眼球を通じて脳に映し出されるあなたの石井隆作品と私のそれは似た景色に違いないが、そこから先の受け取り方は各人に委ねられる。性別、年齢、家族構成、持って生まれた嗜好や感受性、体調と周辺環境といった諸々の条件で人の反応は千差万別となる。どう愛してどう嫌悪するか、百人百様の石井作品に分岐していく。しかし、それでは作家の実像に誰ひとりたどり着けない理屈となる。無理矢理押しつけるなよ、それはおまえの作家論とやらでしかないよ、勝手な事を書き散らすなよ。いくら言葉を尽くして魅力を説いてみても、そう言われてど突かれても仕方がない。
そもそもが他のひとと石井隆の作品を観てどのように感じたものか、とことん夜を跨ぎ、朝を迎える程も語り尽くした経験がない。可能な限りの作品論に目を通し、ウェブでの囁きにも耳を澄ませているが、性愛と暴力が跋扈する石井作品について本音で語る者は少ない。劇中乱舞する白い肢体に人はいったい何を想い、どのように読み解くものだろう。だいたい私の感性なり性的欲望の度量が他人とくらべて酷くお粗末であり、物が正しく見えていないという点はないだろうか。そっちの方が問題かもしれない。だって、石井隆の差し出す幾多の裸像を前にしても、昔からどうも煽られカッカすることがないんだ。生物学上、どこか重大な欠陥が私には潜んでいるのではないかしらん。
年齢相応のありきたりの話でしかないのだが、このところ魂の器たる肉体につき、どうしても考えさせられる時間が増えてしまった。上に書いた萎える気持ちの根源には、いくらかそれが巣食っている。友人や親戚と家族、もちろん自分も含めて身体の故障を間近な距離で目撃したり戸惑う場面が列をつくる。靭帯が切れる、睡眠時に急に呼吸が止まる、光を失いかける、破壊的な決壊が生じて体液がだだ漏れ、息も絶え絶えとなる。次々と筋骨や内臓器官が消耗して悲鳴をあげていく。
肉体の栄光など一瞬の瞬きであって、道のりのほとんどは険しい岩場か急斜面だ。悲鳴を上げ、ごろごろと墜ちてばかりいる。健康そうなすべすべした肌も均整のとれた体躯も、弾力を保つあちらこちらの部位も、艶めいて量のたしかな髪の毛も、澄んで玉のようにきらめく白目も何もかもが失われる。生殖能力もたちまち根尽きて色香を減じ、もはや相手の唇をどうやって吸ったものだったか、間合いもやり方も忘れてしまった。
そのような無惨に瓦解しつつある肉体こそが実は常態であり、イコン化してメディアに取り上げられがちな旬のタレントや女優、はたまた若い男性アイドルなどがかえって不自然の極みで、非人間の紙芝居という実感が日に日に強まっている。綺麗な肉体を誉め讃えてばかりいて、どうして存在に迫れるのだろう。頂(いただき)はせいぜい数年間といったところだ。人間はひたすら壊れゆく存在だ。
石井隆という作家は幼年時から喘息をわずらい、喉を押しつぶされる恐怖と闘いながら育っている。大概の男子は十歳ぐらいまで知恵熱や自家中毒、思春期特有のこころの不安定さを抱えてバタバタと過ごすが、それ以降しばらくは野太い成長を遂げて厚い胸板や逞しい腕を誇るようになるのだが、石井は物心ついてから今日まで持病に悩まされ、常に肉体を崩れるもの、頼りないものと視てきた。
創作の題材や構成の総てが彼の病いから発しているとはもちろん言わない。しかし、若い肉体を描いても、彼女らは閉塞した状況に置かれて破壊や損耗の宿命を負わされていることや、男たちが揃いも揃って死に向かってひた走る姿というのは、彼なりに学び取った肉体に対する圧倒的な諦観とまったく無縁であるとは思えない。石井隆の描く裸体はつくづく切ない。面前にするとただただ哀しくなる。その憂愁にこそ私たちは惹かれ続け、黙々と後追いして現在に至っているのじゃないか。
洋画を眺めていると、石井の描き方との通底する切実な裸体に出喰わすことがある。たとえばヴィスコンティの『イノセント』(1976)でのシャワー室での描写や、最近ではサラ・ポーリーの『テイク・ディス・ワルツ』(2011)でのそれは、石井と同じ目線で裸体が取り込まれており、作り手が果敢に人体に向き合って感じられる。トム・フォードの『ノクターナル・アニマルズ』(2016)やオリヴィエ・アサイヤスの『カルロス』(2010)の惜しげもない露出と石井のそれは、一体なにが違うものだろう。たとえ石井が登用する被写体がくびれのある魅力的な身体であっても、どことなく儚く淋しいものがべったりと付き従っている。妙に覚めたタッチが似ている。(*1)
どれもが“赤裸(あかはだか)”な人間描写に挑んでいるという刻印であり、その迫力と意気に身震いさせられ、これは刮目に価すると暗がりの座席の上でのっそりと身を起こしていく。強面(こわもて)の映画群に石井の作品は連なっている。
あの手の押印をよいしょ、よいしょと続けているのだ。邦画が観客動員とメディアミックスに血眼になり、赤裸々な性描写や生々しい肉体の排除にいそしんでいるその頃、肉色の実印をしかと掴んで手放さず、これが人間だろ、これが肉体だろ、これが人の死だろ、皆どうしたって壊れるんだ、苦しい道のりなんだ、それでも生きていくんだ、と床を染める鮮血を朱肉代わりにし、全体重をかけてうんうんと押し当てて見える。
(*1):
イノセント L'innocente 1976 監督 ルキノ・ヴィスコンティ
テイク・ディス・ワルツ Take This Waltz 2011 監督 サラ・ポーリー
ノクターナル・アニマルズ Nocturnal Animals 2016 監督 トム・フォード
カルロス CARLOS 2010 監督 オリヴィエ・アサイヤス
石井隆の劇において性器は他者との連結器具として必ずしも働かないばかりか、時に相手を退ける砲台や剣先の役割を担わされる。どうしたってもどかしい展開になり、画布のなかで“隠しどころ”は存在感を急速に減じて、言葉そのままに奥まった目立たぬ処に引き下がる。代わって皮膚の下の収まっていた骨格がごろごろと盛り上がり、筋肉や腱が軋むように伸縮を始める。
やがてにゅっと肉色の棘(とげ)が生えてくる。緊迫した局面での接触の無理強いは自ずと肉弾戦の様相を呈していき、戦闘機能をそなえた男たちの身体が俄然際立っていく。映画においては『フリーズ・ミー』(2000)での北村一輝、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)の竹中直人であるとか、『甘い鞭』(2013)の中野剛や伊藤洋三郎が脳裏にごわつく触覚をともなって百年杉のごとく林立する。
よく練られた演出術に助けられ、肉体の隆起や陥没がもたらす陰影が銀幕に浮かび上がる。キリストの磔刑図のような構図もあるし、ベルニーニの「プロセルピナの略奪」(1621-22)、ジャンボローニャの「サビニの女たちの略奪」(1574-82)にも似た陰鬱でかなしい抱擁が繰り広げられる。反撥しながら絡み合って、見ていて胸が酸っぱくなるような、圧迫されるような怖い気分になっていく。特に最近の石井は、裸体を画面中央に長い時間配置する傾向が強まって感じられる。塑像に取り組む職人のまなざしにも似た、重たい空気に包まれながら、一個の、複数の裸体がたっぷりと記録されていく。
筋肉や骨格はあんなにも泣き叫んでいる。動く悦びに溢れ、相手を羽交い絞めして自由を奪う歓喜に震えて笑いまくる、そんな一瞬もある。性器はぶらぶら、むにゃむにゃするばかりで結局のところ表情に乏しい小さな突起や袋口に過ぎない。あんな物で人間は描けないのだし、面倒で諸悪の根源でさえある。この世から無くなってしまえば良いのだ、と石井隆はひそかに祈っているものだろうか。霊肉一致の至高の抱擁などこの世には無いのだと絶望し、性器をないがしろにしているものだろうか。
具体名をここで挙げるつもりは無いが、石井隆の劇画作品で書籍化なったうちの何篇かには性器が描かれている。それは栗本が妄想したような「恐しく偏執狂じみた細密さでもって、描きこまれて」いるものではなかった。「異様な執念」を無理矢理抑え込んで、悔し涙にくれながら間引いた線でもなかった。官憲に挑みかかるような露骨なものではなく、ごくごく控えめであっさりと墨が入っていた。拘泥するでもなく、疎外するでもなく、私たちの身体のひとつの器官として、素直に、ある意味「ちゃんと」線が引かれていた。
石井劇画において世界を構成するものは総てが同等に在って、統一されたタッチで描かれる。背後を飾る日本家屋のうす汚れた壁紙も、狭いワンルームマンションに明るい未来を想って買い揃えられた小さなテーブルと本棚も、酒場のカウンターに並んだ涙壺のような幾多のガラス容器も、過剰に装われた恋人たちの集うホテルのベッドも、これから殺戮の湾岸に向かうスポーツカーの合成樹脂のシートも、それらはすべて石井にとって“風景”として大切に扱われ、緻密に描かれていった。
前景に置かれた肉体もまた“風景”のひとつであり、おんなや男の服の風合いも、頭髪や目鼻といった露出した肉体のパーツも、石井隆にとっては同等に等しく置かれている。石井にとっての物語とは、それら総てを同等の熱意で描き切ることであった。
私たちは【赤い教室】(1976)の白い空隙の向うにさまざまな夢想をすることになるが、そこに虚無ではなく、ましてや「何ともおぞましい、ぬめぬめしたなまこか、なめくじのたぐいの化け物」でもなく、手堅くもたおやかな実線でさらりと描き添えられた丘や襞(ひだ)を淡淡と思い描かねばならない。悪戯にこころ乱すのではなく、ひたすら人間という孤独な生き物と共に在る哀しい肉体を察知し、黙って凝っと向き合うべきである。
栗本薫が原型は石井隆とほのめかす小説「ナイトアンドデイ」(1982)で作中登場した一枚絵、「画面いっぱいに、女が大股をひろげていた」姿というのは、十中八九の確率で初期の作品【赤い教室】(1976)の最終頁に触発されたものだ。石井隆を発見して社会が騒然としていた頃、この頁は雑誌の特集記事にも紹介されていた。「生きたマンガ史」を自認する栗本が反復して瞳におさめ、記憶の貯水槽にざぶざぶと留め込んだ上で「ナイトアンドデイ」の構想を練ったことは想像に難くない。
