2012年6月9日土曜日

“水と魂との親和性”



  石井隆の劇空間にて際立つ“水と魂との親和性”について、輪郭をより鮮明にするために二、三の例を振り返る。とは言え、石井世界の虜(とりこ)となった読み手ならばかねて周知の場景ばかりであるので、いまさら何を喚(わめ)いているかと冷笑、叱声を矢弾のように浴びかねない。

  何故去らぬ、いまさら何だ、という思いは正直わたし自身も幾度となく抱くのだけれど、ここ“GROTTA // Birds // Rouge”は「日記」を兼ねる。本来「日記」とは重大で秘匿すべき事項には露ほども触れず、(万一なにがしかの言葉を添えるにしても大概は記号化され、さりげない体で埋め込まれるものであって、)ほとんどの頁はありきたりの情景で占められるのが常だろう。海底(うなぞこ)より舞い上がり、さわさわ、くぷくぷとささやき群れなす気泡たちの全部を海神とて黙らせ得ぬように、沸き立つ記憶の残滓がわたしに書け書けとしきりにうながすのであって、これはもう抵抗しても勝ち目は無いのだ。“周知の場景”であるにしても、淡々と、されど奔放に想いをつなぐうちに考えが整理なる、そんな一瞬が無性に嬉しくって、それを頼りに離群索居(りぐんさっきょ)を耐えている次第である。

  さて、一言に“水”といっても姿かたちは様ざまな訳だが、ここでは先日取り上げた『天使のはらわた 赤い教室』(1979 監督曾根中生)の終幕に掘られた“水たまり”にこだわってみたい。天空より降りそそぐ馴染みの雨ではなく、また、素肌を撫ぜる浴室のシャワーでもない。地面に横たわって光を捕り込み、ぶわり反射させては存在を強く主張する“まとまった水”についてである。棒切れを刺し入れ、ずるずると引きずりながらその流路を究めていく。

  映画『赤い教室』の公開に前後して「別冊新評」(*1)は青年劇画誌の旗手で時のひと、石井隆を全力で取り上げており、その特集号のうしろの方に挿まれた同作の脚本第一稿を読むと完成なった映画とは彩りを違えていることに気付かされるのは先に書いた通りだ。正確を記すために奥付を写せば、「別冊新評」は1979年1月10日に発行されていて、映画の方はと言えば同年1月16日公開(*2)である。劇場公開よりわずかに早い。掲載にあたって「決定稿ではありませんが、もっともオリジナルなものであり、石井隆氏の希望によります」と但し書きが添えられているのだが、そこにこもる想いは、だから決して静穏でなかったことが汲み取れる。当惑なのか悄然としたのか、それとも憤激だったのかはうかがい知れぬけれど、劇作家石井隆の気概と誇りがまばゆく照射されて無視できない迫力がある。

  そんな『赤い教室』に描かれた“水たまり”とよく似た形と大きさのものが、かつての劇画に視とめることが出来る。【おんなの街】と題された連作の初回を飾った【赤い蜉蝣(かげろう)】という短編である。苦界からの足抜けをはかったおんなが追っ手につかまり、人通りのないさびれた空き地に連行される。制裁をさんざんに加えられたあげく「水責めだ そこらに水溜まりがあったな」ということになり、その顔をさばりと水面に沈められるのだった。おんなの意識は冥府を駆けめぐって、現世に還ることなくそのまま天に召されてしまう。

  劇画【赤い蜉蝣(かげろう)】は「増刊ヤングコミック」の1979年2月13日号に掲載されているから、『赤い教室』をめぐる石井と曾根、才人ふたりの確執のそれこそ渦中に置かれた作品と言える。断りなしの改変に対する意趣返しではないとしても、“水溜りを使う”とすればこうしたい、こうありたいという、当事の石井が膨大な思索の震幅を経て手中にした描画、構築(*3)であったと捉えて良くって、なるほど曾根が地べたにあっさりと穿ったものと比してみれば、石井らしい想いを滲ます底無しの深さと魔力を具えた怖い役どころを担っている。目の隅で流れ去ってしまう背景ではなくって、こころをからめ取り、こころを変えていく風景となって在る。

  水原ゆう紀の名美が女性らしい逞しさを露呈させて“水たまり”から去ったのに対し、【赤い蜉蝣(かげろう)】のおんなはその逆で“水”に取り込まれている。前者が(よく評されるように)男女間に横たわる溝を暗示し後ろ髪ひく恋慕へ毅然として決着を告げる形なのだとしたら、後者の、まっ逆さまになって氷海に消えゆく豪華旅客船さながら、伏した頭部を黒い水溜まりにごぼごぼと突っ込まれるおんなのかたちが指し示すのは何であろう。恋慕のさらに高まり、おのれの制動をいよいよ失いひどく傾いでしまった心模様であろうし、されど、ここに至り来たれば、もはやこの世との決別すら厭(いと)わないという(曾根版『赤い教室』とはまさに対極の)捨身往生(しゃしんおうじょう)の面差しであろうか。“ひとを想う”行為の寄せては返す波に洗われ弄(あそ)ばれて、総身呑まれて恋死(こいじ)にしていく、溝にはまってどうにもならぬ魂の末路が浮かび上がる。

(*1):「別冊新評 青年劇画の熱風!石井隆の世界」 新評社 1979
(*2):「官能のプログラム・ピクチャア」 フィルムアート社 1983 218頁
(*3):この【赤い蜉蝣】の溺死の風景は今井正『越後つついし親不知』(1964)での佐久間良子と重なってみえるし、前述の通りベルイマン作品とも通じるようにわたしは想像している。映画を起点として旺盛に細胞分裂していく、それが石井の創造世界のまぎれもない一面であるだろう。映画を愛する人の胸に印象を刻むのは、だから当然かもしれない。



※追記
何か引っ掛かるところがあってワイズ出版の「おんなの街 Ⅰ」を見返していたところ、初出一覧に誤植があったようです。【赤い蜉蝣】が連作「おんなの街」の初回を飾ったというのは間違いで、1980年の2月13日号が正しいらしく、『天使のはらわた 赤い教室』公開から1年以上を経て世に出ています。上に書いたのはどうやら私の完全な妄想でありました。お詫びいたします。

実際の掲載順序は次のようであった模様です。



【雨のエトランゼ】 1979  6月27日~8月22号
【果てるまで】  1979 9月12号
【停滞前線】  1979 10月10日号
【夜に頬寄せ】  1979 11月14日~12月12日号
【赤い眩暈】★ 1980  1月9日号
【赤い暴行】★ 1980  1月23日号
【赤い蜉蝣】★ 1980  2月13日号
【真夜中へのドア】★ 1980 6月14日号(「増刊漫画アクション」掲載)


また馬鹿をやっちゃいました。ごめんなさい。 2012.06.23

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