2012年3月11日日曜日

“物質的な雑用”


 ボーヴォワールSimone de Beauvoirは台所に立つのを避けた。料理が出来なかったわけでなく、その行為の固定なることが女性を男性社会に隷属させる第一歩と捉えたからである(*1)。懐に余裕があるときにはホテル住まいをして、家事と名の付くことから距離を置いた。

 当然彼女とは視点が異なるだろうが、石井隆の“台所”というのも特殊な場処である。その創造世界における“台所”は私たちの身近なそれとどこか違って、隔絶されたような、なにか遠い処にあってぼんやりした印象を抱かせるものとなっている。性愛の景色や愁嘆場(しゅうたんば)が差し挟まれるとは言え、広義の区分けに従えばラブストーリーに相違ない石井の劇であるから、家庭臭、生活臭が希薄となるのは当然といえば当然だろう。

 されど、つぶさに作品を見つめ返していくならば、忌避(きひ)されている、とまで言うと極端かもしれないけれど、不穏な気配を漂わせる場処となって時折牙を剥くのが石井世界にとっての“台所”であると解かってくるのであって、これは到底無視できないかたちと思う。石井は名美に代表されるおんなたちを台所に立たせるのを避けている。料理が出来ないわけでなく、その行為の果てに待つのが情念の噴出や、憤怒の臨界と爆発だからだ。

 『GONIN2』(1996)に終盤描かれた“台所”については先に書いた。スクリーンを染めるのはほんの一瞬であり、加えて淡々として抑制の利いた筆致ゆえに多くの観客は刹那に見送り、直ぐにも忘れ去られる場面であるのだけれど、流れに棹差して内実を透かし見ればとても穏当とは言い難い、むしろ不吉な描写と言えるものだった。もっとも公開当時からその凶兆に気付いた訳ではなくって、後年私たちの心胆を寒からしめた『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)より逆照射されて、ようやくこの箇所がほかの石井作品の“台所”と根茎を繋ぐ可能性に思い至ったのだった。

 『人が人を──』は人間の魂の多層性、不可逆性を浮き彫りにした傑作で、喜多嶋舞が名美という存在を体現すべく全身全霊を捧げていく様子がもはや崇高とさえ評して過言でなかったのだけれど、その物語の軸心には『GONIN2』の志保(西山由海)の件(くだり)とよく似た面貌が埋め込まれていた。まず結婚生活の破綻があり、“台所”があって“包丁”があり、隣接した寝室で凄絶な凶行があり、という展開が見止められる。石井ファンには承知の通り、『人が人を──』は1991年9月より石井が発表した短篇連作【カンタレッラの匣(はこ)】中の【主婦の一日】のイメージを踏襲しているから、この三作品は尾根(おね)を結ぶ連山と称して問題ないだろう。石井らしい反復がここにはある。

 手土産のあわびを調理しようと“台所”に立って“包丁”を振るっている最中に、居間兼寝室に招いた恋人に開かずの間(ここではビデオテープ)を覗かれてしまい、急旋回(恐らくは鮮血飛び散る)の予兆を湛えた肉汁ぬめつく刃先のクローズアップで幕を閉ざす【降水確率】(1987)や、過去の暴行事件に関わる男たちの再訪にほとほと困惑し、その中の一人(鶴見辰吾)を“台所”で撲殺してしまう『フリーズ・ミー』(2000)、それに、衝動に駆られて自制が利かなくなった名美が、“台所”のガス台にかかっていた薬缶をだしぬけに掴んでその中身を肉親に浴びせ掛けてしまう【真夜中へのドア】(1980)なども思い出される。

 最近作『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)の冒頭でも“台所”は描かれていた。男との乱闘でしびれを切らして“台所”に走り、“果物ナイフ”をその手に持ち帰ったのは姉役の井上晴美であった。我が国の住宅事情が“台所”と寝室をごく近い場処に定めてしまい、愛憎の現場に“包丁”なり“果物ナイフ”なりを即座に調達可能にしている事は現実の刃傷沙汰(にんじょうさた)の顛末を見ればよくありがちであって、なにも石井隆の発案による特別な舞台装置ではないのだけれど、調理行為や料理を囲む団欒をこどこどく回避し(*2)、“台所”を武器庫としてだけ使っていく傾向はやはり独特であるように思う。

