映画『甘い鞭』は大石圭(おおいしけい)の原作小説を九割方なぞらえたものであり、大胆な脚色は終幕間際に集中する。それまでは抑制された演出が為され、構図なり音響、色彩に特有なものは有っても、石井の真骨頂たる“感傷(メロドラマ)”の刻印はほとんど観止めることが出来ない。袋小路に追い込まれていく淫虐の宴(うたげ)を見やりながら、観客はかつて読んだ“大石”の小説か、もしくは以前に本や報道で見知った伝承や事件といった“現実”の地獄を連想したことだろう。
銀幕の前の私も同様であったが、加えて石井の過去の劇画作品から何篇か、たとえば【白い汚点(しみ)】(1976)を、たとえば【紫陽花の咲く頃】(1976)を薄っすらと脳内に再生し始めてもいた。(*1) 映画の中で劇画の細部が寸分たがわず再現されていたという訳ではなく、共通の題材が気持ちを縛ったのだった。また、それら著名な自作に対して石井が単行本のあとがきやインタビュウで重ねてきた“補足説明”の真摯さ、硬さを合わせて追想した。姿勢はやがて前傾してしまい、“書かれていない事”へとこころ曳(ひ)かれ、目を凝らした訳なのだ。
石井が折りにつけて口にする補足説明とは一体どのようなものかと言えば、例えば近作『フィギュアなあなた』での述懐が分かりやすい。脇役のひとり、宏美(桜木梨奈)に対して「彼女のそこに至る何百時間という時間を想像して撮っていた」(*2)と映画専門誌のインタビュウで語っている。自己弁護や後付けではもちろんない。以前から石井は似た調子の打ち明け話をするのだったが、これ等は作劇上の制約に従い、泣く泣く余白もしくは舞台袖に追いやった登場人物の“背景”であるとか“終章(エピローグ)”がほとんどなのである。
もちろん、創作活動において上映時間や紙数の都合で削(そ)ぎ落とされていく挿話や背景は無数にあって、それにいちいち躓(つまづ)いて思案に暮れるのは滑稽なことだ。頭から振り払い、闇の彼方に捨てやって良い事柄だろう。けれど、石井の劇空間における“見えざる挿話”は、一般的なそれとは存在感がまるで違うのだった。“見えないものが在り続ける”という感覚が強く付きまとう。
先に書いた『甘い鞭』の幽閉者、藤田(中野剛)であるとか、【白い汚点】の持病を耐え忍ぶ若い男などは、石井より与えられたわずかな手がかりでもって全然違った顔つきになっていく。余白に控えた過去が薫って、熟爛した面持ちが具わっていくのだった。舞台袖でむらむらと花弁を広げ、蜜は発酵すら始めて、逆に好い香りを放ってくる。いつしか根を大きく張り、中央に茂る主木(しゅぼく)と地下でつながって樹液の交換を始める。
この不可思議であまり類を見ない“見えざるもの”の気配は、石井が技法を確立した劇画時代にまで遡らねば理解しにくい。70年代の後半、超写実的な描法を会得して世間を驚愕させて以来、劇画家石井隆に対して頼む側も読む側もとことん実際的なコマ絵を要求するようになった。もっと芳醇な女性の肢体を、さらに彼女らに交合を迫る男の勢いある肉叢(ししむら)を、そして千変万化する表情を待ち望んだ。石井はこれに応えようとしたのだったが、言葉で書けば至極簡単なれど、実際は相当に複雑な作業となるのだった。
たとえば性愛の刻(とき)が訪れて人がこれに臨むとき、相手の全身と全霊を揃って愛(いと)おしみ、狂おしく抱擁することになる。頭頂部から指先、爪先までは結構な長さであるから、一枚絵ならまだしも劇画の場合、交接の全容を描いていくことはそれだけでもなかなかの困難がともなう。自分勝手な瞳は接写レンズと広角レンズを頻繁に取り替えて、唇や虹彩、陰部を穴の開くほど熱視(みつ)めるのだったし、別の瞬間には背中や足が大きく反り返っていく様子も目撃していく。映画に近似した臨場感を希求してとことん写実に努めるならば、描くべきカットは膨大になる道理だ。その頃の石井に与えられたフィールドは16頁から30頁と少なかったから、期待通りにコマを割ればたちまち余白が尽きたのである。
