2018年8月10日金曜日

“どのような立ち位置に”~隠しどころ~(4)


 十分な取材をせずに執筆し、けれど、あとがきには「モデルは、かの石井隆」と大書きする。あげく現実から乖離した風景を物語中に羅列して、石井の読者をひどく惑わせた栗本薫の小説「ナイトアンドデイ」。これについては先日、私見にはなるけれど縷々(るる)綴っている。幾つかの箇所に反証を試みたわけだが、そのときにあえて取り上げなかった一節がある。こんなくだりだ。

「そして何気なく手の中のものをみて目をむいた。(中略)白い紙の上に、画面いっぱいに、女が大股をひろげていた。白昼──という時間でもなかったが、とにかく人目のあるところで、大っぴらにひろげられるしろものではなかった。画面のまん中にひろげられた股間には、それこそひだの一つ一つ、毛の一本一本までが、恐しく偏執狂じみた細密さでもって、描きこまれていたのである。何だか、頭をぼかんといきなりうしろから殴られたような衝撃があった。」(*1)

 「ナイトアンドデイ」は最初から最後までひとりの若者の視座で描かれる。とある夏の日に、よく行く喫茶店「ルージュ」で漫画家と出会う。道に落ちた紙片を拾い上げて前をゆく漫画家に手渡したことが言葉を交わすきっかけなのだが、その際に手にしたスケッチのおもてに在ったのは大きく股を開いたおんな、それも克明に陰部が描かれた姿であった。若者はびっくり仰天し、目の前に立つ男が自分とは異種の存在だと認識する。そのような幕開きだった。

 最初に読んだとき、目の奥で閃光みたいなものが揺らめいた。「頭をぼかんといきなりうしろから殴られたような衝撃」と文中あるが、それはむしろこっちが言いたい事だ。どうしたらこんな連想が出来るのか不思議でならなかった。栗本は言葉を注ぎこんで視覚に訴え、読者を扇情すべく骨を折って見える。それは違う、歩み寄る方角が真逆だと思う。

 何かしら異議を唱えないといけないと焦りながらも、横目でちらちら窺うままで正対することを避けてきたのは、反論する目的であれ何であれ、自ら栗本の術策に乗って性的な話題へと流されては危ういかな、と警戒心が湧いたからだ。寝た子を起こすのじゃないか、かえって石井作品への誤解の種を世間に蒔いてしまう可能性を怖れた。

 縮約し過ぎかもしれないけれど、「石井隆の世界」というものは相反する意識が常に折り重なっている。売春窟や異常性欲といったいかがわしき舞台や快楽の黒い波に獲り込まれてしまい、はげしく変容を遂げる肉体なり表情が往々にして描かれるが、そういった表層部分の詳述と並んで、徹底して醒めきった硬質のものが奥の席にでんと居座っている。

 木の葉や枝で埋め尽くされた山道に似ている。足裏に豊かな厚みを感じ、ひとたびこれを意識すれば、途端に厖大にしてかぐわしき香りが地表から舞い立って肺腑を満たしていく。やわらかく敷きつめられた枝葉のひとつひとつが石井の思念だ。一見それらは物語を構築する上で打ち捨てたもの、“ゆずり葉”めいて目に映るが、決して消滅などしていない。裸体という森の総体を見えないかたちで思慮や倫理観の堆積が支えている。その色とりどりの多層性こそが石井の作る劇の血髄じゃないか。

 横たわる肉体を前にして茫洋と手応えのないまま、幽鬼のごとく佇立するおんなや男がいる。本音はまるで望んでいないのに、状況を変えたい一心でやむなく肉感的にならざるを得ない人間がいる。『夜がまた来る』(1994)の椎名結平のように、『甘い鞭』(2013)の壇蜜のように。官能から逸脱して冷却しまくる心底(しんてい)が、劇の足元にかならず息づいている。ひそやかな逡巡がゆらめき立ち、その末の自己破壊やある種の内的闘争の一瞬が粘り強く描かれる。

 身体と魂、外面と内面の両輪が常にぐるぐると回り続ける。両極にあるふたつの側面が螺旋となって付かず離れずの昇降を繰り返す。そんな絶え間ない二重性が常にあるのであって、そこのところに慎重に、平衡を保ちつつゆるゆると触れることが石井作品を論述する際には大切と感じる。

 ところが誤解と妄想に基づいた栗本の先の文章は、おんなの表層に関する記述を無闇に連ねて、どんどん皮膚に目線が貼りつくばかりでバランスが完全に崩れている。こころを置いてけぼりにして石井隆の劇は語れないのに。

 いつしか若者は自宅兼作業場であるアパートの部屋に出入りしてアシスタントの真似事をするようになるのだけど、漫画家の原稿は一本調子であり、陰部にえらく執着(しゅうじゃく)するのだった。栗本はおんなの特定部位につき、しきりに形容をほどこして若者と私たち読み手を煽っていく。どうしてここまで煽るのか首をかしげてしまう。創作だし娯楽作なんだから、話術の一環と思わなくはないけれど、冷静に振り返ると妙にざらつく照り返しと手触りがある。さらに書き写してみよう。

「「で、でもいいのかしら、こんなところまで描いちゃって」ぼくは照れかくしを口走った。「ダメですよ」「え?」「全部、あとで、編集部がホワイトか墨でそこを消してます。ほら」(中略)──佐崎さんの絵があった。たしかに、大股をひろげた女体から、佐崎さんが異様な執念をこめて描き込んであったらしい部分はきれいに白くつぶされて姿をけし、そのせいで、苦悶の表情でそりかえった女は何となく間がぬけてみえた。」(*2)

「佐崎さんに手わたされる、大股びらきの女の、髪や背景を黒くぬりつぶしながらそのまん中に口をあけた精密画をじっとにらんでいると、何となく、あまりにもすべてが非現実だ、という思いにとらわれ──また、そこにぱっくりと口をあけているものが、何ともおぞましい、ぬめぬめしたなまこか、なめくじのたぐいの化け物にみえてきて、二度とそんなものに欲望をもつことなどない、という気になることもあった。」(*3)

 後述するけれど明らかに佐崎のタッチは石井隆のそれではない。では、ならば一体この極端な性器への愛着は何であるのか。また、これ等の描写が石井とはかけ離れているならば、石井隆という絵師はどのような立ち位置にいると捉えるべきなのか。水底に錨(いかり)を下ろして、しばし考えてみたい。

(*1):「別冊文藝春秋 161特別号」 文藝春秋 1982年10月1日発行 251頁
(*2): 同 255-256頁
(*3): 同 263頁

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