2016年3月10日木曜日

“哀悼傷身・樹上葬・台上葬”


 石井隆の劇にはどことなく硬質な佇まい、眼窩周りにきゅっと力がこもる生真面目さが宿る。人によってはこれを“倫理的”と称してみせ、なんて的を射てきれいな指摘と舌を巻いた。語彙の足らない私はぐずぐずと吃るばかりで決着に至らず、言霊(ことだま)の山野を今日もまた歩き回っている。石井世界のコアとは何か、石井隆とは何を成す者か。焦りやもどかしさに囚われるせいか脳内回線は開きっ放しで、日常のありとあらゆる事象でもって結線を試みてしまう。

 仕事や飲食、勉強に読書、公私問わずささやかな所作や媒体を通じて、幽かな火花が発せられる時があるから嬉しい。古い墓所を目にすれば自ずと劇中の地下空間へと想いが馳せていくし、これまで気付かなかったディテールに焦点が移っていく。大概は思い過ごしだけど、石井世界はそれさえ受け止めて揺るがず、むしろ奥行きを増して見える。遺跡の歴史や構造を専門書に手探れば、そこにも火焔があがり道を照らすのであって、たとえば、先日の読書中に突き当たった“哀悼傷身(あいとうしょうしん)”という字面を前にして不意に泡立つものがあった。

 時おり石井の劇には自傷行為が描かれる。読み手側にとっては胸えぐられる場面で、粛然とした舞台空間に導かれる訳だが、置かれた足場はどれもが同じ高さではない。そこに至る成り行きには何か得体の知れない部分が潜んで感じられ、しっくり来る表現が見当たらずに悶々と過ごしてしまう回も雑じってくる。そうか、あれは哀悼傷身であったか、そのように捉え直せば今になって随分と落ち着くところが実際あるのだ。

 辞書検索で調べると、次のように在る。「哀悼の意あるいは服喪を表現するために,自己の身体の一部を傷つける習俗をさす。その方法としては歯を抜く(ポリネシア,中国のケラオ族),指を切り落とす(ニューギニア,メラネシア,ポリネシア)などの例もあるが,世界的に広く分布しているのは,顔や身体に傷をつけることや,髪を切ることであって,ユーラシア,アメリカ,アフリカ,オセアニアに広がっていた。断髪は一般的に言って傷身の緩和された形式と言えよう。哀悼傷身はユーラシアとポリネシアでは王侯や夫の死に際し,臣下や妻が行い,殉死の代用的な性格が強いが,南アメリカでは階級分化のみられない未開農耕民や狩猟民が行っていて,浄めの機能をもつといわれる。」(*1)

 私が新たに手にした大林太良(たりょう)著「葬制の起源」(*2)によれば、哀悼傷身は徐々に儀礼化、様式化、また肥大化し、意に沿わぬ者を強制的に傷つけたり膨大な洵死者を作る悪循環も出て、やがて権力者側が禁じたり自然と廃れていったらしい。この日本国ですら断髪(つまり出家)ではなく、壮絶な自傷のしきたりが世に蔓延した時期があった事が記録からも読み取れる。いずれにしても過去の習わしのひとつだ。

 【デット・ニュー・レイコ】(1990)のような一部を除けば、石井の劇はおしなべて現代の街が舞台である訳だから、古色蒼然とした語句をここで引き合いに出して解読を図るのは奇異に映るだろうけれど、たとえば劇画【天使のはらわた】(1978)の第三部において、幼なじみを手にかけた主人公の川島哲郎が、友の形見の櫛(くし)でもっておのれの手首をグズズーッ、ズッと傷つけていくくだりであるとか、『花と蛇2 パリ/静子』(2005)の幕引きで、夫を喪った杉本彩が延々と自らの背中を鞭打つ場面であるとか、それ等自傷の現場に巣食う物悲しさ、重い旋律というものは、まさに“哀悼傷身”という表現のみが適当であって他の形容では隙間が埋まらない。
 
 彼ら自傷する者たちが烈しい自責の念に苛まれているのは違いないのだけれど、捨て鉢になっての自罰、自死願望、ありがちな破滅型の造形といった黒い轍(わだち)に足を取られた訳ではなく、温かい血が脈打ち、一種超然たる境地に置かれている点を読み手は注視して良いだろう。変な例えだけれど、背を正しての自傷行為がそこでは繰り広げられている。彼らは生き残ったこと、生き延びることを否定してはおらないのであって、破壊と前進の両面性が絶えず付帯する点は見逃せない。
 
 『夜がまた来る』(1994)での村木(根津甚八)の指詰め、『甘い鞭』(2013)での主人公のSM世界への拘泥には各々それらしき理由づけはあるのだが、これを哀悼傷身の一環と捉え直せばもはや奇抜でも頓狂でもない。古代の儀式は世に消失して久しいが、その根底にあった本能の蠢き、原初的な人間の雄叫びや悲憤と同類のものが劇中に挿し入れられて有る。石井の作劇らしい、表の理屈と裏に潜む真情の重奏。弾みのついた跳躍が認められる。

 同じく大林の書中には、我が国ではあまり見られない葬送の奇習が紹介されているのだけど、地上から離れた場所に死者を横臥もしくは縛りつけ、遺骸の散逸を防ぎながら内臓や体液の腐敗、乾燥を完遂させて、肉体と魂が最終的に再生されることを祈念する“樹上葬”や“台上葬”についても語られている。これなども石井の劇に顕著に現われる“高層階の地獄”といくらか重なって感じられ、私には大きな刺激があった。

(*1): コトバンク 世界大百科事典 第2版
(*2):「葬制の起源」 大林太良 中公文庫 中央公論社 1997


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