2017年10月8日日曜日

“褥(しとね)の作家”~【魔樂】推想(4)~


 劇中登場する殺人鬼の特異な装束、すなわち真っ黒な全頭マスクの中央部に居座る四つ目のゴーグルは、「見るとはなにか」「愛するとはどういうことなのか」という問い掛けを妖しく放射しており、それは【魔樂】(1986)の主題を顕現させた石井隆の発明であった、と先に書いた。この点において【魔樂】は、極めて社会的な活劇と言える。特定の狂人を扱った話ではなく、相互理解と「見るとはなにか」を通じて苦悩し彷徨う人間全般の肖像なのだ。酸鼻を極める殺人儀式を目の当たりにして読者は圧倒され、思考をぼんやりと停止してしまいがちだけれど、石井は私たちを取り巻く現実世界の宿痾を浮き彫りにしようと試みる。

 相手に共感することに無理を覚えて消沈してみたり、はたまた、まだ見ぬ分身を追い求めてひどく煩悶する。誤解や反撥は日常茶飯に起きていき、そこに派生する哀しみや苦痛を私たちは常に感じているが、そんな原初的な苦悩が【魔樂】には巣食っている。発表から三十年を経ていながら今もって力があるのは、状況がまったく好転していないからだ。携帯端末が普及した訳だけれど、物狂おしい希求ばかりが体内に膨張して、折り合いをつけたり捨て場を探すのにいつも困っている。私たちは死ぬまで、この渋滞感なり迷路めく気分から脱することは難しいかもしれない。

 【魔樂】がいかに社会的な物語を目指したかは、その生成過程を振り返れば容易に理解出来る。山奥のモーテルで管理人の男が殺害を繰り返す先述の【魔奴】(1978)のスタイルが【魔樂】の下敷きとなっているのは確かだが、単に【魔奴】の浮世離れした世界観のみを鍛錬して仕上げた訳ではない。1983年前後に石井は目線を家庭の主婦に据えた短篇をまとめて世に送り出しているのだが、この一群の舞台となる住宅が【魔樂】の主人公家族のそれと同一である点は、同作の生い立ちと方向性につき熟考する上でまな板から外せない。

 たとえばその中の一篇【見知らぬわたし】(1983)では、子供とサラリーマンの夫を朝送り出した主婦が突然に侵入した賊に襲われてしまう。抵抗むなしく身体を奪われた上、後日電話で脅迫を受け呼び出され、幾度か求めに応じるうちに気持ちのなかに微かな変調を来たしていくのだった。朝食の席での夫や子供の声が遠くに、曇った背景へと急激に後退していき、日常光景に亀裂が生じている。「見るとはなにか」「愛するとはどういうことなのか」という疑問が主婦を縛りはじめる。

 もちろん【魔樂】と【見知らぬわたし】とはまったく別々の物語であるのだけれど、同一の住宅、ほぼ同じアングルでの朝食の風景、極めて似た家族構成、毎日なんだか分からぬ理由で遅く帰ってくる夫、面貌をひとつにするおんなの存在という設定が両者をつよく共振させ、合わせ鏡となって起動するところがある。

 【魔樂】においては視座をおんなから男に替えている。同じ一軒屋の玄関から毎朝出て行く側に作者の思念は組み込まれる。ばたんと扉が締まり、妻が鼻歌をうたいながら掃除機を使い出す気配を背後に感じながら、男は会社にむけて歩き出すのだが、もしもそこに【魔奴】並みの途轍もない孤独や膨張した希求、「見るとはなにか」を追い求める烈しい関心が宿ってしまったら、果たして男はどこまで突き進むのだろうかと石井は考えた。

 結果「ひとつ家」と「住宅」が並行して置かれた。それが【魔樂】という世界の茫漠たる地平線なのだ。映画『天使のはらわた』シリーズのシナリオ作りにも似た石井らしい柔軟なエピソードの連結が為されており、一気に物語のすそ野が広がった。作品と作品を別個に羅列するのではなく、各作品から無数の繊維を四方八方へと拡げて銘々を結んでいくのが石井の作劇の基本である以上、そんな作劇の経緯なり発展を想像することに一切の無理を感じない。