黒板前の教壇に座り、太腿をぐっとせり出したおんなの姿態は見るものをただただ圧倒し、石井劇画を代表する構図として大衆の胸に巣食った。誰だっておかしくもなる。硬く張ったこむら、はだけた衣服、顎から頬にかけての輪郭、半開きの唇、そこに覗いた歯、丁寧にひと筋ひと筋をペン入れされ、乱れ流れて肩をまさぐる厖大な量の髪の毛、そういった石井入魂のハイパーリアリズムが周りの空間を満たしているから、どうしたって妄想の背中は後押しされていく。
股の付け根に気持ちを奪われ、若い肌と溶け合って輝く空域が最初から何も描かれていない虚空であったのか、それとも最初は“何か”の影がもっと克明に息づいていたのか。皆そろって新生児に戻ったかのように画面中央の白い亀裂に向かってのめり込む。これほど妖しくこころ掻き立てる絵はない。
“この頁だけ”を瞳に焼き付けてしまえば確かにそうならざるを得ない。しかし、劇画は連続体である。いくら魅了される絵だからといって最後のコマのみを悪戯に取り上げ、そこに至る迄に作者が綾織ったものや読者に生じた感情を無視してはどうかと思う。ひとコマに拘泥して石井隆の幻影を築こうとした栗本の試みは、無謀を越えて正直愚かしい。
見開きでぐんぐんと【赤い教室】の大股開きが迫って来るのだけれど、その直前の最後から2コマ目も同じく見開きという組み立てとなっている。ここは極めて大事な点だろう。同じ面積の、それも見開きで各々が揃って断ち切りされた極大値のコマが連続している。
コマの面積は読者の共振を誘発する上で大切な道具のひとつであって、漫画界の名工は巧みに使い分ける術を持つ。同時代の作家に【同棲時代】(1972-73)の上村一夫がいたが、見開きを縦横無尽に駆使していて今も色褪せない頁がある。漫画界の匠(たくみ)によって挿し入れられる見開き頁に読者は言葉を失い、目を白黒させ、時に涙ぐみながら劇空間に突入していったが、石井隆は先駆者である彼らの技を観察し、独力で解析して自身のスタイルを開拓していったのだった。この【赤い教室】の二枚続きの見開きというのは上村に比肩する勇壮苛烈さであり、漫画史のなかでも特筆に価する秀抜な構成となっている。
コマを自在にあやつる描き手の術策にまんまと捕り込まれるとどうなるかと言えば、「コマの大きさは読者の感情を吸いこむかのように次々と膨張し、いやがうえにもその期待を盛り立ててやまない」(*1)のであり、すっかり気持ちが持っていかれる。【赤い教室】の二枚連続の見開きは上の識者の表現を借りるなら、感情を総て吸い尽くす、または、骨も肉も砕けて消えるほども感情を一気に膨張させた極限の時空と言える。
ラストカットとその前頁が同等の重さで胸にのしかかるように仕組まれていて、どちらが上とか下とか、どちらが前でどちらが後というのは意味がない。両者があってこそ強烈に押し出されるものがあり、別々に切り離して語るのは無意味だろう。
両者は“切り返しの構図”となっており、おんなが股間を突き出しているその先の景色がはじめに示されていた。露出した性器を向けられているのは教室の机に並んで座る生徒たちであった。醜聞を耳にして口々にこれを囁き、階層上位にいる教師をからかい困窮する様を楽しんでいたのだった。同僚教師からも孤立し、忌まわしい記憶に嬲られつづけたおんなは正気とも狂気とも区別のつかぬ荒々しさでえいやと教壇に登り、下着をずり落として生徒たちに突き出すのだった。
石井はその時の反応をひとりずつ丹念に描いている。戸惑いや羞恥する者がいくらか混じってはいるが、総じて重厚な気分が黒々と噴出している。「パプフィギエールの悪魔」さながらに目を剥き、唇をゆがめる。机にうつ伏して震える。立ち上がっておんなの狂態を茫然と見守る。烈しい表情や硬直した四肢からむらむらと発せられ、この場に充満しているのは恐慌と悲哀の叫びであった。
紙面を破りかねない程の白い刻印である。二度と回復しないほど押しまくられ、少女たちの眼(まなこ)に安穏とした日常空間は大きく裂け墜ちた。生涯を縛るであろう無惨な記憶の傷痕が生徒たちの外貌に刻まれている。そのような痛ましい破壊の後に、あの「画面いっぱいに、女が大股をひろげていた」姿が置かれたのだった。誘惑や扇情のための裸身ではなく、抵抗を試み、退散を祈る姿なのである。石井隆という作家のまなざしと、彼が私たちに何を訴えているかを明確に語っている箇所であり、石井世界の真柱(しんばしら)が顔を覗かしているように思う。
石井の【赤い教室】を土台として、おんなの大股開きは幾度か映像化されてきた。脚本作品である『天使のはらわた 名美』(1979 監督田中登)があり、『甘い鞭』(2013)がある。劇画にあった驚愕する生徒たちの役割を担うのは、前者にあっては主人公の会社の同僚たち、後者にあっては嗜虐プレイの虜になった中年男であって、どちらも銀幕のなかで咆哮し蠢いていた。
でも、石井が狙いを定めて仕掛けている本当の相手、拒絶されるべき者とは、実は銀幕に映される男優たちではなく、幕前に並ぶ客席や自宅のソファに漫然と座る者ではあるまいか。きわめて狭い了見を世間の常識と信じ、無責任な言葉を絶え間なく放出してマウンティングにいそしむ私たちにこそ、石井は白くまばゆい光りを発信している。自分本位に世界を見ちゃいけない、常に切り返しのまなざしを維持しながら相手と接しなさい、と切々と語ってくれている。
(*1):「漫画原論」 四方田犬彦 筑摩書房 1994 38頁
女性の性器に付随するさまざまな知識を蒐集した労作(*1)をめくっていたら、一枚のモノクロームの絵が目にとまった。17世紀フランスの詩人ジャン・ド・ラ・フォンテーヌの「小話(コント)」のために描かれたシャルル・エイサン(またはシャルル・エザン)の挿絵を紹介したものだ。
悪魔を退散させる目的でスカートをたくし上げ、おんながおのれの性器をぐいと突き出している。蹄(ひづめ)の生えた脚と黒い羽を持った悪魔は不意討ちを喰らい、露出したおんなの下腹部に眼を凝らしておののき、気の毒なぐらい顔をゆがませている。姿勢はやや傾いでもはや退却の体をなしている。対するおんなの横顔は口を真一文字にして相手をきっと睨(ね)めつけており、毅然としてうつくしい。
この本は古(いにしえ)から近代まで女性の裸身(性器)が共同体にどう関わって来たかをまとめた前段が素晴らしいのだが、ほかにも古今東西の神話や伝承をひもとき、女性器の露出が荒れ狂う海を鎮め、農作物の伸長を助け、時に悪鬼悪霊の類いの侵入を防ぐ役割を果たしていたのだと綴っている。どれもが強制されての上でなく、おんなたちの自発的な行ないによるものであった。女性主体のうねるような運動が時代や大陸を越えて認められる事に着目している。
忘れられた歴史や習俗を通じて女性の裸体を穢れたもの、劣ったもの、卑猥なものという次元から解放に導き、近年の男尊女卑の抑圧を振り払おうとする。一族郎党の繁栄と継続をささえるのが出産であり、生殺与奪に関わる絶対的な行為なのだと理解し、その主幹たる役割を性器が担っていると自覚したおんなたちの誇りが伝わってくる。確かにこれを読むと、現行の商品化された女性裸体の在りかたがひどく片手落ちで表層的、刹那的なものとなって目に映る。
先の挿画で悪魔が男の顔をそなえていた点が示唆する通り、蛮族なり悪魔の侵略を阻止する行為というのは、身勝手な男性の思惑を排除したり、もしくは破壊し弱体化させる働きと重なる。おんな対男の構図がある。ポルノグラフィの多くが担っている誘惑や身体の商品化、階層支配といった夢想のベクトルを徹底して拒否するものだ。つまり長い尺度でおんなの裸身を考えたならば、さながら磁石の物性のようであり、ひとつの肉の塊りのなかに強靭な反撥力と吸引力が同居している理屈である。
振り返れば石井隆の描くおんなの裸身というものは、そのような両極を備えたものと言える気がする。たとえば『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)の劇中で、男に裏切られたおんなが悄然とし、夜を長々と彷徨い、衆目におのれの下腹部を晒していく場面が描かれているが、なるほど見方によれば自分を捨てた夫への恋着がおんなの思考を奪い、あくまでも男恋しさ、肌恋しさに溺れ狂っている図であるけれど、ここで石井はもう一歩踏み込んだ本質めいたものを女優の演技に託して見える。そこには揺るぎない反発力や強靭な破壊力を見止めることが可能だ。おまえたち、謙虚に振る舞ったらどうよ、身の丈に合わぬ場処からさっさと降壇したらどうなの、というおんなの問い掛けが聞こえてくる。我々はこれを認め、静かに内省し、彼女たちにぬかずく刻(とき)の到来したことを了解すべきではなかろうか。
石井隆の戦場(フィールド)は承知の通り、男性主体の読者や観客を意識した雑誌や映像媒体であり、作品が世に紹介される際には、市場の要望にこたえて週刊誌のグラビアを彩るし、添えられた文章も含めて旧来の男性型欲望の消化促進剤の役割を負うことが多い。おんなの裸体は結局のところは男の性欲の餌食となっているのだが、その商流自体は全否定することは出来ない。売れなければ商いにならない以上、そのような媒体への過度な露出は作品づくりの外せない一環であるから、否定する気持ちにはなれないけれど、石井隆の差し出すおんなの裸を深く捉えるに当たっては、見えざる頸木(くびき)を意識し、そっとこれに指を添えて外していく気構えが必要と思われる。
石井は奔流に抗いながら、いや、抗う素振りを見せない工夫を図りながら、その実、男性を裏切る独立した人体としてのおんなを描こうとしている。裸身の目的をそ知らぬ顔ですり替えて、男と対等な、うむ、そうではないな、男を睥睨する族長としてのおんなを描いていく。この視座の転換は露骨なかたちで行なわれることはなく、読み手の気付きに任されている。
ある程度この石井の文脈に親しんだ読み手の内部では、“往還”する視線が常に待機し、目を瞠り息を殺してその一瞬を待望する。絶えず内的な変貌が引き起こされ、世界ががらがらと転覆する音を聴きつづける。
