2020年9月13日日曜日

“果てしなき流れの果て” ~石井隆の時空構成(15)~

 


 石井隆の作品群は、互いに共振し合いながら繋がっている。視界から外れて忘却しかけている過去の単行本を手に取り、コマを注視し読み進め、そこでようやく見えてくる物がある。人間とはなにか、私たちのこころとは何かを「探索」し続ける道程であることを、数篇の劇画と映画を例に上げて説明した。

 石井は今なお調査と分析を続行している。近年の映画作品においても手を休めていないのである。「待ちわびる」という行為に際しての拘束時間が伸長されて、「実験機」に選ばれた劇中の登場人物はその都度凄惨きわまるドラマに身を捧げてのたうち回り、魂の変容する様子を生々しく提示する。

 たとえば映画『花と蛇』(2004)で原作の設定を遥かに越えた年齢で周囲から「まれびと」と称される老人などは、あれは半世紀に渡って待ちわびた人間の末路を体現してみせたものだ。ダンテ・アリギエーリの「神曲」に着想を得た『フィギュアなあなた』(2013)で、主人公の男を廃墟ビルディングで待ち構えて支えるおんなは古代詩人ウェルギリウスの役割だから、そのダンテの原典に従えば千年といった長い歳月を冥界で過ごした者になる。劇中にて点描(フラッシュバック)される現実描写から読み解けば千年という設定はさすがに無いにしても、石井による「待ち時間の伸縮」が遂にそこまで至った、つまり、生死(しょうじ)の境界さえ破ってしまったという解釈は我々の胸を熱く湿らせるのに十分だ。

 絵筆を持って画布に向き合うに当たり、モデルとなる人物に後退するように命じる。背後には底無しの暗渠が広がっているにも関わらず、もう少し向こう、あと数メートル奥に行ってくれと小声で命じながら構図を練っていく。モデルは健気にこれに応じていくのだけれど、いつしか命じる方も命じられる方も懊悩を極め、これは地獄巡りに他ならないと考えてしまう。

 観客のこころに沁み入る物語とはそうあるべきではないか、と石井は信じている。物語を書くとは、映画を作るとはそこまで過酷なものであり、安易に受け止めては罰が当たる。人生を賭して「魂のこと」に取り組んでいる作り手に対し、私たちも真摯に見つめていくことが肝要だし、愉悦もより増すかと思われる。

“延びていく時間” ~石井隆の時空構成(14)~

 


 「隔離された一角」でひたすら作品に向かい続け、「物の描写や空間の変形」が常に起き続ける石井隆の世界。劇画【天使のはらわた】(1978-79)の最終話で特筆すべきはそこで生じた「時間の伸縮」についてだ。

 『天使のはらわた 赤い教室』(1979)の極めて知られたおんなの台詞「私があなたを待っていたのは、たったの三時間よ、たった……の……」(*1)が物語るように、ドシャ降りの中央公園におんなは午後七時前後に到着し、十時を回ったことを確認してその場から立ち去っている。【天使のはらわた】の最終話において石井はそれを大幅に上回る時間をおんなに与えている。

 その日、昼過ぎに目覚めた男に遅い朝食をおんなが勧めてまもなく友人が訪ね来て、そこで三人は衝突する。男ふたりが転がるように部屋を出て行き、その背中を茫然と見送った後におんなは旅支度に入るのだった。男が深く傷ついた身体でようやくアパートに戻ったときには既におんなの姿はなく、素人なりの応急処理をして休息する男のそばの目覚まし時計の針は午後4時30分過ぎを指している。

 アパートの窓から新宿の高層ビルの林立する様子が墓石のように眺められることから、おんなが上野駅に到着したのはどう考えても同時刻帯かそれより少し遅れた辺りであろう。話は午前零時直前の最終列車の出発場面で幕を下ろすから、指折って数えれば実に5時間以上に渡っておんなは待たせられた事になりはしないか。

 明確におんなの足取りが分かるコマを探せば、駅のホームでおんなの見上げる時計は午後9時を過ぎていて、そこから最終列車の出発時刻まで数えれば「たったの三時間」とほぼ同じになる点も実に面妖である。はたしておんなの待ち時間は3時間であったのか、それとも5時間以上であったのか。

 そもそも人間が人待ちをすることの耐久限度はどの程度であろう。レストランで会うと約束し予定の時刻から三十分もしたら弱気な私は溜め息が漏れる。相手の身に何かあったかと心配し、それとも機嫌を損ねる事でも何か言ってしまったかと怖くて堪らない。【天使のはらわた】第三巻の頁をめくりながら冷静に我が身に照らして考えれば、堪え性がない自分ならどちらに転んでも相当にしんどく到底耐えられそうにない待ち時間だ。