 その背景には女性という存在を男性社会に隷属された者として強く意識し、その解放を望む気持ちが働いているものと推察しているが、正直言ってよく分からない。ただ、頑(かたく)なまでに繰り返される一連の描写は常に直情的、直線的で、打算を帯びたものはあまりない。思惑が働いても計画は大概稚拙で、憐憫を誘うものばかりだ。おんなたちの側に視座が置かれ、その不可逆の、永劫の罪をまばたきなく静かに見守るばかりである。途切れることなく注がれるまなざしは誌面とスクリーンを貫き、どこまでもおんなの後ろ姿を追っているように思う。しなやかで且つ強靭であり、ボーヴォワールの意志に決して負けていない。

 さて、あの揺れ、あの混沌から一年が過ぎましたね。今もこうして好きな事に想いをめぐらせ、好きなことに勤(いそ)しむことが出来るだけ幸せなことと思います。これを読まれる人のこれからの時間の穏やかで哀しみの少ないことを祈ります。

(*1): ボーヴォワール「私たちの選んだ生きかたのおかげで、私がいつも女性の役割を演じなければならなかったことはありません。でも、ひとつだけ思い出があります。戦争中、だれかが食料を補給したり配給券を確保したり、ちょっとした料理をしなければなりませんでした。もちろん私がしました。サルトルにはまるで不可能でした。男性ですから。(中略)こうした物質的な雑用を私がひきうけたのは、私とサルトルとの関係のせいではなく、彼に能力がなかったからです。サルトルがこうしたことに無能なのは男性優位主義的教育が家事全般から彼を遠ざけた結果なのです。彼にできることといったら目玉焼くらいかしら。」
サルトル「そんなところかな。」
「ボーヴォワールは語る 『第二の性』その後」 Simone de Beauvoir aujourd’hui アリス・シュヴァルツァー 福井美津子訳 手元にあるのは平凡社ライブラリー51 1994 引用はその85-86頁で1973年ローマでのインタビュウ   
(*2): 『ヌードの夜 愛は─』の終幕のシーケンスはこれまでの流れと真っ向から対峙する。ちひろ(東風万智子)は調理行為を通じて村木(竹下直人)のこころに敢然と挑んでおり、料理を囲む団欒を遂に実現させている。石井世界が大きく変貌した証しと思う。ただ、村木の住まいの“台所”は機能しておらないし、カメラは最後まで引きっぱなしで作られた料理に肩入れしていない。どことなく変則的で、この辺りの微妙さ、繊細さも石井らしくて興味を覚える。


2012年3月10日土曜日

“夕餉(ゆうげ)の仕度”


 映画『GONIN2』(1996)は、まがう方ない活劇である。白刃(はくじん)が闇を裂き、銃火を映じて赤赤とぬめつく。滑空自在のカメラと畳み掛ける編集、叫び疾走して疲れを見せぬ役者たち、余裕で色香を滲ますおんなたち、そこに絡まり混ざる始原的なドラムの雄たけび──

 当然ながら血で血を洗う暴力描写と肉体の躍動する様に、観客の多くの視線は束ねられていく。銃身支える指先を目で追えば、その果てには我らを吸い尽くさんと待ち構えるかのごときおんなの肌がある。瞳なり脳髄がことごとく捕縛されていくのは致し方なく、観劇の後に口を開けば、喜多嶋舞や余貴美子、夏川結衣の暴れぶりとすらりと伸びた肢体を誰もが話題にするのは必然だろう。送り手の石井隆にしてもご満悦、して遣ったりの気分に相違ない。

 観客を恍惚の境地へと橋渡しする力技(アクション)以外の、導入部やどちらかと言えば穏やかな箇所は、それでは物語の“尾ひれ”に過ぎないのだろうか。

 石井には大衆の抱く曖昧模糊とした夢まぼろしを透かし見て、くっきり生々しく塑造して提供する商業監督の一面がまず在り、これに併行して自身の編み出す世界観(いわゆる“石井世界”)をどこまでも堅守する(気付く人は気付いてしまい、次第に虜(とりこ)になる)突出した作家性がある。明滅を繰り返すこの二種の色相はウロボロスのように互いを侵食してみたり、遺伝子の螺旋を描くように寄り添い舞って、銀色の映写幕をどこまでも覆って見える。