(*1):「ヴァギナ 女性器の文化史」 キャサリン・ブラックリッジ 藤田 真利子 訳 河出書房新社 2005 この書籍の中ではフォンテーヌの「寓話」のためと書かれてあるが、これは誤りではないかと思われる。Le Diable de Papefiguièreという原題で、訳者により「パプフィギエールの悪魔」とか「教皇嘲弄国の悪魔」と呼ばれる「小話」にこの悪魔を追い払うおんなが紹介されている。
『フィギュアなあなた』(2013)で人形を見つけた青年(柄本祐)は熱狂し、その独り言はけたたましさを増すのだったが、私たちはそんな反応にただ乗って気分を疾走させることが出来ない。文字通りの死体の山が築かれ、その上に横たわっているおんな(佐々木心音)の奇妙な様態を固唾呑んで見守るのがやっとである。
一個の静物となって風景の断片となりながらも微温と違和感をにじませて横臥する様子は、振り返れば石井の初期の短篇【淫花地獄】(1976)の終幕近くに生き人形に加工された少女の姿に通じるし、抵抗する術も気力もなく、呼吸さえまるでしない様子で浴室に横たわる『夜がまた来る』(1994)での夏川結衣であるとか、一眼レフのカメラを携えて夕暮れや深夜、黒い木立の脇に半裸のモデルを横たえさせて撮った一連の写真作品にも通じるものがあり、石井が好んで採用するモティーフとなっている。
そこでじわじわと這い上がってくる感慨は、欲情とは裏腹の速やかな“放冷”を誘うものだ。いずれも殺害や強姦といった性暴力の痕跡を彷彿させる構図と面持ちであって、熱狂とは無縁のしんしんとしてどこまでも昏い性質の絵柄となっている。今この瞬間にもどこかの密室や隔絶した場処で起こっている弱き者への暴力。人によっては最近見聞きしたニュースをまざまざと思い出し、脳内で結びつけるかもしれない。実際わたしは性暴力の被害者にしてその根絶を目指す活動者が著名な国際賞を受賞したことを紹介する報道に目を奪われ、一瞬後、石井が半生を賭して積み上げている物語世界の伽藍と彼らの闘争が完全に通底すると感じた。
現実世界の酷薄さと自身の世界を直結させることを石井は嫌うだろうか。私はそうは思えないでいる。読者や観客の内側に醸成される新たな視点、ちょっと待てよと足踏みや振り返りをする時間を彼は本気で望んでいるように感じる。これまでのインタビュウなり単行本のあとがきを読むと石井が実際に起きた事件やこれを伝えるニュース映像に言及することが多く、自身の創作活動と世間が無縁でないことが分かるのだし、おのれの物語に対して複数の切り口を常に用意し、世間一般の読解とは異なる風を絶えず懸命に送り込んでいるのは察しがつく。その風に煽られて受け手がよろよろと体勢を崩し、日頃とは違った仰角で景色を見直すことを強く念じているし喜んでいる気配がある。
時には鬱々とつづく内省を強いられる類いのものだが、物語が世間に果たす役割にはそういう重いものが有って良いはずだし、むしろそのような学びの時間を劇場で自分はもらえたのだ、陰惨な陽の射さないきびしい境遇を描いて何が悪いんだ、と、ヒール(悪役)を担う覚悟を決めて見える。つくづく男であることが厭になり、性欲という熱源を抱える身体を恨めしくなる。一時的であれ性能力を奪い、断種に導く負の圧力で満たされる。それが石井世界の激烈な薬効となっている。
石井隆の劇には前景と背景があり、それが同一画面に混在すると先に書いたが、視座や価値観の“往還”が起こると言い替えても良い。私たちは石井の物語を前にしてしばしば道に迷い、時に逆転した場処へと招かれて自身の思い込みを粉々に砕かれ、茫然として過ごす羽目になる。
そのとき、私たちの身に何が起きるかといえば、あれだけ性愛にまみれた描写を前にしながら、刺激や官能から距離を大きく取った、いくらか後退した、謙虚で不思議と乾いた、堅実な視線を託される気がする。単に私がある程度の年齢を経て性愛のビジュアルにすっかり飽いてしまい、生殖機能も落ちて、欲望の感度がいちじるしく鈍ったせいだろうか。いや、石井隆の作品とは最初からそうであった。血の池めいた地獄の淀みを潜りながら、なぜか汚臭を感じることなく、やがて透明度があがっていく。光は届かず先はまるで見えないが、指先や髪の毛を撫でる流れに濁りはいっさい無くなっていく。そんな水底のイメージがいつもしていた。
劇画も漫画に限らず小説も絵画もそうだが、詰まるところ物象のすべてをどのように捉えるかは完全に個人に帰属しており、胸に飛び込んでから先はひとつとして同じものは無い。わたしの受け止める石井作品と、あなたのそれは見え方も感動の反射具合も少しずつ違っている。読者や観客の資質なり観賞にのぞんでの真剣度により段差が出るのは止むをえないが、それでも石井作品に触れて、多くの読み手の内部がかき乱され、女性観や道徳観といったそれまで抱え続けた一元的な主観を分裂させられた事は間違いない一定の事実と思う。
誰もが認めるように、石井隆の持ち駒のひとつは肉体の描写力だ。女優を撮らせたら光一(ぴかいち)という自負もあり、面貌や四肢をどの方向から撮れば良いか、ミリ単位での試行を重ね続けた。くねりや反りがたたえる淫靡さ、髪間から覗くわずかな表情の変化を飽かず追求し定着させてきた経緯がある。劇画であれ映画であれ、ひとたび発表された際の世間の反応は激しく社会現象となる事も少なくない。
そのような作風にあっては、劇中で創り上げた人物が聖人君子然として目の前に露わとなった性器に一切の関心を寄せないという訳には当然いかない。いや、むしろ極度のこだわりさえ見せる場面が過去作に幾度も顔を覗かせた。蜘蛛の巣に捕らえられた羽虫のように、おんなの身体に吸い寄せられる男が数知れず描かれている。
異常な、穢れた行為ではないように思う。わたしたちはそのように作られているからだ。時に性愛の波間に身をゆだね、皮膚や粘膜への接触を重ねてこの世の憂さや厳しさから逃避し、他者であれ自己であれ、愛する対象とともにより高い頂きに昇り詰めたいと願う。そうしなければどうにも淋しい、苦しい時間というのが面前に現われる。難局や課題を回避することは許されないけれど、ほんの少しだけ延期させて気持ちの平衡を保とうとする。性行為の本質に在るものは無垢な救済行為であると思う。
性愛に埋没する時間のなかで私たちは互いの性器を間近にし、その湿りや温かさ、匂いというものに五感を奪われて思考を停止していく。この行為を愚かしいと侮蔑することは生きることそのものの否定となる。人間はすべからく性的であって良いし、むしろ真剣にそうあるべきなのだ。性を軽んじる事は大きな誤りであり、人生の密度を希薄にするという実感がある。栗本薫の小説「ナイトアンドデイ」(1982)に登場する漫画家がおんなの性器描写に囚われていくことはだから不自然ではないし、そういう人間がいてもそれはそれで普通であるとしか私は思わないけれど、栗本が創作したその漫画家が石井隆をモデルにしたと言われてしまうと、これは完全に間違いだと言いたくなる訳なのだ。
石井隆があつらえる肉体との邂逅は、フィティッシュの陶酔からはやや距離を置いたものだからだ。そう書くと語弊があるか。桃色の柔らかい器官にのみ焦点が定まるのではなく、がっちりとした腰部に据えるおんなの生い立ちなり、それを公然に晒すに至った過酷な状況といった人生の総体に対して男が対峙する瞬間であって、ひとまわりもふたまわりも広い画角を保持している。周囲を観察することから逃げていない。さまざまな視覚情報が混在一体となった風景であり、のめり込む行為を冷静に、いくらか憐憫の情をたたえた目でいつも俯瞰しているのが石井の劇と言えるだろう。常に眼光紙背に徹すべく自らを追い立てるというか、熱狂よりも深慮や共鳴が先行している。
たとえば『フィギュアなあなた』(2013)で死の狭間に置かれた青年(柄本祐)は、夢現の空間で一体の生きた人形(佐々木心音)と出会い、その局部の精巧な作りを確かめて感嘆の声を放つ。鼻先が触れるほども人形の股間に顔を寄せ、性器の色かたちに興味の先を集中させる青年の姿には「ナイトアンドデイ」で栗本が幻視した佐崎という漫画家の異常な執着がオーバーラップしないでもない。
けれども『フィギュアなあなた』において私たちには、その局所的な視点と同時に妖しげな「背景」もしかと差し出されている。人形がどのような場処にどのような形で置かれているかを石井は丹念に、心血そそいでステージ上にあつらえ、わたしたち観客に無言で提示している。廃棄された人形が山積みにされ、蓮の花を模したランプが赤々と灯り、あたり一面を幽玄な光で照射している様子が否応なく網膜に焼き付き、どうしたって逃げおおせない。公開時に識者が綴っていたように、この景色は第二次世界大戦で独軍が設営し、終戦時に占領軍のカメラレンズの前に露呈してモノクロのフィルムに刻まれた強制収容所での凄惨な様子を間違いなく模している。(*1) 石井は死体の山を淡淡と差し出し、青年の一種のどかな恋着に観客が安易に同調する流れを阻止している。
浮かれ調子の股間の検分と、骸(むくろ)のおぞましき堆積が同じ土俵に載っている。劇の奥に徹底して醒めきった硬質のものが陣取るから、それが顔を覗かせた瞬間に「ちょっと待てよ」という気持ちが舞い起きる。それは石井が創った登場人物にも生じるし、読者や観客側にも湧出するのだが、何より石井隆という作り手が逡巡と憂慮の人だからじゃないか。
性愛の頂きで私たちは目をつぶり、脳幹をつらぬく閃光を垣間見るはげしい感覚を抱くのだけど、石井が作る物語においておんなは目を完全に閉じることがない。相手を冷静に観察し続ける。快楽をともなう短い死を許さず、物象を隙間なく観察し、記憶しようとするその体質は石井という絵師の画風にも当然ながら等しくあって、常に劇中の複数箇所に焦点が配され、併行する描写なり価値観がいつまでも瞬きつづける結果となる。調和の取れた完結は遂に訪れ得ない。なぜなら一点が完結しても他方は動き続け、観察し続けるからだ。
