「重力」や「引力」という言葉から、しきりに思い出される一片の映像がある。インドで起きた転落事故の模様で、建物の屋上から若い女性が墜ちる瞬間を捉えたものだ。いつまでその残影がウェブに留まるかは分からないけれど、2018年3月の時点では誰でも容易に事故の顛末を見ることが出来る。
だったらそのアドレスを貼ったらいいのじゃないの、ごちゃごちゃ書かなくても一目瞭然でしょうに。確かにその通りなんだけど、あれこれ逡巡してしまいどうしても割り切れない。生命を奪われた当人と遺族を包みこむ非情な成り行きにつき、これを軽々しく扱う気持ちになれない。はた目には道楽にしか見えない戯文の連なりではあるが、存外真剣に事象を見つめ、言葉を選んでつむいでいるところがある。今回だって相当に厳粛な気持ちになっているし、より謙虚にならざるをえない。じくじくした痛覚がぬぐえない。
「死」は誰にとっても日ごと夜ごとに忍び寄るエーテルの霧であって、わたしには間(あいだ)を隔てる距離はさほど残されていない気がする。いつ窒息させられるのか、いつ引火して黒こげになるかも知れない。まったく他人事ではないのだ。また、同じ年頃の家累(かるい)を持ち、その成長を見守るのが日課となっている。遥か遠き外国の出来事ながら自身の日常と一本に糾(あざな)えて考えるところが自ずとあって、到底冷静でいられない。胸板をきつくきつく縛ってくる。
そのような訳で映像をそのまま貼り出す気持ちにはなれないから、下手な文章になるけれど事故の経緯を書き出してみる。ムンバイにあるニュースサイトDNAの報道(*1)とウェブ上で散見する書き込みを総合すれば、昨年の7月25日の朝、地上へと墜落し、その後、病院で死亡が確認されたこの娘は、名前を古代の女神から譲り受けてアディティ Aditiといい、まだ十六歳という若さであった。コンピュータ応用学を専攻する女子学生で、学校で催されたロッククライミングの演習に参加していての事故という。幸福な一生を家族に祈られ、自由や無限をも意味する名前の響きと共にこれまでずっと歩んできた訳だが、一瞬の油断から手を滑らせて地上へと真っ逆さまに落ちてしまった。
屋上から地上方向にワイヤー線を斜めに走らせ、滑車を使って伝い降りていくジップラインZIP-LINEと呼ばれるアトラクション、その順番を待っていて事故に遭ったのだ。ロッククライミングを生活の軸に据えているアウトドア派の友人に尋ねてみたのだが、クライミングとジップラインは自然に対する哲学が根本のところで異なるから、両者をひとつにした演習というのは奇妙な感じがする、きっと学生を喜ばせるために半ば遊び用として設営されたものではなかったか、という意見だった。歓声にあふれた冒険の日が真っ暗な刻(とき)へと転じ、居合わせた全員の心胆を寒からしめ、これからの人生に暗い影を落とすことだろう。
まったくやり切れない、ざわざわする景色が映し出されるのだけど、カメラアングルの急変もあって、悲劇をとらえたカットは数秒のみと極めて短い。スマート端末で様子を捉えていた者は、黒い影が落下していく様子に気付いて途中から撮影を続行できなくなってしまったのだ。人間の生理は他者を襲う死の影を間近にして耐え切れず、無意識に目をそらすように出来ている。映像の性格はまるで違うが、自死のための投身をとらえた映像の多くに共通する“うつむき”がここでも起動している。
画面上の為すすべなく墜ちていく娘の姿に衝撃を受け、大概の人はただただ悲哀の念に圧し潰されるが、短いそれを繰り返し再生して眺めるうちに、人間の情報認識の力というのは凄いもので、遠方にたたずむ灰色のシルエットのただ中に明確な表情が読めるように思えてくる。屋上に集った若者たちと、彼らの勇気を絞り出す役目だったインストラクターの一挙手一投足も鮮やかに瞳に映じて、刻一刻と明滅する彼らの感情までもが手に取るように解かってくるのが不思議だ。決して高画質ではないのに。
デジタル端末の普及と動画投稿サイトの定着は、これまで覗くことが出来なかった他人の家の内側から路地裏の詳細までをくまなく提供するに至ったが、同じ映像を繰り返し再生して視ることが容易となった点もまた、人の知覚にとって巨大な跳躍ではなかろうか。映像に含まれる膨大な情報を漏れなく読み切るだけの時間と機会を与えられたのであって、その意味でこれまでの映像媒体にはない密度のある波力を生んでいる。しんどい作業にはなるのだけれど、視聴に次ぐ視聴は決して無駄な行為ではない。
