2014年5月16日金曜日
“浮彫”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[7]~
『天使のはらわた 赤い教室』(1979 監督曽根中生)の終幕、名美(水原ゆう紀)と村木(蟹江敬三)の想いは掴みどころを得ず、闇のかなたへ散り散りとなる。これに関して曽根の発言があり、伝え聞いて首を傾げた関係者の述懐が映画専門誌を飾る。双方の隔たりは大きく、さながら藪の中の様相を呈している。気持ちがざわめいてしょうがないから、『赤い教室』を再見することに決めたのだった。石井隆の脚本(第二稿)と照らしながら気になる台詞は巻き戻したりもして、舐めるように見入っていく。ゆっくりと時間をかけて二回観終えたところだ。
初見の際にどうして『赤い教室』を乱雑と感じたのか。結論から書けば、完成された映画は脚本と比して随分と雑(ま)ぜくり返されてあるのだった。曽根は大鉈(なた)を振るってシーンの順序(*1)を冒頭からひっくり返してみせ、複雑な接ぎ木も次々に行なっていてよく言えば変幻自在、悪く書けば刃物三昧が透けて見える。フレッツ・ラングやオーソン・ウェルズの作品をここで引き合いに出せば格好良いのだろうけれど、素直に白状すれば私の頭をよぎったのはゴア・ヴィダルの『カリギュア CALIGULA』(*2)だった。あれも相当だが、『赤い教室』もなかなか凄いことになっている。
意に反した細工がほどこされ、まるで違った印象の作品を産み落とすことは映画興行につきものだが、『赤い教室』においては監督の思惑に沿った脚色なり編集が為された訳だから不幸な作品とか異常な作品とは呼びがたい。三十年以上を経てたくさんの人の心に住み続けているのだから、むしろ幸せな作品なのだろうし、観客を楽しませたい一心で編集作業に没入し、粘りに粘った結果がこれであろうことは観ていて伝わるのだった。亀裂の入った鉄管を溶接する現場に居合わせたような、ねばねばした放射熱が顔を撫でる。
けれど石井隆にとってみれば、また、石井世界にとっては微妙な話と思うがどうだろう。一階に二階、二階の上には三階を着実に重ねながら物語を構築する作風がのっけから壊されているのを目撃し、温度の異なる場面が突如挿入されるのに私は慌てた。初見の際は確かに分からなかったし、脚本と照らし合わしてまで読み解く人はいなかっただろうから、大方の人が呆然としてやり過ごしたに違いない。その中でひとり石井だけが、観客の後頭部越しにはらはらしながら銀幕を眺めたはずである。その胸中を想像すると、なんだかそれだけで息が苦しくなる。
脚本の共同執筆を曽根が途中から希望し、逡巡のはてに石井は企画者の立場を慮って折れた。脚本の第二稿を撮影所に残して、実質的に距離を置いたのである。(*3) 『赤い教室』は結果的に観客から支持されて「天使のはらわた」はシリーズ化されて人気を誇ったわけだし、脚本家として石井を起用する動きに弾みは付いた。そんな流れの末に現職の映画監督業を石井は射止めたのだし、承知の通り、『死んでもいい』(1992)、『ヌードの夜』(1993)、『GONIN』(1995)、『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)といった傑作が陸続として出現し、私たちはそれを大いに愉しんだ。苦渋の決断であったろうが、『赤い教室』を空中分解させなかった石井の姿勢は正しかったように思う。
そのように頭では分かっているのだけれど、だからと言って曽根中生版『赤い教室』を無条件に礼賛するばかりでは、やはりつまらない気もする。少なくとも石井隆の世界に魅了され、その作家性をユニークに感じて注視を怠らない映画愛好者には石井版『赤い教室』と曽根版の違いを知ってもらい、石井の本来描こうとしたドラマの実の部分に触れさせたいし、そうあるべきという気持ちが勢いづいて行く。