人間の行為を操るものが何であるかを透徹した視線で観察し、人間って単相じゃないよね、時どき変なことをするよね、その動機が混濁して明瞭でなくてもそれは当然だよね、と考える。人間のこころを不確かで複数の層からなると捉えているから、自ずと物語が単純化しないし、従って分かりにくい結末にも往々にしてなるけれど、そういうのが本当の世の中じゃないかとどうやら捉えている。
その二極化、作者の視点も加えれば三極化した混然一体の趣き、頁全体、銀幕全体が合奏するかのような厚みある構成は、背景が排除された極端なクローズアップでも変わらない。今度は人体が風景画となって前景と背景にゆるゆると分離し、肉体と魂、本音と虚勢、高揚と冷感が螺旋構造となってめまぐるしく立ち現われる。単純な春画では到底表現出来ない様ざまな反射光を放ち始め、紙芝居や手慰みの次元を超えて迫り来る。矛盾だらけの私たちの鏡像となってやがて機能し始めて、こちらの視線に対しあちらからもしっかりと見返すようになっていく。
石井隆を語るときに前景に置かれた人体の艶かしさ、女優の白い裸身を際立たせる扇情的な照明や演出が取り上げられる事が大概であるから、多くの人は「人物画」の名人上手と彼を誉め讃えがちであるが、本質はやはり「風景画」の達人であり、前景と共に背景を同等に物語らせる、ある意味で至極饒舌な作家である。
(*1):キネマ旬報 2013年6月下旬号 No.1639 四方田犬彦「恐怖と恍惚、悪夢と淫夢」
十分な取材をせずに執筆し、けれど、あとがきには「モデルは、かの石井隆」と大書きする。あげく現実から乖離した風景を物語中に羅列して、石井の読者をひどく惑わせた栗本薫の小説「ナイトアンドデイ」。これについては先日、私見にはなるけれど縷々(るる)綴っている。幾つかの箇所に反証を試みたわけだが、そのときにあえて取り上げなかった一節がある。こんなくだりだ。
「そして何気なく手の中のものをみて目をむいた。(中略)白い紙の上に、画面いっぱいに、女が大股をひろげていた。白昼──という時間でもなかったが、とにかく人目のあるところで、大っぴらにひろげられるしろものではなかった。画面のまん中にひろげられた股間には、それこそひだの一つ一つ、毛の一本一本までが、恐しく偏執狂じみた細密さでもって、描きこまれていたのである。何だか、頭をぼかんといきなりうしろから殴られたような衝撃があった。」(*1)
「ナイトアンドデイ」は最初から最後までひとりの若者の視座で描かれる。とある夏の日に、よく行く喫茶店「ルージュ」で漫画家と出会う。道に落ちた紙片を拾い上げて前をゆく漫画家に手渡したことが言葉を交わすきっかけなのだが、その際に手にしたスケッチのおもてに在ったのは大きく股を開いたおんな、それも克明に陰部が描かれた姿であった。若者はびっくり仰天し、目の前に立つ男が自分とは異種の存在だと認識する。そのような幕開きだった。
最初に読んだとき、目の奥で閃光みたいなものが揺らめいた。「頭をぼかんといきなりうしろから殴られたような衝撃」と文中あるが、それはむしろこっちが言いたい事だ。どうしたらこんな連想が出来るのか不思議でならなかった。栗本は言葉を注ぎこんで視覚に訴え、読者を扇情すべく骨を折って見える。それは違う、歩み寄る方角が真逆だと思う。
何かしら異議を唱えないといけないと焦りながらも、横目でちらちら窺うままで正対することを避けてきたのは、反論する目的であれ何であれ、自ら栗本の術策に乗って性的な話題へと流されては危ういかな、と警戒心が湧いたからだ。寝た子を起こすのじゃないか、かえって石井作品への誤解の種を世間に蒔いてしまう可能性を怖れた。
縮約し過ぎかもしれないけれど、「石井隆の世界」というものは相反する意識が常に折り重なっている。売春窟や異常性欲といったいかがわしき舞台や快楽の黒い波に獲り込まれてしまい、はげしく変容を遂げる肉体なり表情が往々にして描かれるが、そういった表層部分の詳述と並んで、徹底して醒めきった硬質のものが奥の席にでんと居座っている。
木の葉や枝で埋め尽くされた山道に似ている。足裏に豊かな厚みを感じ、ひとたびこれを意識すれば、途端に厖大にしてかぐわしき香りが地表から舞い立って肺腑を満たしていく。やわらかく敷きつめられた枝葉のひとつひとつが石井の思念だ。一見それらは物語を構築する上で打ち捨てたもの、“ゆずり葉”めいて目に映るが、決して消滅などしていない。裸体という森の総体を見えないかたちで思慮や倫理観の堆積が支えている。その色とりどりの多層性こそが石井の作る劇の血髄じゃないか。
横たわる肉体を前にして茫洋と手応えのないまま、幽鬼のごとく佇立するおんなや男がいる。本音はまるで望んでいないのに、状況を変えたい一心でやむなく肉感的にならざるを得ない人間がいる。『夜がまた来る』(1994)の椎名結平のように、『甘い鞭』(2013)の壇蜜のように。官能から逸脱して冷却しまくる心底(しんてい)が、劇の足元にかならず息づいている。ひそやかな逡巡がゆらめき立ち、その末の自己破壊やある種の内的闘争の一瞬が粘り強く描かれる。
身体と魂、外面と内面の両輪が常にぐるぐると回り続ける。両極にあるふたつの側面が螺旋となって付かず離れずの昇降を繰り返す。そんな絶え間ない二重性が常にあるのであって、そこのところに慎重に、平衡を保ちつつゆるゆると触れることが石井作品を論述する際には大切と感じる。
ところが誤解と妄想に基づいた栗本の先の文章は、おんなの表層に関する記述を無闇に連ねて、どんどん皮膚に目線が貼りつくばかりでバランスが完全に崩れている。こころを置いてけぼりにして石井隆の劇は語れないのに。
いつしか若者は自宅兼作業場であるアパートの部屋に出入りしてアシスタントの真似事をするようになるのだけど、漫画家の原稿は一本調子であり、陰部にえらく執着(しゅうじゃく)するのだった。栗本はおんなの特定部位につき、しきりに形容をほどこして若者と私たち読み手を煽っていく。どうしてここまで煽るのか首をかしげてしまう。創作だし娯楽作なんだから、話術の一環と思わなくはないけれど、冷静に振り返ると妙にざらつく照り返しと手触りがある。さらに書き写してみよう。
「「で、でもいいのかしら、こんなところまで描いちゃって」ぼくは照れかくしを口走った。「ダメですよ」「え?」「全部、あとで、編集部がホワイトか墨でそこを消してます。ほら」(中略)──佐崎さんの絵があった。たしかに、大股をひろげた女体から、佐崎さんが異様な執念をこめて描き込んであったらしい部分はきれいに白くつぶされて姿をけし、そのせいで、苦悶の表情でそりかえった女は何となく間がぬけてみえた。」(*2)
「佐崎さんに手わたされる、大股びらきの女の、髪や背景を黒くぬりつぶしながらそのまん中に口をあけた精密画をじっとにらんでいると、何となく、あまりにもすべてが非現実だ、という思いにとらわれ──また、そこにぱっくりと口をあけているものが、何ともおぞましい、ぬめぬめしたなまこか、なめくじのたぐいの化け物にみえてきて、二度とそんなものに欲望をもつことなどない、という気になることもあった。」(*3)
後述するけれど明らかに佐崎のタッチは石井隆のそれではない。では、ならば一体この極端な性器への愛着は何であるのか。また、これ等の描写が石井とはかけ離れているならば、石井隆という絵師はどのような立ち位置にいると捉えるべきなのか。水底に錨(いかり)を下ろして、しばし考えてみたい。
(*1):「別冊文藝春秋 161特別号」 文藝春秋 1982年10月1日発行 251頁
(*2): 同 255-256頁
(*3): 同 263頁
出立予定の時刻まで間が空いたので、ワイシャツ姿でごろ寝して浮世絵研究家の林美一(はやしよしかず)の書いた物を読んだ。薄曇りながら夏の陽射しは健在で、シングルベッドは読書するには十分に白く明るかった。
歌麿が艶本(えんぽん)で最初に登用されたのは、『花合瀬戀皆香美(はなあわせこいのみなかみ)』という題名の墨摺の本と書いてある。1780年のことだから、映画『歌麿 夢と知りせば』が描いた1788年よりかなり以前になる。娯楽作にけちをつけても仕方ないが、事実とはかなり段差があることがその点からも窺い知れる。
『花合瀬戀皆香美』がどんな図案であったかは確認していないが、後の1786年に出された『艶本幾久の露(えほんきくのつゆ)』のなかの一枚が同じ本で紹介されていた。トリミングされて頭のてっぺんや足先を切り取られ、画面一杯で重なる男女の姿は清楚で品が良く、白黒の線がどこか後世の劇画に似通っても感じられて可笑しかった。素足をさらけ出したおんなに向かってむくむくと隆起した陽物が迫る様子は生命力が溢れており、当時の絵師の内部にみなぎる自信と相通ている。絵が悦んでいる、描くことの愉しさが伝わってくる。やましさの片鱗はどこにもなく、ただただ生きることの嬉しさで輝いている。
どうやらこの絵師は性愛描写に抵抗がないばかりか、むしろ勇んでこれに臨んでいたのであって、それも前傾の姿勢のまま時間をかけて自家薬籠中の物にしたことが分かる。人間の陰部を丹念に線描することは当時まったくタブー視されてはいなかっただけでなく、一流の絵師の嗜みのひとつであった。交合の様子をちゃんと描けないではプロとは呼んではもらえなかったのだ。
くだくだしく歌麿や春画について書き出したのを見て、こいつは鞍替えしたのか、いよいよ妄想は打ち止めかね、はいはいお疲れさまでした、と早合点される人もいるかもしれないが、白状すれば私のなかでは脱線も手のひら返しも起きてはおらず、相も変わらずに石井隆という作り手について考える時間が続いている。朦朧と思考する日々の果てにふと昔観た映画が思い浮かんだというだけであるし、そこに付随するようにして絵描きにとって人体描写とは何かを延々と考えている流れである。