ここでほかの青年漫画、何でも良いのだけれど例えば手塚治虫の【きりひと讃歌】(1970-71)を横に置いてみれば、放埓に見える石井作品がその実、どれぐらい制約だらけの闘いを強いられたか了解出来るだろう。共に強姦を描いた箇所を切り出してみる。おんなを我が物にしようと狙う男の目に硬い光が宿ったところを起点とし、情交を果たし終えどちらかが背を向けて立ち上がり下着を付けた瞬間を終点と捉えたとき、手塚の【きりひと讃歌】の性愛描写は全部で19コマ、4頁であるのに対し、石井の【白い汚点】では33コマに渡って描かれ、倍の9頁を費やしている。(*3) (*4)
インターネットはもちろんのこと、レンタルビデオショップもない時代であった。連続して見える、劣情を烈しく誘う絵づくりを求められたことは否めない。手塚マンガとは根本的にニーズが違うと言われればそれまでだが、石井の場合、この連続して見える絵の調子は雨に煙った波止場で展開される銃撃戦であれ、夜の新宿の裏通りでの刃(やいば)きらめかせる死闘であっても一切変らないのである。
一般的な漫画の倍の密度をひとコマごとに求め抜いてしまう石井のスタイルは、裸体か着衣かを問わず、肉体描写に大量の時間を割かれてしまい、その分物語は粘性を増していくのだし、登場人物の来歴や思想的背景を説明する間を次々に奪っていく。その果てに何が起きたかと言えば、石井の作品には“死角”が増したのである。
人物造形に際して石井は“背景”を意識して隠さなければならなかった、つまり、見透しの利かない人物像と先の読めない景色を陸続と生み落とす羽目になった。“見せられぬこと、語られないこと”を内に抱える相手と向き合い、目を凝らし、耳を澄まそうと試みるおんなや男を山のように描くことになったのだ。
思えば幼なじみや係累でもない限り、いや、たとえ近しい友や親兄弟であったとしても、人と人とは“死角”を抱え込んだままで出逢い、会話し、そして離れていくしかない。何が起きたのか、どんなものを見て何を聞いたのか、それに対してどう感じたか十分には解らぬまま、人と人とは今日も膝を交える。挨拶を無理にも交わして、“死角”と向き合わねばならない。そんな現実と大変よく似た性状の、“書かれていない事”が日常化した世界を石井は描き続けている。それが読み手のこころを共振させ、物語との同化を推し進めているように思う。
【雨のエトランゼ】(1979)の村木のように、あるいは『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)の津田寛治のように、はたまた『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)の竹中直人のように、目を細め、前かがみになり、親身になって相手の“背景”を探るという姿勢を石井の劇中人物はごくごく自然に行なっていくのだが、考えてみれば人と人が向き合うときには、そういう“裏読みのまなざし”なり“丸まった背中”がまず先に有るものだし、そうあるべきだろう。“見えないもの”を気遣いながら日常を歩む者にとって石井の劇は、フィクションの域を軽々と越えた地続きの暁闇(ぎょうあん)をもたらしている。
(*1):実は『甘い鞭』と最も似た面持ちの劇画作品は、「漫画タッチ」連載の【魔奴】改稿版(1979─80)である。世間から孤絶した森の奥のモーテルを舞台にしており、地下空間の壁の奥には母親の亡骸がひっそりと隠されているのだった。エドガー・アラン・ポーや化け猫映画によくあった壁への埋め込みをイメージの源流とするようだが、ヒッチコック『サイコ PSYCHO』(1960)の系譜でもある。軸足を広げると、『甘い鞭』はまた異なる光を放つように思う。
