道中の手慰みにと買い求め、列車の座席で漫然とめくった手塚治虫文化賞20周年記念誌(*1)が、予想外に胸にせまるものがあった。手塚が世を去ってから設立され、これまで多彩な描き手がその栄に浴している。手塚作品とその人柄について存分に咀嚼し、想いを馳せる受賞者の絵で綾織られ、特に手塚本人に向けられたまなざしにはにじんで熱を帯びる追慕の念が認められた。
初めて目にする若い漫画家もいた。トップランナーの顔を知らないというのは恥ずかしい話で、歳月の無常に若干たじろぎもしたが、読後の歓びと愛おしさを黙っているのは惜しい気がした。誰かと共有したくて、漫画執筆を生涯の趣味と定める年長の知人宅まで持参し、半ば押しつけるようにして手渡したのだった。
その際に君はこんなのが好きだろう、遠慮は無用、貸して上げるよ、と復刻本何冊かとDVD三本を預かった。中には驚いたことに、権藤晋が石井隆にしたインタビュウ「記憶の映画」に登場していながら鑑賞叶わずにいた邦画二本が含まれる。どういう導きでこうして目の前に立ち現われてくれるものか、嬉しさと不可思議を半分ずつ抱えながら家に帰り、早速それを眺めて過ごす休日となった。
どちらも1950年代中ごろの作品で、石井がこれを公開時に観ていたとすれば十代になったばかりの多感な少年期に当たる。ヒトデ型の宇宙生命体が、青く濡れ燃える燐光を粘つかせて料亭や庭先といった生活空間に侵入する。一方はハエかアブほどに背丈が縮まった元軍人がぶんぶんと飛び狂い、凶悪な殺人犯罪を繰り返す、そんな内容の特撮映画だった。(*2)(*3)
センス・オブ・ワンダーという言葉が頭の奥で反響する。銀幕の向こうではまっしぐらに地球へと突き進む遊星が発見され、地殻変動と天変地異の激化が予測される。はたまた、凶暴な縮小人間に警戒するよう警察と新聞社が世間への周知を図るのだけど、それらをめぐって街が騒然となり人々が逃げまどう様子が点描されていた。それを観ながら、客席との距離がやや感じられる“夢物語”という意味ではなくって、見つめる人のこころの驚愕なり恐れとしてのワンダーをしきりに思う。
テレビジョンは皆無に等しく、スマート端末もない時代であるから、劇中での情報伝達は自ずと新聞の活字や立看板、ラジオ放送に限られるのだけれど、現実世界においてもそのように視覚情報が極端に限られた時代に暮らしていた観客にとって、そして石井少年にとって、映画がもたらす凶々しい光景と音はどれほどの脅威であったろう。
日本放送協会(NHK)と日本テレビがテレビジョン放送を開始したのが1953年(昭和28年)であるから、上の二本が作られた以前ではあるけれど、受像機の実質的な普及は皇太子御成婚のあった1959年を待たなければならなかった。石井の郷里仙台での初放送(NHK仙台放送局)は東京から遅れて三年後の1956年(昭和31年)であり、民放(東北放送)はさらに三年遅れの1959年(昭和34年)からの発信だった訳だから、石井の十代初め頃というのはテレビジョンが影もかたちも無かった日々と分かる。(*4)(*5)
石井とはすこし年齢差のある私の実体験においても、テレビジョンという家電品は途中参戦組であったのだけど、我が家に現われたその頃は番組表も充実しており、朝から晩までたれ流される動画に家族は染まった訳である。歌番組やスポーツ中継も当然あれば、天気予報もコマーシャルも並列式に送られて来た。ほの暗い灯かりに浮んだ茶の間という日常が嫌でも目のふちに居座る訳だから、ブラウン管で対峙した動画の数々につき没入することなく、幼いながらも客観視して、情報媒体と認識することは至極容易であったのだし、むしろ現実とは異質の、いわば贋物の魅力に当初から酩酊していたように思う。