列の先頭に立つ娘の目と鼻の先で、ジップラインを使ってゆるゆると降下を始めた学生がおり、その勇姿を眺めやってインストラクターと同級生たちが盛んに拍手を送っているのが分かる。歯を見せて破顔する様子さえ窺える。いよいよ自分の番が来たと娘は数歩前に進み出て、屋上の縁をぐるりと欄干状に囲む、専門用語ではパラペットと言うらしいコンクリートの段差に背を向けると、すとんとその上に腰をおろした。期待に胸膨らませ、弾む気持ちを抑えられないような切れのある動作が今となっては痛々しい。
手を伸ばしてロープなのかワイヤーなのか、張られた紐状のものへと指先を真っ直ぐ進めていくのだったが、やがて虚しく空をつかんで、体勢を大きく崩した娘はそのままゆっくりと建屋の外側へと身体を傾けていく。慌ててロープをたぐろうとするのだが、願いは叶うことなく重力の網にぐるぐる巻きに捕えられていき、下へ下へと強力な力で引き込まれていく。
横にいたインストラクターが異変に気付いて娘に手を差し出すが、無惨にも指先からすり抜けるような具合にして若い命は地上に吸い込まれていき、仰天した男はその場に凍結している。屋上の学生たちのなかには事態の急変が一瞬で伝播し、緊張と動揺が爆発的に広がる様子も見て取れる。
デジタルの細かい粒子となって定着した娘の生前最後の影を、わたしは何度も何度も繰り返し見つめて過ごす時間を持ったのだけれど、いつしか娘の表情や筋肉のこわばりが頭のなかで整理されて、網膜にすっきりと投光されるようになった。いよいよ感情の綾が伝わってくるのだった。驚愕、必死、当惑、悲哀が次々に点灯するのが分かってしまい、そうなればなるだけ、ひたすら嘆息するばかりで声もなく夜を過ごした。天国という場処があるのだとしたら、あの娘を迎え入れてもらいたいと思う。淋しかったろうな、本当に気の毒と思う。
そうして、これはよく世間で言われるところだけれど、生きることとは結局のところ「重力への抗い」である、という視点がのっそりと立ち上がり、わたしをあらたな連想へと手招いていく。「重力」を前提に私たちは文明を築いて来たのだし、これなくしては食の生産も商流も成り立たないのだが、本質的にこの「重力」という奴は猛々しい獣であろう。容赦なく牙を剥き、隙あらば喉笛を咬み裂こうとする。いつも死と密着して私たちの隣りにいる。
(*1):http://www.dnaindia.com/jaipur/report-girl-falls-to-death-from-6th-storey-in-front-of-father-2512907
2018年3月14日水曜日
2018年3月8日木曜日
“重力にあらがうこと”(1)
篠田正浩の『夜叉ヶ池』(1979)を観て以来、五代目 坂東玉三郎は引力を有する存在になった。テレビジョンに出ると知れば、ハードディスクプレイヤーの録画予約をいそいそと行ない、夜遅い時間に淡い愉悦を抱きつつ眺めたりする。
彼が映画に客演する際は、市井の人ではなく、小説家や画家といった偉才の役を当てられるのだけど(*1)、容貌から動きまで全くもって妖しく、けれど無理に作り込まれたものでない透明感もあって、何ともいえぬ面白みがある。最近では越路吹雪をステージで歌ったりしているが、演じたり歌ってみせる対象はいずれも練達の士であり、独自の世界を築いた才人揃いである。そこに厭味が生じないのは、彼自身がその域に到達しているからだろう。
しかし、時流からしたらどうであろうか。当時いかに耳目を驚かせた天才たちとはいえ、今では注目の渦からそれた、どちらかと言えば傍流なり孤高にたたずむ人を演じて見える。それでいいのだ、独り舞台で一向にかまわない、寂しくはないと坂東は信じているようだ。ひたすら対象に真向かう気配が濃厚で、そこに迷いや足踏みをすくい取れない。川の中央は勢いこそあるけれど、余裕なくひたすらざわめいて移ろうばかりだ。川面が鏡となって天空を映し出すおだやかな傍流の方にこそ、味わい深い時間が集う。潅木が茂り、水鳥が憩う岸辺の方が彩りに満ちて感じられる、そんな心境ではなかろうか。彼は辺境に王座を築いている。
