2023年7月30日日曜日

“侵蝕する暴力”~『ろくろ首』考(7)~


  冒頭、野武士に拉致されかけた夏川結衣は既(すんで)のところで助かるが、足が痛む、到底歩けないと柳葉敏郎に視線を送り、その背中を借りるのだった。この足の負傷もお芝居であるのかどうか。確かに足袋は白く綺麗なままで現実味が乏しい。

 次の場面では、煩悩の渦にうろたえる男がコミカルに描かれる。胴体を密着させたおんなに対し、臀部に伸ばしたおのれの手のやり場に困る。会話するたびにおんなの息が首すじをくすぐる。さらに私たち視聴者は、おんなの首がにょろりと一瞬だけ伸びるのを目撃してしまう。色香に脆い男の本性を鼻で笑い、やれやれこの程度の芝居にだまされおって、痴れ者め、と考える。だから、おんなの足首の話もかなりの確率で嘘と疑うのは道理である。

 ところが野武士の巣窟での死闘を経て、生首がようやく取り戻され、元気に蘇生して見える夏川がなぜか足をずるずるとひきずっているのだった。山道をくだる柳葉の背中を必死に追う姿が痛々しい。もはや無理だな、遠慮せずに俺の背に負ぶされと柳葉が気遣うに至って、その繰り返される光景のくどさに私たちは石井らしい粘着した語り口を認める。「気付いたかい、分かるかい」とつぶやく石井の声と視線を感じ取る。

 此処から解釈されるのは、足の痛みは芝居ではなかったという真実だ。殺害に至った(首を斬られるに至った)過去現実の、さらにはもしかしたら冒頭で再現された二度目の現場でも、おんなは理不尽な性暴力に遭って怪我を被ったという設定である。

 この『ろくろ首』には石井の劇画【天使のはらわた】(1978)とイメージの相似があることを先に書いたが、【天使のはらわた】の第一部で土屋名美が川島哲郎たちに襲撃され、雨がそぼ降る鉄道操車場に追い詰められた際に、足を挫いて歩行が困難となる様子が添えられている。夏川結衣演じる月乃というおんなに対して、石井は名美の面影を託しているのは間違いない。

 【天使のはらわた】の名美という娘は幾度も幾度も性暴力の被害に遭うという凄惨な造形がされた特異なキャラクターであるのだが、その血を継いだ月乃という戦乱の世に生まれたおんなに対し、石井は「よく分からない形」で、繰り返される暴姦の憂き目を強いているのである。夏の夜の誰でも楽しめる幽霊奇譚にしては、どこまでも身体の痛みや苦しみを追求した脚本である。

 それにしても、ここまで反復を繰り広げ、わざわざ地獄を再体験させていく作劇はどうだろう。この執拗さは何だろうか。山道を柳葉が登って来る様子を木立の陰から遠目でうかがい、先回りして木の根元に腰を下ろし、ああ、痛い、足を挫いてしまった、とても歩けないわ、と顔を歪めれば、芝居は、台本はひとまず成立しただろうに。この過酷さは一体全体どうした訳だ。

 わざわざ現実の(再度の)暴姦場面の渦中に身を晒して、このような目に遭ったのだ、大勢に襲われたのだ、叫べども誰も助けには来ず、泣いて懇願しても耳を傾けてはくれず、襲われ続けて足を傷め、首を切られて私は殺されたのだ、と、「よく分からない形」で見せつけている。

 月乃、夏川結衣に尋常な域ではない芝居を指示していながら、苛烈な様相をそうっと死角に置いていく。「不在を描く」石井ならではのリアルティがある。『ろくろ首』はまぎれもなく石井世界という伽藍の一部となっている


2023年7月23日日曜日

“反復する地獄”~『ろくろ首』考(6)~

 


 石井隆は「境界」を無限と捉え、そこにたたずむ人間をかれら側に立って描く作家であった。善と悪、愛と欲、道徳と渇望、美しさと醜さ、生と死といった拮抗する勢力の緩衝地帯が広々と用意され、登場人物はそこを往還し、または彷徨い、大概は人間同士の関係に大きな裂傷なり熱傷を作ってしまういたましい展開に突き進む。