(*2):石井隆INTERVIEW 映画という「死に至る病」 「キネマ旬報」2013年6月下旬号 No.1639 40頁
(*3): 手塚治虫マンガ全集「きりひと讃歌」④ 講談社 36-39頁
(*4):「石井隆自選劇画集」 創樹社 1985 101-112頁
視座をおんなの側から男へと移して、『甘い鞭』(2013)を眺め直すことも一興である。
『甘い鞭』で語り手は、誘拐犯である男の家族が不協和音を奏でている、いや、譜表(ふひょう)に終止線を引くようにして断絶した事実を明かすのだった。大石圭(おおいしけい)の原作(*1)でも、それは変わらない。家族の分裂と崩壊を招いた一因が自身の不甲斐なさ、能力の欠如にあると長男は捉えており、終始自責の念に襲われている。幾つか抜き書きしてみれば、男がどれ程の深傷を負っていたか解かるだろう。状況説明の域を越えている。くどくどとしく連なって木霊(こだま)を成し、執拗に物語を覆っていくのだった。
「かつて勤務医の夫妻が暮らしていた家で、数年前、母親が亡くなったあとは夫妻の長男がひとりで住んでいるはずだった。」(21-22)「勤務医だった彼の両親の仲はひどく悪く」[153]、長男は「3年連続で医大の試験に落ちてしまった。両親はひどく失望し、その直後に離婚した。」[173]「離婚によって夫が家を出て行き、残った妻が何年か前に病気で亡くなって」[106]いる。「外科の勤務医だった父が離婚によって家を出て行き、内科の勤務医だった母が病気で死んでから」[150-151]男は隣家の若い娘を誘拐し、地下室に監禁して自由にする邪まな夢を抱き、それを実行するのだったが、「眠るとすぐに夢を見た。もうとっくに死んだ母親の夢だった。」[372]
石井は上の文言を直接描写することなく、ナレーションにも極力盛り込まず、かどわかされた少女に角度と焦点を絞ったシンプルな構成としたのだったが、先の通りで地下室の荒廃ぶりは建屋の主(あるじ)の精神の座礁を如実に語るのだったし、劇中の幾つかの描写からはこの藤田赴夫(中野剛 なかのつよし)という男に関して石井が軽々しく捉えておらないどころか、実に丁寧に差配して劇への定着を図っているのが読み取れる。終幕で私たちは、ああ、この男は『ヌードの夜』(1993)の行方(なめかた)(根津甚八)と似た膨らみと色相を担わされている、と唐突に気付かされもするのだ。
何より中野剛という俳優の起用そのものが、石井隆という作家の柔らかな特性とまなざしを明瞭に示すのである。指こそ明瞭に差されてはいないが、『甘い鞭』をひも解く上で欠かせない最大の“異変”の横たわるのを見落としてはならない。
『甘い鞭』は誘拐と密室での監禁、終わりの見えない性暴力という陰惨なパーツを内包する劇であるから、「15歳の高校一年生」[19]であった被害者を演じ得る女優はそうそう見つからない。設定を17歳に底上げした上で20歳の壁を超えた間宮夕貴(まみやゆき)に演じさせて突破した訳だが、ならば対峙する藤田という男の年齢も多少のかさ上げなり“ぶれ”があっても構わない道理だ。されど、「30歳の無職の男」(22)をプロフィールに従えば40代中盤に差し掛かった中野が演ずることは、いかにも“不自然”な登用だろう。本来ならば、前作『フィギュアなあなた』(2013)の主人公を演じた柄本祐(えもとたすく)あたりを使って良いのだ。
武道で鍛え抜かれた中野の肢体はしなやかさと強靭さを纏い、実に見栄えのする外観を具えている。そこに惚れ込み、また、諸条件に照らして年齢には目をつぶったものだろうか。大石の原作の細かい部分を軽視して、結果的に「甘い鞭」という物語を石井は改悪したものだろうか。私たちは原作を同じく持つ『花と蛇』(2004)の“不自然さ”をここで思い返すべきだろう。あれだって原作では50代の田代一平が、映画では95歳という異常な設定となっていたではないか。