客演にしてもホームグラウンドの歌舞伎にしても、孤影ばかりが強調される先人や舞台にまっしぐらに融合を果たさんとする気迫がゆらゆら立ち昇り、おごそかで蒼い発光が認められる。稀代の、と冠され、また、女方(おんながた)の最高峰と称されることが多いが至極当然だろう。そんな天才と同時代に生きられたのは、ほんとうに幸せなことだ。
さて、先日、彼が出演していた教養番組を例によって眺めていたところ、突如その口から「引力」だの「重力」だのという単語が飛び出して大いに慌てた。女方の舞踊を素人向けに解説する内容であったのだけれど、ひとつひとつの所作に引力を意識しているといった言葉であって、舞踊とは重力からの解放だと続ける。床を蹴り、高々と宙を跳ねるバレエやコンテンポラリー・ダンスの踊り手ではなく、重たい和装を基本とする歌舞伎役者が熱心にそれを語ることに新鮮さ以上に畏怖を覚える。
四年程前の雑誌の対談を探し読めば、その時点で既に「踊るってことは、引力の束縛から解放されたい以外の何物でもない」と語っており、付け焼刃の発言とは完全に違うのだった。対談相手となった旧知の間柄の文化人類学者は、「引力からの解放は玉三郎さんのコアの感覚」、「引力からの解放という話は、ここで人魚姫につながる。玉三郎さんはダイビングをやってらっしゃるでしょう。あれは単なる趣味とは思えないんですね。海という無重力の宇宙で、まさに単独」と合いの手を入れている。
彼の舞いは重力との抗いであり、同時にその活用でもある。番組で準備された小舞台で、ある演目の一部を再現してみせ、くねくねと白手ぬぐいが揺れていく。いつしか目に見えるはずのない重力の糸が無数にからみつくようであり、それらを彼の指先が自在に操るようにも思えて来るのがめっぽう面白かった。
(*1):『帝都物語』 監督 実相寺昭雄 1988 泉鏡花役
『夢二』 監督 鈴木清順 1991 稲村御舟役
(*2):「にっぽんの芸能」NHKEテレ1 2018年1月12日放映 「伝心~玉三郎かぶき女方考~“京鹿子娘道成寺”」
(*3):「芸術新潮 2014年 06月号」特集 襲名50周年 新たなる美を求めて 坂東玉三郎
「対談 玉三郎の昨日・今日・明日 坂東玉三郎×船曳建夫」 75頁
2018年1月27日土曜日
“剪定” ~活劇の輸血(4)~
往年の映画スチルで切り取られた振り向く、身体をひねるというよく有りがちな動作をさも石井が劇画で引用していたかのように書いた。その少し前には石井が漫画家つげ義春の作品に触発されたのではないか、と気ままな空想をめぐらせている。先日、赤木もつげもそれぞれ同時代に味わった年長の友から、あまりにも君の論は飛躍し過ぎであり、完全に妄想の域の何物でもないからちょっと自重すべきだ、といった内容の助言を受けている。
そう言われてみれば急速に自信は薄れていき、まったく迂闊なことを綴ったものだと猛烈に恥ずかしくなる。実際、赤木圭一郎の出演作『抜き射ちの竜』、『電光石火の男』、『霧笛が俺を呼んでいる』(*1)を立て続けに観たのだが、あまりにも石井隆のタッチと違うので愕然としたのだった。埠頭や拳銃、美丈夫に甘くふくらんだ唇を持つ女優たちと共通点は多々あるけれど、また、近作で二度も重要な役を演じた宍戸錠だって出ているけれど、どこまでも夢の地平であって石井が飛翔する場処とは構成する要素が異なる。そういえば、確かに石井の口から日活無国籍アクションへの言及は、これまで一度として無かった気がする。ああ、やっぱり私は救いようがない阿呆だ。
石井隆の活劇は一体なにを栄養源として育ったのか。そんな事はあまり作品の本質には関係ないことなのだけど、一介の愛好者が日頃想いを馳せる途上でどうしても気になっていく。やれる事はひたすら記憶の樹林に分け入り、これとおぼしき種を拾い集めて持ち帰り、どう育つのかを植物図鑑片手に見守るだけだが、やがて芽を出し小さな葉を広げたその時になってようやく見当違いに気付く。まるで違う花だったと嘆息することの繰り返しだ。ここ数回の文章がまさにそうで、また先走った、おまえはぼんくらだと根元からぶちぶちと引っこ抜き、ゴミ箱に放り込もうかとずいぶん思ったのだけど、こうしてまだ未練がましく人目に晒している。
間違いは正されなければいけないが、埋めたり隠すだけが最善の道ではないと考え直した。石井隆に惹かれる若い人が同じ轍にはまったり、路側防護壁に接触せぬように道しるべとか警告を描き留めることも役目だろう。そこに至った道筋は無駄ではないとも思うし。
