2016年7月31日日曜日

“サバイバーズ・ギルト”


 かつて栄華を誇った領主とその一族の霊廟を訪ねた。俗世間から隔絶した山の中腹に位置し、参道脇の夏草が緑あざやかに茂っている。杉木立の太い幹には蔦漆(つたうるし)が盛んに絡んで、ぐるぐると螺旋を描いて空を目指していた。自分の住まう地域とは違った景色で面白く、ずいぶんと温かい街なのだと再認識する。

 草木が活性している分、ようやく辿り着いた廟の方はちょっと気圧される具合であって、想像よりちんまりして見えた。何とはなしに淋しいのは本殿の扉が固く閉ざされたままだからで、遮蔽された視線が行き場を失って宙をさまようせいだ。無表情の書庫という連想がしきりにした。衆生の身で何を言っても始まらないが、どうやら此処は魂の交信を夢見るところではない。

 唯一視線が滞空したのは、黒塗りの本殿の脇にたたずむ雨ざらしの石塔であって、数は十基以上に及ぶ。据えられた説明板を読むまでもなく、すぐに洵死者の墓と分かった。彼らの視線は主君の眠る本殿へときつく縛られたままで、私たちなどまったく眼中になさそうだけれど、その生前最後の日々を透視すれば途端に石の表面に粘り気の有るものが付着して感じられ、血の臭いと寒気を覚えた。

 さすがに現代では殉ずるに値する主君など見当らぬが、肉親なり異性を愛し過ぎて頭が変になる事は誰にだってある。その苦悶の涯てに待ちうける終局は如何なるものか。昔もいまも幽明の境越しに綱引き合戦が繰り返され、身罷った者をはげしく追慕するあまり、自らの手で命を絶ってしまう者がいるのだし、その逆に死者が生者のかたわらに舞い戻り、蜘蛛が羽虫をからめ捕る具合にして冥界へと連れ去ったりもする。後者については主に映画や演劇で目にするしかないけれど、正しい正しくないといった尺度は通用せぬ妖しい命の往還が私たちの周りには散りばめられる。

 彼ら昔日の渡河者の末路そのままの道を私たちがこれから歩まないと、いったい誰がどうして断言出来よう。当たるかどうかは分からぬが他人の為した行いは、どれもが予言みたいなものだ。いのち尽きるその瞬間まで固唾を飲んで辺りを見渡し、ひたすら即興劇の出番を待つより仕方ないのだ。

 石井隆の作品はこの点どうだったかを振り返ると、多くが生の充溢を手探るうちに迂闊にも死の棘に触れてしまい、抜き差しならなくなる顛末であって、まさに綱引き合戦のフィールドに踏み入った観を呈するのだが、劇中人物の川越えの様子をつぶさに見ていけば、無謀すぎる行ない、つまりは“自殺的行為”こそ見られるものの、思いのほか直接的な自死という終幕を持たないのだし、霊に憑りつかれて頓死を遂げる明確な表現も見られない。殉死、後追い、破滅的心中といった自らの手によるところの幕引きはあまり見当たらない。

 長年に渡って石井世界を見つめて来た人は多分ここらで首をひねるはずだ。劇画にはタナトス四部作があるのだし、【雨のエトランゼ】(1979)の名美もいる。そこから派生した幾たりもの投身者はどうするつもりだ、おいおい、ふざけるなよ、海の底に消えていった『ヌードの夜』(1993)の余貴美子だって居るじゃないの、だいたい『GONIN2』(1996)冒頭の多岐川裕美の明らかな形をおまえはどう見るのよ。

 言われてみればなるほど相違ないが、前にも書いた気がするけれど石井隆の劇の基調というのは自壊する刹那に強く閃光を発する生命力であるとか、墜ちようのない処まで墜ちた末にいよいよ発生する浮力といった、本来あえかなるものを渾身の筆づかいで描こうとするのであって、ひたすら墜ちた先に広がる暗黒の奈落を目的地と定めてはいない。

 たとえば『GONIN』(1995)の閉幕にて愛する者を喪い、寄る辺なき身となって高速道を遡上するビートたけしと本木雅弘が、虚ろなまなざしを互いに注ぎつつ銃弾を放ち、相撃ちとなって椅子に沈んでいっても、あのとき、彼らの待ち望む終着点は死そのものであったとはなかなか断じ得ない。最終的に両者の生体活動は全停止するのだけれど、希望叶ってそうなったかと言えばそれはどうも手ざわりが違う

