2013年5月3日金曜日

『フィギュアなあなた』を観るあなたへ①


 石井隆の『フィギュアなあなた』(2013)の鳴動が、ここに来てはげしさを増している。なおやかさと同時に勇胆を白き肌に裏打ちした、ヒロイン佐々木心音(ささきここね)の押し出しが楽しく、小心そうな柄本祐(えもとたすく)のときときした所作もまた可笑しい。こころを和ませて、こちらの笑顔が思わず引き出される。こんなにも停滞し切った世相にあるから、息抜きの時間を欲して劇場へと足向ける人は多かろう。

  そこには独特の映像美と語り口に惹かれる生粋の石井ファンも交じるわけだが、さて、そのうちどれ程の人がどれだけ遠い過去まで振り返り、この『フィギュアなあなた』の解釈を試みるものだろうか。承知の通り『フィギュアなあなた』には原作がある。かつて石井が雑誌に発表した短編劇画【無口なあなた】(*1)であるのだが、掲載の時期を調べ直せば1992年の2月だ。発表からかれこれ21年が経過している。今さらそんな昔の作品をがらがらと掘削(くっさく)しても、意味ないことと捉える人がほとんどだろう。

  けれど私はそのような視線の遠投が、石井世界の読み解きには有効だと信じている。“尾根(おね)の連なり”や“神経線維(シナプス)の結束”にも似た作品同士の連環や照射が、石井隆の世界には往々にして起きる。石井の作家性に言及する上でこの飛距離なり息の長さは外せないし、絶対に譲れないところだ。古い記憶をたどり、再認識すべき点はしっかりと頭に叩き込んで銀幕に臨む事は今回とて無駄ではないはずだから、そのあたりの事をよくよく吟味した上でしばし持論を広げようと思う。なお、好奇心まで殺(そ)いでしまっては本末転倒になるから、具体的な話の筋道には触れないか、もし触れても既に公式サイトに掲示なっている域を越えるつもりはない。


  【無口なあなた】は【カンタレッラの匣(はこ)】(*2)と銘打たれた短編連作のひとつで、掲載誌「ヤングコミック」には第6話(六の匣)として登場したのだったが、私には当時もいまもこの【カンタレッラの匣】が、石井世界のなかで異彩を放って瞳に映るのだ。前年に石井が発表した【THE DEAD NEW REIKO デッド・ニュー・レイコ】(1990 後ほど触れる)あたりからその変調は目立っていたのだが、長らく石井の劇画を愛読してきた者にとって【カンタレッラの匣(はこ)】は、石井劇画の決定的な転進を突きつけられる内容であった。(*3)

  【無口なあなた】を読みかえしていくと、前の方に酒場の情景が挿し込まれているのだけれど、ここも石井の描法と姿勢がいかに変化したかを物語る良い例である。上司からの罵声を浴びて消沈した若いサラリーマンが、気をまぎらわせる目的で歓楽街をさまよい歩き、とある酒場で独り盃を重ねるうちに程なく酔いつぶれる。隣席のボトルに手を伸ばして注意されたことに逆切れして、つまらぬ騒動を起こしていく。

  隣席の男との距離や卓上に散らかるグラスや皿から、若者が座るのはカウンターなのだと推察させる。正面から若者をとらえた絵の背後には、薄墨に染まる店内が描かれており、他にも数組の客があって、それぞれが酒器を傾けながら歓談している様子がうかがえる。上司や同僚にむけて噴出する憎悪と、拡大して止まらないひと恋しさ──二極の感傷が逆巻く酒舗(しゅほ)の幽暗がうまく補われており、よくある風景と大概の読者は割り切りながら次のコマを追ったはずだ。

  しかしながら、よくよくその背景画を見つめてみれば、描かれてあるのは他の客たちがカウンターに腰をおろして、揃って背中を向ける姿である訳だから、考えると眩暈にも似た不安な心持ちになるのだった。だって、こっちもあっちもカウンターって変じゃないの。若者が足を踏み入れたのは通路を挟んで手前と奥の両方の壁際に、「二」の字、はたまた「コ」の字型にカウンターを配した奇怪な間取りの店だったのだろうか。それとも先の解釈が誤っており、泥酔する若者はカウンターではなくテーブル席にいるのであって、本来ならホステスの座るべき通路側になぜか腰を下ろし、同じく通路側に腰を下ろす相席の男といさかいを起こした、という、通常ありえないことが起きたことを示す特別の景色だったのか。