石井とはまるで無関係だが、アドルフ・ヒトラーの第三帝国の意匠についての本を先日読み終えている。彼らの管制は党旗や制服に対象を止めず、街なかに貼られたポスターや建築物、日用品まで広範囲に及んだのだが、それ等を丹念に蒐集し尽した一冊だった。戦後の劇映画での再現や、直接戦史とは関係がないサイエンスフィクションやコメディ分野での形や色の伝播まで事例紹介は多彩をきわめており、子供番組に登場する悪の秘密結社にすら言及する徹底ぶりだ。
原色を使ったどぎつい装丁や小口にそっと忍ばせた独裁者の肖像にはいささかたじろいでしまうが、著者がグラフィックデザイナーだけに仕事人目線での読みほぐしが披露されていて、内容は手品や特殊撮影の種明かしに似ている。柔らかな空気が漂い、感情を廃した平坦な文章が呑み込みやすい。権力と卓抜したデザインが合体したことから起こる全体主義への崩落を分かりやすくひも解いているのだが、触れること、語ることがタブー視されることでいつしか神秘性を帯びがちな軍関連の意匠につき、実は巷によくありがちな模倣や寸借含めた人間的な製作過程を踏んでいるのだと順序立てて説いてくれる。
ひと通り読み終えた私は黒一色の親衛隊の制服を見ても以前ほどには煽られないだろうし、それを着る者をもはや男らしいともお洒落とも感じない。まさに其処にこそ、いまこの国で上梓する目的意識があるのだろう。先人の失敗を客観的に捉え直す、そんな読書体験であった。肩がこらない、けれど知的で良心的な書物と思う。(*2)
その最後の方で著者の松田行正(まつだゆきまさ)がこんな事をつぶやいており、思わず笑ってしまった。「ナチスのデザインにどっぷり浸っているとなんでもかんでもナチスと関係があるようにみえてくる。亀倉雄策さんがデザインしたグッドデザイン賞のロゴ、Gマークもそうだ。」「このような体験は数多くある。ハーケンクロイツ的シンボルを見つけただけで、なにやら得した気になってしまう。」(*3)ご承知の通り、自分にもその傾向がひどい。石井隆の作品にどっぷり浸ってなんでもかんでも石井の創作物と関係あるように見えてしまう私は、やはり頭がどうかしてしまったに違いない。松田のように事実を究めようとするのでなく当て推量をいい気になって書き散らす私は、世間に対して、と言うより石井隆という創り手に対してただただ有害の域にあるような気がしてきて、自ずと視線が地面に向かってしまう、足元ばかりを見てしまう。
いずれにしても思うのは、石井世界は一個人の資質でほぼ完結しているということか。古き映画と根茎を結び、血脈が通じるように見える石井隆の劇画、そこから派生して来た監督作品たち。スタイルやディテールがあれやこれや先行するものの模倣だらけであっても良さそうなのに、色や構図、運命悲劇の修羅の様相は隔たるものがあって、石井隆という個人の奥にどこまでも集束されていく。業界人ではなく映画作家と位置付けられるひとがこの国にはいまも幾たりか踏ん張っているけれど、石井隆とはまさしくそれなのだと思う。
(*1):『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』 監督 野口博志 1960
『拳銃無頼帖 電光石火の男』 監督 野口博志 1960
『霧笛が俺を呼んでいる』 監督 山崎徳次郎 1960
(*2):「RED ヒトラーのデザイン」松田行正 左右社 2017
(*3): 同 334頁 340頁
そう言われてみれば急速に自信は薄れていき、まったく迂闊なことを綴ったものだと猛烈に恥ずかしくなる。実際、赤木圭一郎の出演作『抜き射ちの竜』、『電光石火の男』、『霧笛が俺を呼んでいる』(*1)を立て続けに観たのだが、あまりにも石井隆のタッチと違うので愕然としたのだった。埠頭や拳銃、美丈夫に甘くふくらんだ唇を持つ女優たちと共通点は多々あるけれど、また、近作で二度も重要な役を演じた宍戸錠だって出ているけれど、どこまでも夢の地平であって石井が飛翔する場処とは構成する要素が異なる。そういえば、確かに石井の口から日活無国籍アクションへの言及は、これまで一度として無かった気がする。ああ、やっぱり私は救いようがない阿呆だ。
