ごと封殺したおんなではなく、また、そ知らぬ顔を装いつつ対男性社会へのレジスタンスの一員ともなっていないその証しとして、時計を着装し続けているという解釈に至る訳である。

 彼らの過去は決して忌まわしい物ではなかったが故に「時間と共にいる」そんな造形がされている。不運ではあったが不幸せではない、そういう男とおんなが描かれているからこその腕時計と捉えるべきではないか。

 遺体の処分を押し付けられた代行屋(竹中直人)にとっては傍迷惑な展開であったが、エンドロールと共に岸辺に引き上げられる海水まみれの男女の死体というのは変則的な入水心中の幕切れであり、観る角度を変えれば激しくも幸福な生の完遂となっている。

 では、『ヌードの夜』の名美は先述の劇画群の「腕時計を外した」おんなと異なり、石井世界にあっては徹底して異質の者であったろうか。石井の劇につき纏いがちな「屈託」のまるでない一面的なキャラクターであったろうか。

 最終局面で代行屋の面前に現われたおんなの霊体が腕時計を何故かしていない点をやはり見逃してはなるまい。石井は手首をことさら強調して撮らないので、例によって気付く人は少ないのだが深読みすれば実にもの悲しい現象が起きている。

 終幕間際におんなと代行屋は生死(しょうじ)の境界をまたぎ、精神錯乱の只中が描かれている。迷走する光景それぞれを理詰めできっちりと意味付けることは野暮だろうし、意地悪な見方しか出来ない観客ならば、徹夜続きの現場で監督もスクリプターも俳優も疲れ果てていたのだ、着装忘れに最後まで気付かずそのまま撮影を終えてしまったに違いないと考えるだろう。そして、観客の目など節穴で気付くはずがないから、と強引に編集を押し進めた結果と邪推するはずである。

 それは違う、と私は思う。石井隆の劇とはこういう「さりげない異変」に満ちたものだ。石井は意識して腕時計の着脱をおんなに命じているのだが、ほとんどの人はそこまで観ない。「不在の描写」が頻発することを理解しなければ、そのまま気付かないのも無理はない。

 不自然こそが石井の劇画や映画の醍醐味であり、凝視してようやく見える景色がある。冥境より代行屋を訪れたおんなが腕時計をしていないことは、時間の消失した世界へ既に軸足を移し切ったという悲痛な宣言であると同時に、殺してしまった運命の男の呪縛から束の間だけ離れ来て、魂を心ゆくまで解放させた状態なのだと告げている。時間の残されていないぎりぎりの局面で、ようやく時間から(=伴侶から)解放されてたゆたう人間の最期の瞬きが描かれており、人生の自由ならざる哀しさ、苦しさ、中途半端に断裂するより術が無い非情なるその本質が切々と詠われている。石井世界の小道具、背景とはそういうものだ。細部に作家の想いが宿っている。それが活きた人物を作り上げる。

(*1)(*2):共に準備稿より引用