2011年11月4日金曜日

“蝿のはなし”



 軟らかな面紗(めんしゃ)のような霧が早朝の街路を覆うようになった。風のなかに枯れ草の甘重い匂いを感じ、夜毎奏でられた虫の音もいつしか絶えた。庭木に張られた女郎蜘蛛の巣には艶が失われ、寄り添っていた小さな雄の姿も見当たらない。季節の端境を越えてしまったことを知る。

 先刻から一匹の黒い蝿が纏わり付くように飛んでまわって、とっても煩わしい。この小さな蝿にしても早晩寒さにこごえ、寿命を閉じるにちがいないのだ。そう思うといささか哀れを感じる。ちょうど石井隆の物語にこつ然と現われる“怪異”について、と、言うよりも『GONIN』(1995)の中の“蝿たち”について考えていたところだった。

 事業が立ち行かなくなる、はたまた、リストラの対象となり職を失う。ロック歌手に憧れ上京してみたはいいが寄る辺なく、その日の糧にも事欠いて恐喝まがいの悪事に手を染めねばならぬ。そんな行き詰まった男たちが、何の導きによるものか偶然に出会ってしまうのだった。苦境を脱け出す算段をさっそく始めたはいいが、誰の顔にも焦燥や疲労の色がうすく滲み、肺腑の奥ではぼんやりした諦観が渦巻いている。もう疲れちゃったよ、この辺でひと暴れしたら俺の人生、幕を引いちゃってもいいのじゃないか、みたいな心棒の変質を吐息や紫煙とともに吐き出して見える。

 奇想というべきか捨て鉢と呼ぶべきか、あろうことか暴力団の事務所にある金庫に目をつけ、目出し帽被って男たちは急襲する。まんまと現金強奪に成功してしまうのだったが、怒った組織は凶暴この上ない二人組の追っ手を雇い、やがて死体の山が累々と築かれていく。血と反吐のすえた臭いに惹かれたか、羽音をぶんぶんと唸らせ蝿が寄りたかる。石井隆の映画『GONIN』は豪華キャストに彩られ、色香あふれた外貌が魅力この上ないけれど、正直言えばお話はそんな下降線をたどる陰惨な内容である。

 荻原(竹中直人)と三屋(本木雅弘)の鼻先に蝿は飛翔を繰り返し、観客の嫌悪感をぱんぱんに膨張させていく。遺体から発せられる腐臭やどろり濁った運河のヘドロ臭がつんつんと幻嗅されて、逆撫でされた神経が危険や不安を訴える。緊迫を煽る常套手段として時計の秒針のカチカチと刻まれる音がよくあるように、男たちの惨めな逃避行を醸し出す小道具として“蝿の羽音”がここでは登用されたと誰もが思う。の、であるが、石井はかつての対談(*1)のなかで、この蝿が死者の転生した姿であると言い切っている。

 何ら思わせぶりなカットなり台詞を劇中に挟むことなく、映画雑誌の対談でそっと秘めた思いを吐露してみせた石井の言葉に心底から驚愕し、以来頭の隅からその事が消えずにいる。手塚治虫の【火の鳥】や南米の未開人の死生観を引いて、自分なりに咀嚼した想いを以前mixiにも書いているがいまだにすっきりしない。(*2)

 この春の震災とそれに続く原子力災害が落とす影の色は黒々として、生きることや死ぬことについて考えさせられる瞬間が幾度となく巡って来る。死して後、誰であれ輪廻転生の定めに則(のっと)り“何ものか”に生まれ変わらざるを得ないにしても、『GONIN』のような“蝿”になるという選択は在り得ないように感じられて身悶えしてしまう。どうにも落ち着かぬ。

 自分の内部でなぜかくも頑固な抵抗を感じるかといえば、一匹の蝿ごときに変身するのが万物の霊長たる人間さまとして耐えられない、という驕りでは決してなく、だいたいが自分に託された役割や使命など人類史の悠久たる流れの中ではささやかなもので、“芥(あくた)もくた”の存在に過ぎない。蝿になるならそれでも仕方ない。

 つまり感じるのはこういうことだ。一向に色褪せることなく逆巻きつづく思慕──、悔恨や慙愧と呼び表される重石の大きさと冷たさ──、果てなくさえずる欲心、欲念──、暗き土中からむくり芽を起こし蔦をのばし、我が身を縛っていく飢えと渇き──そういった手に余って仕方ない煩悩たちの堆(うずたか)く積まれて多層となったものが、あんなコンパクトな羽虫の頭なり身体に収まるとは到底思えない、その疑念が転生のイメージを撥ねつける。