私ら以降に生まれた人間の“動画体験”と石井世代の“映画体験”とは、だから抜本的にどこか異質なのではなかろうか。少なくともテレビが出現する以前の“映画”というのは、遠隔地の動く風景を映し出す唯一の媒体であったのだし、世間の目から隠蔽された犯罪なり性愛が束の間露出する淫祠(いんし)であった。食い入るように凝視め、千里眼を得たような愉悦と衝撃を観る側にもたらしたのではなかったか。
もちろん人は刺激にすぐに慣れてしまう動物だから、大概の客は嘘を承知で座席を埋め尽くしていたろうし、劇場に足繁く通った石井少年だってそうだろう。当たり前のことだけども、銀幕と現実を混同して精神衰弱におちいる事はなかったのだし、異様に感化されて犯罪者の輪に加わることもなかった。しかし、たとえば近作『フィギュアなあなた』(2013)の公開時のインタビュウにて当時の映画体験の衝撃を「観客は映画を見て驚く事に純粋だったし、製作側も驚かす事に純粋だった。純粋に怖がらせて、純粋に歓んでいて、僕も純粋に映画の中、スクリーンの向こうを信じたし、純粋に恐怖の宝庫だと思って通い詰めていた」(*6)と執拗に語ってみせる意識というのは、石井の映画鑑賞が娯楽の域を超えた魔の刻(とき)、通過儀礼であった事を示している。
実際、今回取り上げた“記憶の映画”の特殊撮影黎明期に作られたどこか微笑ましい映像を見つめながらも、思わず唸ってしまう凄惨な音と映像の饗宴が潜んでいた。それは椅子に縛られた状態で廃墟ビルの上階に捨て置かれ、その建物が地震と重力異常でがらがらと崩れ落ち始める恐怖と不安であったり、白昼、お堀端を歩いているおんなに突如背後から影が近づき、ワンピースの背中に刃物をぐっさり突き立て、痛みと困惑を眉間に刻んだ白い影がごろごろと堀の傾斜を転がっていく非情な場面なのだが、これらを観た十代はじめの少年の眼に世界は、そして映画世界はどのように映じたものか、さぞかし哀しく、むごたらしいものと信じてしまったに相違ない。
結局、そういう「記憶の映画」体験の積み重ねが、少なからず石井世界の基礎土台になったというのも不思議はなく、つくづく石井隆とは映画の申し子であると思う。撮れば純粋に地獄をつくり、女優の手を引いて純粋に黄泉を歩かせたくなる。考えてみれば、これほど過去の映画に“呼応”する監督というのも稀有な存在ではないか。いまも映画界は優れた創り手を輩出しているが、ここまで映画のみに憑かれた人はそう多くはないように考えている。
(*1):「手塚治虫文化賞20周年記念MOOK マンガのDNA ―マンガの神様の意思を継ぐ者たち―」朝日新聞出版 2016
(*2):『宇宙人東京に現わる』 監督 島耕二 1956
(*3):『透明人間と蝿男』 監督 村山三男 1957
(*4):ウィキペディアに基づく
(*5): 「キネマ旬報」2013年6月下旬号「インタビュー 石井隆(監督) 映画という「死に至る病」」において石井は、「僕の家にはたぶん6歳ぐらいの頃にはテレビがあった」と答えるのであるが、その頃は放送が始まっていない。何も映らない受像機が置かれていたということであれば、それはそれで石井らしいエピソードになるだろうが、いずれにしても明確なのは石井の少年期は映画館の暗がりと共にあったという一点だろう。
(*6):同記事 41頁
人づてに水木しげる特集の評論誌が出たことを聞き、ウェブで取り寄せて読み終えたところだ。「貸本マンガ史研究」という160頁ほどの冊子なのだけど、各執筆者が丹念に記憶をたぐり、また、強い敬慕の念をもって水木の創作世界と切り結んでいて読み応えがあった。(*1) 石井隆の読者には馴染みの梶井純や権藤晋(ごんどうすすむ)といった論客が集って作家性を存分に紐解いているから、その点でも興味深い内容となっている。
水木が逝ってからこの半年、似たような企画の雑誌が書棚に出ては消えていったが、多くが妖怪草紙と玉砕戦の上辺だけを撫で回すのに終始していた。この本は一頁ごとに質量が宿り、趣きがずいぶん違っている。羨望すら覚える読書だった。ひとりの絵描きの死に際して、ここまで深慮にあふれた弔辞はそうそう編まれない。