 我々の日常とてハレとケとが交互に寄せ来るまだら模様、縞模様の風体であるのだし、人の生きる上で表と裏はつきまとう。どちらが本当とか嘘とか、どちらが上等とか言うのでは決してなく、石井隆とは実に多層で一筋縄にいかぬ作家であることを告げたいだけである。一瞥(いちべつ)をもって見送る訳にはいかぬ、澄んでいながらも光さえ届かぬ深淵を抱えた沼なのだ、底なしなのだ、と虚空に向けて囁きたいだけだ。

 そんな目線で『GONIN2』を再度俯瞰すれば、これは食べる前のキャンディにかたちが似るように思う。男の浅慮、暴走しがちな夢想という粘っこい糖質と血しぶき由来の酸味、それにおんなの肝に巣食うさらさらの結晶を絡ませた上で、銃弾と日本刀との衝突がもたらす摩擦熱でどろり成型してみせた宝石大のキャンディ。これを赤いセルロイド紙で包み、両端をねじって金魚の“尾びれ”のように仕上げている。誰もが見惚れる殺陣(たて)は真ん中の飴玉の部分であるのだが、細心の注意を払って折り込まれた両端のひだひだとて、見落とす訳にいかぬ大事な意匠だろう。

 たとえば、次のシーンは終幕近くになって挿入されたものだ。貴金属店を急襲した賊の手から宝石の山をまんまと横取りしたおんなたちの内(なか)に、愛を見失って途方に暮れる主婦“志保”(西山由海)がいた。追っ手の包囲網が狭まってもろとも捕獲されんとする寸前、この志保というおんなだけはからくも劇の流れから離脱して日常世界への復帰を果たしている。ところが、その逃げたおんながわざわざ終盤も終盤の押し迫った段階で、忽然と(場処は違えども)戻ってくるのだった。



志保の住む家・台所(同じ頃)
    志保が夕餉(ゆうげ)の仕度をしている。流しで、トントントン、野菜を切っている。
    後ろのテーブルには、夫の茂行と志保の茶碗類。しかし茂行の姿、気配は、無い。
志 保「……」
    志保、黙々と野菜を切り刻み続ける。指にリングは無い。(*1)
 

 (注:この先結末に触れる)──“同じ頃”というのは、後に残してきた他のおんなたちが廃墟然とした建物奥で追っ手に完全に包囲されてしまい、死出を覚悟で敵中突破を図っていくその時日(じじつ)を指す。雨あられと弾が降り注ぎ、銃煙の霧となってたなびく中でおんなたちは次々に“フリーズ”していくのだったが、通常石井世界にあってそれは現世に“死”を穿(うが)つ刻印であるから、ここに一瞬、夕食の支度にいそしむ安全圏のおんなの立ち姿がよぎることに虚を突かれ、思わず呻いてしまった。

 やはり“同じ頃”に一陣の風が吹き渡り、先に逝った娼婦サユリ(大竹しのぶ)の身体を巻いていた一枚の毛布をまくり上げている。降りたはずの幕が再度開いた恰好で、つまりは石井なりのカーテンコールであって、逃げおおせた志保の顔も儀礼的に点描したに過ぎない、そう受け止めることはここで可能だろう。

 また、余、喜多嶋、夏川の三人の前後に死者と生者を配置して、今まさに潜らんとする死線を明確にする、そんな意図も少しはあるに違いない。どう受け止めてもらっても構わないとする石井のスタンスは常に変わらないから、どれもこれも正解といったところだろうが、私なりにもう半歩だけ踏み込んで得る感触は、この雷光の突如射し入るようにして出現した独りのおんなの情景が街角でもなく旅先でもなく、寝室でもなければ喫茶店でもなくって、“台所”を舞台に選んでいることの幽かな“不自然さ”である。

 銃弾に肉と骨とが貫かれ、粉々に砕かれようとも、男たちの横暴に対して覚醒した我が内なる力をもって立ち向かうことを決意した、その“同じ頃”、そうして、傍らに横臥した死者の肉体がそろそろ自己崩壊を始める、その“同じ頃”に対置された“台所”というのは一体全体何だろう。

 古今東西“台所の光景”とは母性と寛容とを顕現し、まばゆき光背(こうはい)に縁取られかのような神聖さを付帯されがちであるが、ここで石井もその白さと温かさを強調して、洞窟のような場処で朽ちていくしかなかったおんなたちをより黒々と塗りこめるための補色として対極的に置いたものだろうか。

