2017年5月16日火曜日

"ひとつ家”(3)


 粘つく糸を吐いて巣ごもる女郎蜘蛛さながら、野なかの一軒家で老いた女獲物を待ち構え、生臭い唾を口から垂らしている。近付く足音に小躍りし、中に招き入れては深夜殺害に及ぶ。そんな“鬼婆”奇譚について、めまぐるしい変遷が背景に在ることを書物から教わった。欲張ってあと少しだけ考えを深めたい気がして、かなり古い本になるのだけど該当箇所を探し読む。昭和の初めに出された「原始母神論」という書物で、私たちの遠い先祖がこころ奪われ、生活や祭りの軸芯に据えていただろう地母神について語る内容だった。(*1)

 著者である出口米吉という人はまるで知らなかったが、東西の膨大な数の伝説と宗教の深い知識を蓄え、それらを連結して自由闊達に説を展開する調子が面白く、ぱらぱらとめくっているだけでも楽しかった。たとえば鬼婆とインドの神々の共通性、鬼女の出現と天候の急変、山岳信仰との結び付き、といった具合にどこまでも連鎖していく。寄せては返す波のように思考がうねり、時おりきらりきらりと発光する具合であって、全くとんでもない人がいたものだと驚かされる。

 以下は鬼婆に関する段で出口が記した特に印象深いくだりだ。元々が相当前の文章で読みづらい。今は使われていない漢字が大量に並んでいるものだから、そこでいちいち躓(つまづ)いて歩調が乱れる。勝手ながら今風に何箇所かを変換し、一部には読みがなを加えた上で書き写してみた。

「武蔵北足立郡大宮駅の森の中にも、また岩代国安達郡大手村にも居たという黒塚の鬼婆も、これまた等しく神母系統の姥(うば)であったらしい。姥が胎児を好み、妊婦を見ればその腹を割いて胎児を食したという話、大手村の鬼婆のために殺されんとした紀州熊野の東光坊祐慶の笈(おい)の中に収められてあったという如意輪観音(にょいりんかんのん)の像が、今は黒塚の附近の真弓山観音寺(*2)に安置されて、安産に霊験があるといわれる話、(日本宗教風俗志) 東光坊が鬼婆に追われてまさに害されんとした時に、観世音の像が破魔弓に金剛の矢をつがいて、矢つぎ早に婆を射たもうたと伝ふる話のごときは、神母崇拝の特色を、なお幾分保留するものである。

子を愛護する神母の系統を引く姥神のたぐいが、子を殺し子を食うの残忍な所業をあえてすると考えられるに至るは、はなはだ奇異な思想上の変化といわねばならぬ。もし文化が進展せずにして、常に同一のところに停頓し、古代の信仰がそのままに後代に存続したならば、もちろんその間にさほどに極端なる変化が生じるはずがない。されど思想は常に進歩し変遷しつつあるがゆえに、古い思想は絶えず後に残されて、次第に民衆と縁の遠いものとなりつつあるのである。宗教上の神もこれと同様で、始めに人類に対して最親善であったものが、思想の変遷につれてその関係が漸次に疎遠となり、遂にはその性質が不明となりて、反対に人類の敵と解され、悪魔として恐怖せられることは珍しくない。これは神霊尊崇(そんすう・そんそう)の観念にともなう畏懼(いく)の情の作用によることもあれば、また他より侵入した新宗教が旧信仰を排斥せんが為に、在来の神を悪魔扱いすることもよりも起こる。」(*3)

 後段部分は直接鬼婆のことを語っているものではない。歳月をかけて徐々に手を加えられる物は、その変化が見えにくい。ほんのわずかの時間しか生きられない私たちには感知されない巨大な変転というものがこの世にはある、と出口は警告している。残虐な“神々の交替劇”がある事を語っているのだが、もしかしたら鬼婆という怪物のはじまりが“最親善”の地母神であった可能性もほのかに透視してみせるのであって、その発想はまったく予想外で息を呑んだ。

 先の読書で鬼婆伝説とは、肉襦袢を無理矢理に着せられて実体とはほとんどかけ離れた創作劇であって、当初の噂話の類いは峠道に出没する追い剥ぎ程度のものと知ったのだけれど、この「原始母神論」という本ではさらに時間を太古までさかのぼり、犯罪行為自体が誤ったイメージであって、もしかしたら聖なる存在だった地母神が後続の新手の神々から蹴落とされ、無理矢理に鬼面を付けさせられた結果ではないか、そんな汚濁にまみれた道筋だって有り得ることを示している。

 正邪の逆転劇の末路を私たちは目撃し、知らず知らずのうちに侵入者側に回って酷い仕打ちに加担しているのではないか。とぐろ巻く偏見に丸呑みされた衆愚にいつしか交ざり、石を拾い、逃げ惑うおんなの背中に投げつけてはいないか。おまえの見ている現実は本物か、判断に狂いはないか、そのように諭す声が聞こえる。常識を突き破る真摯なまなざしが、九十年近い歳月を越えて頁の奥から投射される。

(*1):「原始母神論」 出口米吉  武蔵野書院 1928 
(*2):真弓山観世寺(かんぜじ)の誤植か
(*3):293-295頁

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