2018年8月1日水曜日
“懊悩と興奮”~隠しどころ~(2)
歌麿はどのような気持ちを抱いて春画に挑んだのか。映画(*1)の中の性格そのままに鬱屈していったのか、それとも大して抵抗も覚えずに筆先を泳がせ、蚊帳のなかの組んず解れつを再現してみせたのか。記録も回顧録も何もない訳だから、ひとりひとりが推し量るより道はない。
存外ひょうひょうとして描き切ったのではなかったか、と今の自分は想像している。為政者とその取り巻きの暮らしぶりは知らないが、庶民の息づく景色は今よりもずっとのんべんだらりとした物腰だったに違いないから。男女ともにまともな肌着を巻いておらず、大きな所作にともなって下腹部が剥き出しとなることは日常茶飯だった。
扇風機どころか氷さえ満足に手に入れられない夏の盛りには、誰もが薄手のものを一枚か二枚纏っただけで町を行き来し、体型と肌が露わになることを厭わなかった。庭先や裏口にたらいを置いて行水し、もしも銭湯が近場にあったとしても其処は混浴が当たり前だった。赤ん坊への授乳に際して、硬く張った乳房をお天道様にさらしても何の遠慮もいらなかった。そんなゆるい時代なのである。
他人の視線から身体の部位を防御しようにも、「衣」と「住」のつましい環境がまるで許さなかったのだ。枕絵をしたためる事は、いや、直接的に言ってしまえば性器の描写は、だからそれほどハードルは高くなかったように考える。男女の相違を幼いころから認識し、互いの下腹部に陰陽の異なる様相を見つけたとしても、ああ、そんなものかと素直に納得したろうし、馴染みの遊女に幾らか包めば、しどけない姿態を眼前に置いて写生することも自在なことだった。町民の娘であれ娼妓であれ、そこに彼女たちの抵抗はそう大きくなかったのではあるまいか。
むしろ性器を描写することに不自由と困難さを感じ、また、いつかは征服すべき山の頂きと見定めて発奮したのは監督の実相寺昭雄の方だった。ひとりの浮世絵作家の懊悩と興奮は二百三十年前の江戸に在ったのではなく、昭和52年の作り手のこころに在ったのだ。
『歌麿 夢と知りせば』の公開当時、今から四十年ほど前の性愛描写はたしかに制約が多かった。突然にそうなった訳でなく、長い歳月をかけて自縄自縛の様相を呈した。歴史家ではないから詳しいところはよくは分からないけれど、明治期の洋画展覧会をめぐる裸体描写の規制などから見て、列強諸国を意識するようになってからいよいよこの国は分別を失ったように思う。
先をひた走る欧州に追いつこうと焦るあまり、かの地で寛恕(かんじょ)されていた裸体や性器をめぐる芸術表現を一切合切、問答無用で禁じてしまった。いびつな精神的鎖国を繰り広げ、何代にも渡って意味なく乱暴な抑圧が加えられた。
『歌麿 夢と知りせば』を観に来た客は江戸期のモラルが現在よりずっと穏やかでのんびりしていたと直感するのに、銀幕の上では堅物の痩せ男が無闇矢鱈に往来を行きつ戻りつしている。何をそんなに苦しむのか、天下の歌麿がどうしちゃったのだ。このもどかしさの根底には明らかに昭和の閉塞感が照射されている。江戸期の化粧がほどこされてはいるけれど、1977年の表現者の煩悶があざやかに刷りこまれている。(*2)
『歌麿 夢と知りせば』の作り手に限った話ではなく、誰もがもぞもぞしながら解決できずに生きていた。押し付けられた規範を先進的なものとして甘受し、そのあげくに言葉を選ばなければまったくの未熟児、もしくは妄想という名の膨張した瘤を腹に抱えてどこかバランスの失った健常者となった。矯正を強いられた身でありながら不思議に思わず、劣情の手綱を操ってこそ真の紳士淑女なのだ、ヘソ下を露わにするなんて未開人の粗野な振る舞いなのだ、官憲の取り締まりは至極当然のことと信じた。その癖うずく好奇心を鎮められず、欲望の芽を湿った暗がりに育てては宵闇にまぎれて扉を叩き、海外渡航に際してはポルノショップに足を運ばずにおれなかった。黒い髪のその一群を欧米人は鼻で笑い、セックスアニマルと侮蔑した。まったくひどい世の中、恥多き時代だったと思う。