 石井隆はおんなを「北行き」の列車の出発ごとにホーム移動を繰り返させる念の入りようで、その忍耐する様子を克明に描き続ける。劇中に登場する時刻表は冊子形式であり、その表紙から弘済出版社の「小型全国版の総合時刻表 1978年9月号」と分かる。同じ物は手元にないが、日本交通公社版があるから当時の上野駅午後7時以降発の「青森方面行き」列車とホームを目で追えば以下のようになる。最終話の舞台が翌年1979年1月と仮定すれば前年10月の改正ダイヤで出発時刻は変わっているから正確にはこの通りではなかったかもしれないが、本数はそれほど変わるまい。おんなは点々とホームを移動して過ごしたのだ。それはどれだけの心的負担をもたらしただろう。

東北本線<下り>(上野─福島─仙台)(1978年9月のダイヤ)

(青森行き)

19時10分発 14番ホーム

19時27分発 13番ホーム

21時08分発 15番ホーム

22時00分発 15番ホーム

22時20分発 14番ホーム

22時41分発 14番ホーム

22時49分発 17番ホーム

(以下は青森方面行き)

23時15分発 17番ホーム 仙台行き

23時32分発 15番ホーム 盛岡行き

23時41分発 17番ホーム 仙台行き

23時55分発 16番ホーム 仙台行き

 視線は黒光りするレールと赤黒くなった敷き石辺りをさ迷っている。ベルがけたたましく鳴り響き、おんなは次の列車の出発ホームへとうつむいて歩き始める。十本以上の列車を見送り、乗客たちの好奇の視線に耐えながらホームを転々としたおんなの心情を思うと悲しみを越えて恐れに近いものを抱く。

 『天使のはらわた 赤い教室』でのおんなは「三時間」で崩壊を来たし、二度と男の手の届かぬ処へ行ってしまった前例をここで振り返らねばならない。あの時よりも過酷な時間の延長を強いられた「探索する実験機」であるおんなの魂は一体どうなったのか。【天使のはらわた】の最終頁に至る何枚かを流し見すれば、ありがちな恋人の邂逅場面と捉える読者が多いのだが、もしかしたらそこに「見えないもの」が「自然なかたち」で載っていないだろうか。あれは本当に幸せな結末であったのか。

 時間を伸縮させ、場処を移動して、愛するとは何かを突き詰めていく石井隆の探索は残酷で極めて険しい軌跡を描いて見える。

(*1): 「シナリオ 天使のはらわた 赤い教室」第1稿 「別冊新評 青年劇画の熱風!石井隆の世界」1979所載 第2稿(シナリオ1984年9月号所載)においてもシーンナンバーこそ違うが一字一句同じ

“時計の前で待ち続ける” ~石井隆の時空構成(13)~


 これから劇画【天使のはらわた】の最終話について触れようと思う。事前知識を持たずに物語の起承転結を味わうことが観賞の必須条件と考える人は頁を閉じてもらいたい。私自身はその辺りに関して若い時分から無頓着で、結末を先に知ることに今でも抵抗を持たない。そのぐらいで作品の魅力が薄れるのなら、最初からその程度の代物と考える。もしかしたら映画館の仕組みが今のようになる前、途中から観始めて巻末を先に知り、その上で冒頭から眺めて初見の地点に戻ったところで席を立つことも割合と普通だった時代に暮らしたせいかもしれない。面白いものは一部分を切り出しても不思議な力を帯びて人を魅了するものだ。

 さて、石井隆が日活の求めに応じて『天使のはらわた 赤い教室』の脚本を執筆し、それが曽根中生監督作品として公開されたのが1979年の1月であった。石井はその第一稿と第二稿を三ヶ月程前の1978年10月に仕上げている。(*1)

 既によく知られるように脚本への無断加筆と「共同脚本」名義の並列表記から曽根と石井は衝突し、仲介者と作品を気遣った石井が矛(ほこ)を収めて乗り切った形だが、石井は完成なった映画を何処で観て何を思ったものだろう。先の電光掲示板の描写ひとつを取っても、曽根と石井では物象の捉え方に段差がある。試写室の可能性は高いが、映画館にも足を運んだかもしれない。群衆の反応を覗(うかが)いながらどんな感慨を抱いたものか。