 また、『甘い鞭』(2013)で袋小路に陥った壇蜜に対し、遂に面前に佇んでみせた若い時分の己の姿、つまりは黄泉の使者ドッペルゲンガーたる間宮夕貴へと向かってぬめ光る凶刃を握り締めながらようやっと歩み寄る場面がある。こりゃ間違いなく刺すな、自死をもって魂の幽閉を解くより道は残されていないのだな、と観客が半ば諦めて凝視する中でまさかの奇蹟が噴出し、寸でのところで終局を回避するあたり、間違いなく石井の死生観には自死行為を良しとしない一種独特の闘いのポーズが根付いている。無尽蔵の死を描きながらも誰もが死を目指していない、という特殊なスタイルであって、石井隆を語る上でこの点は大切なところだ。

 なんでくだくだしくこんな話をしているかと言えば、私の奥で近作『GONINサーガ』(2015)が今もって木霊を響かせるからだ。柄本祐が演じる森澤という名の警官が気になっている。物語が進むにつれて男の過去が明らかとなっていくのだが、十九年前の雨の大殺戮の現場で夫を喪ったおんな、つまりは森澤の母親は、追慕する余り事件から一年後に練炭による親子心中を企てる。おんなは亡くなるが、物語の回転軸となる息子の方は生き残ったという設定である。殉死の否定という刻印が思い切り押されている。
      
 前作『GONIN』と姉妹篇の『GONIN2』(1996)のスタイルを踏襲した群像劇として『GONINサーガ』は綿密に綾織られたのだったけれど、前作の劇中人物の係累(子供たち)を主役に据えたことにより、母と子のペアが次々に増殖して収拾が付かなくなった。物語をすっきりと見せるための剪定を石井は強いられてしまい、練炭自殺という手っ取り早い手段を使って頭数を削ったのだ、という解釈も当然成り立たなくはない。しかし、これまで石井の劇を観続けた者としては別の波長が放たれて見える。

 石井世界において心中はゼロではないが、燎原の火ほどの勢いはない。むしろ稀有な出来事に数えられる。それだから直ぐに結線を果たす次第なのだが、石井は森澤というキャラクターに【天使のはらわた】(1978)の川島の遺伝子を注入していないか。川島の母親は深く思い悩んで、娘の恵子を道づれにして鉄道自殺を図るのだった。異常を察した恵子はぎりぎりのところで線路脇に逃げ、母親だけが轢死してしまうのだが、生き延びたその事が負い目となって兄と妹のその後を苦しめる。

 【天使のはらわた】の川島哲郎という男は同じく哲郎という名を持った村木の前身であるから、実質的に森澤には村木的な面立ちや思考が宿されたと了解すべきだ。役者の細い顎やすべっとした肌、繊細そうな髪の質感や流れ具合と私たちの内側に定着した村木像とがなかなか重ならず、ついつい見逃してしまう点なのだが、彼を村木と捉え直して『GONINサーガ』を見返せば、さまざまな場面が息を盛り返し、馥郁とした香りを発し始める。

 素性を隠して暴力組織に潜入する『夜がまた来る』(1994)の村木像が再現されるのだし、日陰で声をひそめて暮らす女性を訪ね、真摯に耳を傾けていくフリーのライターとしての『天使のはらわた 名美』(1979)等の村木のいでたちな訳であって、風体と役割の多重性から言っても、石井が森澤に託す想いというのは相当の比重であった。村木役者の代表格である根津甚八が不自由な身体を押して再戦し、満身創痍のその身を横たえる病室ベッドのかたわらに村木の系譜の森澤が寄り添い続けたことは、構図的にも物語的にもさらに密度を上げるところがあって、つくづく凄味ある次元をかたち作っていた。

 根津甚八の現実と役どころが共振し、それをもう一人の村木がサバイバーズ・ギルトに軋んで悲鳴をあげる背中を丸めて見下ろしている。この病室の描写を物語の単なる中継地点と見るのではなく、石井世界を横断投射する幾筋もの光が結像した一瞬と捉えることは可能と思うし、むしろ自然であるだろう。

 『GONINサーガ』は登場人物がことごとく死に絶える大団円を迎えるが、そこには病的な鬱血は認められず、どこか清清しい血潮が巡っていた。愛する存在に先立たれようとも、苦境に息が上がるとも、目指すゴールを死とは定めずに生きられるだけ懸命に生きていく。墓標の下に眠ろうといまだ欲せず、地面を蹴って歩みを開始するのが石井隆であり、その子供たちであって、詰まるところ石井の創作を貫くものは「不死性」とも言えるだろう。







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