2020年11月15日日曜日

“いったいそれは何だったのだろう”~石井隆劇画の深間(ふかま)(1)~


  新型コロナウィルスが地域経済に影を落とし、日を追うごとに暗暗として気持ちを萎縮させている。何か目立って巨きい出来事があった瞬間、住民の間に張り切った糸はぷつりと途切れ、一気にドミノ倒しが始まるのではないかと不安を覚える。

 ヨーロッパで猛威をふるうウィルスは型が変異した新たな面相であり、私たちが対峙している旧来のものとはかなり性質を違えている、そんな研究発表が先日為された。なあんだ、新旧ウィルスの感染力の段差が、今の日本経済をかろうじて支えているに過ぎないのか。アジア人だから、日本人だからといった遺伝的な優位性や、幼年時の予防接種由来の交差免疫で大丈夫な訳では全然なかった訳である。慌ててもどうしようもない話だが、イタリアやアメリカみたいな大きな混乱に陥るかどうかは時間との闘いで、駄目なときは逆立ちしたって駄目になる。

 晩酌をしない習慣のためか、ついつい余計な調べものや特集番組の視聴を繰り返してしまい、いつしか耳元で時限爆弾のカチカチいう針の音が聞こえるような感じになっている。あくせくしても結果はたぶん変わらないのに、小心者の脳みそは難問山積の状態でオーバーヒートを起こし掛けている。

 石井隆についての考察ももちろん止めた訳ではないのだが、腰を据えて文字に起こそうとしても何かが邪魔して上手く進まない。以前、知人から面と向かって言われた言葉が記憶の底からもわもわと蘇えって来たりもする。貴方の書き散らしている事に目新しいことは何ひとつない、解かり切った内容をもったいぶって綴っているに過ぎない。告げられた際には反発さえ覚えなかったのだけど、最近妙にそれが鳩尾(みぞおち)あたりに響いてしまい、指先をじわじわと冷やして泥土の纏いつくみたいに固めてしまう。

 冷静に考えれば、正にその通りである。私は石井の劇画や映画、そしてインタビュウを目で追い、それら断片を繋いでは論文調に見せて悦に入っているに過ぎず、特段の努力も費やさず、能力も求められず、責任も負わずに放言を重ねているだけだ。石井隆に対しても世間に対しても全く失礼な話ではないか。誰にも苦言を呈されないのを良いことに、闇雲に続けるのは罪深い行為ではなかろうか。そんな風に逡巡してここしばらく過ごしていた。

 さて、先日、硬直する指先で不器用に頁をめくっていて、気持ちに飛び込む数行があった。持つべきものは直言を返してくれる友人と手元に集う書物である。四方田犬彦(よもたいぬひこ)の「漫画原論」をひさしぶりに読んでいたら、あとがきに今の自分のもやもやを言い当て、そして導く言葉が踊っていた。

「本書はこれまでわたしが執筆してきたもののなかで、もっとも独創性に欠ける書物である。理由は他でもない。漫画を日常的に読みつけている人であれば、誰でもその読み方の順序から風船(引用者註:漫画のコマに現われる登場人物の台詞を囲む枠線)の意味まで知っており、人に求められれば、おそらくはここでわたしが試みたのとほぼ似たようなことを(多少の用語こそ違え)説明するだろうからである。机に向かいながらわたしはいつも、かの有名なサミュエル・ベケットの警句を口誦(くちずさ)んできた。すなわち、誰が書いても同じことだ。誰かが書きさえすればいいのだ。」(中略)「これまでの人生の大方を、夜となく昼となく漫画を読むことに費やしてきたので、ここらでちょっと立ち止まって、いったいそれは何だったのだろうと考えてみたくなっただけなのである。」(*1)

 ああ、まさにこの感じだ、その通りなのだ。「誰かが書きさえすればいい」のであって、石井当人でも評論家でもよいから、何処ぞの誰かが教えてくれて腑に落ちればそれで十分という気持ちだ。石井隆論が盛んに世に出されて読書の愉悦にひたる日が来たら、キーボードから離れてのんびりと過ごしたい気持ちでいる。しかし、なかなかそうなってくれないものだから、今宵もまた私は石井隆について「いったいそれは何だったのだろうと考えてみたくな」る訳なのだ。

(*1):「漫画原論」 四方田犬彦 筑摩書房 1994  295頁

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