  座席の位置はさておくとしても、奥の棚に並ぶ酒壜(びん)のあじきない顔といったらどうだ。渾身の筆さばきで世に送って来た細密画、例えばビールのラベルに載るひと文字ひと文字の再現に努めた、あの鬼神のごとき背景づくりは霧散して、「酒壜が並んでいる」という説明を簡略な線で示すにとどまっている。チベットの砂曼荼羅のような、あの恐るべきこだわりは一体どこに消えてしまったのだろう。

  石井の劇空間において“酒場”の多くは過去の罪との邂逅の場処であり、他者と向き合い感情を交差させ、血を酩酊させるか沸騰させていく祭壇といった趣きがあった。【天使のはらわた】(1978-79)で哲郎と名美が再会を果たす“梢”を筆頭とし、【シングルベット】(1984)、【酒場の花】(1988)、【月の砂漠】(1989)といった作品の光景がすぐに頭に浮かぶのだし、『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)や『ヌードの夜』(1993)といった映画作品であっても、その場所の湿度と温度はたいへんに高く、憧憬や憐憫といった剥き出しの感情がはらはらと交錯した。

  人のこころを鋼(はがね)に鍛えて顔を能面に変化(へんげ)させもしたし、逆に弱い部分をまさぐって、深く、甘く慰撫するところがあった。どうしようもなく訪れてしまう人生の転機の道標として働きもして、ドラマの渦潮(うずしお)がひそかに底流し、漂う紫煙の奥で出番の来るのを上目遣いに待っていると予感させる場処だった。【無口なあなた】の酒場では、もはやドラマは発現しない。おだやかに弛緩を手招く会話もなければ、後悔の念も膨らまない。物語を展開する上で必要な“酔い”をただ単に注入する装置として置かれていて、そこに名美が腰かける椅子はない。

  簡略化された記号となって提示された酒壜(びん)が象徴するように、また、間取りもまるで分からぬ曖昧な空間が人物を包みこむことが証左するように、従来の石井劇画から離脱した、つまり、私たちがよく見知った“マンガ”の口上に従って【無口なあなた】は描かれた、と解釈してきっと良いのだろう。石井は自身を呪縛する劇画のスタイルを壊して、“マンガ”をここで描こうとしたのは明らかである。

(*1):「カンタレッラの匣」 ロッキング・オン 2000 所載
(*2): 1991年9月4日発売の「ヤングコミック」10月号から掲載開始
(*3):最も分かりやすい変貌がおんな(名美に代表される)の顔の描かれ方であり、これまで目にしたことがない険しい表情を読者に見せて衝撃があった。飛び上がらんばかりに驚いた私は、その点を延々と文章(*4)に書き綴って動揺を抑えようとしたほどだ。また、石井隆のお家芸であり、林静一からは“ハイパーリアリズム”と称された精密描写がほんの少し手控えられ、その分だけ弾力や復元力を世界が獲得していたように思う。主人公の設定年齢が低く抑えられているのも特徴のひとつで、石井の伸びやかで闊達な描線は彼らの内部に派生する抑えの利かぬ、鉄板で油の飛び跳ねるがごとき欲情や焦燥、寂しさ、躁鬱、反撥といった生臭い息を上手く表現し、勢いよくほとばしらせて誌面を覆って見えた。
(*4): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=218039166&owner_id=3993869


2013年4月18日木曜日

“書棚のこと”



 書棚の前にたたずみ、書籍を遠眼鏡となして相手の内奥に迫ろうとする。悪癖とは思うが、どうしても止められない。 敵対する気持ちはなく、なんとか繋がりたいと願ってのことだ。道徳観、官能のおもむく方向、情欲の強弱、その傾き具合、現実家なのか夢想家なのか、自惚れや限界、弱点などを手繰ってしまう。平静を装っているが内心は身悶えしながら、赤赤とした恋火にもがくように視線を注いでいる。