(*1):2014年5月12日の毎日新聞の「悼む」には蟹江敬三を送る曽根の短文が載っている。出逢いの場を作った『赤い教室』の撮影現場を振り返り、飾り気のない調子で蟹江の様子を綴っている。人と人が同じ時間を共有し、同じ空気を吸っていくことの心強さ、嬉しさ、置いてきぼりにされる切なさ、さみしさがよく伝わる内容だった。そこで曽根は『赤い教室』の撮影初日が多摩川の川原であったと書いている。これは石井の脚本の冒頭の場面であるから、順撮りを意識して現場が動いた可能性が高いと推察している。
(*2): CALIGULA 監督ティント・ブラス、ボブ・グッチョーネ、ジャンカルロ・ルイ 1979
ゴア・ヴィダルの脚本に沿って再編集した仮想ディレクターズカットがThe Imperial Editionの名称で発売されている。上映された版と再編集版では、多くの共通する素材が使われているが趣きがまるで異なっている。好みは人それぞれだろうがこの再編集版を観るとどうしてあれ程の芸達者たちが招聘されたか理解できるし、人物像が見事なレリーフとなって列を成し、それぞれの苦悩や焦燥が明瞭に伝わってくる。映画製作の面白さと難しさが呑み込める絶好の教材になっているから、一見の価値はあるように思う。
(*3):「シナリオ」1984年9月号(シナリオ作家協会)のインタビュウで石井は次のように答えている。「二稿目までは直したんだけど、決定稿にするための直しの作業には、行き違いがあって加われなくて、決定稿が出来上がってから知らされまして」 89頁
2014年5月11日日曜日
“稜線をむすぶ”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[6]~
『天使のはらわた 赤い教室』(1979 監督曽根中生)の題名をウェブで検索すると、“傑作”という言葉が即座に返る。主演の蟹江敬三の死を悼む書き込みも多く、演技や存在感を褒めたたえるものが目につく。かれこれ三十五年も経っているのに、まだまだ愛されている。
はじめに断わらないと怖い気がするのだけれど、以下に書くのは私個人が漂着した、それも現時点に限っての読み解きとなる。一本の映画に想いを馳せれば、劇場に至る街路や取り巻いていた人間関係もありありと蘇える。先が読めずにむしゃくしゃしていたっけ、何とか映画がなだめてくれたのだったよな、そんな感傷に浸ることもしばしばだ。折々の心理状況は映画の色彩なり解釈を変えるし、記憶まで捩じ曲げるから、詰まるところ映画は人それぞれ、その時々のものとなり、誤解や思い違いも含めて各人の所有物と呼べるだろう。どのような『赤い教室』の評価があっても良いわけだし、各人が抱くそれを否定する気もなければ折伏(しゃくぶく)するつもりもない。
さて、曽根発言とこれを正そうとする「映画芸術」誌の書評(*1)について、どう捉えたらよいのだろう。方法はいたって簡単で、石井隆の書いた台本と完成作品を比較すればよい。手元には現物はないから、脚本を所載する「別冊新評 石井隆の世界」と「シナリオ」の二冊が頼りとなる。発行時期には五年程の開きがあり、前者は石井の劇画が熱狂的に読まれた頃に編まれた評論集であり、後者は『ルージュ』(1984 監督那須博之)の公開に合わせ、脚本家としての石井隆に焦点を絞った特集が組まれていた。
掲載されている二篇を比較すると両者の間に差異を探すのが困難であり、石井が自信をもって呈する『赤い教室』の全身像はここに尽きるということがわかる。また、末尾には注釈が添えられてある。「このシナリオはにっかつ映画「天使のはらわた・赤い教室」のために書かれた第一稿です。決定稿ではありませんが、もっともオリジナルなものであり、石井隆氏の希望によります」(*2)、「決定稿は、曽根監督がこの稿に手を加えて撮影台本としましたが、編集の都合上、石井氏のオリジナル第二稿を掲載しました」(*3) ───先ずこの数行を何度か読み返し、噛み締めなければなるまい。
話の腰を折ってしまうが、私が『赤い教室』にどう触れてきたかを先に書いてしまいたい。実はこれらの本の入手が先で、映像はかなり後から目にしている。脚本を読んで夢想するばかりの時間が長く続いて、その後で名画座かどこかで完成品を観たのだった。ふつうとは違う、ちょっと変則的な流れになってしまった。