石井と歌麿とは確かに関係がない。余計なことを書き散らしてと𠮟られるかもしれないが、絵画美術の潮流や時代変遷と石井の技法なり戦術は連結して関わっているのであり、頬杖ついて頁をめくったりモニターに向かう孤絶した趣味嗜好の内側だけでは、作品の輪郭は摑めても作家の体内に宿る陰影にまでは触れられない気がする。
ちょっとだけ真摯に向き合うべきなのだ。自身の回路を開放して追憶や慚悔(ざんかい)を差し出し、石井から贈られる景色と結びつけていく。息を潜めて頁やスクリーンを見守るうちに世界を観る角度が微調整なっていく。私は人と比べて何ごとにつけ経験値が低いから、古今東西の書物や絵画を引き寄せながら頭を整理していかないと言葉をつむぐ自信がない。束になってかからないと石井隆を語れない。
さらに言い添えれば、まだ栗本薫(くりもとかおる)の小説「ナイトアンドデイ」(1982)について反芻(はんすう)し切っていないという気持ちがある。いや、そうじゃないな、「ナイトアンドデイ」の奇怪な物語展開を通じて石井隆をより深く掘り下げようと試みている気持ちだ。あんな無責任で乱暴な小説にもう心は引かれないが、なぜあんな風に彼女が脱線したかを考えている。
栗本馬鹿じゃん、リサーチ不足じゃんと断罪するのは容易いが、あれは栗本のみの陥穴(おとしあな)ではなくって、私たちあの時代に生きた多くの日本人の過剰でいびつな倫理観が鏡像となって現われ出た瞬間じゃなかったか。小説中の誤った石井隆の黒いイメージとにらめっこしていると、日光写真のようにして本来の石井世界のまばゆいディテールが浮んでくる予感がある。
(*1):「別冊文藝春秋 161特別号」 文藝春秋 1982年10月1日発行
単行本 文藝春秋 1983年5月1日発行
文春文庫 文藝春秋 1986年8月25日発行
(:*2):引用画像の『艶本幾久の露』(1786)は「歌麿の謎 美人画と春画」 リチャード・レイン Richard Lane、林美一ほか共著 新潮社 2005 38頁より
歌麿はどのような気持ちを抱いて春画に挑んだのか。映画(*1)の中の性格そのままに鬱屈していったのか、それとも大して抵抗も覚えずに筆先を泳がせ、蚊帳のなかの組んず解れつを再現してみせたのか。記録も回顧録も何もない訳だから、ひとりひとりが推し量るより道はない。
存外ひょうひょうとして描き切ったのではなかったか、と今の自分は想像している。為政者とその取り巻きの暮らしぶりは知らないが、庶民の息づく景色は今よりもずっとのんべんだらりとした物腰だったに違いないから。男女ともにまともな肌着を巻いておらず、大きな所作にともなって下腹部が剥き出しとなることは日常茶飯だった。
扇風機どころか氷さえ満足に手に入れられない夏の盛りには、誰もが薄手のものを一枚か二枚纏っただけで町を行き来し、体型と肌が露わになることを厭わなかった。庭先や裏口にたらいを置いて行水し、もしも銭湯が近場にあったとしても其処は混浴が当たり前だった。赤ん坊への授乳に際して、硬く張った乳房をお天道様にさらしても何の遠慮もいらなかった。そんなゆるい時代なのである。
他人の視線から身体の部位を防御しようにも、「衣」と「住」のつましい環境がまるで許さなかったのだ。枕絵をしたためる事は、いや、直接的に言ってしまえば性器の描写は、だからそれほどハードルは高くなかったように考える。男女の相違を幼いころから認識し、互いの下腹部に陰陽の異なる様相を見つけたとしても、ああ、そんなものかと素直に納得したろうし、馴染みの遊女に幾らか包めば、しどけない姿態を眼前に置いて写生することも自在なことだった。町民の娘であれ娼妓であれ、そこに彼女たちの抵抗はそう大きくなかったのではあるまいか。
むしろ性器を描写することに不自由と困難さを感じ、また、いつかは征服すべき山の頂きと見定めて発奮したのは監督の実相寺昭雄の方だった。ひとりの浮世絵作家の懊悩と興奮は二百三十年前の江戸に在ったのではなく、昭和52年の作り手のこころに在ったのだ。
『歌麿 夢と知りせば』の公開当時、今から四十年ほど前の性愛描写はたしかに制約が多かった。突然にそうなった訳でなく、長い歳月をかけて自縄自縛の様相を呈した。歴史家ではないから詳しいところはよくは分からないけれど、明治期の洋画展覧会をめぐる裸体描写の規制などから見て、列強諸国を意識するようになってからいよいよこの国は分別を失ったように思う。
先をひた走る欧州に追いつこうと焦るあまり、かの地で寛恕(かんじょ)されていた裸体や性器をめぐる芸術表現を一切合切、問答無用で禁じてしまった。いびつな精神的鎖国を繰り広げ、何代にも渡って意味なく乱暴な抑圧が加えられた。
『歌麿 夢と知りせば』を観に来た客は江戸期のモラルが現在よりずっと穏やかでのんびりしていたと直感するのに、銀幕の上では堅物の痩せ男が無闇矢鱈に往来を行きつ戻りつしている。何をそんなに苦しむのか、天下の歌麿がどうしちゃったのだ。このもどかしさの根底には明らかに昭和の閉塞感が照射されている。江戸期の化粧がほどこされてはいるけれど、1977年の表現者の煩悶があざやかに刷りこまれている。(*2)
『歌麿 夢と知りせば』の作り手に限った話ではなく、誰もがもぞもぞしながら解決できずに生きていた。押し付けられた規範を先進的なものとして甘受し、そのあげくに言葉を選ばなければまったくの未熟児、もしくは妄想という名の膨張した瘤を腹に抱えてどこかバランスの失った健常者となった。矯正を強いられた身でありながら不思議に思わず、劣情の手綱を操ってこそ真の紳士淑女なのだ、ヘソ下を露わにするなんて未開人の粗野な振る舞いなのだ、官憲の取り締まりは至極当然のことと信じた。その癖うずく好奇心を鎮められず、欲望の芽を湿った暗がりに育てては宵闇にまぎれて扉を叩き、海外渡航に際してはポルノショップに足を運ばずにおれなかった。黒い髪のその一群を欧米人は鼻で笑い、セックスアニマルと侮蔑した。まったくひどい世の中、恥多き時代だったと思う。
ここ十年程のインターネットの普及により私たちは苦もなく、さほどの怯えもなく、人間が性愛にふける様子をじっくり観察してみたり、ときに悠々と愛でることが可能となった。もちろんそれらの多くが「商品」であって、金銭と引き換えに録られたり観られている訳だから、性的搾取の坩堝(るつぼ)と化している。
裏社会の非情なルールがおんなたちを追いつめ、心身両面の凄惨な崩壊劇がこの瞬間にもどこかの密室で起きていないとは限らないのだが、そのような闇の粘り気と腐った臭い、獣じみた悲鳴とも咆哮とも言えないものがモニターの隅のさらに向こう側に在るのを感じ取る仕組みだとしても、この国境を軽々と越える自由伝達の術(すべ)は私たちにとって善き性格のものと捉えている。長い鎖国が終わりを告げ、ようやく一個のまともな人間として扱ってもらえる。自身の半生を振り返って、そんな安堵とささやかな静寂を噛み締めている。
(*1):『歌麿 夢と知りせば』 監督 実相寺昭雄 1977
(*2): その前年の1976年に大島渚の『愛のコリーダ L'Empire des sens』が公開されている。欧州の観客の目には『歌麿 夢と知りせば』の法に則った描写はいかにも軟らかく、余程の退行現象と映ったのではなかろうか。
喜多川歌麿(きたがわうたまろ)は浮世絵の首座を占める巨人だが、彼を題材にした映画に実相寺昭雄(じっそうじあきお)の『歌麿 夢と知りせば』(1977)(*1)がある。ずいぶん昔に観賞したのだけど、冒頭から間もない場面で身を乗り出した記憶がある。
香が焚かれ行灯のあかりが揺らめき、衣ずれの音がくぐもる寝屋ではなかった。また、人目忍んで密会する恋びとが互いをまさぐる川べりの茶屋でもなかった。吉原の景色をモザイク状に散りばめた娯楽作だから、艶っぽい映像がこれでもか、これでもかと飛翔乱舞するのだけれど、私が面白いと最初に感じたのは喧騒渦まく白昼の通りから扉を潜ってすぐの、さっぱりと乾いた屋内の景色だった。
版元 蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)の店の奥座敷であり、当時あれこれと面倒をかけてもらっていた歌麿は主人の前に畏まって座り、浴衣姿の女人の立ち姿などを描いた習作を幾枚もひろげては意見を聞いている最中なのである。蔦屋は開口一番にそれらの絵に駄目出しをして、もう少しおんなの実相に踏み入らないと売り物にはならないと告げる。ちょうど其処に絵入りの狂歌本「画本虫撰(えほんむしえらみ)」(1788)の試し刷りが届けられ、竜胆(りんどう)の紫の花が咲き誇り、傍らに蜻蛉(とんぼ)の羽を休める様子が緻密且つ優雅に描かれているのが屋敷の主人とわたしたち観客にそっと示されるのだった。
これを見た蔦屋はこらえ切れずに言葉を迸(ほとばし)らせ、眼前の歌麿を叱りつける。虫や花はこんなに微細に描き上げるのに何故おまえはおんなを描けないのか、そんな性根ならこちらから縁を切ってもよい。蒼ざめた歌麿は表へと飛び出してしまう。
狂歌仲間で歌麿の取り巻きのひとりである平賀源内らが慌てて背中を追う。肩を叩いて引き止め、陽気な口調でなだめにかかるのだった。杉田玄白が「解体新書」(1774)を世に出したことに触れると共に、懐にしていた怪しげな本をぺらぺらとめくって歌麿に押し示し、所詮おんなというのは肉塊なのだ、ここに描かれた挿絵をご覧よ、股を開いて化け物染みた赤々とした亀裂を示すこんな絵づらと同様であるのだから、おまえさんもそれを在りのままに描けば良いのだ、おんなを描くことに妙な意識を持つ必要はさらさらないと説くのである。歌麿は無言のまま、雑踏のなかに消えていく。
解体新書の出現を先日の出来事と語る点からも察せられるように、台本上の時間構成は自在に組まれており、二時間二十分の枠に十年前後の世相をてんこ盛りしている。風俗の爛熟、為政者の交代と表現弾圧、庶民のこころに巣食う諦観と反骨。歴史の狭間で翻弄される創作者たちの群像を詰められるだけ詰め込んでいるのだけれど、肝心な部分は歌麿という絵描きのわずか一年間における迷走のさまであって、私が惹かれたのも実はその天才らしからぬ煩悶だった。