彼らは戦後すぐの貸本時代からの熱心な読者であり、特に権藤は編集者として至近距離から水木とその周辺を見つめ続けた訳だから、自ずとまなざしは紙背に透っていき、作品の核たるものを浮き彫りにする。混迷の歳月を生きぬいた男、武良茂(むらしげる)という一個人を凝視し、その体内に溶け込むようにして想いを巡らしていく。ベタ塗りされた墨の向こうに潜むささやかな希望や怨嗟をありありと誌面に定着させる筆力があって、これを読むと読まないでは作家像はかなり違ってくるように思われた。
私が水木しげるにこだわっているのは、石井隆を読み進める上で避けては通れない作家と思うからなのだけど、その辺りの詳細は権藤もしくは山根貞男がいずれ世間に紹介してくれると信じるから、今は読者ならびに観客の目線に戻ってこの冊子「貸本マンガ史研究」の読後感を綴るにとどめようと思う。
水木について語られる文章を目で追いつつ、不安というか恍惚というか、ちかちかと瞬いて首を絞めにくる諦観が入り混じった気持ちになった。執筆者のずっと下の世代にわたしは属しており、彼らの経験したものの何分の一しか記憶の蓄えがない。昭和二十年代や三十年代の空気をよく知らず、四十年代も地上付近の匂いをようやく嗅いだ程度であるから、こんな自分に水木しげるを、いや、他の先達をふくめて何か語る資格はないという気持ちを引きずっている。本音を言えば、年長者にはどうしたって敵わないという気持ちが常にある。
権藤や梶井たちから少し遅れて生を受け、同じ政治の季節を過ごした作家が石井隆だ。その時代性を正しく理解し、分かりやすい言葉に転換し得るのは、もしかしたら彼ら世代以外には在り得ないのではないか、という思いがしこりのように育ってしまう。中でも権藤によってこれまで発表された石井劇画と映画に対する言及はまったくもって適確と感じるし、文節のひとつひとつが真っ直ぐな実弾となって射出され、おまえは全然見えてないよね、その目は節穴だなと胸を貫く。もっとも毎度毎度の被弾が心地好いからこそ、こうしてその名を書き綴っている次第なのだけれど。
銃創に怖々と、いや、幾らか嬉々として触れて頭に浮ぶのは、単に時代認識だけでなく、石井隆とその作品を語るスタンスというのは彼らのそれこそが正解であって、ここまで熟考し、粘り腰で磨きに磨かなければ、厚く層の堆積なった石井隆という稀人を“知ること”には至らない、という思いだ。
指先でプラスチックの部品を押し叩けば、こうしてモニター上には即座に言葉らしきものが連なる昨今、光の粒の集積と明滅を頼りにして、世界中の誰もが割合と気ままに、それほどの資金を投じることもなく文章を開示することが可能となっているけれど、その電気的な現象と作家の真の評価というのは天と地ほども開きがあって、両者の隔たりは容易には埋まりそうにない。
以下はこの号で水木作品を考究するにあたり、権藤が半ば出版業界に半ば読者に向けて説いている評論の心得なのだけど、これなどはまさに私のような半可通に対する銃弾として機能していて、読んでいて相当に痛かった。
「(他者の作品を)発想のヒントにしたらしいという指摘もあるが、何々にヒントを得た、何々に触発されて、何々から剽窃したといった、マニアの間のざわめきは、現実の作品を論ずる場合、いかなる意味ももたない。」(*2)
「今日まで数多くの“水木しげる論”を目にしてきたけれど、石子順造、梶井純、左右田本多、宮岡蓮二らの論考を除いて価値のあるものはひとつとしてなかった。右にあげた人々の論考がなにゆえに価値あるものであったかといえば、作品の本質に、あるいは作者の思想にどれだけ迫れるか、に力点が置かれているからである。そこでは、手前勝手な、恣意的な読み込みは極力排除され、批評にとって最も大切な“無私の情熱”が感得された。それは、作品や作家を第一等に尊重するという姿勢に貫かれていたことを意味するだろう。」(*3)