石井隆の活劇は一体なにを栄養源として育ったのか。そんな事はあまり作品の本質には関係ないことなのだけど、一介の愛好者が日頃想いを馳せる途上でどうしても気になっていく。やれる事はひたすら記憶の樹林に分け入り、これとおぼしき種を拾い集めて持ち帰り、どう育つのかを植物図鑑片手に見守るだけだが、やがて芽を出し小さな葉を広げたその時になってようやく見当違いに気付く。まるで違う花だったと嘆息することの繰り返しだ。ここ数回の文章がまさにそうで、また先走った、おまえはぼんくらだと根元からぶちぶちと引っこ抜き、ゴミ箱に放り込もうかとずいぶん思ったのだけど、こうしてまだ未練がましく人目に晒している。
間違いは正されなければいけないが、埋めたり隠すだけが最善の道ではないと考え直した。石井隆に惹かれる若い人が同じ轍にはまったり、路側防護壁に接触せぬように道しるべとか警告を描き留めることも役目だろう。そこに至った道筋は無駄ではないとも思うし。
石井とはまるで無関係だが、アドルフ・ヒトラーの第三帝国の意匠についての本を先日読み終えている。彼らの管制は党旗や制服に対象を止めず、街なかに貼られたポスターや建築物、日用品まで広範囲に及んだのだが、それ等を丹念に蒐集し尽した一冊だった。戦後の劇映画での再現や、直接戦史とは関係がないサイエンスフィクションやコメディ分野での形や色の伝播まで事例紹介は多彩をきわめており、子供番組に登場する悪の秘密結社にすら言及する徹底ぶりだ。
原色を使ったどぎつい装丁や小口にそっと忍ばせた独裁者の肖像にはいささかたじろいでしまうが、著者がグラフィックデザイナーだけに仕事人目線での読みほぐしが披露されていて、内容は手品や特殊撮影の種明かしに似ている。柔らかな空気が漂い、感情を廃した平坦な文章が呑み込みやすい。権力と卓抜したデザインが合体したことから起こる全体主義への崩落を分かりやすくひも解いているのだが、触れること、語ることがタブー視されることでいつしか神秘性を帯びがちな軍関連の意匠につき、実は巷によくありがちな模倣や寸借含めた人間的な製作過程を踏んでいるのだと順序立てて説いてくれる。
ひと通り読み終えた私は黒一色の親衛隊の制服を見ても以前ほどには煽られないだろうし、それを着る者をもはや男らしいともお洒落とも感じない。まさに其処にこそ、いまこの国で上梓する目的意識があるのだろう。先人の失敗を客観的に捉え直す、そんな読書体験であった。肩がこらない、けれど知的で良心的な書物と思う。(*2)
その最後の方で著者の松田行正(まつだゆきまさ)がこんな事をつぶやいており、思わず笑ってしまった。「ナチスのデザインにどっぷり浸っているとなんでもかんでもナチスと関係があるようにみえてくる。亀倉雄策さんがデザインしたグッドデザイン賞のロゴ、Gマークもそうだ。」「このような体験は数多くある。ハーケンクロイツ的シンボルを見つけただけで、なにやら得した気になってしまう。」(*3)ご承知の通り、自分にもその傾向がひどい。石井隆の作品にどっぷり浸ってなんでもかんでも石井の創作物と関係あるように見えてしまう私は、やはり頭がどうかしてしまったに違いない。松田のように事実を究めようとするのでなく当て推量をいい気になって書き散らす私は、世間に対して、と言うより石井隆という創り手に対してただただ有害の域にあるような気がしてきて、自ずと視線が地面に向かってしまう、足元ばかりを見てしまう。
いずれにしても思うのは、石井世界は一個人の資質でほぼ完結しているということか。古き映画と根茎を結び、血脈が通じるように見える石井隆の劇画、そこから派生して来た監督作品たち。スタイルやディテールがあれやこれや先行するものの模倣だらけであっても良さそうなのに、色や構図、運命悲劇の修羅の様相は隔たるものがあって、石井隆という個人の奥にどこまでも集束されていく。業界人ではなく映画作家と位置付けられるひとがこの国にはいまも幾たりか踏ん張っているけれど、石井隆とはまさしくそれなのだと思う。
(*1):『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』 監督 野口博志 1960
『拳銃無頼帖 電光石火の男』 監督 野口博志 1960
『霧笛が俺を呼んでいる』 監督 山崎徳次郎 1960
(*2):「RED ヒトラーのデザイン」松田行正 左右社 2017
(*3): 同 334頁 340頁
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