「画本虫撰(えほんむしえらみ)」発表の同年、春画の世界に新風を吹かせた彩色摺艶本「歌まくら」を歌麿は完成させるのだが、手を染める寸前の迷いに迷う真面目すぎる男の逡巡をずるずると描いてみせるところがたいそう面白く、とても新鮮に目に映った。思うままに筆を走らせ、世間から求められるままになんでも器用に描いてみせる、そんな風にわたしたちは才気あふれる画家を捉えがちであるが、監督(脚本も)の実相寺は創り手だって人間である以上、自身の美意識やら技量に悶え苦しみながら匍匐(ほふく)前進しているのだと訴えている。
絵筆を持てぬまま枯れ野を放浪する様子さえ描いており、その点でも世間の抱くイメージを砕こうと創意が噴出している。テレビジョンの歌謡ショーで極端なカメラアングルに固執して波紋を起こし、仕事を干され、その後さまざま分野で暗中模索を続けた演出家が劇中の歌麿の迷走に自身のまなざしを重ねていたのは間違いなく、表現者の生々しい胸奥を覗いている気持ちになる。
あるノンフィクション作家は「幼い頃の歌麿は、虫を愛し、ひたすら絵に没頭する少年だった」(*2)と想像をめぐらせるのだったが、そんな純真無垢な描き手が版元の要望で生臭い体臭に満ち満ちた春画に挑まざるを得なくなるところに劇のハイライトを当てたのだった。描きたくないからどうしても描けない、好きなものを描いても誰も振り向いてくれない、自らが欲しないのに不思議と人気が出てしまってそのジャンルから逃げられない、出版元や制作会社の懐事情で描きたくても描かせてもらえない。古今東西の創り手を襲うさまざまな束縛や素の不安が時代絵巻の体裁で映し出されていて、等身大の懊悩に直に触れることが出来る。大切なことを教わったように感じられ、ときどき思い返す瞬間がある。
(*1):『歌麿 夢と知りせば』 監督 実相寺昭雄、主演 岸田森 太陽社 1977
(*2):「歌麿 抵抗の美人画」近藤史人 朝日新書 2009 112頁
栗本は自分のことを「生きたマンガ史」(*1)であると豪語した。そんな兵(つわもの)がどうして斯(か)くも無惨な見立て違いに陥ったのか。中島梓(なかじまあずさ)の名前で出ていたクイズ番組を毎週眺め、闘病記にして最期の作品、波状となって遅いかかる痛みと薬で朦朧となりつつ綴った「転移」(*2)を息苦しく読んだ身にとって、異論を唱える度に腹立たしさと悔しさが湧き立つ。恩人という程は慕っていなかったが、その面影や声はわたしの成長過程にゆったりと浮遊している。彼女の残像を懐かしく感じる。
故人への冒涜になるのか、またいつものように他人を傷付ける行ないを繰り返していないか、と、うな垂れて自問を繰り返す。中島さん、怒っていますか、ごめんなさい。でも、やはり書いておかないと貴女のためにもならないと思うんだ。「ナイトアンドデイ」が混乱の種になるのは貴女だって厭ですよね。やだねえ、石井隆の読者って妙に生真面目でしつこいったらありゃしない、もう勝手にしたらいいんじゃない、さっさと書き終えて解放してちょうだいな。そんな風にきっと笑って許してくれますよね。
孤独な少女期を過ごした栗本薫は御多分に洩れず漫画雑誌の虜になり、自室にこもって作画にのめり込んでいく。そのうち雑誌「COM」への投稿を繰り返したのだった。漫画という創作物に対して強い愛着があったのであり、そうであればこそ、七十年代の象徴のひとつとして石井隆ブームを取り上げたのは確かだろう。
ただ、石井隆の「ブーム」に大いに着目はしたが、「作家」としての石井には関心がなかったのだ。漫画というメディアに憧れ、その総体をひたすら崇拝し続けた彼女にとって、小説を書くことは絵のない漫画を描く行為であったに等しいから、自らを石井と同等の立場と捉えており、また、競争相手以上の興味を覚えなかった。漫画の絵や台詞が一般読者に衝撃を与えて翻弄し、彼らの人生を大きく変えかねないことを十分に理解している身であればこそ、時おり訪れては世間を熱くする「ブーム」をひどく面白がったが、石井隆の劇画自体は彼女にとって一切の影響力を持たなかったのだ。
それは石井隆に限った話でなく、栗本薫は漫画家全般に対して常に冷淡な目線を維持していた。中島梓名義の自伝的エッセイのなかにはこうある。
「そのころ大評判であったつげ義春も、「別冊ガロ・つげ義春集」などを買ってねっしんに「勉強」しはしたが、ついに(中略)ひきつけられることはなかった。「紅い花」は生ぐさく、「沼」はわけがわからず、「ねじ式」に困惑し、「その後の李さん一家」も貧乏くさく思った。」(*3)
つげ作品がまるで分からないこと、困惑したことを照れなく平然と綴っている。なんて純心で気負いのない感想だろう。少女そのままのこんな目線が、石井隆の作品を気狂いじみたものとして拒絶するのはある意味自然であって、小説中の彼女の分身である「沢井」という若者の意見がああなるのも宜(うべ)なるかなだ。
「とにかく絵が好きだった。」「憧れたあまり私は(中略)大切に切りぬいて保存した。」(*4) そのように往時の読後感を綴って見せた宮谷一彦(みややかずひこ)という作家に対しては、栗本はその後にあっさりと視線を断ち切ったと白状している。「どうも前のよりよくなかった。そのせいか、サンデーはこれぎりになり、かわりに少しして、青年誌で政治がかったのが連載がはじまったが、私はもうフォローしなかった。」(*5) フォローしなくなった事を悪びれず、しかも宮谷作品について決して口を閉ざすことがない。どこからその自信が湧いて来るのか。
熱心な読書家であった彼女は「生きたマンガ史」を自認する程であったが、それは裏返せば人気漫画に着目し、その年ごとの流行作を読むという慣習に染まっていたことを証し立てる。厖大な作品をひたすら取捨選択することに追われ、肌合いが悪いと感じれば惜しげもなく排除しておのれの視野の外側へと追いやった。集中して特定の作家と向き合う道を選ばなかったのだ。それが栗本の漫画との旅路であった。
「漫画」については果てなく喋れただろうが、特定の「漫画家」をとことん語る土壌は彼女にない。それなのに無理矢理「石井隆ブーム」を紙面に定着させようと試みたのだ。脱線転覆するのは当然の帰結だ。森ばかりを見て木の成長にいっさい寄り添わない気構えで、どうして石井隆を語れよう。
以上が「ナイトアンドデイ」に対する私なりの感想だ。否定的なことばかりを書き連ねていると全然楽しくないし、いい加減に疲れてくる。でも、最も疲弊し、ぺちゃんこに叩き潰されたのは石井でありその家族であったろう。ここでは触れなかった部分も含めてほぼすべて余すところなく「モデル」である石井の実像と乖離している。それが大出版社の手で国のすみずみまで配られた訳だから、並みの精神であれば立ち直れなかったのじゃあるまいか。
その後の絢爛な劇画執筆と映画監督としての躍進を見ると、世辞でなく勇気付けられるところがある。私たち誰もが彼を見つめ続ける理由のひとつだ。彼の倫理観は信じられるし、作品から愛の何たるかを学び、勇気をもらえる。そして、生きていることがどんなに虚しくても、悔しいことだらけでも、先に待つのが死と決まっていても、それでもなお歩むことを続ける姿に共鳴して止まない、だから私たちは石井隆を見つめ続けるのだ。
急を告げるメールなり声が届き、次々に新しい障壁が立ち上がる。うんざりして何もかも投げ出してしまいたくなる。そんなときに石井隆の世界と石井隆本人の苦闘を想う。秘かに奥歯を噛み締め、明日も闘おう、生きてみようと考える。
(*1):「ナイトアンドデイ」 栗本薫 文春文庫「ライク・ア・ローリングストーン」所収 文藝春秋 225頁 「あとがき」
(*2):「転移」 中島梓 朝日新聞出版 2009
(*3):「マンガ青春記」 中島梓 集英社 1986 104頁
(*4): 同 112頁
(*5): 同 113頁
栗本薫「ナイトアンドデイ」が雑誌に載ったのは1982年10月頃だから、早くてもその年の正月初め以降が執筆時期と想像される。石井隆のオフィシャルファンサイトで石井の単行本が上梓された年月日を調べれば次の通りだ。
「名美 石井隆作品集」1977.12.05、「赤い教室 石井隆作品集」1978.11.10、「天使のはらわた 第一部」1978.08.15、「天使のはらわた 第二部」1979.01.01、「天使のはらわた 第三部」1979.06.01、「横須賀ロック 石井隆作品集」1979.07.15、「おんなの街 石井隆作品集」1981.05.15。(*1)
栗本が「ナイトアンドデイ」のモデルに「かの石井隆大先生」を起用しようと決めた時、石井劇画のこれら代表作が書店の棚のおそらく高いところに並んでいたはずである。手にとって頁を開けば、【おんなの顔】(1976)、【街の底で】(1976)、【紫陽花の咲く頃】(1976)、【水銀灯】(1976)がそこにあった。【愛の行方】(1980)があった。そして「おんなの街」があった。
【雨のエトランゼ】(1979)と【赤い眩暈】(1980)も堂々と身近に横たわる時期にありながら、栗本はこれらをほとんど読みこなすことなく「いつも追われ、犯されるだけ、そこで物語はとぎれ、決してそのあとのつづきや結末のない女」(*2)を視とめて、「あまりのことに、圧倒され、ばからしくなり、次に呆然とし」、「どのみち読者は、一部の知識人のさわぎとは別に、この雑誌、この作家、などとえらんで買いもとめているのでありはしなかったようだ。かれらにとってはどういうちがいはなかっただろう」という結論に至ったのだ。これは相当に軽率で罪づくりで、恐るべき結審である。
問題の「あとがき」を含んだ単行本「ライク・ア・ローリングストーン」が世に出たのは1983年5月1日であるが、石井はそのとき「ヤングコミック」で【黒の天使】を鋭意連載している真っ只中にあった。そのような「モデル」の石井の活躍があるにもかかわらず、栗本は次のような文章で「あとがき」の最後部分を締め括っている。
「いまの私は少女マンガしか読まないけど、宮谷一彦や、永島慎二や、石井隆は、いま、何をしてるのだろうな、と思ってみたりする。(中略)昭和五十八年一月」(*3)
