2014年5月5日月曜日

“硬度と慎重さ”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[4]~


 石井の劇が現実と過去双方の描写の堅い積み上げから成り立っていて、骨太の印象を受けると先に書いた。これと似た筆触は古書店などから映画用台本を入手して読み進めたときにも決まって在って、強く意識されるのだった。

 当初は原作の題名そのままに『火の蛾』と呼ばれ、紆余曲折を経て『死んでもいい』(1992)となったもの、はたまた黒雲が急に湧いて視界を遮るのにめげず、困難な航海をやり遂げている『GONIN2』(1996)といった作品の準備稿に目を通していくと、意外にも完成品と趣きがほとんど変わらないことに驚かされる。微妙な変更箇所は確かにあるが、いずれも枝葉に過ぎず、骨格なり血脈、つまり挿話それぞれの順列や台詞といったものに手を加えずに最後まで突き進んでいるのがよく分かる。

 準備稿の横に決定稿を広げて一字一句を見比べていっても当然ながら変更箇所はわずかであり、新たな発見を期待して目を皿にする側からすれば物足りなく感じることが多い。映画づくりの工程で台本がどの時期に、どの程度の助言を周辺から吸い上げて輪郭なり硬度を決定していくのか門外漢には分からない領域であるし、人の手による仕事である以上は様々な経緯をたどるのは当然であるのだが、こうして過去の石井作品をめぐる資料の収集と読解を丹念に続けていくと、どうも石井の筆になる台本というのは足し引き無用の硬度にまで鍛錬され、磨き上げられたものがかなり早い段階から提示されてあるようだ。原作の咀嚼と理詰めで流れを決めていく時間、飽かず反芻をおこない微調整を加える昼夜が幾重にも挟まれた末の“納品”なのだろう。

 たとえば池田敏春(いけだとしはる)が監督をつとめ、血みどろの殺戮描写を売り物にした『死霊の罠』(1988)は石井が脚本を担ったひとつだが、これを最初に観たときは大いに面食らったものだった。石井の描くロマンティークな悲恋群像に耽溺する目には、いくら何でもこんな殺伐とした景色を石井は書かないのではないかと思われ、台本はもっと違った光に染まっているに相違ないと信じた。石井の記した文面の片鱗すら残らぬ乱暴な改変が現場で起きたのではないかと訝(いぶか)しんだのだけど、決定稿を入手して目を通してみるとあにはからんや、伊藤高志(いとうたかし)を起用した終幕の激闘以外はほとんどそのまま石井の筆が疾走し、のたのたと蠢き、おどろおどろした惨劇を次から次に産み落としていた。(*1)


 石井のつむぐ台本とは、繊細なあや織りにも似て縦糸と横糸が意味ありげに交差し、それらは別の作品でも起用されて色つやを放っていく面白さ、奥深さがあるのだが、どうやら一度仕上がったものにおいては多少の揺れや振動ではびくともしない建築物となっていき、現場にかかわる多くの仲間を束ねて牽引するようである。

 ひとまとめにすると笑われそうだが、そのことは石井の劇画づくりにも言えることだ。作品の原稿が書籍やウェブで幾つか散見される。じっくり時間をかけてその線をたどって見ると分かるのだが、背景であれ、手前に配された衣服や家具であれ、それからコマを囲む枠線にしてもそうなのだが、画面に組み込まれたあらゆるものが精密に完成度高く描かれてある。人物にしても主線(おもせん)がすでに決定されてあり、ぶれや迷い、曖昧な箇所がいっさい無い。こういう“下絵”はあまり見られない。アシスタントの役割はその線を慎重になぞったり、間を染めたり、トーンを貼ったりするものと決められている。石井隆という創り手がどれ程自身の仕事と世界観に対して愛着と責任を持って臨んでいるか、それがどれ程の硬度と慎重さをそなえるものか、ここでも確認することが出来る。


(*1):『死霊の罠』は【魔樂】(1986)の発表後、割合と近い場所で書かれた作品である。モニター越しにからみ合う視線であったり、理解してもらえぬ煩悶であったり、ライターを小道具に使う点など石井の血がひっそりと交じる内容であって、そのように俯瞰して見れば他の石井作品と自然と連結を果たすように思う。


2014年5月4日日曜日

“錯乱の域でなく”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[3]~


 1981年に上梓された石井隆の作品集「おんなの街」(*1)、いや、それに収まった【雨のエトランゼ】(1979)には、製本所内のミスによる乱丁があった。物語の流れがどう乱されたものか、ざっと記せば次の通りである。