  才気にあふれる人の蒐集棚は、闇夜に爆(は)ぜ散る火花のごとく、多方面に、それも硬軟とりまぜて集積なっているのが見て取れ、圧倒されるし、惚れ惚れもするし、誰をも魅了して止まない磁場の源泉が此処だったか、と即座に合点がいって爽快この上ない。書棚というのは良い意味でも悪い意味でも磨かれた鏡面となって、人の姿をまざまざと映しこむように出来ている。


 そんな訳だから、映画を観ても銀幕の隅にひかえる書棚が気になり、手元に伏された本の作者や題名を読み取りたいと想いが馳せるのだ。人物造形の一端として劇中の蔵書にまで気が配られ、その選択やら配列、撮り込みの仕方に薫風が舞い、妙味が感ぜられたりすると、のどは鳴り、共振は勢い付いて柔らかな波紋を産み落とす。

  このような過剰な思い入れが、視界に粘度や歪みを与えてしまい、解釈をひどく捻じ曲げている可能性もないとは言えないけれど、たとえば石井隆の近作『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』(2010)を観るたびに思考がさまよう景色があって、それは本棚に関わる中盤以降の件(くだり)なのだった。

 愛するおんな“名美”を喪って十七年の間、路傍の立ち木のように茫々と生き永らえて来た“村木”という男(竹中直人)が登場する。いまは管理者という名目で廃工場の小部屋をあてがわれ、かろうじて雨露をしのいでいるのだったが、パイプ造りのちっぽけな寝台が無造作に置かれたその奥の壁際に、奇妙な面相の書棚がのっそりとそびえており、物語の行く末をまばたきもせずに見つめている風だった。
 
  そこに並んだ本たちはそろいもそろって背表紙をあちら向きにして挿し込まれていて、だから棚の外観は頁の重なった部分(小口)ばかりが露出して、白漆喰の壁のごとき面妖さなのである。『愛は惜しみなく奪う』の特集が石井の公式ファンサイトには組まれており、撮影用のセットに点在する小道具を接写し簡単な説明を加えている箇所がある。このおかしな白い本棚についても言及されているから、ちょっと書き写してみればこうある。

 “次郎はどこからか拾って来た本を読み終わると、背表紙を隠して本棚に仕舞う。いくら本を読んでも、次郎にとって名美のいない人生はただ「無意味」なだけ”(*1)──ここでの“次郎”とは、生業の“何でも代行”を行なう際の村木の変名だ。

  愛する人との死別が男の気力を根こそぎにして、手に取る本にひたすら駄目出しをしていく、ということなのか。この本もこころに降りて来ない、こっちも無駄であった、何の役にも立つものか、二度と見返すつもりはない、と背表紙を奥に向けて押し込んでいく。虚しい時間の堆積が奇妙な書棚となって徐々にかたち作られていく。

 これに納得する読み手もいるだろう。そもそも大概の観客は気にも留めることなく、あっさりと手前の寝台に目を転じ、そこで展開される男とおんなの情炎の対話を追うばかりだし、それが普通だろう。だけど、私は “不自然さ”をどうしようもなく覚えて足が止まってしまう。男の本棚の前からなかなか立ち去れないままでいる。

  石井劇画の代表作のいくつかは現実の雑誌編集室を舞台に選んでおり、丹念な取材と入魂の筆致により往時の面影を定着させるのに成功している。写真雑誌やスクラップブック、辞典などがひしめき合う書棚があり、画面を構成するそのいちいちに、現世で格闘する業界人の息吹きが香ったのだったし、汗だの涙などの塩味(しおみ)と苦さを連想させた。緻密な舞台設定が支柱となって、石井が陸続と解き放っていく剥き出しの恋情劇に生きた色彩を与えたように思う。

 それと比較して『愛は惜しみなく奪う』の本棚というのはどうだ。現実であれフィクションであれ、こんなとらえどころのない本棚をわたしは一度として目にしたことがない。離別という試練に雷撃されて地に倒れた者は、哀しみと怒りの中でこのように本を扱うものだろうか。

 どうしようもなく愛してしまい、どうしようもなくて散り散りとなった後に、人は気持ちの平衡を失い、追いすがるように、はたまた忘れるために書物を添い寝させ、やがて寝台の脇には読みかけの雑誌や本が散らばり重なって無茶苦茶となり、収拾がつかなくなるものではないのか。舫(もや)い綱を解かれた小船のように、本たちはあちらを向き、こちらを向き、やがては転覆して沈んでいく。側溝の水たまりに溜まる落ち葉のように、汚らしく床面なり棚を埋めていくのが普通であって、整然と同一の方向に顔をそろえて、それもあちら向きに並んだりはしないのではないか。


