2012年5月5日土曜日

“消去し切れぬ人の匂い”



 このところ毎日何本ものマッチを擦(す)り、火をおこしている。正確には“分封(ぶんぽう)”と呼ぶらしい巣別れの季節に突入し、黒く大きな熊蜂が家の周りのあちらこちらで盛んに飛び回っているからだ。軒下など厄介な場処に営巣されて大騒ぎしないで済むよう、蚊取り線香を数箇所でいっせいに焚きつける。おまえと俺とは共棲出来ぬぞ、どうかほかの地を当たってくれ、と牽制する目的である。

 何故マッチかと言えば煙草を嗜(たしな)まないからで、本式のライターをこれまで一度も買ったことがない。至極美味しいと思うし煙たいとも思わないけれど、綺麗に格好よく吸う自信がない。『死んでもいい』(1992)の室田日出男の台詞に強く感化され、宴席に臨む際には百円ライターをポケットに忍ばせることが長く続いたものだったが、近頃は禁煙がすっかり浸透してしまい着火音はついぞ聞かれないから、これを引き潮と携帯しなくなって久しい。十年程前、つき合いのある銀行から(おそらくは似たような事情から役目を終えたらしい)行名入りの広告マッチ(三角形の箱に入った)を山ほどもらい、それが台所の棚の上に溜まっている。こういう時でないと使えないから半ば無理矢理、馬鹿みたいに必死こいて擦るはめになる。

 夕暮れて蜂はどこかに隠れてしまっても、まだ線香がいくらか残っている。屋外であるからどこかに風で飛ばされても怖いので、舗装された地面や敷石にこすったり、短くへし折ったりして始末しなければならぬ。そんな折に薄闇の奥でぼうっと息づいている赤い塊(かたまり)を見て、実にうつくしいと思う。日本的な情緒がこもった壮絶な、けれどささやかな妖しさに見惚れてしばし時を忘れてしまう。白く筋を作って天へ昇る煙の、粉っぽい香りもまた仄かな寂しさを誘って嬉しいし、何よりも点火の際に鼻を衝(つ)いて来る二酸化硫黄が妙にこころに刺さって消えない。生きていることの実感をもたらしてくれる刺激臭で、かけがえのない一瞬、と言えば言い過ぎだろうか。

 いくつもの香りを鼻腔に感じ取りながら、思い出す映画がある。先日、古いフランスの作品(*1)を観ていて、臭覚にまつわる印象的な描写があり、これは敵わないなと感心させられたのだった。ひとりの若者が子供の専属教師として裕福な家庭に雇われる。19世紀の厳格な階級社会を背景とした世に知られた物語であり、いかめしい顔付きの主人はおずおずとして突っ立ち分不相応の場処に顔を突っ込んだ感のある田舎者の全身を、舐め回すようにまず見やるのだった。

 このジュリアンという青年をさらりとした美丈夫の、当時の伊達役者ジェラール・フィリップが演じている。知らず心を浮き立たせる陽性の風情を具(そな)え、同性の目から見ても涼やかで思わず破顔を禁じ得ない。物語中においても若者は主人の信頼をまたたく間に勝ち取ってしまうのだった。隣に置いてもまったく恥ずかしくないし、むしろ雇い主としても鼻が高く、自分の評判もきっと上がるに違いない、そう思ったらしい主人はこの青年の胸の奥に巣食っている野心や肉欲の萌芽を透かし見ることなく、美しい妻ルイーズにその処遇を託してしまう。物語は無遠慮かつ自信に満ち溢れた若者のまなざしと声にほだされ、やがて情念の虜となって常軌を逸していく人妻のそんな物狂おしい日々を主軸に進んでいくのだけど、私がひどく感心してしまったのは愛憎渦巻く本筋の方ではなくって、上の導入部に連なるちょっとした主役の演技であった。