 総じて石井隆の劇は観客に消化不良を残すというか、胃液で溶かしきれぬ塊(かたまり──これが魅力なんだけど)を含んでいるものであるが、石井の『GONIN』は私のなかで解決せず、残光がずっと尾を引いてしまい記憶にとどまった。

 ところが先日、往時の食文化を調べるつもりで購入した小泉八雲(こいずみやくも)の作品集のなかに『GONIN』の現象に通じるくだりを見つけてしまった。京都の商人、飾屋久兵衛(かざりやきゅうべえ)の屋敷に雇われていた若狭の国生れの下女“たま”が急に病気で亡くなり、それから十日後に大きな蝿となって再訪するくだりがある。(*3) 仰天するというよりもただただ不勉強を恥じ入るばかりであるが、我が国の先人にとって死者の“蝿”への転生は面妖不思議なことなれど、拒絶したくなるほど不自然とは思わなかったようである。

 石井の戦歴を振り返って見ると『ヌードの夜』(1993)の同年にテレビドラマ用の脚本を書いており、それは『怪談 KWAIDAN Ⅱ』と銘打ったオムニバスであって、石井は『ろくろ首』を担当した。原作はもちろん八雲である。(*4)

 処女作『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)でも、また、この二年ほど前に発表された『月下の蘭』(1991)においても魂の飛翔する様が描かれているわけだし、画集「死場処」(1973)においても現世と幽冥との壁が剥がれた昏い情景が目白押しであった訳だから、元々石井のなかにある体質として霊魂なり転生は活きている。
 
 活きているけれども、こうして八雲を読み終えてみれば『ヌードの夜』のあの名美(余貴美子)も、あの行方(なめかた 根津甚八)も、『GONIN』のあの蝿も地続きになって峰を連ねるように思える。真摯に仕事をこなし、その都度に貪欲に吸収して綾を増しながら成長を重ねていく石井世界。その硬軟自在の体質に舌を巻くしかない。八雲を呑み、あやかしを懐中に入れて“日本人の情念”の創出に挑む石井の姿が夢想され、さらに奥行きが増して今は感じられる。恐るべき多層が石井には巣食うように思う。

 盛んに飛んでいた蝿が見当たらない。感化されやすい性質(たち)だから、何者かの化身、自分の見知った先人の生まれ変わりであったらどうしようと心配になり、誰なの、どうしたのよ、と声出して尋ねたりもしたのだった。傍から見たらもう立派な狂人である。励ましに来たか、叱りに来たかと見下ろしてみたが、当然ながら返答などなかった。どこか部屋の隅で凍えているものか、それとも黄泉の国帰ったものか。

 連絡の絶えてひさしい友人を想う。元気でいてもらいたい、そう願うばかりでいる。

(*1): 「映画芸術 通巻377号」編集プロダクション映芸(映画芸術新社) 平成8年 (1996)1月発行 石井隆vs山根貞男「GONIN」  本木雅弘演ずる若者が恋慕っていた佐藤浩市を喪い、途方に暮れ、哀しみに沈んで運河の浮桟橋に係留なった廃船に独り隠れ潜んでいる。自死を試みるものの踏み越えられずに蒼白い夜を悶々と明かしていく抒情あふれる名場面なのだけど、若者の傾斜していく思いを遮るように飛翔する蠅の羽音がそこでは幾度かインサートされ、それはてっきり運河なり廃船の汚れ具合を強調しているものと普通の観客ならそのように読み取る、そんな描写だったのだけど、石井はこの蠅こそが竹中直人の転生した姿なのだと山根の前でさも当たり前のように話している。

──例えば、本木君が自殺しようとしたところで、ブーンと殺された竹中さんから生れた蠅が飛んで来て思い止まらせる、とか(笑)

(*2): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1554536726&owner_id=3993869
(*3):「蝿のはなし」 小泉八雲 「骨董」(1902)所載 手元にあるのは上田和夫訳の「小泉八雲集」 新潮社 55刷
(*4): 『怪談 KWAIDAN』(1992)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%AA%E8%AB%87_KWAIDAN
『怪談 KWAIDAN Ⅱ』(1993)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%AA%E8%AB%87_KWAIDAN_II

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