  村木という男がこころを閉ざして他人からの干渉や分析を徹底的に拒絶している、それを本棚で無言のうちに示している、と捉えることも勿論出来るだろう。また、もしかしたら、私たちは村木の正気をここで疑っても良いのかもしれない。

  本が“裏返し”である点に着目し、ヒロイン“れん”(佐藤寛子)の切実な思いが“ドゥオーモ”という幻像を築いたように、あの小部屋もまた村木という男の裏返しの部分が実体化したもの、つまりはもう一つの魂の聖堂であった、と解釈することも可能だろう。いずれにしても言えるのは、あの本棚は石井らしい、極端な変貌を遂げた風景の一種だったという事だ。


  私たちの住まうこの世界が、裏から、右から、天からと視座を替えてみることで無数の異なる光を照り返してくるように、石井の劇というものも底知れぬ物を抱いて横たわっている。人間の精神が世界を変貌させていく様子を探し、丹念に拾わなければ、石井の劇は弱い光しか返してはくれない。宝石を前にして見惚れているだけでなく、そのなかに裸になって飛び込んでいく、そのぐらいの気迫と接近が読み手にも求められるように思う。

(*1):PHOTO GALLERY03 紅次郎事務所/次郎の部屋‐2‐
http://fun.femmefatale.jp/photo/03.html


2013年4月11日木曜日

“書籍のこと”


 映画『R-18文学賞 vol.1 自縄自縛の私』(2013)(*1)を観るため、劇場まで足を運んだ。“撮影”寺田緑郎、“照明”安河内央之、“録音”北村峰晴という布陣である。まるで仕立ては違っても、使う反物の肌合いは石井隆のそれと重なるのではないかと期待したのだ。

  息を整え、自分のこころと真向かっていく。車の立てる騒音がカーテン越しに舞いこみ、それに風鈴の高い音色(ねいろ)、衣ずれのくぐもった音が蔦のように絡みつく──青みを帯びた陽射しがにじり寄り、ひざまずいたおんなの滑(すべ)っとした膝小僧に指をはわせていく──寂寥(せきりょう)として灰色の影を落とす男の背中が下手(しもて)をふさぎ、何を思って見上げているものか、明け方の天空は藤色に覆われ、まだら模様の紫霧(しむ)を右から左へと押し流していく──愉しみかたとしては邪道かもしれないが、惚れ惚れとする景色が銀幕に投影され、極楽を味わった。

 石井作品に通じる清徹(ちょうてつ)した大気に幾度か舌鼓を打ったのだったが、それは予想の内であって特段の驚きはない。そろそろ本音を明かせば、わたしが色めき立った箇所は別にあったのであって、それは劇中に突如現われた一冊の本なのだった。


  母親の呪縛と会社勤めの辛苦を忍びつつ、ささやかな暮らしを維持している若いおんな(平田薫)が主人公である。煮詰まる気分をひと時でも解放せんと夢見て、ウェブで収集した雑学をもとに緊縛のひとり遊びを始めてしまうのだったが、やがて病みつきとなって、行動の歯止めが利かなくなる。上着の奥に縄をかけたまま通勤してしまい、それが同僚に波及して突飛な出来事を誘爆していくという話の筋である。そんな困ったおんなが住まうアパートの書棚に、石井隆の単行本「名美Returns(リターンズ)」(*2)が置かれてあるのが一瞬見て取れるのだった。カメラはこの本の背表紙を画面の中央に捉え、私たちに向けて明らかにその存在を訴えている。

  わずか数秒の露出である。ほとんどの観客が読み取り困難であって、もしかしたら美術部による悪戯か遊びの範疇に過ぎないかもしれないが、『死んでもいい』(1992)がギリシャのテッサロニキ国際映画祭で最優秀監督賞を受けたことを契機に編まれたのが「名美Returns」であって、巻末にはこの『自縄自縛の私』の監督を務めた竹中直人がうれしそうに祝文を寄せていた。竹中とすれば記念すべき本、思い入れの深い本に違いなく、だからこの本の登場は竹中なりの花押(かおう)だった可能性がある。また、石井作品に深くかかわるスタッフと竹中による、敬愛する石井に向けた挨拶と捉えてもよいのだろう。