 粗末な使用人部屋へと案内した主人は夕食の席ではしっかり正装するよう堅く若者に言い添えながら、彼が持参したほんの僅かの手荷物の量からすばやく状況を汲み取り、自分の使い古した上着を放るとこれを着るように命じている。ひとり室内に残されたジェラールはそのコートをつまみ上げると匂いを嗅ぐのだった。それもわざわざ袖口を持ち上げ、腋のへこんだ部位をぺろんと露わにしてから鼻を寄せ、中年男の残臭を確認する周到さである。原作には同様の描写は見当たらないので、これは演出家か役者の発案だろう。わたし自身、汗腺の発達なのか名残りなのか分からぬが腋窩(えきわ)に薄っすらと香るものを持っている。人様に迷惑を及ぼす程のものでない幽かなものだけれど、礼儀として湯浴みの際には意識して洗い、剃毛(ていもう)を心掛け、効果てきめんの薬用クリームを擦りこむ日々であったりするから、ジェラール・フィリップの余りにも露骨な演技にひどく仰天して本能的に慄(おのの)いたというのが実情である。しかし、それをさて置いても凄い場面、力強い描写と思う。

 暮らしを営む上で繰り返し来訪する“匂い”には数限りない種類が有って、その不意の挨拶に驚き、そのたびに喜んでみたり困惑したりで大なり小なりの感動を覚えるものだ。冬の襲来時に雑じってくる枯れ野の香ばしさ、氷柱(つらら)や新雪を口に含んだときの埃(ほこり)っぽい微香、春の幕開けを飾る甘く重たい土の臭い。夏草を踏みしだく際に湧き立ち鼻腔を撫ぜる青臭さと腐葉土の混然となった香り。つるべ落としの赤い夕陽をまたいで漂着するどこかの焚き火のつんとした焦げ臭。古い本の薫り、インクの匂い、それに様々な料理の匂い──。排気ガスの臭い、塗ったばかりのペンキの匂い、垣根越しに伝わる庭木の花の香り──。膨大な匂いが群れ飛び、駆け巡るその中で、何より強く印象を刻み、忘却の淵に追い落とすことが出来ないのが“ひとの匂い”であるように思う。例えば赤ん坊の頭皮の甘酸っぱい香りや、一段と体調を崩して見える病人のその口から吹き寄せる息の臭いというものは、その時どきの生命力の増減や魂の弾み具合を如実に示していて、私たちを深い思索や感情の波濤へと誘うことになる。赤ん坊の吐いたもの、病人の吐いたものがもたらす臭いも同様に鋭い切り口を記憶に刻んでいき、私たちをひどく翻弄するし消耗もさせる。

 映像なり絵を駆って観客や読み手のこころの奥底に突入を図る娯楽芸術にあっては、なかなかこの“ひとの匂い”までを取り上げることはしない。受け手それぞれが懐に置く記憶と嗜好が邪魔をするためで、(放屁、糞便、げっぷといった)悪臭ならば割合と可能だが、“好ましいもの、馴染むもの”を効果的に挿入するのは難しい。ひと口に好い匂いと言ったところで万人の脳裡に同じ印象なり感慨を組み立てるのは困難であり、ドラマの継ぎ穂としては起動させにくい。読み手のこころをせっかく上手く束ねたのに、“好い匂い”ってどんなだろう、あんな匂いか、こんな香りかと自問自答させて、劇に集中していた意識を緩ませてはまずいのだろう。

 しかし、人間と人間が出逢い、四つに組んで激情の化学反応を起こす様々な現場にあって、向き合う対象にぎりぎりまで肉薄する際の要(かなめ)となることのひとつが“匂い”であることは間違いなかろう。言葉なき古(いにしえ)の時代、まなざしや表情と同等に“嗅覚に訴える情報”がコミュニケートに欠かせなかったわけだが、まなざしや表情が現代の人間のこころを揺らす手段、役回りとして十分に有効であるならば、対する“ひとの匂い”もまた人間を描く現場にて取り上げるに値するはず。

