2014年10月4日土曜日

「曽根中生自伝 人は名のみの罪の深さよ」~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[13]~


 石井世界に惹かれ、耳目を属するひとは少なくないが、それは石井が強靭な作家性を有しているからに他ならない。世に出された劇画や映画を額装して記憶の回廊に並べると、それ等は共鳴して確かな調べを謡い出す。画家の個展会場の趣きを自ら示し、点でなく面でもって胸に迫って来る。

 もちろん娯楽を目的とした物語であり景色であるから、理屈ではないもの、つまりは性欲や支配欲、暴力的衝動の顕現を劇中の男女に託し、日常のむしゃくしゃする気分の転換を図るだけでも当然かまわないのだけれど、少しの間たたずみ、その絵にたいして低吟したい気持ちにさせる強い磁場がある。作品単体で語る時間と共に、作家の内面宇宙を手探りする思考の枝葉が育ってしまう。出版の沃野とウェブの密林を歩み続けていくと、同じ感懐に捕らわれて石井世界をしずかに、けれど大切に語るひとに時折はちあわせするのだが、だからそれは自然なこととしか私は思わない。人物なり事象を粘り気をもって見つめる癖の日頃からある人ならば、石井の特異性はすぐに了解なるはずだ。

 「曽根中生自伝 人は名のみの罪の深さよ」(*1)が世に出され、先日にはこの本の内容について往時の関係者が集い、歯に衣着せずに語った新聞が刷られている。(*2) 後者は身近な書店には見当たらなかったから図書館まで足を運び、複写して持ち帰って何度も読み返した。厚味のある前者はまだ読み切れていない。飛ばし読みが出来ない性格だし、興味深い記述が頁ごとに立ち昇るものだから就寝前の愉しみとしてゆっくり味わっている。原作者兼脚本家として石井は曽根作品の何作かに関わっているから、その部分だけは先に探して丹念に読み込んだ。

 継続して石井世界について綴っているひとが私の視界のなかに何人かいて、その内のひとりが両者の読後感をウェブに掲げている。わたしもほぼ同様の思いを抱いた。書いた人はまさに上の“石井世界をしずかに、けれど大切に語るひと”のひとりであり、石井側から見つめた際の留意点や疑問点を簡潔にまとめているのだった。とても読みやすいから、特別にリンクさせてもらおうと思う。『天使のはらわた 赤い教室』(1979)について惹かれる人はぜひこれを覗いてもらいたいし、読んでさらに関心が湧いたなら自伝や座談録をどこかで探してほしい。
http://teaforone.blog4.fc2.com/blog-entry-1101.html


 「読書人」の後段でも強く感じるし、上に記した同好の士の声にしてもそうなのだけど、亡き人をめぐっての欠席裁判にはなっていない。物づくりの難しさと嬉しさが伝わってくるし、故人とその作品への真情あふれた手紙となっている。このところ年輩者の葬儀に参列すると弔辞を読む人もおらず、有っても日本赤十字社からの定型の感謝文が代読される場面が多いのだけど、そんな淋しい野辺送りと比較すればどれだけ賑やかで嬉しいものか。自分が死んでもこんな実直な声は寄せられまいから、羨ましいとも単純に思う。自伝の未読部分が三分の一ほどもまだ残っているから、微笑みつつ耳を傾けてみよう、行間に埋もれた聞こえない声を手繰ろうと思う。


(*1): 「曽根中生自伝 人は名のみの罪の深さよ」 文遊社 2014
(*2): 「曽根中生とは何者か」 週刊読書人 9月19日号


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