 それとも、魂を粉々に砕かれようとも、男たちの横暴に対して覚醒した我が内なる力をもって立ち向かうことを“決意した者”として、そうして、その傍らに横臥した死者の肉体がそろそろ“自己崩壊を始めるといった状況”の、つまりは“同じ側に立つもの”として、この“台所”を描いたものだろうか。どちらとも取れるが、より石井らしく思えるのは明らかに後者だろう。安全圏にない“台所”が挿されていたように思う。

 劇の中盤に描かれた厨房での銃撃線は、活劇映画史に刻まれる凄絶で悪夢的なものだった。ステンレスの大型機器が妖しく反射し、お手頃なシャワーもちゃんと付属している。それゆえに選ばれたに違いないけれど、思えばあの場面とて上記に等しく、そろそろ自己崩壊を始める気配の生肉のでんと転がる“台所”であったのだし、ちひろ(喜多嶋舞)というおんなの転機となる場処であった訳だから、符合するものは確かにあるのだ。


(*1):準備稿 シーン113

2012年1月15日日曜日

“混沌とコントロール”



 先日台本(決定稿)を目にする機会があったものだから、それに合わせて『GONIN2』(1996)を観直している。公開からすでに15年以上経た作品にいまだに執着する様子は、よほど狂って見えるかもしれないけれど、新たに感じたことを中心に書き留めておきたい。

 ざっと端折(はしょ)れば『GONIN2』とは、だいたい次のような話の流れであった。ジュエリーショップに数名の賊が押し入り、大量の貴金属類を奪おうとする。“個人的な問題を抱える5人の女たちがたまたま居合わせて(*1)”おり、強盗団の虚を衝いてまんまとそれを横取りしてしまう。奪還を目指す男たちがその後を追い、さらには一個の宝石に魅入られた中年男も騒動に加わって、組んずほぐれつの死闘が開始される──

 公開当時の第一印象はと言えば、ずいぶんと“混沌”したものを感じ、また、上昇と下降を執拗に重ねる顛末には船酔いに似た眩暈と痺(しび)れを覚えたものだった。いや、正直言って“滅茶苦茶”とも思った。呉越同舟のおんなたちは経営に行き詰った者、それを慕って追いすがる者、家庭を破綻させた者、組織を裏切る者であるから、これは前作『GONIN』(1995)の枝葉(しよう)を接ぎ木して見えるし、冷酷なヤクザの金銭をあえて盗むという点(これは狙い通りであろうけれど)も同じであって、特段の目新しさはない。揚力をぼんやりと減じつつある飛行船をおんなたちのあでやかさ、小粋さで奮い立たせて、上手に高度を保たせているように見て取った。

 幻滅したとか、つまらぬという意味合いではもとよりない。想いを遺託される衣服、上層に待ち受ける地獄、自著(短編劇画)のシーケンスをそっと引いて綾織られる特殊な群像劇、互いを鏡像と成すおんなたち──作家石井隆を語る上で外せない事象が目白押しの作品であるから、一瞬たりとも気が抜けない。花と咲き婉美(えんび)を競う女優の取り合わせはこれもまた眼福であって、何度目かの観賞となった今回においても存分に堪能したし、ふんわり酩酊させてももらった。ゆらめく煙雨が闇を覆い、アスファルトを黒く濡らしてネオンの光を滲ませる。石井らしい透徹した空気がくまなく画面を満たして、肺腑に沁み入って涼しかった。

 やがて私みたいな純粋な受け手なんかにも、業界の特殊な事情が地響きのように伝わって来た。撮入直前だか直後に想像だにしなかった事件が制作社内に勃発し、そのあおりを喰って潤沢だったはずの予算が半分に削られたという話だ。時間も小道具も何もかもが次々にしぼり込まれてしまい、もう打つ手はほかになく、本番当日の台本にすら現場で直しを入れざるを得ない、そんな緊迫した事態だったと聞く。いかに勇猛秀逸な石井組であろうとも、それじゃ“滅茶苦茶”にもなろう、墜落気味ともなろうと納得するものがあった。

 最初に書いた通りDVDを観返すきっかけは“台本”を目にしたことであり、そこに予想外の印象を抱いたせいである。手つかずの“原形”がそこかしこに在って、面白く読んだのには違いないのだけれど、思いのほか完成なった映画との間に段差が見つからない。こんなはずでない、もっと違った風景が読めると思っていた。