 べたべたと愛着(あいじゃく)するカメラマン川島に根負けし、同棲を始めてしまう名美である。どこか己れと似た部分、たとえば暗いまなざしを端正な顔立ちに宿した編集者村木の方に惹かれるものがあったのだが、あいつは家庭を持つ身と川島から聞かされ、燃える芯に水をかける勢いで身体を許したのだった。川島は名美をモデル派遣会社に登録する。アマチュア向けの撮影会へ出張などしながら献身的にこたえる名美であったが、虚栄心が強く、金を浪費する川島はいつしかその状況に甘えていき、挙句の果てに一線を越してしまうのだった。身体をもてあそぶ目的の秘密の撮影会へと名美を差し出すのだった。

 縛られて自由の利かぬのを良いことに、取り囲んだ男たちの行いがエスカレートしていく。そばにいる川島は気づかぬふりをしたり、名美を拝むようにしてみたりして、いずれにしても男の風上にも置けない体たらくである。この時の写真が世に出まわり、週刊誌にも掲載されて名美を絶望の淵へと追い込んでいくのだった。ふたりの行状が気になる村木は仲間を通じて薄々は知っていたのであるが、街角の書店でその暴露記事を目の当たりにして憤激の念にかられる。

 これを口火として村木の推測を交えた撮影会の場景が紙面に再現されていき、名美の回想がそれに重なって奥行きを増す仕掛けとなっている。乱丁はこの推測と記憶とが交叉する箇所に生じている。滑らかなコマの運びが損なわれてえらく混沌としているのだった。

 再び私事となってしまうが、雑誌の連載を通じてではなく、単行本にて接触を果たした読者のひとりがどのように捉えたかを白状すれば、当初は例によって気付かないまま過ごしている。先述の白紙の挟まった【赤い教室】(1976)と【蒼い閃光】(1976)についてはさすがに程なく目が醒めて、おかしなものを掴まされたと気付いたのだったが、この【雨のエトランゼ】については察するまでに少し月数が掛かった。鈍感というかお人好しというか、今もそうかもしれないが救いようのない馬鹿である。

 最初から妙だとは感じていた。だけど、作者は意図的に混沌を産み落とし、生と死の境界に肉迫しようと試みていると解釈してしまった。これぐらいの“錯乱”は自死を選ばざるを得ない人間にとって当然かもしれないと考えた。

 名美というおんながその内側で過去を繰り返し再生し、今となってははっきり岐路と解かるその時と場処まで舞い戻りして目を伏し音もなくたたずんでいる、そんな哀切きわまる孤影の在ることを私は信じて怯えたのだった。人を想って全身全霊を捧げていくことで、喜びと誇りに身が震えるようだった温かい陽射しの午後と、何もかもが不確かで安定を欠くのが世の常と悟った泥沼のような夜とを狂ったように脳内で切り返す様を痛ましく、哀しく思い、もらい泣きしながら読んだ。

 ああ、これは頁が組み違いになっているのか、そりゃ跳ぶわなと気付いたのはいつだったか。思い込みというものは現実をどこまでも歪め、過誤を見えにくくしてしまうものである。しかし、だからといって自分が【雨のエトランゼ】を完全に読み違っていたとは思わない。遡行し得ない生の流れのなかで、追憶が重みを増して人を苛(さいな)んでいき、ときに耐え切れず瓦解する。【雨のエトランゼ】という劇の根幹に潜むそんな真実が、乱丁という物理的な破壊と偶然にも重なっていたのだった。もの恐ろしい気分を引きずって、幾月も呆然として過ごした。

 おいおい、それじゃおまえは製本事故を意味あるものと捉えているのか、おまえは創り手の行為をそんなにいい加減なものと思っているか、と叱声が飛んで来そうだ。落丁や乱丁を肯定しているわけではないし、それが石井隆と作品たちにダメージを与えこそすれ、プラスになるものは何もなかったと考えてもいる。いったい何を伝えたいかと言うと、そのような“石井作品にして石井の意に沿わぬもの”が私の前には最初からあって、目を凝らす時間が増えた。ごくごく自然な形で石井のリズムであったり色彩であったりに敏感になった、ということだ。二十年近い歳月を経て完全版(*2)を手にし、あるべき場所にあるべき頁が整列した【雨のエトランゼ】を読み直した。そこで浮上した感懐には“石井作品にして石井の意に沿わぬもの”を玩読した目線でしか判別し得ないもの、が含まれるということなのだ。


