2019年3月11日月曜日

“恋を焚きつける日常” ~歓喜に近い愉悦~(3)


 ひとは一生のうち幾度か恋情という轆轤(ろくろ)に身をゆだね、相手の四肢にまとわり抱かれてゆるやかに覚醒していく。心身両面での膨満やくびれといった劇的な、いや、爆発的と言ってもよい変貌を来たす時間を迎えるのだけれど、その只中においては複雑な影を背後に従える場面が少なくない。

 経験値の低いわたしは鈍刀(なまくらがたな)を自覚しない日はないけれど、ささやかな記憶を手探りし、また、身近にいる知人友人の身に起きる騒動を親身になって受け止めながら、ようやくこの年齢になって整理なるところがある。深刻もしくは硬化しつある日常から漏れこぼれる、あえかで沈い香りをそこに嗅ぎ取ってしまう。特性のある人ない人でもちろん出方は違うけれど、不幸の只中にある、少なくとも何かが渋滞をしている、そんな物狂おしい下降局面に置かれた日々にこそ魂は発火するのではないかと疑っている。本能の奥にひそむ防衛本能が、知らず知らずに起動してしまうのが恋の起点じゃないか。足元をよく見る慎重で生真面目な人ほど、日常の苦難に直面したときに恋に墜ちてしまう傾向はないものだろうか。

 では、恋を焚きつける日常とは一体全体なにを指すかといえば、これは人それぞれ異なって当然の話だ。家族の不和や生計の苦しさであったり、学業や職場での試験に落ちた衝撃であったり、怪我での入院や健診での異常を知らせる小さな封書だったり、茫漠とした未来への不安だったり、百人いれば百通りの心当たりがあるに違いない。ある人の背中にあるのは純度の高い大量の爆薬かもしれないし、別のひとのそれはもしかしたら手のひらに隠れるほどの火打石(ひうちいし)かもしれない。何がどの程度の発火を誘い、我らを新たな舞台へと後押しするかは皆目分からない。相手の容貌や声に単純に惹かれるといった「引力」のみではなく、別な大きな力が運命を後押ししているのは間違いない。

 恋情に限ったことではなく、肉欲への急激な傾斜や飛び込みというものも単調な色彩ではない。薄衣(うすぎぬ)纏った姿態に惑わされるだけではなく、拘束やしがらみからの離脱を切望する無我夢中の足掻きがともなっていたりする。ああ、確かにその通りだ、ずいぶんと若い時分に私は足繁く宵闇の裏通りをさまよい歩き、滅多矢鱈に扉を押しては白い肌とその匂いにすがったのだったけれど、あれなどはまさしく逃避行以外の何ものでもなかった。其処で産まれ墜ちるのは浅いみじめな快楽でしかなく、自分を労わっているのか虐げるのか区別がつかない混沌とした時間ばかりであったけれど、そうでもしなければ身は守(も)っても気持ちの方が挫けそうだった。無謀な跳躍の陰には、魂をめぐる綱引きが常にある。

 人間には時にそんな夜なり場処が必要じゃないか、とも思う。こちらから勧めはしないが、よろめいていく人の行為を決して否定できない自分がいる。人間の内奥には逃げない自分と逃げる自分が常に同居していて、どちらも大切で欠かせない存在だからだ。あの時、あの忌まわしくも愛しい束の間の離脱がなければ、私はもっと精錬されて人品卑しからぬ男に仕上がったものだろうか。正直そうは考えないし、曲がりくねった道程があればこそ何とか救われて今が在るとしか思わない。

 以前から書いているように石井隆の劇画や映画はわたしの青春に寄り添うようにして在ったのだけど、私は彼の流麗な劇画を眺めて溜飲を下げると同時に、現実世界からの「現実的な逃げ方」を教わったように思う。徐々に視界を閉ざして見える日常の味気なさを必死に振り払いながら、劇画に描かれた村木たち、哲郎たちの模倣を試みた。そうして危機を越えてきた。疲れた今日をどうにかこうにかやり返して、明日に繋いできたように思う。大袈裟に聞こえるかもしれないが、生き残るために扉を幾つか押しひらいて名美を探すことは避けられなかった。