「石井隆は、いま、何をしてるのだろうな」とは、なんとも壮絶で凶悪に過ぎる献辞である。出版業界と近接していながら調査の手を尽くさないまま、「現役」の作り手である点を十分に認識せずに「モデル」と称してなぶっていく。深慮を欠いたそんな不安定さのまま、危険な綱渡りを自らに強いた命がけのひとりの創り手を滅茶苦茶に思い描き、さも観て来たように書き散らしたのだった。「ナイトアンドデイ」とはその程度の文章であって、到底石井隆の現実の七十年代と結び付けて許される本ではない。
(*1):石井隆の世界 公式ファンサイト http://fun.femmefatale.jp/
(*2):「ナイトアンドデイ」 栗本薫 文春文庫「ライク・ア・ローリングストーン」所収 文藝春秋 212頁
(*3): 同 225頁
「ナイトアンドデイ」は極めて石井隆とよく似た、いや、石井隆そのものを指すとしか言えない当時の状況をつぶさに書き込みながら、同時になんだか訳が分からない箇所も含んでいる。この不気味な分断はどう捉えるべきか。
「もし、彼のその絵を、おちついて見る批評眼を保っている男があるとしたら、おもわず吹き出したかもしれないぐらい、男と女には、彼の描きかたに、ものすごい露骨な差があった。男などは、ただいればよいというようすで、表情などはロボットのようにかたく死んでおり、ときには黒くシルエットでぬりつぶされていた。背景も紙芝居よりお粗末だった。木の茂みなど、ただの丸をぬりつぶしただけだった。」(*1)
これは石井隆をモデルに使っていないと言い切るための保険や免罪符なのか、それとも栗本の分身である若者には実際そんな風に目に映ったのだろうか。丸のかたちでぬりつぶしただけで木の茂みをどうやって表現するのか、私にはどうもよく解らないのだけど、「背景」となるものに人物の心情を密着させ、巧みに仮託していくことを初期段階から試みていた石井の絵画とは次元のちがう話になっている。
こんなエピソードがある。石井劇画の制作現場に居た人から直接聞いた内容なのだが、アシスタントが未舗装の地面を表現するよう指示を受け、気持ちを込めて腕をふるった。前に世話になっていた他の作家の作業場で描き慣れていた方法、つまり石ころを大小の楕円で表してあちこちに配するやり方なのだが、それを観た石井から即座に注意を受けたそうである。石はただの丸ではない。その場のあるがままを描く必要があるのだ。
草葉を黒く塗りつぶすなんて、そんな安易なことは石井世界では許されない。草の葉一枚、石ころひとつにも作者の思念が及んでいたから、どんなに採算性が悪くてもアシスタントは、もちろん石井自身も手が抜けなかった。膨大な量の線が紙面に投じられていったのだ。それが石井劇画の「背景」の特徴にして内実である。
実際の石井隆と作中人物が同一と思われぬよう、石井の十八番である繊細な背景画を栗本が切り落としたという事であるならば、言葉少なに淡淡とそう記せば良いだろうにいちいち悪態を吐かないと気が済まない。表情が死んでいる、紙芝居より粗末という、いかにも見下したような意見をなぜ書かねばならないのか。裸の王様に気付く子供のように「おちついて見る批評眼を保っている男」ならば、性愛が主軸の劇画に熱狂など絶対にしないと言いたいのか。そこまで私たち石井隆の読者を読解力のない痴れ者と決めつけるのか。
「その夜はひさしぶりに悪習がよみがえってしまった。」「われながら異様に思ったのは、翌日になってもまだ、あの絵を思いだしただけで体の芯(しん)の方からたかぶってくることだった。金があったらトルコへかけこんでいたろう。その興奮には、異様で少し病的なものが混じっていた。」(*2)
聖人君子ではないから石井の劇画に扇情されたことが一度たりとも無かったなんて書くつもりはない。けれど、それにしても何てステレオタイプで幼稚な反応だろう。単純で分かりやすい読者像をあてがい、栗本は石井隆をめぐる巨大な世のうねりを蚊か鼠を媒介とする熱病か犬のさかり並みの一時的な脱線と読み解き、甘い郷愁に染まった実体なき蜃気楼とでも括りたいのではないか。
「つまるところ、そうそうただひたすらなワイセツ、欲情、下司さ、の中に浸りこんで、ただ欲情だけを感じて何の倦怠も虚しさも感じずにいられる、というのは、そうとうタフな身体と心の持主なのだろうとぼくは思う。セックスがいくら好きでも、セックスのことだけ、あるいは食い物のことだけ、金のことだけ、四六時中考えるようには、できていないのだ。ぼくのような、ふつうの人間──ごく平凡な男というものは。佐崎さんと違って──そして、さいごには、あまりのことに、圧倒され、ばからしくなり、次に呆然としてくる。」(*3)
自瀆(じとく)する道具としてだけ劇画の役目を定める単純な読者像を一方に置き、栗本はこれと対峙する作家を同等の短絡したイメージに染色しようとする。自分(栗本)のような、ふつうの人間──ごく平凡な女というものには佐崎=石井のような下司な妄執は続けられない。彼らは異常であり、狭隘な性欲の谷間に咲いた汚い徒花であり、あっという間に枯れていく存在だと言い切っている。あまりのことに、圧倒され、ばからしくなり、次に呆然としてくるのはこちらの方である。
どうしたらそんな読み方が出来るのか。石井隆の仕事に「倦怠や虚しさ」を感じ取れないとはどんな目を持っているのか。「セックスが好きでセックスのことだけ四六時中考えている」なんてどうしたら想像できるのか。「横須賀ロック」や「名美」を読んで暗い気持ちになり、宮谷一彦、永島慎二と同質の匂いをかいだ末の彼女の「創作」がこれなのか。怒りを越えて無性に悲しくなって来る。石井の世界観を消化しようと身悶えし、おのれの血肉にすることを嫌い、分からないし分からなくてもぜんぜん構わないとあっさり背を向けてしまったおんな(栗本)も哀れだし、考察することを手控えて逃げに逃げた「創作者」の一生を不憫にも感じる。
わたしが石井隆の読者になったのは中学の終わり頃で、他者と触れ合う性体験の片鱗もない時期であった。その後、それなりに時間を重ねて酸いも甘いも味わってきたけれど、傍目には平均的な半生をつむいできたと見えるだろう。性愛に対する嗜好だってありふれた味覚と嗅覚であって、そういった意味でどこまでも普通のどこにでもいる読者であったと思う。
栗本の創った若者とわたしの視野角なり光度は違って当たり前であるから、あのような単純な若者が世間に少しはいたことは想像出来るし否定はしない。しかし、こういう別個の少年もいたのだ。石井隆のまぎれもない読者のひとりとして当時受け止めた感覚を刻んでおきたい。
闇にたじろぎつつ解放されていく人間の、ささやかな夢の匂いを嗅いでいた。肉の哀しみを常に見ていた。恋情の昂揚と終息を垣間見せられ、人に対して臆病にもなったが優しくもなった。
死という終点を雨夜の向うに幻視して謙虚になった。歓びと淋しさが、聖と邪が、健康と隠滅が表裏一体であることを感じた。幼さは人をかまびくしくさせ、老成は人を美しくすると信じられた。都会はどこまでも寂しく、人は独り同士であると伝わった。性差をむさぼるよりも魂の共振が、共鳴こそが嬉しいのだと解かった。
物質のひとつひとつ、雨滴、ヘルメット、整髪料に薫る髪、スカートのひだ、浴室のタイル、僅かな表情の変化に感情が乱反射し、ひとが其処で費やした時間や思念が宿るように思われた。髪に触れる、肌に触れることが会話なのだと信じ、大切なものと思えるようになった。性愛のもたらす悲劇と至福を意識し、幸福な時刻(とき)を求めていきたいと心から願った。それが私にとっての石井隆だった。
(*1):「ナイトアンドデイ」 栗本薫 文春文庫「ライク・ア・ローリングストーン」所収 文藝春秋 172頁
(*2): 同 167頁
(*3): 同 180頁
小説のなかの漫画家と実在の石井隆とは違うよ、いっしょと捉えてカッカしないでよ。栗本が生きていたら唇をとがらせて反発するだろうか。それとも、そうだよ、その通りだよ、私は石井隆の作品をろくに読んでいないし、彼がどんな人か全然分からないよ。あとがきにだってそう断わっているじゃないの、ちゃんと読めよ、と髪振り乱して開き直るだろうか。
「「ナイトアンドデイ」のモデルは、かの石井隆大先生であります。といっても私は先生のお作を読むだけで他のことは、どういう人かも何も知らん。ただ、「横須賀ロック」や「名美」を読んで暗─い気持ちになり、宮谷一彦、永島慎二と同質の匂いをかいだだけです。」(*1)
「この三編の中編には、いずれもモデルがあります。私の知人だった人も居れば、メディアを通してのみ知って、そして勝手なイメージを抱いた人もいます。どの作品のどの人のモデルは誰で、それがどうアレンジされていった、という類のことは、小説がいかに生まれてくるかという評論の材料としては面白いし、また、芸能週刊誌的興味にも、面白いかもしれませんが、小説を楽しんで頂く上には、いらぬことだと思います。」(*2)
知らないのだ、勝手なイメージなのだ、誰がモデルかなんて読者には気にしてもらいたくもない、と著者はくどくど綴っているのだが、これはどうにも釈然としない暴力的な振る舞いではなかろうか。何も知らないと書いていながら、小説「ナイトアンドデイ」には石井隆を取り巻いた当時の状況が克明に採取され、虫ピンで串刺しにするようにして要所要所に貼り付けてある。「勝手なイメージ」の領域をとっくに越えており、七十年代の顔となった石井隆の輪郭を写し込もうとかなり気負って書いてある。
「それから三、四年、つまり一九七〇年代のちょうど半ばごろになって、(中略)ブームがはじまった。佐崎さんは、そのブームの、ほとんどきっかけになったと云ってよい人気(中略)劇画家だった。」(*3)
「その雑誌の表紙をみたとき、ぼくは思わず笑ってしまった。なぜなら、それは(中略)ヒゲなどを生やした、佐崎さんの写真だったからだ。(中略)パラパラめくると、何だか難しそうなことがいっぱい書いてあった。ポルノ映画の監督だの、評論家だのが、佐崎さんのマンガについてしゃべっているのだ。」(*4)
