2015年10月22日木曜日

“蝉のはなし”


 インタビュウで石井自身が明言しているから構わないと思うが、『GONIN』(1995)、および『GONINサーガ』(2015)における蝿(はえ)の描写は“魂の転生”に関わっている。小泉八雲が同様の伝承を記録に留めたことは、以前この場に書かせてもらった。(*1)

 このところ幽霊とか、ろくろ首についての書籍を続けざまに読むうちに、実はこういった転生譚が世界には無数にあって、それも彩り豊かなことを知る。高峰博という人の『傳説心理  幽靈とおばけ』(洛陽堂 1919)では、上田秋成「雨月物語」の「夢應(むおう)の鯉魚」を取り上げ、さらには東西の民間伝承、旅行記などをいくつも並べ置いて、霊魂が動物に化身したり、おぼろな火球(“たましい”という呼称は“たまし火”から来ているとのこと)といったものが口や鼻の穴から抜け出て、ゆらゆらと彷徨う様子を伝えている。まとめた文を書き写すとこんな具合だ。

「是の如き霊魂出遊の思想は、上述の通り、各民族に存し、随って、或は蠅、或は土蜂、蛇や蜥蜴、鼬、鼠、蟋蟀、鴉、鯉となり、其の他、セルビア人は妖巫が睡魂の胡蝶化を信じ、乃至、虎となり、大蛇となる話等、実に千差萬別である。」(動物形の魂魄 307頁)

 驚いた、蠅どころではない。トカゲやカラス、いたちやネズミにさえ、人間の魂は転生するものらしい。降雨や水たまり、一陣の風、はためく布地といったものに詩情をこえた妖しい鼓動を見止め、アニミズム色が濃厚な、古代から連綿と続く祝祭空間にでも引き込まれた心地となる場面が石井隆の作品には散見されるのだけれど、こうして地球規模の動物転生の記録とこれに準じた『GONIN』での映像表現を重ね見ると、石井の劇というのは国という枠を軽々と突き破った物であり、つまりは“人間の劇”という思いが湧いてくる。邦画を観ている気がしない、そんな芳醇な香味に酔うのは当然と言えば当然だ。

 転生といえば、以前こんな事があった。親戚が亡くなったとの報せが真夜中に入る。病院は車で数分の距離であったから、直ぐに着替えて駆けつけた。自律呼吸をしてはいたが、意識ないままの療養が随分と長かった。誰もが覚悟していたのだったが、それでも寂然たる思いに包まれる。

 静まり返った建屋の末端に霊安室があって、家族のほとんどは故人の迎え入れの準備に自宅に戻っていた。短い間だけであったが、一切の動きなく横臥する肉体と、その長男、そして私だけが薄暗い小部屋に残った。体温との隙間が分からない、暑くもなく涼しくもない夜だった。風はそよとも動かず、厚みのある闇に満たされていた。

 会話もなく、白い布にすっぽり包まれた身体を見下ろし、其処に居るためだけに居る。微かなまどろみに襲われながら、パイプ椅子に腰掛ける傍らの長男の様子をそっと見遣る。大分前に母親を送りはしたが、必ずしも経験が力となる局面ではない。これから数日間、いや、数年間、家長として様ざまな決断を強いられ、挨拶と打ち合わせに忙殺されるに違いない。誰も替わってはくれず、つくづく重い役回りと思う。

 そんな時だった、開いた窓から不意に蝉(せみ)が飛び込んで来て、寝台の上でせわしく旋回した末に壁沿いに着地した。ジジッと一声、つよく鳴いたのだった。ふたりして驚き、一呼吸した後で「ああ、蝉に生まれ変わったのか」と、潤んだ声を長男は漏らした。

 私はこれに応じず、悲愁に囚われた彼に代わってどうにかしないといけないと考えた。老人の転生した姿が仮に蝉だったとして、一体どうすることが出来ようか。家に連れて帰るのか、一緒に寝起きして過ごすのか。早晩、蝉は息絶えるに決まっているのだ。それは何者の死なのか、それをどう解釈したら良いのか。

 家族が戻って、床にうずくまる虫をめぐって会話が為されるのは場にそぐわないし、そこで意見の衝突が起きるのは見たくなかった。一方が信じ、一方がそれを笑うのは辛い場面だ。逃がさぬようにゆっくりと両手でくるむと、部屋を出て廊下の突き当たりから外に出る。植え込みの松の幹につかまらせようとしたが、ぱたぱたと羽音高く飛び上がり、遠くの街路灯の方角に消えてしまった。

 闇のなかで煌々とそこだけまばゆい霊安室を、きっと太陽と見誤り、蝉は飛び込んで来たに過ぎないのだが、今にして思えばこれを亡き親の転生と信じたひとの胸中がよく分かり、あんなに急いで連れ出すまでもなかったと悔やまれる。そうして思うのは、死という抗いがたい瞬間に、人は魂の存在や生まれ変わりを確かに信じられるのであって、その事は極めてリアルで誠実な、哀しみに包まれた人間のごくごく自然な反射なのだ。

 私があの時に揺らがなかったのは、直系の家族でなく喪失感が浅かったからであって、立場が違えばきっと虫の飛来という偶然に奇蹟を見出し、心身ともに縋(すが)り付いたに違いない。いや、一概にこころの迷いと決め付けるのは乱暴じゃないか、もしかしたら、本当に奇蹟だったのかもしれない。情の薄い、冷血な自分が気付かないだけじゃないか。そんな気持ちに今はなっている。

 『GONIN』および『GONINサーガ』で魂の転生を描いた石井隆は、哀しみを抱き続けている人だと思う。死という抗いがたい運命を考え続け、ぐらぐらと揺れ続けていなければ、ここまで強く魂の存在や生まれ変わりを描き続けられまい。誠実でなければ、ここまで生命の境界にこだわれないだろう。娯楽提供の場において、素の自分、胸の奥の洞窟を斯くも厳然と投影させていく作家は稀有ではなかろうか。

(*1): “蝿のはなし”http://grotta-birds.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html

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