 おそらく石井の想いのなかには、絶対的に揺るがないものなど存在しなかった。人は本当に悲しいとき、悲しそうな表情などしないよ、という言及ひとつからも解かるように、人間観察を重ねて突き詰められた結論は「分からない」という一点に集束した。その曖昧さを大胆に、強いまなざしと共に甘受していこうという毅然とした姿勢があった。

 分かりやすくすることは鑑賞の最中や後の記憶を優しくマッサージし、口腔や鼻腔を甘くとろけさせるが、人間の本質なり社会の実相とは大きく反れていくと考えた。分からない人間に向き合っていくそんな石井のドラマというのは、観る者を不安にさせたり戸惑わせることが多かったけれど、『ろくろ首』の印象はそうではない。

 たとえば、劇の冒頭、夏川結衣演じるおんなが柳葉に向けて不幸な身の上を語る。隣国までの旅の途中で従者にはぐれてしまった、と言うときのたどたどしさ、直截的に言えば「棒読み」口調に対して、多くの視聴者は下手だなあ、いたたまれないなあと感じる。寸劇(コント)をたちまち連想して、なんだ怖い話じゃないんだ、漫画だなと解釈して緊張を解いてしまう。以降は真剣なまなざしを向けることはない。もはや「見切った(分かった)」からである。

 ところがこの「棒読み」は(二重の意味で)演出なのであって、演技の巧拙とは関係がない。つまり夏川は「演技している若いおんな」を演じねばならず、芝居じみた雰囲気をあえて押し出すことを強いられた訳である。真夜中の森の広場での談笑で、また、妖怪化して襲い来た従者が柳葉に撃退されてから白状したように、「自分たちの願いを叶えるための道具」とすべく接近し、あれこれ言い含めて「自分たちのさらわれた首を取り返す」役目を押しつけようとした。その為の大芝居という筋書きであった。

 つまり、『ろくろ首』は演出家の判断で「分かりやすく」されてしまったのだ。テレビジョンは不明瞭さを回避して「分かりやすさ」をとことん追求していき、石井世界からどんどん反れてしまったというのが本当のところだろう。

 石井が自ら演出していたら、ずいぶんと違った様相を呈したはずである。おんなの台詞は棒読み調ではなくて、謎めいて「分からない」ままに進行したろう。夏川と従者たちのお芝居はいかにも誇張されて作り物めいたものでなく、曖昧さをそのまま提示した底知れない人間ドラマとして提示されたに違いない。金曜日の午後9時(*1)という視聴好適時間に自作を投じる機会を得た劇作家の発奮を想像すれば、石井が軽佻な「分かりやすい」執筆で済ますはずなど絶対にない。石井の狙いとはいささか乖離した仕上がりになっていて、つまりは「ルージュ現象」がここでも起きていると自分は解釈している。

 さて、そろそろお解かりの通り『ろくろ首』は懸命に芝居を打つおんなを主軸に据えていることで、『ラブホテル』(1985 監督相米慎二)、『ヌードの夜』(1993)、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)、『GONIN サーガ』(2015)とも血脈を通じている。

 個人的にはこれら以上に劇画の短篇【琥珀色の裸線】(1987)の切迫した気配と馴染むものを感じる。【琥珀色の裸線】はこんな話だ。暴姦現場に偶然居合わせた男が関わりを避けようとして、顔をそむけ、耳に飛び込む声を無視してその場を離れる。被害者のおんなはその後、加害者のヤクザから脅迫されて場末の酒場に幽閉され、買春目的で訪れる客に身体を開くことを強要される。

 ある夜偶然に先の男が泥酔しておんなの店に立ち寄ったことから、おんなは苦海からの脱出を夢想し始め、徐々にヤクザと男が鉢合わせする状況を作っていき、「過去の暴姦現場を再現する芝居」を両者の前で打つのである。男は保身のために逃避したあの一刻まで引き戻され、カウンターにあった包丁を握るや否やヤクザの背中に突進していく。

 『ろくろ首』の男女の出逢いが暴姦場面である点と、おんなの懸命な芝居に男が翻弄される成り行きが共鳴を誘う。例によって両者はからみ合って石井世界という一個の生命体を彩っている。