私見ではあるが、原作から映画『花と蛇』へ移行するにあたって生じた40余歳という段差は、連載が開始された昭和37年(1962)当時から映画公開までの歳月を計算し、加算したものだ。“未完”の原作世界が今もずるずると続いていたら、あの誘拐犯はどうなっているかしら、という一点から発想を膨らませている。石井は原作への献辞の意を込めると共に、人が人に執着することの陶酔、情欲の奈落、恋慕の地獄を語っている。
上梓されて数年しか経っていない大石の「甘い鞭」の場合、もちろん意味合いは違ってくるのだが、深慮が働いて地平が捩じ曲げられたのは違いない。「3年連続で医大の試験に落ちて、両親はその直後に離婚し」、「残った母が何年か前に病気で亡くなって」しまい、気付けば「30歳の無職」の身になっているのでなくって、なんと映画での藤田という男は40代の中盤まで幽閉に等しい酷(むご)い扱いを受けていた訳である。原作の時間軸は創り手のまなざしに応えて一気に軟らかさを増し、引き伸ばされ、十年以上の空白の歳月が真っ赤な口を開いて男を呑み込んでいる。
(だからこそ地下室は黒かびに覆い尽くされもしたのだ。だからこそ、貯金は底を尽き、原作にはいた家政婦も存在感を消し、娘のために差し出した一個の林檎も貧相な安物となったのだ。季節外れとはいえ、あんな果物を買い求めるしかなかった男の懐具合は推して知るべしだろう。籠城に限界が迫り来ている。)
脱出の際に男を殺めてしまったことで17歳の奈緒子は呪縛され、家族はそれをきっかけに崩壊し、15年もの間ずっと迷走を続けている。背中や尻を何ら事情を知らぬ倶楽部の客に鞭打たせ、その中で自問自答して過ごすのだったが、その歳月と同じ厚みと長さの時間“15年もの間”が石井の手により藤田という男に付与され、彼を記憶に縛り付け、傷めつけている。修羅の坩堝(るつぼ)に蹴落とされたのは奈緒子というおんなだけでなくって、藤田も同様なのだった。どちらかと言えば添え物に近かった冷徹な男は息を吹き返して、“取り残された地獄”を延延と味わうのである。(壁の傷は母親の介護と死に耐え切れず、男が黙々と狂気の瞳で穿ったものではなかったか。その幻影を透視し得たとき、物語全体の色相は本来の石井らしいメロドラマへと転じるのではないか。)(*2)
ひとを殺めて(ひとを失って)、15年近い年数を経てもなお幽閉は続いていく。もしかしたら自身の心拍が停止するまで喪失感は霞むことなく、ありありと遠い記憶は再現されて頭と心を責め苛むのではないか。人の誰もを“別れ”が襲うが、切れ目なくその後に連なる“入獄”の厳しさをこそ『甘い鞭』は訴えて見える。
(*1):「甘い鞭」 大石圭 角川ホラー文庫 2009 括弧内は引用頁数
(*2):地下室を支点として両翼に、ひとりのおんなとひとりの男は同等の比重で配置された。名美と村木にも似た内実をようやく蓄え、互いをどこか似た者同士と視止め合い、石井世界らしい微妙な間合いを形成するのだった。
内藤昭(ないとうあきら)は大映の中軸を担った美術監督であるが、自身の仕事を総覧するインタビュウ本で次のような発言をしている。「リアルだけで作ってもしょうがない。ある観念上のポイントを見つけなきゃいけない。ポイントというのは雑多なリアルなものの中で何を核にするかを見つけるということでね。一見リアルに見えながら、観念的な要素が入っているとか、観念的でありながらリアリティがあるとか、両方ですね。」(*1)
石井作品の背景とは、まさにこの一点を際立たせたものだ。リアルと観念の境界に築かれ、蜃気楼さながらにゆらめいては観客のまなざしを屈折させていく。また別の瞬間には霧となって澱(よど)み、本来在るべきものを視界から隠していく。不穏さと甘美さが入り混じった悪夢的な気性を具えている。