 脚本執筆とその後の綱引きの丁度同じ時期に、石井は【天使のはらわた 第三部】を執筆中であった。(*1) 話は終盤に差し掛かっており、最終話の少し前の回では雪の描写がある。主人公の男が友人を追って白い町を走っている。やがて男は数センチの雪で地面が染まってみえる淋しい墓地へと至り、並んだ石の天面はいずれも雪が笠をつくって白く膨れているのだった。男はそこで凶刃に倒れる。この墓地のカットは石井自身が野外で撮った取材写真を加工したものである。

 便利になったものでインターネットのNTTレゾナントの検索プラウザ「goo」を使用すれば、特定地域の過去の天気を直ぐに調べることが出来る。当時都心に雪が降ったのは1979年1月13日土曜日の一日限りであるから、石井がもしも墓所の撮影をリアルタイムに行なっていたとすれば、1月13日か14日の早い時分ではなかったろうか。墓所の場面を含めた回はこの天候をひとつの材料とし、半月程度かけて綾織られた計算になる。

 最終話が「ヤングコミック」に掲載なったのは「(1979年)3月14日号」である。この手の号名は発売日を表してはおらず、一週間または二週間前に店頭に並ぶのが慣例であったから、3月初旬には印刷なって読者の手に渡っている。隔週発行の体制であったから、石井が脱稿したのは2月の下旬頃であったろう。

 何が言いたいかといえば、石井が【天使のはらわた】の最終話を描くための構想、ネーム制作、編集者との打ち合わせ、取材、下書きといった一連の作業はまさに『天使のはらわた 赤い教室』の公開から約1ヶ月経過した頃に当たり、つまり、石井の内部に『天使のはらわた 赤い教室』をしきりに反芻し、「探索する」時間の只中であったという点である。

 劇画家としての石井の思考は脳内での映像の浮上と言葉への置き換えで成り立つから、脚本執筆において過剰で鮮烈なイメージが溢れ出し、それが呼吸し鼓動を打ったに違いないのだが、曽根の演出を目の当たりにした石井が発奮し、「隔離された一角」である己の領域たる「劇画」のなかで、「映画」を撮り切ろうと模索するうちに【天使のはらわた】の最終幕はより『天使のはらわた 赤い教室』と共振していったのではないかと推察する。

 友を追って男が部屋を飛び出したアパートの小部屋にひとり残されたおんなは、忌まわしい過去を男に知られてしまった絶望感に顔を硬直させながら、けれど、もう一度だけ「待ってみよう」と考えるのである。もう男は自分を見限り、この背中を追っては来ないのではないか、そうやってこのまま生き別れる事しか道は無いのではないか。いや、男はいつだって突然に自分の前に現われ、沈鬱な記憶の海に溺れかける自分を救おうとしたではないか。

 反発するふたつの心を抱えたおんなはトランクに最低限の生活道具を押し込むと、上野駅へと出立する。戻って来た男へのメッセージ代わりに、最初に出会った頃の学生証を栞(しおり)代わりに数ヶ月遅れの古い鉄道時刻表に挟んで部屋に残す。死んだ友人の故郷青森へ行きたいと言っていたじゃないの、まだ気持ちがあるなら駅で待つから来てもらいたい、一緒に北行きの列車に飛び乗ろう。気持ちの重圧に押しひしがれる寸前のおんなはもはや具体的な言葉もメモせず、黙って部屋を出て行くのである。

 私たちはここで「腕時計を持たないおんな」が「仰がなければ見られない高い位置にある」「大きな時計」が一分ごとに時を刻む様子に時折目を凝らしながら、「必死の思いで相手を待ち続ける立ち姿」を目撃する。

 暗澹たる過去に悶え苦しむ一個の人間が、その手首を、指を握ってもらいたいと念じつつただただ待ちわびる様子が20頁を越えて展開されており、読者の胸を熱く揺さぶっていくのである。『天使のはらわた 赤い教室』の脚本では十行程ほどの状況説明の場面だったものが、石井の精神作用で大きく拡張され延延と続いていく「ひと待ち」の様子は圧巻というやや古風な形容を用いても大袈裟ではなく、演出家としての石井の器を見せつける物となっている。

 性愛を主軸に据えた都会の恋情劇という「隔離された一角」で作品を描きつづける石井を前にして、同じ(ように見える)ものを黙々と掘って店頭に並べていく工芸家、たとえば鮭を咥えた木彫りの熊だったり将棋の駒であったりを背中を丸めて作っている職人の姿をついつい連想してしまいがちだが、実際は「物の描写や空間の変形」が絶え間なく起きている。

 物作りとは人間づくりであり、また、血肉の提供である。よく言われる言葉だが、石井隆には本当にそれが合致するように思われる。

(*1):「石井隆作品目録」 「別冊新評 青年劇画の熱風!石井隆の世界」 1979 所載