 石井隆の劇画には性を商品化する店舗や従事者が描かれることがあり、丹念に取材を為してから描かれたそれら扉奥に拡がる光と影の点描は、ハイパーリアリズムの手法をたずさえて読者の目を射抜き、混沌ではなく「安定した(非)日常」として脳内の視覚野に到達した。船頭役の年長の男を周囲に見つけられないで悶えていた私のような孤独な読者にとって、石井の劇画は信頼に応える兄貴であると同時に無防備な裸身をゆだね得る整体師にも似た風貌をそなえて見えた。「安定した(非)日常」に堂々と誘(いざな)って、救ってくれたのだ。

 その手の業界の店員となって糧を得る者に対しての目線は常に平坦であり、決して蔑(さげす)む態度や台詞はなかった。もしも劇中にそんな言動があったら、それを放った者こそが蔑まれる話の流れだった。女性蔑視や職業差別の台詞を放つのは遙か彼方で蠢くつまらぬ輩であり、唾棄すべき思慮浅き者の刻印としてきまって押された。境界を敷くところがいわゆる世間の常識とは最初から違っていたように思う。「不安定な日常」の向こうに自分たちとよく似た「(非)日常」を暮らす苦労人の存在を教わり、彼らと出遭い、膝をまじえて普通の会話することが嬉しく感じられ、ずいぶんと助かった想いがする。似たような道程をたどった読者は存外多いのじゃなかろうか。その意味で少なくとも私は、石井隆とその劇画に深い恩義を感じている。

 誰に頼まれた訳でもないのに、どうして若い時分の迷い路延々と吐露するのか。ありふれていてお世辞にも誉めようがない悪弊の告白であって、どう考えたってまともな大人のする事ではない。それは石井隆の描く“小水”についてこの先触れる上で、自分という物差しをあてがうしか方法が見つからないからだ。石井の描く風景が正常であるのか、変態性欲の発露であるのか、石井は私たちにどう思ってもらいたいのか、あまりにも孤絶した部屋、独立した脳内で展開する極私的な表現となっていて客観視するのがすこぶる難しい。

 たとえば【今宵あなたと】(1983)という小編は映画『ラブホテル』(監督 相米慎二 1985)の骨格になった作品であるけれど、ここで男は宿に呼びつけたおんなを手錠やロープで拘束し、その肢体に向けて小水を降りかけるという乱暴な行為に及んでいる。どのように受け止めるかは読者それぞれの自由に違いないが、浴室の排水口にたちまち吸い込まれていく液体を漫然と見送ることなく、しばし立ち止まって熟考することをあえて試みるなら、どうしても最初に私自身の立ち位置を明らかにしておく必要があると考えた。

 石井隆の抱える生理や欲望と私のそれには当然段差があるし、石井が創造した数多の男たちのそれはバラバラである以上、何を語ったところで的を貫くことは難しいとは思うけれど、それでも無理を押してとことん寝屋に踏み込んで語るためには、私という人間が聖人君子ではさらさら無いと明言してから歩み寄るより仕方ない。理解できない、異常としか見えない、狂っている、自分たちとは違う。そんな上から目線で何を語れよう。

 石井に助けられ、多くの女性たちに助けられて私は青春を生き延びた。だから、石井が描く景色を別世界と捉える距離や段差を持てない。記憶と少なからず結線し、懐かしいとさえ思うコマさえある。近しい価値観、近しい死生観、近しい倫理観を育ててきたと信じている。それ等を頼みとして幾つかの作品と描写についての「私論」を試みようとしている。

 その上で【今宵あなたと】で男がまき散らす小水を考えると、これは自己承認をおんなに際限なく求める話であって、その一環の連結器や通路の役割で小水が使われている。非常に物狂おしい場面が連続することになるのだが、そのいちいちに俺のことを分かってくれないか、貴女のことをもっと分かり合いたい、という希求が盛り込まれている。小水を単純に汚れたもの、性欲の終点と見るのではなく、そこに死に際ぎりぎりの声を聞く必要がある。

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