『甘い鞭』(2013)の地下空間やひび割れは、上の内藤の言を借りれば脚本の“ポイント”なり“核”をスタッフが咀嚼し、腹におさめ、血肉に育てて観客に示した物だ。深思(しんし)に値する舞台と思う。気持ちをもう少しだけ馳せたいし、そこまで拘泥しなければ往々にして石井の劇の肝となる“見えざる場処”へと到達することは難しい、とも考える。
少女(間宮夕貴)が引きずり込まれた際に、既に地下室の壁には異常がはっきりと見止められるのだった。十五年後には、それが壇蜜演じる主人公に憑依した夢魔のごとき物であるにせよ、崩壊が進んで漏水さえ起きている。ひび割れが側壁を貫通する程も生成なって、建築物として危険な水域に入ったことを暗に告げているのであったが、劇の当初からどう見ても“不自然”で硬い面持ちのへこみ様なのであった。一体全体、いかなる経緯をたどって“あれ”は産まれたものだろう。
想像力を働かせた末に浮上するのは、以下の三通りの景色である。
1.建設に当たって施主が設計を無視して、あのような亀裂を強引に作らせたのではないか。刀傷(かたなきず)を模したか、それとも女陰なのかは判らないが、奇妙でかさばる木型をあつらえ、枠板(わくいた)の向こうに打ちつけ、コンクリートを流し込み、養生(ようじょう)の後で壁から型を抜き取って完成させた特殊な“装飾”じゃなかったのか。側壁の厚みが全く不足しており、周辺土壌からの漏水が始まってしまう。装飾だったものは、いつしか本物の亀裂へと育っていく。
2.斜め方向に走っている事から、あれは“剪断(せんだん)ひび割れ”が元々あの位置に生じたものと推察される。建屋全体の荷重を支え切れなかったものか、それとも地滑りのような外部からの大きな圧力によって壁面に剪断(せんだん)力が作用したのだった。損傷や漏水が危惧され、湿潤型のエキポシ樹脂や超微粒子セメントなどで早々に塞ぐつもりだったのだろう、ひび割れに沿って劣化したコンクリートの表面をU字型にえぐり取ったのがあの異様なへこみであった。いよいよ充填材を詰め込む段になって何故か作業が中断してしまい、勢いを得た漏水は鉄骨とコンクリート素材を次々に劣化と膨張に追い込み、亀裂を押し拡げて行ったのではなかったか。
3.それ程重大な異変が生じていなかった壁面に対し、何者かの手により穴が穿(うが)たれていったのではないか。がつがつと壁を貫通するまで掘り進められてしまい、当然ながら漏水を招き、亀裂の幅と深さが拡がっていったのではなかったか。
いずれも身勝手な妄想に過ぎないが、仮定されるそれぞれの景色には共通点がある。「破壊」へと雪崩れ込む力だ。圧が高まり破裂寸前となった「狂おしさ、猛々しさ」だ。1.で思い描かれるのは戸主の常軌を逸した行動、内在する暴力志向、同居人を拒絶する暗黒願望といったもので、自身と家庭を内側から崩していく。2.で思い描かれるのは建物をねじ曲げ、ぺしゃんこにしようとする運命の潜在的且つ不可避な力である。住まう人間の心も身体も当然潰されていく。3.で思い描かれるのは孤立した魂が崩壊の際に発する雄叫びである。どれが正しいとか間違いではなくって、どれもが同じ色調で染め抜かれている点がここでは大事だろう。家屋と家庭の崩壊しつつあることを訴え、固く集束するところがある。
私たちは荒んだ監禁部屋を被害者であるおんな(檀蜜、間宮夕貴)の胸奥に居座る洞窟と捉えがちであるのだが、こうして考えてみれば誘拐犯である男の心象風景としても十分に成り立つ訳である。おんなの側から男側へと視座を移動して、『甘い鞭』という物語を眺め直す時間に私たちは踏み入っていかねばならない。
(*1):「映画美術の情念」 内藤昭 聞き手・東陽一 リトル・モア 1992 102頁
参考書籍:「徹底指南 ひび割れのないコンクリートのつくり方」 岩瀬文夫 岩瀬泰己 日経BP 2008、「長寿命化時代のコンクリート補修講座」 日経BP社 2010、「図解 コンクリートがわかる本」 永井達也 日本実業出版社 2002 「コンクリート技術用語辞典」 依田彰彦 彰国社 2007