ここ十年程のインターネットの普及により私たちは苦もなく、さほどの怯えもなく、人間が性愛にふける様子をじっくり観察してみたり、ときに悠々と愛でることが可能となった。もちろんそれらの多くが「商品」であって、金銭と引き換えに録られたり観られている訳だから、性的搾取の坩堝(るつぼ)と化している。
裏社会の非情なルールがおんなたちを追いつめ、心身両面の凄惨な崩壊劇がこの瞬間にもどこかの密室で起きていないとは限らないのだが、そのような闇の粘り気と腐った臭い、獣じみた悲鳴とも咆哮とも言えないものがモニターの隅のさらに向こう側に在るのを感じ取る仕組みだとしても、この国境を軽々と越える自由伝達の術(すべ)は私たちにとって善き性格のものと捉えている。長い鎖国が終わりを告げ、ようやく一個のまともな人間として扱ってもらえる。自身の半生を振り返って、そんな安堵とささやかな静寂を噛み締めている。
(*1):『歌麿 夢と知りせば』 監督 実相寺昭雄 1977
(*2): その前年の1976年に大島渚の『愛のコリーダ L'Empire des sens』が公開されている。欧州の観客の目には『歌麿 夢と知りせば』の法に則った描写はいかにも軟らかく、余程の退行現象と映ったのではなかろうか。
2018年7月16日月曜日
“おんなを描けない”~隠しどころ~(1)
喜多川歌麿(きたがわうたまろ)は浮世絵の首座を占める巨人だが、彼を題材にした映画に実相寺昭雄(じっそうじあきお)の『歌麿 夢と知りせば』(1977)(*1)がある。ずいぶん昔に観賞したのだけど、冒頭から間もない場面で身を乗り出した記憶がある。
香が焚かれ行灯のあかりが揺らめき、衣ずれの音がくぐもる寝屋ではなかった。また、人目忍んで密会する恋びとが互いをまさぐる川べりの茶屋でもなかった。吉原の景色をモザイク状に散りばめた娯楽作だから、艶っぽい映像がこれでもか、これでもかと飛翔乱舞するのだけれど、私が面白いと最初に感じたのは喧騒渦まく白昼の通りから扉を潜ってすぐの、さっぱりと乾いた屋内の景色だった。
版元 蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)の店の奥座敷であり、当時あれこれと面倒をかけてもらっていた歌麿は主人の前に畏まって座り、浴衣姿の女人の立ち姿などを描いた習作を幾枚もひろげては意見を聞いている最中なのである。蔦屋は開口一番にそれらの絵に駄目出しをして、もう少しおんなの実相に踏み入らないと売り物にはならないと告げる。ちょうど其処に絵入りの狂歌本「画本虫撰(えほんむしえらみ)」(1788)の試し刷りが届けられ、竜胆(りんどう)の紫の花が咲き誇り、傍らに蜻蛉(とんぼ)の羽を休める様子が緻密且つ優雅に描かれているのが屋敷の主人とわたしたち観客にそっと示されるのだった。
これを見た蔦屋はこらえ切れずに言葉を迸(ほとばし)らせ、眼前の歌麿を叱りつける。虫や花はこんなに微細に描き上げるのに何故おまえはおんなを描けないのか、そんな性根ならこちらから縁を切ってもよい。蒼ざめた歌麿は表へと飛び出してしまう。
狂歌仲間で歌麿の取り巻きのひとりである平賀源内らが慌てて背中を追う。肩を叩いて引き止め、陽気な口調でなだめにかかるのだった。杉田玄白が「解体新書」(1774)を世に出したことに触れると共に、懐にしていた怪しげな本をぺらぺらとめくって歌麿に押し示し、所詮おんなというのは肉塊なのだ、ここに描かれた挿絵をご覧よ、股を開いて化け物染みた赤々とした亀裂を示すこんな絵づらと同様であるのだから、おまえさんもそれを在りのままに描けば良いのだ、おんなを描くことに妙な意識を持つ必要はさらさらないと説くのである。歌麿は無言のまま、雑踏のなかに消えていく。
解体新書の出現を先日の出来事と語る点からも察せられるように、台本上の時間構成は自在に組まれており、二時間二十分の枠に十年前後の世相をてんこ盛りしている。風俗の爛熟、為政者の交代と表現弾圧、庶民のこころに巣食う諦観と反骨。歴史の狭間で翻弄される創作者たちの群像を詰められるだけ詰め込んでいるのだけれど、肝心な部分は歌麿という絵描きのわずか一年間における迷走のさまであって、私が惹かれたのも実はその天才らしからぬ煩悶だった。