  創り手の真意が計り知れぬ事というのはどんな劇中にも無数にあって、そのいちいちに錨(いかり)を下ろして精査していては息が詰まるし、どの道埒もあかない。この一冊の本にしたって深く考え込むには値しない事象のひとつかもしれぬ。けれど、私としては得心し、闇のなかで一人頷くところもあったのだ。奇声を放ち異相をことさらに強調してみせる登場人物たちに、どうしても気持ちが入らず、物語世界へ融けこむことが難しかったのだけど、石井の本「名美Returns」を垣間見たことにより虚実の境界はあっさり崩れ、回路がしかと結ばれる手応えがあった。このおんなが石井隆を読む人間であり、加えてその本を書棚のいちばん目立つ場所に並べる人間だと知らされ、にわかに現実味を帯びて目に映(は)えるようになった。

  銀幕に挿し込まれたこの「名美Returns」という本の秘める嬉しさ、愉しさは、傑出した石井劇画が連なる主要部分もさることながら、装丁のあでやかさ、巻末に収められた対談、資料の充実、解説の強さ、激しさにある。中でも権藤晋(ごんどうすすむ)による解題はぎりぎりまで無駄を削ぎ落とし、一字一句が選び抜かれ、短文ながらも石井隆という作家の内実を明瞭に刻んで凄まじい。適確な触診で劇をまさぐり、核心となる作り手の思いをそっとつまんでいく風であり、これ程の密度と形容をもって石井世界のなんたるかを語り尽くした文章というのは二度と現われないのではないか、と読むたびに唸ってしまう。

 石井の劇中にたたずむ男女には“硬質な部分”、“生来のやさしさ”、“慎しみ”、“従順”、“真摯”という気質がそなわっていると権藤は「名美Returns」の中で書いており、確かにその通りと思わせる。そして、その頑固さや不器用さもにじませる生真面目過ぎる気質というものは、石井世界にどうしようもなく引き寄せられ、観ればかならず琴線に触れてしまって仕方のない、そんな特定の読み手や選ばれた観客それぞれの性格に相通ずるものではあるまいか。映画『自縄自縛の私』の主人公こそがその典型であった。


  起伏とカタルシスの乏しい、突っ込みどころ満載の『自縄自縛の私』ではあるのだが、これを“石井隆の読み手の物語”と捉え直せばどうだろう。誰の迷惑にもならぬようにひどく周囲を気遣いながら、地味な冒険を夢想していく。生きていることのささやかな実感を得たくて、じりじりとした想いが硬い表情の奥に育っていく。そんな起伏のない、カタルシスがなかなか打ち寄せない日常の様子が、かえって鮮度を増して照り返るようだった。曖昧模糊としていたおんなの輪郭はたちまち鋭さを加え、瞳の奥の深度や陰影を増していき、体臭は立ち上がり、生き物らしい芳醇さは倍加するように感じられた。(*3)

 現代を生き抜く女性たちが石井隆の創り出す劇画なり映画の文脈を丹念に咀嚼しつづけ、己の血肉に変えていくことが秘かな、そして確かな広がりを見せていることは実感として抱くところであるのだが、“石井世界を愛でる女性”のこころと身体の変幻が描かれていく“フィクション”というのは、思えばこの『自縄自縛の私』という物語が初めてであって、これは相当に画期的で興味深い事だ。石井隆に影響された物語は数多くありそうだが、石井隆に影響された人間の話、というのは、新しい創造の領域ではあるまいか。


(*1):『R-18文学賞 vol.1 自縄自縛の私』監督竹中直人 2013
(*2):「名美Returns(リターンズ)」 ワイズ出版 1993
(*3):同じく権藤による石井の名作【水銀灯】(1976)の解説には、「名美にとっては、毎日が“時代閉塞の現状”なのだ。彼女が解放感を獲得することはほとんど絶望的だとみてさしつかえない。(中略)作者は、名美というひとりの人間を通して、“絶対孤独”の内側に迫りたいのだと思う」とあるのだが、文面にある“名美”を“百合亜”と換えればそのまま『自縄自縛の私』の読解として起動しそうである。