 つまり『GONIN2』とは構想の段階からして相当に入り組んだお話であり、暴れまくる話なのであって、不意を襲った予算の枯渇が一瞬のエンストなり急旋回を余儀なくされたにせよ、それは瑣末な変更にしか過ぎず、だから錐(きり)もみ状態がもたらす歪みや亀裂で満身創痍のへろへろの体になっている訳では決してないのである。観る側でもしも混沌や無茶苦茶を覚えるとすれば、それは石井が当初から描こうとした曲線なり渦、色彩に私たちの生理が単に驚いてしまっているだけであり、もしかしたら、それこそが石井の狙いであったかもしれないのだ。

 台本と映画の双方を見比べて合点が行った箇所を列記すれば、それは自ずと石井が『GONIN2』という物語に託すものを浮き彫りにする。たとえば、最初に夏川結衣演じる“早紀”というむすめに視線を注いでみよう。少女時分に学校の構内で巻き込まれた悪しき体験にずるずると呪縛されているこの若いむすめは、夜ごと悪夢の底に堕ちてはおぞましい幻影に襲われ続ける。のしかかられ、着物を裂かれて悲鳴をあげるなか、枕の下に忍ばせていた護身用の警棒を引き出すと怪しい影に向けて振り下ろすのであった。

 連夜の夢で舞台となるのがアパートの自室であり、いつも身を横たえるベッドであるから始末が悪い。頭骨が砕ける鈍い音がして、血をぼたぼたと垂れ流しながら男がどっと倒れるところで毎回目を覚ます。蒼白な顔で寝間着を点検する様子がこれに続き、そこでようやく夢から覚め切ったと安堵するのだった。

 このとき“夢の相手”に向けて振りかざす金属製の警棒は、ジュエリーショップでも再登場している。ねっとりと濡れたような重い反射光を湛えた細くて硬そうな面持ちであって、夏川のきゃしゃな体躯と不思議に似合って私たちを蠱惑するのだけど、この携帯型の警棒ははてさてどこから現われたものだろう。考えるまでもなく早紀の抱えるバッグの奥に潜んでいたのだが、ならばこの警棒は、これまで昼となく夜となくこの不幸なむすめに寄り添っていたものだろうか。二度と我が主(あるじ)を恥辱にまみれさせてなるものかと、時には風を切り、ぶんと音を立てて夜道や公園で彼女を守り続けていたものだろうか。夜には枕の下に眠っていたものだろうか。

 畳みかける描写の凄まじさと速さから(それにこだわる観客もいないから)話題に上らないけれど、ジュエリーショップで賊のひとりに振り下ろされた瞬間こそが“使い初め”というのがどうやら本当らしい。つまり夢の中で“夢の警棒”を振るって逆襲を遂げる自身の奮戦ぶりに触発され、仕事帰りに防犯グッズ店にふらり立ち寄り、そこで猛禽類のごとき尖(とが)った色香を発散させるサングラスのおんな(蘭=余貴美子)が物怖じせずにスタンガンを買い求める姿にうっとりし、自らもそれにならって警棒をいそぎ買い求め、そのまま追尾して半地下のジュエリーショップに降り立ったのである。

 大声で店員と客を威嚇する賊に怯(おび)えて陳列ケースの後ろに猫の子のように隠れながら、再度忌まわしい記憶に苛(さいな)まれるむすめであったのだが、店内で展開されるある場景をきっかけとして豹変する。汗ばむ指先でバッグを探り、握り締めるやいなや駆け出し、満身の力をこめて警棒を打ち下ろしたのだった。ある場景とはなにかと言えば、先刻より気になり追いすがって来た蘭というおんなが、銃を突きつけ脅す賊(中山俊)をスタンガンの一撃で打ち倒した様子を指している。

 そもそもこのスタンガンを購入したおんなの当初の狙いや目的が何であったのか、物語をつぶさに追尾することで推理はおおよそ可能だろう。地下採石場のような半地下の店舗はがらんとして広く、客もそれに応対する店員もあちらこちらと散っている。“女性”店員を呼び止め、間近で見たいからと陳列ケースから高額の宝石を取り出させ、その直後に手首を電撃して失神に至らしめる。膝おり崩れ落ちる店員に(内心詫びを入れつつ)驚き介抱する振りをしながら、騒動にまぎれて宝石をポケットにそっと仕舞って店を後にしようと目論んだのだった。経営するスポーツジムが行き詰まり、日毎夜毎に返済に追われる身である。もしも拝借した宝石一個を例え半額になろうと現金化出来れば、その場しのぎにしかならぬけれど矢の催促をかわすだけの時間稼ぎにはなるだろう。