その頃、つまり、わたしが『赤い教室』を観た時期の、劇画家石井隆は堂々たる面持ちだった。闊達且つ華麗な独自の世界を誌面に築いていて、何よりも描線に艶が乗っていよいよ美しいのだった。長編作品にはさまざまな大きさのコマや大胆不敵な見開きが挿し込まれ、人物の動作なり表情を緩急自在に操った。短編での語り口もあざやかで、色盛りの印象を強めた。【黒の天使】(1981)だったり【女高生ナイトティーチャー】(1983)がそれに当たるのだが、構図や適度なボリュームで盛られた台詞には映画に近しい薫りが充満し、すいぶん酔わされた。
また、脚本家としても着実に歩を進めていて、相米慎二(そうまいしんじ)や池田敏春と組んだ作品が次々に開花していた。『ラブホテル』(1985)や『魔性の香り』(1985)なんかを銀幕で観終わって外に出ると、街のどこもかしこもロマンティークな光を帯び、道行くおんなたちは誰もが秘密をかかえて見えた。すれ違うたびに濃厚に匂って、どぎまぎさせられた。石井の世界が急速に実体化して日常になだれ込んで来たように錯覚して、そわそわした気分にさせられるのだった。そのような劇画と映画世界の橋渡しが盛んに行われた日々に、やや出遅れて私は『赤い教室』を観ている。
『ラブホテル』やその少し前に撮られた『天使のはらわた 赤い淫画』(1981 監督池田敏春)といった作品は、もちろん各演出家の生理が反映されているし、お得意の技巧が随所に用いられていて、“彼ら監督の”代表作に数えられている。それと同時に石井の劇画世界を映像化することに対して妙な気負いや反撥が感じられず、結果的になだらかに稜線を結んで“石井の”作品にも成っていたように思う。
曖昧な表現しかひり出せなくてもどかしいが、石井世界には独特の気圧というか霧(ミスト)のようなものが各情景の隅々まで立ち込めていて、それを手で払いのけるような過剰な構築(セットであったり小道具だったりする)に走ってしまうと途端に劇そのものが求心力を失い、ぼんやりと拡散して安手のメロドラマ然としてしまう不思議な特性がある。『沙耶のいる透視図』(1986 監督和泉聖治)しかり、『ルージュ』(1984 監督那須博之)もそうだった。
わたしが石井の劇画に心酔するあまり、目新しい道具を異物として感じて拒絶反応を起こしているわけではなく、石井の劇は本質として極めてシンプルであり、視線は大概一点に、男女の立ち姿なり表情に誘導されていくのであって、その間無闇に目玉をきょろきょろさせるきっかけとなるものは巧妙に排除されるか、よくよく吟味された上でそっと置かれる傾向があるように思う。監督の体質が似ていたのか、それとも彼らなりの石井世界への歩み寄りの結果であったのか、その辺は今でも判然としないのだけど、『ラブホテル』や『赤い淫画』の寂寞とした空間構成はわたしの目線を心地好く縛り、結果的に石井世界の裾野に着地させられたのだった。
『赤い教室』をそれ等の後に観てしまった自分には、ああ、これはやはり昔の作品だな、ちぐはぐな部分は仕様がないな、と感じた訳なのだった。劇画で見たような河原なり公園を無難に選び、意識して似通わせた構図が劇中に点在しているにもかかわらず、何故かがちゃがちゃとして迷走する印象を抱いた。
不満に感じなかったのは、たぶん主演の水原ゆう紀のあごから唇にかけての、力んでぐっと硬い感じが石井の描く名美にすごく似ていたことがひとつ、それから酒場の二階で見せつけられる凄惨な場面が脳天を直撃し、総て押し流す勢いがあったからだろう。細かいところはどうでもよくなった。何より先に書いた新たな連結が始まっている以上は、石井にしても読者にしても、尾根をひたすら登りつづけるしかない、前に進むしかない、そのように感じられて『赤い教室』は自然と意識の外に追いやられたのだった。
(*1):映画芸術 2014年冬 446号 Book Reviews 倉田剛著「曽根中生 過激にして愛嬌あり」評 成田尚哉「『天使のはらわた 赤い教室』で何が起きたか?」
(*2):「別冊新評 石井隆の世界」 新評社 1979 218頁