 石井劇画というものが骨太というか、きわめて堅牢な空間描写の積み重ねの上に成り立っているという認識がまず生まれた。一階の上に二階、二階の上には三階が載っていて、それぞれがきっちり作り込まれてある印象を受けた。

 また、時間や記憶に対してどう向き合うべきか、揺るがないものが個性として在って、石井の創作全般を貫いているように感じられた。登場人物が記憶をまさぐっても、その過去は現実空間と同じ密度と手触りで面前を流れていき、そこを泳ぐ人の体温を奪い、息苦しくさせ、消耗させていく。もちろん、その逆もしかりなのだが、過去が過去として忘却の一途に向かうことを許されず、同等の比重を保持しながら現実と並走していくところが特徴として読み解けるように思う。

 若かった私は乱丁を映画手法でいうカットバックと似たものと勘違いし、その過激さがおんなの魂のささくれ、ひきつれを代弁して見えたのであるが、石井の描くおんなは過去を生きて再度傷ついてしまうのだし、その果てに過去の堆積に負けて圧死するというのが本当であって、表現として正しいかどうか分からないが、しっかりと狂って、しっかりと死んでいくのである。錯乱という域でなくって、確実に圧し潰されていくのである。


(*1):石井隆作品集「おんなの街」 石井隆 少年画報社 1981
(*2):「おんなの街 Ⅰ 雨のエトランゼ」 石井隆 ワイズ出版  2000
引用画像は、雑誌「ヤングコミック」連載時のカラー頁

2014年5月2日金曜日

“乱れる”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[2]~


 もう一方は「おんなの街」(*1)で、頁の順が狂っていて、右から左へと目を移した瞬間に時間と空間が飛んでしまうのだった。“面付け”の工程で事故を起こしたのは明らかだ。六話おさめられているが不自然な箇所は中篇【雨のエトランゼ】(1979)に集中しており、ほかの物語には問題はない。

 承知の通り【雨のエトランゼ】は屋上を舞台に組み込んでおり、劇画を語る上でも、その後の映像作品を語る上でも視角から外せない作品だ。整然と隣り合うダイヤモンドの切子面(ファセット)のように石井世界は複数の顔をそなえており、それぞれが輝きを競い、ときに光は溶け合って虹色に滲(にじ)んでいくのであるが、【雨のエトランゼ】は中でも大きな切り口を占めており、放射されるものはすこぶる強い。

  具体名をあげれば『魔性の香り』(1985 監督池田敏春)、『沙耶のいる透視図』(1986 監督和泉聖治)、『ヌードの夜』(1993)といった作品で、屋上(またはそれに準ずる場処)からの投身を描いて像を重ねている。また、『天使のはらわた 名美』(1979 監督田中登)と『天使のはらわた 赤い閃光』(1994)の二作は雑誌の編集者をドラマの主軸にすえていて、系譜を連ねると言って差し支えないだろう。劇画の内容を継いでおらなくとも内包する視線が近しいものとして、『死んでもいい』(1992)や『夜がまた来る』(1994)なども上げられるから、明るさは半端ではない。

 かような位置を占める【雨のエトランゼ】が破壊された訳である。不様な装本を苦々しく感じ、また読者に対して面目なく思い、熱心な働きかけに背中も押されて石井は二十年ぶりに完全版(*2)を上梓している。そのあたりの事情はよく伝わっている話だから、あえて説明するまでもないだろうが、はっきり言えることは私の手元にある古い方の【雨のエトランゼ】は炉にくべて灰にしても構わない立場に今は置かれて、作者もそれを切望しているということだ。


  石井にとって古傷に等しいものを公の目にさらし、わたしは最低の輩だろうか。けれど、稀少であろう、奇観であろうと自慢している訳では決してない。石井の作品と呼ばれるものの中で作者の“意に沿わぬもの”をつぶさに、厭かずに凝視(みつ)めていくことが、結果的に回り回って石井隆という作家の輪郭線を見きわめる事に結びつくという思いが、日毎夜毎に渦巻いて消えないのだ

 
(*1):石井隆作品集「おんなの街」 石井隆 少年画報社 1981
(*2):「おんなの街 Ⅰ 雨のエトランゼ」 石井隆 ワイズ出版  2000