 売り子である若い娘を(万引きのため仕方なく)襲うつもりだったおんなが、銃を片手に咆哮する賊に対して爪を突き立てた理由は何だったか。単純な自己防衛のためではなかった。(結果的に獲物の横取りに発展したが、それは二次的な事であって実際は)自身の外貌に向けられたふざけた嘲弄(ちょうろう)に心底怒ったからである。おんなであることだけで強いられる理不尽この上ない侮蔑に、完全にキレたためである。これまでは天井からブラ下がったサンドバックに憤懣をぶつけるだけだったおんなが、“生身の男”に向かって高圧電流を叩き込んだ瞬間であり、それが引き金となって夢の中だけで逆襲を果たしてきたむすめが、初めて“生身の男”に向かって鉄槌を下(くだ)している。

 大竹しのぶが演ずる娼婦サユリの面立ちと付随する挿話は、石井の劇画【爛(ただ)れ】(1976)に沿っている。客の男に年齢詐称がばれてずいぶんと酷い言葉を浴びせられるのだったが、映画でのサユリは夜空を仰ぎ嘆息するにとどまっている。石井を見守る息の長いファンならば、原形である【爛れ】における終幕を今でも鮮烈に思い出せるのではなかろうか。酷い言葉に完全にキレたおんなは恨み言をつぶやくだけでは済まさなかった。客室の備品を高々とかかげ、男の頭頂部に向かって真一文字に打ち下ろしてその命を奪っている。映画『GONIN2』(および台本)にそんな陰惨な情景は描かれてはおらなかったが、かえってこれが示唆することは何かと言えば、サユリというおんなはかろうじて“殺意”を寸止めにした状態にあり、茫漠たる思いに沈みながら一段二段とふらふらの体で宝石店の階段を降り至ったという見えざる内奥だろう。

 志保(西山由海)というおんなの来店目的は抜けずに血だらけになった結婚指輪に困り果ててのことだったが、開口一番“切る”ことを願い出ている。事情を慮(おもんばか)った店員がベビーオイルを使ってたくみに滑らせ抜き取ると、今度はすかさず売却を願い出ており、こちらも“男”に対する憎悪と結婚に対する破壊願望に満ち満ちた風情であった。

 つまり、『GONIN2』のおんなたちは“たまたま居合わせて”いたのではなかった。ケースに陳列され、やがて眼前にぶちまけられる貴金属にも大して興味を抱いていない。沸沸とたぎる男への憎悪を抱えて、靴裏にその醜悪な顔なり声を思い返し、のっそりと踏みしだいているのである。可燃性のガスを吐く剣呑この上ない淀みの中に、何も知らぬのんきな賊がそれこそ逆に“たまたま”来てしまい、一服する構図である。これまで一度として男に手を上げたことのないおんながあれよあれよという間に誘爆していく。覚醒して、宝石ではなく生々しい“暴力”をこそ、嬉々として手中にしていく話であった。

 前作『GONIN』の男たちがやや捨て鉢な行為に没入しながらも、概しておのれへの愛着なり憐憫に染まっている分“建設的、創造的”な会話なり筋が展開されていたのに対し、投打と殺傷、破壊だけを純粋に目指そうとしたおんなたちの『GONIN2』が“滅茶苦茶”となるのは、だから道理に適っているのであって、観客が、特に男が“当惑”を覚えるのは正しい受け止め方と言えるのである。

 昨晩、カナダの天才ピアニスト、グレン・グールドGlenn Herbert Gouldのドキュメンタリーを観た。印象に刻まれた描写や言葉は多いのだが、納得のいくまで録音テープの編集作業に明け暮れる鬼気迫る姿が途中紹介されていて、これと共に“コントロールのひとだった”と往時の彼の気質や作風を偲んで語られる箇所がある。かたちは違えども石井隆もまた、コントロールのひとであろう。“当惑”や“滅茶苦茶”を描くのが正しければ、怖れず逃げずにそれを描けるひとである。

 これからも、常識の遙か先を行く描線と色調が私たちに示されるに違いない。慄然とさせられる瞬間をこころ待ちにしている。


(*1): http://movie.goo.ne.jp/movies/p28069/story.html