「手前勝手な、恣意的な“水木しげる論”の大多数は、ひたすら〈私性〉を露わにしているにすぎない。一見、マンガに即して語られながら、その実、己の〈好み〉が披瀝されたにとどまる。(中略)作品にとって本質はただひとつであり、従って、手前勝手な、恣意的な解釈は余分の価値以外ではあり得ない。なにゆえに、私がこうした事柄に言及するかといえば、水木しげるの作品が無限に拡大解釈されているからに他ならない。だからといって、石子や梶井らの論考が〈絶対〉であるといっているのではない。水木しげるの作品もまた、つげ義春の作品と同等に緻密に、注意深く検討されねばならないと思うのである。」(*4)
私性と好みを慎重に排除した上で情熱をもって作品に接し、作家の私性や好みこそを第一に読み解いていく。真の評論におけるその絶対性が語られている。私などはもう悲鳴を上げて詫びるしかない。「感想」レベルの駄文とはぜんぜん次元が違うものだと論されている。
だからこそあれだけ美しい作品解説が産まれるのだな、見習わなければならないと考えつつも、御覧のとおり、私性と好みという二本の櫂でようやく進んでいる小船のごとき有様であるから、さてどうしたものかと首をかしげてしまうのだった。水木作品をつげ義春の作品と同等に緻密に、注意深く検討されねばならないというのは異存がないし、石井隆の世界をやはりつげ義春と同じ地平に置き、その本質を探る姿勢もおそらく正しいだろう。方位だけはしかと定まるところでもあるので、今はギコギコとそこに向かって、漕げるだけ漕いで行ってみようと考えている。
(*1): 「貸本マンガ史研究」 第2期04号(通巻26号) 貸本マンガ史研究会 2016年8月15日発行
(*2):「家、ムラ、天皇制のもとで」 権藤晋 同 53頁
(*3):「水木マンガを読むために」 権藤晋 同 103頁
(*4): 同 103-104頁
夏の興行で気を吐く怪獣映画(*1)を観に行った。膨大な書き込みが今もソーシャル・ネットワーク上で進行中で、作品そのもの以上に世間の反応にまず驚く。ひと握りの人間の夢に何万、何十万もの人間が揺り動かされ、果てることなくざわめいている。称賛と同時にひどい言葉でけなされても、すべてを悠然と受け流して黙って見返している映画というこの媒体自体が、そもそも人智の及ばぬ領域のもの、神懸りした得体の知れぬ物なのだろう。
さて、こちらの映画の冒頭では、愛する家族を奪われた孤高の老科学者が東京湾上の小船から忽然と身をくらましている。入水したのか何なのか最後まで判然としないが、彼の怨みなり使命を託されたらしい水棲怪物が突如として出現し、関東平野に上陸、列島を北へ北へと縦断し始める。探せば話の種がいくらでも見つかる作品なのだけど、物語の大筋は家族の喪失と遺族の復讐譚なのであって、それも人間にあらざる者が敵討ちの役割を負う点が往年の化け猫映画にどこか似ているように思われ、いつしかそこに気持ちの先が集中している。
公開時に生まれてなかったり、寝ていて悪夢にうなされぬよう親が慮った節があって、正直言えば映画館で化け猫を目撃していない。東宝や大映の怪獣ものには足繁く通ったが、四谷怪談や百物語に代表される幽霊や妖怪ものは巧妙に遠ざけられて後回しとなってしまった。化け猫は石井隆のインタビュウに顔を覗かす常連であるのだし、権藤晋が聞き手となった「記憶の映画」にも題名を連ねていたから気にはなっていたけれど、DVDを入手して実際に観たのはごく最近のことだ。それも入り江たか子が主演するたった三本でしかない。
わずか数本を生かじりした程度であるから、先の黒い怪物と化け猫とを対比して大口をたたく資格があるとは思えないが、両者が道理をわきまえぬ“動物”の一種であって、感情や感覚の明暗はあっても十分に善悪を解するには至らぬ点は似ているように思うし、それ故に誰かほかの“人間”に仮託された復讐劇と比べて、周囲に及ぼす破壊と騒動がより一層大きく膨れる点も合致する。