「画本虫撰(えほんむしえらみ)」発表の同年、春画の世界に新風を吹かせた彩色摺艶本「歌まくら」を歌麿は完成させるのだが、手を染める寸前の迷いに迷う真面目すぎる男の逡巡をずるずると描いてみせるところがたいそう面白く、とても新鮮に目に映った。思うままに筆を走らせ、世間から求められるままになんでも器用に描いてみせる、そんな風にわたしたちは才気あふれる画家を捉えがちであるが、監督(脚本も)の実相寺は創り手だって人間である以上、自身の美意識やら技量に悶え苦しみながら匍匐(ほふく)前進しているのだと訴えている。
絵筆を持てぬまま枯れ野を放浪する様子さえ描いており、その点でも世間の抱くイメージを砕こうと創意が噴出している。テレビジョンの歌謡ショーで極端なカメラアングルに固執して波紋を起こし、仕事を干され、その後さまざま分野で暗中模索を続けた演出家が劇中の歌麿の迷走に自身のまなざしを重ねていたのは間違いなく、表現者の生々しい胸奥を覗いている気持ちになる。
あるノンフィクション作家は「幼い頃の歌麿は、虫を愛し、ひたすら絵に没頭する少年だった」(*2)と想像をめぐらせるのだったが、そんな純真無垢な描き手が版元の要望で生臭い体臭に満ち満ちた春画に挑まざるを得なくなるところに劇のハイライトを当てたのだった。描きたくないからどうしても描けない、好きなものを描いても誰も振り向いてくれない、自らが欲しないのに不思議と人気が出てしまってそのジャンルから逃げられない、出版元や制作会社の懐事情で描きたくても描かせてもらえない。古今東西の創り手を襲うさまざまな束縛や素の不安が時代絵巻の体裁で映し出されていて、等身大の懊悩に直に触れることが出来る。大切なことを教わったように感じられ、ときどき思い返す瞬間がある。
(*1):『歌麿 夢と知りせば』 監督 実相寺昭雄、主演 岸田森 太陽社 1977
(*2):「歌麿 抵抗の美人画」近藤史人 朝日新書 2009 112頁
2018年6月17日日曜日
栗本薫「ナイトアンドデイ」(「ライク・ア・ローリングストーン」所収)(6)
栗本は自分のことを「生きたマンガ史」(*1)であると豪語した。そんな兵(つわもの)がどうして斯(か)くも無惨な見立て違いに陥ったのか。中島梓(なかじまあずさ)の名前で出ていたクイズ番組を毎週眺め、闘病記にして最期の作品、波状となって遅いかかる痛みと薬で朦朧となりつつ綴った「転移」(*2)を息苦しく読んだ身にとって、異論を唱える度に腹立たしさと悔しさが湧き立つ。恩人という程は慕っていなかったが、その面影や声はわたしの成長過程にゆったりと浮遊している。彼女の残像を懐かしく感じる。
故人への冒涜になるのか、またいつものように他人を傷付ける行ないを繰り返していないか、と、うな垂れて自問を繰り返す。中島さん、怒っていますか、ごめんなさい。でも、やはり書いておかないと貴女のためにもならないと思うんだ。「ナイトアンドデイ」が混乱の種になるのは貴女だって厭ですよね。やだねえ、石井隆の読者って妙に生真面目でしつこいったらありゃしない、もう勝手にしたらいいんじゃない、さっさと書き終えて解放してちょうだいな。そんな風にきっと笑って許してくれますよね。
孤独な少女期を過ごした栗本薫は御多分に洩れず漫画雑誌の虜になり、自室にこもって作画にのめり込んでいく。そのうち雑誌「COM」への投稿を繰り返したのだった。漫画という創作物に対して強い愛着があったのであり、そうであればこそ、七十年代の象徴のひとつとして石井隆ブームを取り上げたのは確かだろう。
ただ、石井隆の「ブーム」に大いに着目はしたが、「作家」としての石井には関心がなかったのだ。漫画というメディアに憧れ、その総体をひたすら崇拝し続けた彼女にとって、小説を書くことは絵のない漫画を描く行為であったに等しいから、自らを石井と同等の立場と捉えており、また、競争相手以上の興味を覚えなかった。漫画の絵や台詞が一般読者に衝撃を与えて翻弄し、彼らの人生を大きく変えかねないことを十分に理解している身であればこそ、時おり訪れては世間を熱くする「ブーム」をひどく面白がったが、石井隆の劇画自体は彼女にとって一切の影響力を持たなかったのだ。