 そんな風なことを日頃からつらつら考えている私は、先に書いたフランス映画の狐臭(わきが)をめぐる描写に心底たまげた訳なのだった。嗅ぐ方の若者も嗅がれる側の成熟した男も、これを起点としてにわかに人間味を増して見える。名誉や財産、異性に餓え狂う生々しい内実を一気に立ち上げ、悩める私たちと併行する存在になっていく。その起爆剤が、古いコートに定着した“ひとの匂い”であったように思う。

 六十年近く前に作られていながら人間を劇中に引き入れる手管に長じていて、これは敵わないなと心底思う。映画『赤と黒 Le Rouge et le Noir』に恐れ入るのではなく、海の向うに堆積なった文化とそこに育った洞察力、観察力に唸らざるを得ない。人という存在が各々抱える胸の奥の洞窟とそこに吹き渡る風に肉迫するには、ここまで五感を駆使し、四方八方から刺激してやらねばならないのであって、美粧や麗句といった表層の綺麗ごとに甘んじてはおられないのだ、人間を描くことは化けの皮を剥ぐことじゃないか、と真顔で告げられているように感じる。

 さて、石井隆もまた、嗅覚も動員して物語をつむぐことに長けた作家である。【白い染み】(1976)、【初めての夜】(1976)、【白い反撥】(1977)、【オナニーのいる部屋】(1983)といった先行する劇画作品があり、その後『ヌードの夜』(1993)へと行き着く。罠にかけられた紅次郎(竹中直人)がホテルルームに漂う名美(余貴美子)の幽かな残り香を嗅いだ途端、恐慌から立ち直って後始末の代行をそそくさと始めるといった愛嬌のあるくだりが中盤あって、いまだ我らの記憶に鮮やかである。その随分と唐突に感じられるおんなの残り香の出現というのは、さりげない描写で誰からも見逃されてしまいそうなのだけど、その実、劇の展開にとっても紅次郎こと村木哲郎の“生”の転回にとっても極めて大事な素因であった。(*2)

 人間というものが“ひとの匂い”に追いすがって歩む存在であり、そのような始原的とも言える、嗅ぐ、嗅がれるといった諸相を無視しては感情なり魂の真っ芯に触れることは出来ないのではあるまいか、少なくとも“匂い”とは作劇の上で埋めるべき外堀のひとつではないか──と石井から囁かれているように思う。

 ヨーロッパや最近のアメリカ映画には、この手の五感を駆使した(つまりは官能的な)描写を通じて人間に肉薄する描写が目立つ。突出したものではないが、あえかでやるせない風情が訥々(とつとつ)と粘り強く語られていくところがあって、やがて観客の胸のなかは共感なり理解で隙間なく満満としてしまい、不覚にも泣かせられてしまう仕組みである。本当に怖ろしく綿密なレベルに欧米の映画は至りつつある。

 石井の映画が日本以上に欧州で認められるのは、だから、何も性描写が過激とかガンアクションに長じているからというのではなく、この繊細で手を抜かない五感の描写に観る人間が正直に、自然に反応しているからなのだろう。全体的に表層や台詞に頼りがちですっかり水をあけられた感のある日本の映画界にとって、石井隆はまだまだ貴重な描き手と思う。そろそろ再始動してくれないかと、じれったい思いが増す毎日だ。

(*1):Le Rouge et le Noir   監督 クロード・オータン=ララ  1954
(*2): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1029137620&owner_id=3993869
上の画像は【オナニーのいる部屋】から。煽情目的の誇張された“記号”ではない、生きた人間が描かれている。このような穏やかな目線に包み込まれたリアルこの上ない人物造形が何十何百も石井世界の土台にあればこそ、それに連なる映画は大いに血流をたぎらせ、脈打ち、時代を越えて観客を魅了するのだ。

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