2019年1月2日水曜日

“とことん膨張させていく”~隠しどころ~(12)


 話を脇道から戻して、劇中での性器表現に触れたいと思う。『花と蛇2 パリ/静子』(2005)の中で主人公のおんなは、自身がモデルとなった春画二枚の真贋を確かめる目的から拘束され、あろうことか衆人環視の壇上で股間の検分をされてしまう。絵の中に描かれた性器とモデルのおんなのそれを見比べようという算段なのである。舞台を仕切る司祭風の男(伊藤洋三郎)は採寸用の定規さえ取り出し、盛んにこれをおんなの下腹部にあてがっていく。法規制に則して明瞭な接写は避けているが、性器という身体器官を凝視しまくる異様な展開がしつらえてある。

 ところが司祭役は検尺棒をたちまち投げ出すと、真贋はすでに見切ったと咆哮するのだった。尻にある黒子(ほくろ)が一方の絵に描かれている、こちらが本物であり、もう片方は贋作である。投げ掛けられた視線はひょいと横方向にずらされ、臀部の小さな黒子の有無へと審議は移ってしまう。何というアンチ・クライマックスだろう。個人的に女性器の外観や機能に著しい執着を覚え、なんだよそんなところで決着させるのかよ、と、肩透かしを食らった流れを恨んでいる訳ではない。視線を誘導し、観客の意識を捕縛していくことで一種の甘やかな拘禁状態をもたらし、その締め付けがやがて恍惚や悲憤を産んでいく、それが映画が観客の感情を操る機能のひとつであるのだけれど、縛りがゆるいというか優しく上品というべきか。

 性器を話題の主軸に据えながら、外観の詳述を巧妙に避ける展開は過去の作品にも見つけられる。『花と蛇2 パリ/静子』から遡ること十五年、漫画【デッド・ニュー・レイコ】(1990)の中でそれは起きた。主人公のレイコは幼少のときに両親が惨殺される現場に居合わせてしまい、自らも暴漢のよって乱暴を受ける。長じて後、そのときの記憶を頼りに犯人を探し出す復讐へと自身を駆り立てていくのだったが、その記憶とは男たちの性器形状のイメージではなく、股のあたりから発せられるむかつく体臭なのだった。視覚ではなく嗅覚に頼るのである。

 気まぐれに地滑りが起きているとは考えられない。少なくとも『花と蛇2 パリ/静子』という作品は先に書いた通り石井にとっては特別な光彩を放つ題材であるから、そこに本気と乖離したものは混じりにくい。性器そのものをつぶさに撮影もしくは模写してこれを銀幕なり誌面に大きく配置することが法律上許されない以上、視線をスライドさせるなり形状を要しない匂いへと置き換えるしか方法が無かったという言い訳は立つのだが、それだけでなく石井隆は性器という器官に対して一点集中的に傾注することを絵面的に、物語的に避けているように思われる。するりとまなざしを切り替える術を体得していて、隅々までコントロールを利かせている。色調を整え、過激な様相の中にも自己のタッチを堅守するのである。

 性器への傾注を避ける、ならば石井作品とは禁欲的であろうか。露わとなった性器の面影をまるで直視できない、視野角の狭い絵柄だろうか。

 『死んでもいい』(1992)での左右から閉められたカーテンのわずかな隙間、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)のドゥオーモに至る岩肌に穿たれた横穴、『花と蛇』(2004)で外界とを区切る暗幕、『甘い鞭』(2013)で地下室の壁に生じた裂け目、劇画に頻出する雨露をたくわえた草と蔓(つる)の茂り。承知の通りそういった女性器の隠喩が石井の劇には数多く散りばめられていて、一見するとこれ等の背景表出は露骨に描けない代わりに置かれた装飾で、私たち読み手の意識をくすぐるための暗号にも見える。

 しかし、主要な人物の精神状況とあきらかに結線する観念的過ぎる登場の仕方からは、記号の意味合いを越えた堅い手応えがありはしないか。登場人物の妄念がもたらす直接的な物象のシルエットも含めて、石井隆は彼が創る世界の総体を人体から延長派生するものと捉えている。つまり石井にとって大事なのは局所ではなく、人間の魂を含めての全身像なのであり、その全身にすっかり包まれることの安息や不安なのだ。局所が本来の局所の位置から離脱して大きく大きく拡がって世界と化している。

 私たちの抱える欲望は対象と見定めた相手の身ぐるみを剥がし、丸裸にして肌に触れたい、粘膜をこすり合わせて一体感を享受したいとしきりに恋いしがり、その実現に躍起となるのだが、その逆に石井は人間を包みこもうとする。

 劇画時代に描かれたおんなの衣服を振り返ると、あれは脱がせるためよりも着せるところに主眼があったように思う。単なる記号となって機能し、性別や年齢といったキャラクター設定を支えるのが目的ではなかった。材質や肌触りも直ぐに連想できそうな徹底した衣類の描き込みであったが、其処を通じて読者は確かな実感を堆積し、登場人物を人間そのものと認識して逢瀬を重ねたのだった確実に身体の、魂の延長としての衣服があった。

 歌麿とほぼ同時期に活躍した浮世絵師に渓斎英泉(けいさいえいせん)がいるが、そのものずばりの春画と並行して女性の着物から醸し出される色香を表現すべく心血を注ぎ、卓越したその描写は遠く欧州の画家をも虜にした。布地の折れ、たわみ、めくれを繊細に、時に過剰に線描しており、現代の我々の目も妖しく魅了するのだけれど、あれなども性器の世界化と言えそうだ。石井隆という絵師の立ち位置を俯瞰して考えたとき、この英泉あたりと結線させるのはあながち間違いではないかもしれぬ。


 あこがれ、気に懸けて向き会う相手を瞳のなかに収縮させるのではなく、逆にとことん膨張させていく。衣服、化粧道具、紙巻き煙草、家具、音楽、路面を濡らす雨、林野、横穴といったものを駆使して全てを肉体化、性器化する。『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』のドゥオーモや『GONINサーガ』(2015)のバーズ、『甘い鞭』の地下室といった建築空間は石井世界において人間以外の何物でもない。

 それは私たちに石井隆が静かに諭す“他者へのまなざし”であるだろう。対峙する人間をパーツのみをもって理解しようとしたり消費するのではなく、相手を包む物象を含めて抱擁し、また逆に抱擁されない限り、本当の共感や恋情に到達することは難しい。相手が背負う世界全体を愛せないでは片手落ちになるよ、そのぐらい人間が人間を想い続けるには広い視野角と高い密度が必要なんだ、そんな事を耳打ちするように思う。



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