(*3):「シナリオ」1984年9月号 シナリオ作家協会 140頁 『ルージュ』と『赤い教室』以外にも『天使のはらわた 名美』(1979 監督田中登)、それから『天使のはらわた 赤い淫画』も合わせて収められていて読み応えがある。
2014年5月5日月曜日
“結界に踏み入ること”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[5]~
綿密な打ち合わせと熟思の賜物だろうが、石井の手になる劇画と脚本が早い時期から完成度の高い顔貌をそなえることが分かってきた。その特性を踏まえた上で、私たちは“あのとき”に何が起きたのかを考える必要がありそうだ。
現在書店に並んでいるものでなく前の号になってしまうのだけど、「映画芸術」(*1)誌に石井隆とは盟友とも呼べる間柄の映画プロデューサー成田尚哉(なりたなおや)氏が書評を寄せていた。「曽根中生 過激にして愛嬌あり」(*2)と題する本に関してなのだが、そこで氏は石井が映画界に踏みこむきっかけとなった『天使のはらわた 赤い教室』(1979)につき、これまで語られることがなかった事情を開陳している。
成田氏の発言は、『赤い教室』の終幕部分に関する曽根の言葉に端を発している。それはウェブ上で既に広まっていたから、首を傾げつつ私も読んでいた。嚥下(えんげ)し得ず、自分なりに解釈をきわめて上手く離脱しないと頭が変になりそうで、懸命に屁理屈を書きなぐってこの場処に収めたりした。それでどうにか気持ちを落ち着かせた訳だったが、無理やりに接ぎ木したような文章になっていて今読むと滑稽を感じる。(*3) 石井作品につよく魅せられる者の多くが、同じように朦朧とした時間を過ごしたのだった。この度の成田氏の状況説明は疑問をすっかり氷解させるところがあって、実に有り難いと思う。
曽根の発言をここで再度蒸し返すと混乱するので止めておくが、これをそのまま言葉通りに受け止めて転載した評論本と、それを読むだろう映画愛好者に向けて、成田氏は当時企画者として携わった身から有りのままを綴っている。正すべき点は正しておきたいというスタンスのもと、言葉を選びながら、けれど断固とした勢いで書かれたものである。
曽根側が脚本に無断で加筆し、さらに共同脚本として名を連ねようとしたこと。これに驚愕した石井が手を引く意志を露わにして、製作が頓挫する寸前にまで至ったこと。成田氏の将来を慮(おもんばか)った石井が折れて、どうにか撮入なったこと。それを決裂と仮に呼ぶとして、それと劇の終幕部での別れの情景は無関係であるのだし、あの結末の一挙手一投足は石井が当初から提示した姿であって曽根の創造するところでは決してないこと。要約すればそのような内容であった。
監督と脚本家(原作者)の間に立ち、もつれた糸をほどいて活路を拓かねばならない。硬い面持ちで行き来を繰り返した往時の関係者の姿が目に浮かんでも来て、もの作りにともなう難所の数々とその険しさ、雨や風の耐え難さ、ともなう慙愧の深さを思った。
そうして思うことは『天使のはらわた 赤い教室』につき、にっかつロマンポルノの傑作という観点でなく、従来の賞賛に一度フタをして再度歩み寄り、どう評価するのが正当であるかを私たちは見きわめる必要がある、ということだ。“石井作品にして石井の意に沿わぬもの”として『天使のはらわた 赤い教室』を認識し直すことで、私たちはもう一歩だけ映画世界という結界へ踏み入り、それにより視野はきっと拡がるように思うのだ。
(*1):映画芸術 2014年冬 446号 Book Reviews 倉田剛著「曽根中生 過激にして愛嬌あり」評 成田尚哉「『天使のはらわた 赤い教室』で何が起きたか?」
(*2):「曽根中生 過激にして愛嬌あり」 倉田剛 ワイズ出版 2013
(*3):http://grotta-birds.blogspot.jp/2012/05/blog-post_26.html
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