それは石井隆に限った話でなく、栗本薫は漫画家全般に対して常に冷淡な目線を維持していた。中島梓名義の自伝的エッセイのなかにはこうある。
「そのころ大評判であったつげ義春も、「別冊ガロ・つげ義春集」などを買ってねっしんに「勉強」しはしたが、ついに(中略)ひきつけられることはなかった。「紅い花」は生ぐさく、「沼」はわけがわからず、「ねじ式」に困惑し、「その後の李さん一家」も貧乏くさく思った。」(*3)
つげ作品がまるで分からないこと、困惑したことを照れなく平然と綴っている。なんて純心で気負いのない感想だろう。少女そのままのこんな目線が、石井隆の作品を気狂いじみたものとして拒絶するのはある意味自然であって、小説中の彼女の分身である「沢井」という若者の意見がああなるのも宜(うべ)なるかなだ。
「とにかく絵が好きだった。」「憧れたあまり私は(中略)大切に切りぬいて保存した。」(*4) そのように往時の読後感を綴って見せた宮谷一彦(みややかずひこ)という作家に対しては、栗本はその後にあっさりと視線を断ち切ったと白状している。「どうも前のよりよくなかった。そのせいか、サンデーはこれぎりになり、かわりに少しして、青年誌で政治がかったのが連載がはじまったが、私はもうフォローしなかった。」(*5) フォローしなくなった事を悪びれず、しかも宮谷作品について決して口を閉ざすことがない。どこからその自信が湧いて来るのか。
熱心な読書家であった彼女は「生きたマンガ史」を自認する程であったが、それは裏返せば人気漫画に着目し、その年ごとの流行作を読むという慣習に染まっていたことを証し立てる。厖大な作品をひたすら取捨選択することに追われ、肌合いが悪いと感じれば惜しげもなく排除しておのれの視野の外側へと追いやった。集中して特定の作家と向き合う道を選ばなかったのだ。それが栗本の漫画との旅路であった。
「漫画」については果てなく喋れただろうが、特定の「漫画家」をとことん語る土壌は彼女にない。それなのに無理矢理「石井隆ブーム」を紙面に定着させようと試みたのだ。脱線転覆するのは当然の帰結だ。森ばかりを見て木の成長にいっさい寄り添わない気構えで、どうして石井隆を語れよう。
以上が「ナイトアンドデイ」に対する私なりの感想だ。否定的なことばかりを書き連ねていると全然楽しくないし、いい加減に疲れてくる。でも、最も疲弊し、ぺちゃんこに叩き潰されたのは石井でありその家族であったろう。ここでは触れなかった部分も含めてほぼすべて余すところなく「モデル」である石井の実像と乖離している。それが大出版社の手で国のすみずみまで配られた訳だから、並みの精神であれば立ち直れなかったのじゃあるまいか。
その後の絢爛な劇画執筆と映画監督としての躍進を見ると、世辞でなく勇気付けられるところがある。私たち誰もが彼を見つめ続ける理由のひとつだ。彼の倫理観は信じられるし、作品から愛の何たるかを学び、勇気をもらえる。そして、生きていることがどんなに虚しくても、悔しいことだらけでも、先に待つのが死と決まっていても、それでもなお歩むことを続ける姿に共鳴して止まない、だから私たちは石井隆を見つめ続けるのだ。
急を告げるメールなり声が届き、次々に新しい障壁が立ち上がる。うんざりして何もかも投げ出してしまいたくなる。そんなときに石井隆の世界と石井隆本人の苦闘を想う。秘かに奥歯を噛み締め、明日も闘おう、生きてみようと考える。
(*1):「ナイトアンドデイ」 栗本薫 文春文庫「ライク・ア・ローリングストーン」所収 文藝春秋 225頁 「あとがき」
(*2):「転移」 中島梓 朝日新聞出版 2009
(*3):「マンガ青春記」 中島梓 集英社 1986 104頁
(*4): 同 112頁
(*5): 同 113頁
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