私が観たのは『怪談佐賀屋敷』、『怪猫有馬御殿』、『怪猫岡崎騒動』(*2)なのだけど、特に最初の二本は素地である猫の本性そのままに妖怪が大暴れする感じが愉快だった。三作目の『岡崎騒動』は猫よりも亡者の霊魂が前面に出てしまい、毛色の違う幽霊噺に収縮したのが残念だったが、演じる方も演じさせる方も手探り状態の最初二作の混沌ぶりは壮絶至極であって、これならば少年石井隆の心をがんじがらめにしたに違いないと合点がいく。
首吊りしたおんなの白い影であるとか、夜叉の様相でにじり寄るおんなとか、雷鳴と稲光であるとか、斬られた弾みで宙を飛ぶ生首であるとか、後の石井世界、たとえば『GONIN2』(1996)であるとか【デッド・ニュー・レイコ】(1990)に通じる驚愕場面の釣瓶打ちであった。深夜に流星群を追うと、時にまばゆい光を四方に散らせて、ばっと砕けるようにして消えていく火球がある。理性なき者が暴れ狂うときの剛力というのはあれに似て、劇場の暗闇を絶対的に支配し、観た者の脳髄に強烈な残光を焼き付ける。
こうして脳内で石井隆の劇と化け猫ものを比べる時間を過ごせば、『GONINサーガ』(2015)の森澤という若い警官(柄本祐)に代表される孤児たちの境遇だって、一匹だけ生き延びて妖怪化する飼い猫と妙に似ていて、だんだんその顔が猫そっくりに見えてしまい、どうも全てに渡って血脈が通うように思われて仕方がない。近年の石井作品の骨太なおんなの造形についても、通底するイメージをそうっと潜ませていないかと勘ぐってしまう。妄想以外の何ものでもないのだが、石井作品に宿る独特の力を考えていく上で、往時の化け猫映画を結線させることは無駄ではないと思われる。
石井は劇画作品に時おり常軌を逸したおんなを描いてきた。【愛の景色】(1984)だったり【ジオラマ】(1991)がそれなのだけど、脚本や原作を提供するかたちで世に出した『ちぎれた愛の殺人』(1993 監督池田敏春)や【20世紀伝説】(1995 たなか亜希夫画)にて狂える名美をいよいよ登場させている。ただ、この時点ではまだ悲壮観がつよく漂うばかりの見姿であった。おんなから理性や感情を奪い、退行をもたらしており、どちらかと言えばこの時の狂気は、名美というおんなの体内に侵入した病魔の位置付けに留まっていた。
魂の軌道を外れ、奇声を上げて刃物を振り回す姿は異様な醜さがあるものの、まだまだ人間存在のはかなさを身に纏った存在なのだった。ところが2004年の『花と蛇』以降の石井の劇では、針は振り幅を大きくしているのであって、『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)や『フィギュアなあなた』(2013)に至っての狂人描写は、堂々たる押し出しを具えて胸を張り、立ちはだかる物に抗して猛進する構えだ。庇護されるべき精神迷走の状態に陥っているのではなく、まっしぐらに変容の道を極めようとする覚悟がともなう。タフな面相を同居させた美しく強い狂人が出現し、銀幕を支配している。
創り手にどのような心理的な変遷があったものか、当時あれこれ想像を巡らせた私たちであったが、石井のこころの奥に究極の美として化け猫がずっと佇んでおり、これに拮抗する発明として、超常現象の手段を取らずに究極の悲しみを発端とする狂気が劇中に配された、という捉え方も十分可能と思う。善悪を行動基準に定めず、感情の明暗だけを烈しく追い求める。人間に仮託された復讐劇と比べて圧倒的な破壊力を秘めた超人=狂人のそれを描きながら、石井隆は映画の魔性の極大値を模索している。
(*1):『シン・ゴジラ』総監督 庵野秀明 2016
(*2):『怪談佐賀屋敷』 監督 荒井良平 1953
『怪猫有馬御殿』 監督 荒井良平 1953
『怪猫岡崎騒動』 監督 加戸敏 1954