 そうして【琥珀色の裸線】から逆照射された『ろくろ首』は、もはや寸劇みたい、バラエティ番組みたいには見えず、笑えない切実な現実へと容貌を変えるのである。つまり、【琥珀色の裸線】と同様の「過去の生々しい現場再現」が『ろくろ首』では冒頭から展開していることを私たちは理解しなければならない。

 (*1):https://www.allcinema.net/cinema/85520



2023年7月22日土曜日

“修羅場に芽吹く純愛”~『ろくろ首』考(5)~

 


 石井隆が世に放った怪奇譚『ろくろ首』の輪郭をざっと辿れば、以上のようにまとめられる。ずいぶんと込みいった話であること、了解いただけると思う。次にこのドラマを石井世界と照らし合わせてどう捉えるべきか、私たちに何が見えてくるかを考えたい。

 第二幕の月乃(月姫)救出を目撃して、私たちは複数の石井作品からの木霊(こだま)を聞く。悲鳴を聞いて駆けつけた柳葉敏郎が目にしたのは男に襲われて着物の裾をはだけた夏川結衣である。暴姦される寸前のおんなを救い出したことに端を発する物語は、石井が繰り返し用いた導入部のひとつだ。相似する場面を内蔵する作品をここに並べることはじつに容易い。すなわち、劇画【天使のはらわた】(1978)や『黒の天使vol.2』(1999)が浮上する。

 乱暴狼藉をはたらく荒くれから女性を救う。この手の英雄描写はありふれたもので石井の専売特許ではなく、誰もが見覚えのある人情劇の枝葉である。かつて量産された時代劇でも題名は忘れたが、まさにこんな発端を観ている。峠道で追い剥ぎに襲われた母娘ふたり連れが危機に追いやられる。少し遅れて同じ道を歩いていた孤高にして美形の剣士が異変に気付いて駆け寄れば、すでに母親は背中を真一文字に切られて絶命しており、娘の周りには砂糖にむらがる蟻のように複数の男たちが嘲笑いながら屈みこんでいる、そんな場面である。抜刀した剣士は目が醒めるほどの剣さばきを披露し、たちまち暴漢たちは泥土を舐め、蹴散らされるのも定番の流れだ。

 それであれば、何もここでわざわざ【天使のはらわた】と『黒の天使vol.2』を引き合いに出すまでもないじゃないか、そう人は思うだろう。ブラウン管に手垢のついた状況が映し出され、予定調和的に駆けつけた武芸者がこれを救う、それだけではないか。お喋りをしながら、家事をしながら、片手間に眺めても安心していられるバラエティ色つよい構成である。危なかったのね、ああ、助かったのね、良かったわね、それで十分ではないか。

 されどこのような話の展開は小泉八雲(こいずみやくも)Patrick Lafcadio Hearnの原作には影もかたちもなく、石井が積極的に注入したエピソードである点は無視出来ない。この辺については後述するが、石井隆の花押(かおう)として暴行救出の場面が組み入れられた点につき、私たちはつよく意識して良いのであるし、何よりいちばん意識したのは石井本人であるだろう。

 つまり石井隆は大胆にも『天使のはらわた ろくろ首』を披露してみせたのであって、それを意識して鑑賞することを暗に求められている訳なのである。この視線の獲得を為し得た瞬間に、私たちは石井独特のまなざしと呟きを体感することになるが、お化けの出る娯楽作品とのみ了解して終わってしまえば、石井隆とは思えない乾燥した面立ちに思えてならず、どうしてこんな軽い企画に乗ったものだろう、誰が書いても同じじゃないか、よくある道中ものでしかない、そう戸惑うばかりだろう。

 【天使のはらわた】と『黒の天使vol.2』は闇世界で糊口をしのぐ青春劇であり、魑魅魍魎の蠢く群像劇でもあるので視点がゆれて焦点が定まりにくいところがあるが、前者の川島哲郎と土屋名美、後者の魔世(天海祐希)と山部辰雄(大和武士)の立ち位置は「純愛」であるから、『ろくろ首』にも「純愛」の芳香が付き纏う。恋に落ちる男とおんなのなれそめを、どうしてこうも過酷な修羅場に持っていこうとするのか。石井隆という作家の特異性がここでも目立っているが、40分という短時間にもかかわらず、この出逢い以降の『ろくろ首』の顛末を丁寧に咀嚼していくと、思いがけずどこまでも石井世界の連結があることが分かってくる。