 さて、【見知らぬわたし】が愛情をもとめる家庭人の衝迫を描いていたのだとしたら、【魔樂】も同じ性質を抱かされた作品と捉えるべきだが、家庭人の住み処となるあの家に何が描かれていたものだろうか。【魔樂】を読むとき、どうしても殺戮の舞台となる廃屋ばかりを取り上げてしまうけれど、もしかしたら肝心なのは住まいの方ではなかろうか。

 目を凝らして見ていくとこれがなかなか面白い。長年石井作品を読み解く愉悦にひたって来た者にとって、【魔樂】というのは実は“不自然”に次ぐ“不自然”、奇妙な顔立ちばかりの作品なのだけど、そこが分からないままで整理がつかないでいる読者も多いだろう。

 たとえば朝食の場で夫婦間にて為される会話やその表情を追うカットバックというのは、一見安穏とした日常が描かれて見えるが実はそうではない。いきなり小津安二郎の映画が誤って編集されたような頓狂な風合いがある。石井の世界観との統一が取れず、きな臭い不穏は空気が漂ってくる。文法が意図的に乱されている。

 極めつけは夫婦の寝室の場面であり、これは何度か強調されて描かれてもいるのだが、揃って天井を向いて眠りについていく男女の姿というのは石井劇画的にはやはり“不自然”な形となっている。

 表面上の夫婦仲は決して悪くはなく、身体を重ねる夜もあるのだけれど、このふたりして仰向けに眠る夫婦像というのは途轍もない衝撃があり、見過ごせない不自然な絵柄となっている。フランスのサン・ドニにある聖堂には往時の貴族たちの墓が在るが、その石づくりの棺の蓋には彼ら死者たちの生前の姿が実物大の全身像としてそれぞれ彫刻されている。多くが礼儀正しく真っ直ぐに仰向けになり、夫婦の場合は棺が並行に置かれて揃って天を向いて横たわる。【魔樂】の寝室の場景はまさにあれとそっくりであり、夫婦の関係が石のように硬直しつつある事を私たちに指し示している。

 何を言ってやがる、それが普通だろ、我が家だって「おやすみ」って電気スタンド消してふたりして天井向いてぐーすか寝てるよ、おまえ考え過ぎだよ、と笑う人もいるだろうが、いまは石井隆の劇づくりに絞り込んで話している。

 たとえば、会社の後輩と一夜を共にすることになるレズビアンのおんなの孤愁をスケッチ風に描いた【赤い夜】(1985)のコマをここで並べ置けば、単に眠りにつくという簡単な行為にさえ石井が想像を絶する集中力で気を配り、カップルの身体の向きや傾け具合を微調整していることが読み取れるだろう。石井隆を“褥(しとね)の作家”と呼び表わすことが出来るようにわたしは考えるが、そこで描かれるのは単なる肉体の接合図ではなく、魂の交接やその逆の離反が主体であって、単純な春画とはなっていない。ミリ単位の闘いが続けられている。【魔樂】の寝室の場景はその点、静謐と安穏を表面上装いながらも、その実はさながら自家中毒で瀕死の体であって、かなり深刻な局面である。

 非言語的コミュニケーションを駆使する術を怠り、器だけが残されて形骸化した挙句にグループを形成する個としての人間が軋み出す構図が【魔樂】と【見知らぬわたし】に代表される女性視点の一群の劇に共通する。【魔樂】が中断せずにあのまま連載が続いていけば、もしかしたら陽子と名付けられた殺人鬼の妻の身にも魔の刻が訪れていたかもしれないのだし、そこまで露骨な展開はされなかったにしても、先行する劇を含めたその総体をもって、石井隆は彼なりのスタイル、死に臨む“ホームドラマ”を立ち上げて世に問うているのは間違いない。

 後年石井は寝室や寝具を大量の血で染める映画をいくつも送り出し、世界を驚嘆させていくことになるのだが、それらと【魔樂】とは根茎を同じくする幹であり花であるのであって、乱暴に切り分けることは誤りだと思う。石井世界に興味惹かれる人は勇気を出して書棚に手を伸ばし、その血みどろの向うにある「救い」を感じ取ってもらいたいと願う。





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