2020年9月1日火曜日

“腕時計が消える日” ~石井隆の時空構成(10)~

 


 石井隆の「劇画」がどれほど細かい彫飾をほどこした伽藍か、時計の描写を通じて説こうとしている。ここで思い切り飛躍して一本の「映画」、石井の監督作のなかでも人気が高い『ヌードの夜』(1993)に触れたい。美しいフィックスが目白押しで、また、俳優ひとりひとりが見事に演技をこなし、照明とカメラの支えもあって鮮やかな血流を得ている。確かな体温を帯びて観る者にひたひたと迫って来る作品だ。

 登場する名美というおんな(余貴美子)は、始終その手首に腕時計をはめている。血を浴びることを想定しての仮装や、飛び込む覚悟で海原を臨んで外すことはあっても、基本は腕時計を愛用するおんなである。例によってその現象にたいがいの観客は興味を覚えない。自然だからだ。おんなが腕時計を操作したところぱっくりと蓋がまくれ、中に妖しげな白い粉が入っていた訳ではないし、未知の科学で作られた通信機へとたちまち変形し、地球外生命体とぴゅるぴゅると妙は発声で会話する訳でもない。普通の腕時計を手首にはめ、普通に時刻を確認する姿でしかないから気に留めないのは当然の話だ。

 このおんなが日中は地味な制服に身を包み、地味な会社の地味な事務員として働き、地下鉄で毎日通勤している事も徐々に分かってくると、余計に腕時計の着装は目に馴染むところがある。また、制服を脱ぎ捨てたおんなは男好みの衣装に着替えて危うい逢瀬を重ねていくが、その手首にも腕時計は巻かれ続ける。いずれにせよ全くの自然体とある。都会に暮らす身寄りのない社会人として常に時間に追われる身であり、真面目な性分ゆえに時計を手放せないのだと誰もが考えるはずである。これがおんなの生活スタイルであり、望んでそのように装っているようにしか見えない。

 石井の脚本中には二度腕時計を確認する様子がト書きに綴られ、完成した映画でもこれを踏襲して時刻を気にする姿が描かれている。


   女、聞くでもなく腕時計の時間を気にしながら、

女 「六本木って凄いんでしょ?よくテレビでやるじゃない。なんてったかしら」(*1)


       女、また時計を気にしている。

次郎「あ、日帰りなんですか?」

女 「ハイ?」(*2)


 おんなは腐れ縁の男(根津甚八)の殺害を目論んでおり、それを今夜実行に移すと決めている。男をホテルに誘い込み、そこで区切りを付けようと考えているから、どうしても時計が気になって気になって仕方がない。これまた自然な振る舞いである。

 しかし、この「自然さ」自体が石井の劇では異例な展開であると気付き、どこか「不自然である」と捉え直せば、単なる腕時計がおんなの内実を光の粒として差し出す一種のマイクロスコープとして機能するのではないか。つまり、『ヌードの夜』のおんなは忌まわしい記憶と対峙し「時間」を丸ごと封殺したおんなではなく、また、そ知らぬ顔を装いつつ対男性社会へのレジスタンスの一員ともなっていないその証しとして、時計を着装し続けているという解釈に至る訳である。

 彼らの過去は決して忌まわしい物ではなかったが故に「時間と共にいる」そんな造形がされている。不運ではあったが不幸せではない、そういう男とおんなが描かれているからこその腕時計と捉えるべきではないか。

 遺体の処分を押し付けられた代行屋(竹中直人)にとっては傍迷惑な展開であったが、エンドロールと共に岸辺に引き上げられる海水まみれの男女の死体というのは変則的な入水心中の幕切れであり、観る角度を変えれば激しくも幸福な生の完遂となっている。

 では、『ヌードの夜』の名美は先述の劇画群の「腕時計を外した」おんなと異なり、石井世界にあっては徹底して異質の者であったろうか。石井の劇につき纏いがちな「屈託」のまるでない一面的なキャラクターであったろうか。

 最終局面で代行屋の面前に現われたおんなの霊体が腕時計を何故かしていない点をやはり見逃してはなるまい。石井は手首をことさら強調して撮らないので、例によって気付く人は少ないのだが深読みすれば実にもの悲しい現象が起きている。

 終幕間際におんなと代行屋は生死(しょうじ)の境界をまたぎ、精神錯乱の只中が描かれている。迷走する光景それぞれを理詰めできっちりと意味付けることは野暮だろうし、意地悪な見方しか出来ない観客ならば、徹夜続きの現場で監督もスクリプターも俳優も疲れ果てていたのだ、着装忘れに最後まで気付かずそのまま撮影を終えてしまったに違いないと考えるだろう。そして、観客の目など節穴で気付くはずがないから、と強引に編集を押し進めた結果と邪推するはずである。

 それは違う、と私は思う。石井隆の劇とはこういう「さりげない異変」に満ちたものだ。石井は意識して腕時計の着脱をおんなに命じているのだが、ほとんどの人はそこまで観ない。「不在の描写」が頻発することを理解しなければ、そのまま気付かないのも無理はない。

 不自然こそが石井の劇画や映画の醍醐味であり、凝視してようやく見える景色がある。冥境より代行屋を訪れたおんなが腕時計をしていないことは、時間の消失した世界へ既に軸足を移し切ったという悲痛な宣言であると同時に、殺してしまった運命の男の呪縛から束の間だけ離れ来て、魂を心ゆくまで解放させた状態なのだと告げている。時間の残されていないぎりぎりの局面で、ようやく時間から(=伴侶から)解放されてたゆたう人間の最期の瞬きが描かれており、人生の自由ならざる哀しさ、苦しさ、中途半端に断裂するより術が無い非情なるその本質が切々と詠われている。石井世界の小道具、背景とはそういうものだ。細部に作家の想いが宿っている。それが活きた人物を作り上げる。

(*1)(*2):共に準備稿より引用

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