2014年7月17日木曜日

“天使の手” ~『甘い鞭』の終局に関して①~


 風が窓から吹きこんで、腕と頬をやさしく撫でていく。ふさいだ気持ちは和らぎ、人の声が恋しくなってラジオのスイッチをひねってみる。カチャカチャといじっているうちに豪快な話しぶりが耳に入り、これが実に面白くて聞き惚れた。海外の遺跡発掘にまつわる講演の録音で、後で調べてみれば博物館の名誉教授らしい。

 装飾品や納められていた山羊の骨、その背中あたりに置かれてあった鋭利な刃物から推理を飛翔させ、埋蔵の目的や当時の習俗を解析していく。一心に探りもとめた結果、ばらばらだった知識がみるみる結線していき、いにしえの時代の絵姿が脳裏に湧き出てくるのが心地好い。埋もれたひとの心に触れていく嬉しさと楽しさを説いて、熱く伝わるものがあった。

 さて、そのように微笑みつつ耳を澄ますうち、石井隆の映像と二重写しとなる一瞬がおとずれて大そう驚かされたのだった。アクセルを踏んでいた足の力が抜け、車は夜のバイパスをのそのそと惰性で走った。

 山羊と刃物の組み合わせから神への生贄(いけにえ)に違いなく、その遺跡が宗教的な色彩を含んだものと講演者は説明するのだったが、それはさておき氏はここで山羊を殺して神に供する“燔祭(はんさい)”の歴史に触れ、旧約聖書の創世記の第二十二章を引くのだった。神の意思に沿うべくアブラハムがわが子イサクを山へと連れ出し、その生命を絶とうとする。刃物を振りかざした瞬間、天使が空から舞い下ってその手をがっと摑んで止めた、と老教授は聴衆にむけて語った。

 その後、一匹の山羊が草むらより現われ出で、それをアブラハムは捕まえて神に捧げる顛末なのだけど、刃物を持つ手、それをがっと摑んで止める手というのは、瞬時に石井の『甘い鞭』(2013)のラストカットと結びついて私を雷撃したのだった。イサクの燔祭については映画かテレビで観て知っていたが、天使が降臨して手をがっと摑んで止めた記憶はない。不意を突かれた形となって呼吸が乱れた。


 自宅に戻って書棚からほこりだらけの旧約聖書を引き抜き、二十二章に目を通す。やはりそうだ、天からの使いは明確な姿を刻んでおらず、声だけをもってアブラハムを制止している。写し書けば次のような具合だ。

「そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。」

 手をがっと摑んで止めるという具体的な景色は、ならば何処から現れて考古学者の胸に宿ったものだろう。一個人の想像にしては明快で、自信に溢れた断定口調だ。細密画を間近で見るような臨場感があった。

 調べてみれば実はまったくその通り、“絵”なのだ。イサクの燔祭を題材とする絵画は星のごとくあるのだけれど、そのいくつかに神の使い、すなわち天使がアブラハムの手を摑んでいる様子が見てとれる。原文に忠実であろうと努めるものにはそこまで踏み込んだ荒々しい描写は無いのだけど、幾人かの天才たちが越境を為し遂げ、五感を揺さぶるイメージを付与している。強靭な印象をもたらし、きつく捕縛して、原典以上の物語性を多くのひとの内に注いだのであり、おそらくはラジオの講演者もその囚われ人の一人に違いない。

 特にカラヴァッジョ Michelangelo Merisi da Caravaggio、ルーベンス Peter Paul Rubens、レンブラント Rembrandt Harmensz. van Rijnの三者が描くものが壮絶だ。不意討ちされ、驚愕して手の方を振り仰いだアブラハムのゆがんだ頭や顔の描写も加わって、劇的効果を押し上げている。角度や構図は相似形となっていないが、この緊迫した時間と大気は確かに『甘い鞭』に通じる。

 石井隆が幼少年期に父親の書棚にあった絵画全集に親しみ、劇画世界にそれらのイメージの植生を試みていることは以前書いた。(*1) たとえばルーベンスは劇画【天使のはらわた】(1978)の極めて大切な背景に採用されているし、ティントレット Tintorettoは【赤い眩暈】の黄泉回廊となって融け入っている。『甘い鞭』のラストを襲った劇甚な描写の素地として、絵画「イサクの燔祭」のうちのどれか一つが在ったとは考えられないだろうか。

 もしもそうであるならば、『甘い鞭』の血の饗宴は違った光を新たに加えるように思う。“原典”にはなかった天使の飛来、その現実化と肌への接触を果敢に盛り込んだ画家たちと同等の試みを石井は最後の最後に“原作”に付け加えて、自分なりの“宗教画”を完成させて見えるのだし、少女期からひどく破壊され続けてきた奈緒子(間宮夕貴/壇蜜)の元に天使が飛来したという絵解きは、切実で胸に重い感動をもたらす。

 さらにその天使が奈緒子や私たちの前にうつくしき全貌を現わすのではなく、女の手のにゅうっと突き出た、むしろ悪魔的、悪夢的と呼んでも構わないだろう形で途切れているのも無残な余韻を孕む。宗教的な要素を組み込みながら、どこか冷めたもの、拒絶する姿勢がある。


 石井隆という作家は神の不在なること、奇蹟を待ちわびることの不毛を百も承知で物語をつむぐのであるが、霊的なものの追認や奇蹟の顕現を希求せざるを得ないぎりぎりの局面へと登場人物が追い詰められると、それに対して直接的ではない、遠回しの描法で“何か”を投じようとしてしまう。本来見えないものを見る、そういう段階へと人が導かれていくのだけど、世にあふれる多くの創作劇においては甘やかな勝利とも、燦然とかがやく報酬とも受け止め得るそのような奇蹟のビジョンが石井の劇にあっては徹底して惨たらしく、悲しく描かれていく。狂気の淵だけにしか奇蹟は顕現せず、救済も伴わないのではないか、という透徹したまなざしに染まっていて、一貫して厳しいのだった。

 そうか、あれは天使の手だったか、と膝を打っておきながら、半時間も経つと周囲は闇に包まれ、自信が揺らいでしまう。ぽつんと置いてけぼりを喰らってしまう。とんでもない作り手だと想う。けれど、面白い走者ともやはり思えて、その遠ざかる背中に目を凝らしながらのそのそと追いかけている。 

 
(*1):いずれもmixiにて
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=162461817&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1157072984&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1157506539&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1164603675&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1160474777&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1162358990&owner_id=3993869

引用した絵画は上から
The Sacrifice of Isaac  Caravaggio 1603
Sacrifice of Isaac  Peter Paul Rubens 1612-3
Abraham and Isaac  Rembrandt  1634








0 件のコメント:

コメントを投稿