「まだ、ブームが頂点といわれたころで──佐崎さんの代表作といわれる「鏡子シリーズ」がポルノ映画化されるという記事が新聞にでかでかとのった」(*5)
その雑誌とは表紙構成から新評社が1979年1月に出した「別冊新評 石井隆の世界」であるのは明らかであるし、映画は1978年7月22日公開の『女高生 天使のはらわた』(監督 曽根中生監督)を指している。ここまで特定の現象を注ぎこんでいながら、知らない、モデルが誰かなんて余計なお世話だと読み手の推測を押しとどめようとするのはどうしたって無理な話だ。次の部分などは完全に「名美」を、石井隆を連想させる目的で為された挿入文だろう。
「信子さんは、佐崎さんのいつもかくヒロインの名前をいった。鏡子──狂子──響子──今日子──彊子──字はちがっても、いつも同じ肩までの冴(さ)えないロングヘア、やぼったいブラウスとスカートであらわれてくる女。」(*6)
「名美」という器を作り上げ、そこに幾種もの酒を注ぎ、さまざまに波紋を起こして薫風を振りまいた石井隆の仕事が、上にあげた小説中の漫画家佐崎の文体と同一とは言えない。「名美」は奈美や那美になったりはしないからだ。では佐崎のモデルは、かのA先生、かのB先生であったろうか。
当時の漫画界では手塚治虫のスターシステムに似た描法が定着を見せ、石井隆以外の作家においても、登場する人物に特定の容姿と決まった名前を繰り返し与えつづけて、幾度も幾度も読者の前に立たせて幻惑を導くことが流行った。「名美」と「村木」という固定された名前と容姿の男女を再三に渡って採用した石井の手法というのは、だから専売特許とは言えない訳だけれど、これだけ状況証拠がいくつも重なってしまえば、「ナイトアンドデイ」の作者栗本が石井隆と彼の劇画の「表層部分」を不遠慮に奪い尽くし、再構成しようと企んだことは明白と思われる。
(*1):「ナイトアンドデイ」 栗本薫 文春文庫「ライク・ア・ローリングストーン」所収 文藝春秋 1986年8月25日発行 223頁 あとがき
(*2): 同 227頁 文庫版のためのあとがき
(*3): 同 200頁
(*4): 同 200-201頁
(*5): 同 214頁
(*6): 同 197頁
「「ナイトアンドデイ」のモデルは、かの石井隆大先生であります。」(*1)
著書栗本薫によってここまであからさまに刻印された以上、読者の知らない石井の実像に迫っていると誰もが思うだろうし、わたしもそれを望んで手に取った次第なのだけど、結論から言えば完全な肩すかし、いや誤謬だらけで看過し得ない内容だった。あまりの事実との乖離にただただ啞然とし、かえって冷静にぱたりと閉じたように思う。そんな訳だからこれから綴る文章は批判めいてくるのは避けられず、栗本薫の信奉者にとっては相当苦い味となる。
誰でも間違いは犯すと思うから、栗本を断罪する気持ちは強く持っていない。だってこの私こそが思い込みが激しい性質(たち)なのだし、勘違いの権化みたいな有り様だから。いい加減に読み解きの能力の無さを悟り、筆を折ってはどうかと逡巡する毎日だけど、後始末の一環として性懲りもなく独りモニターに向き合っている。
栗本の間違い、それとも故意で綴ったのかはよく分からないのだが、それが石井隆というひとりの作家の実像を大きく歪め、彼の作品の印象を闇雲に減損しつづける類のものであるならば、そうして書籍というメディアが人の生死を越えて長命であり、もしかしたら木造家屋を灰塵に帰す戦争や地震といった大災厄に遭っても地中深くの書架などで生き延びて、後世のひとの手にいつしか渡り、そこから再度つぶやく不死身の力を擁すると捉えるならば、焼け石に水でも対抗上それは違うよ、間違っているよ、と誰かがどこかに異論を挟んでおく務めがある。
ウェブの発達は知の集約をかなえ、最終的に情報の誤りは順次訂正されていく仕組みが育っている。でも、ウェブ成立のはるか以前の出版物で再版されぬものについては、誰からも苦言を呈される機会を持たない。いつまでも誤りが誤りのまま姿を保って隠栖(いんせい)し続ける。何者かが考古学者よろしく掘り起こして世間に発表してしまえば、そして、誰もその内容に異議を唱えることがないままで独り歩きを始めたならば、純真な読者なり世間は抵抗なく文面を鵜呑みにし、無自覚に汚染されてしまうのじゃあるまいか。誤りが次の誤りを果てしなく産んでいく、そんな可能性がゼロと言い切れるだろうか。
例によって誇大妄想の女神が背中に忍び寄り、手元をそっと覗き込んでいる。頬に生温かい薔薇色の息を吹きかけて煽るのだけど、もうどんなに笑われたとしても構わない。往時の読者という立場、時代の当事者として素直に感じたままを綴るのみだ。
そもそも「ナイトアンドデイ」は、主観に最初から最後まで覆い尽くされている。二十歳前後の学生「沢井」が行きつけの喫茶店で漫画家「佐崎(サザキ)」と出会い、アシスタントとして雇われるうちに彼の妻「信子」と恋仲になって遁走する。数年後に不動の人気作家となった佐崎に対して沢井は恥知らずにも金の無心をするのだった。実にみっともない恋情の顛末が描かれている。主人公はこの無軌道な若者の方だけど、物語は冒頭から最後まで漫画家佐崎に対するコメントや憶測を連ねることに終始し、ほぼすべて沢井という若者の主観に沿って綴られている。
ひとりの漫画家を客観視する内容では毛頭なく、人生経験の浅い沢井の未熟な視線をもとにした戯言(ざれごと)、絵空事と断じることも可能なつくりである。いちいち目くじらを立てるまでもない、ただの私見じゃないか、たかが小説ではないかと肩をすくめる人がいて当然だけれど、若者の目線がどこまでも悪意一辺倒であり、またモデルである石井隆の作品とはげしく乖離してばかりとなると果たしてどうであろうか。石井の作品をまったく読んだ事がない若い人が、初めてこの「ナイトアンドデイ」を通じて石井隆を取り巻く七十年代を夢想してしまったら、どんな風に瞳の奥を染め上げるだろう。
このにわかに信じがたい小説中の狂った主観に対し、唯一あらがうようにして当時の読者であった私がおのれの主観をぶつけ、異議の真似事をとりあえずしておきたいと考えるのだ。
たとえば、「ストーリーもごくありきたりな──清純な女学生が、痴漢に犯される、というだけの、オチもへったくれもないような話」(*2)と書かれている。また、「電車の中、夜の公園、家の中。背景はどこだってよく、ストーリーなんかあるだけムダというものだ」(*3)という沢井の感想は私には最初から何がなんだか理解できず、首を傾げさせたのだった。
石井隆の劇画本をめくりながら、ありきたりで無駄なストーリーだ、なんて感じたときは一度としてなかった。美術館を回遊していて、見ず知らずの人の声が耳に止まることがある。たとえば藤田嗣治(つぐはる)を前にしてこの三毛猫はよく描けているわね、髭(ひげ)もちゃんと生えているし、誰それさんの何とかちゃんと似てるわね、と談笑するご婦人がいる。佐藤忠良(ちゅうりょう)を前にしてこの上腕の筋肉は本物そっくりだね、よく再現出来たものだな、それだけ言って立ち去るひともいる。実際にそんな背中を見送って大層驚いたものだ。作り手が絵に託そうとする想いや昼夜に渡って注ぎ込まれた熱量や技法など、まったく意に返さない人たちがいる。
表層だけを漫然と眺めて終わりとし、自身のこころの入り江まで作品を曳航させずとも満足できてしまう人は割合と多いのだ。「ナイトアンドデイ」の沢井はまさにこの典型だろう。コマに凝縮された情報を沢井という男はまるで読み取っていない。鼻でもほじりながら絵と台詞をつらつらと眺めるだけが漫画の愉しみ方と考え、内在する作為や送り手の深遠なる葛藤まで想いが至らない。どれだけ膨大な月日を投じているのか想像出来ない。
「佐崎さんのが、いちばん、ストーリーをつくろうとか、一応変化をもたせようという意欲に欠けているみたいだった」(*4)と別な箇所で評するのだったが、一体全体どういう了見であるのか、憤激さえ覚える。石井隆をモデルにしながら著者の栗本は石井の作品をろくに読んでいない、と直感した。
栗本は「名美」というイコンを創造する前の試行錯誤する石井を知らないし、どうやら知ろうともしなかったのである。佐崎という漫画家が無名の雑誌で悪戦苦闘している時期から始まり、やがて世間が注目して看板作家となり、メディアがその人気に気付いて盛んに動き出すまでを描いた小説であるから、同じように時系列的に石井が無名であった頃の作品を買うなり借りるなりして、ざっと眺めてみるぐらいはしたら良いのに、栗本はその作業を完全に怠ったとしか思えない。
粗雑でざらついた紙に印刷された初期の石井劇画のなかには、女殺し屋が吸血鬼と濃霧のなかで死闘するものだったり、不良女子高生グループの果てしない抗争があったのだし、死者の国をさまよう娘を透明感ある絵のなかに置いた幻想画もあったりして、当初はかなり振り幅が大きかった。読者と編集部の嗜好がどこにあるのか手探りしながら必死でつかみ取ったのが一連の「名美」であり、それは故郷の山稜や池にうかぶ睡蓮、踊り子がたゆたう舞台袖といった東西絵画界の先達が紆余曲折を経て選び取った固有の景色たちと同等の、集束された対象物(モティーフ)である。
光線がレンズで屈折して徐々に一点に束ねられていくように、石井隆は題材を替え、描線を変え、大胆に技法を進化させていった。あいまいな揺らぎが消え去り、レーザーにも似た濃厚でまばゆい光軸が出現した。それが石井隆の雨と血に染まったメロドラマであった。その過程をつぶさに見ていれば、いや、せめて見てみようという意志がわずかでもあったならば、どうして「変化をもたせようという意欲に欠けている」なんて書けるものだろうか。
あげくの果てに「ひとつのつよい確信とでいっぱいだった。(この男──気狂いだ)という確信」(*5)と綴り、さらに「(この男は気狂いだ)また、ぼくは思った」(*6)と強調すべく繰り返し、「どうも、この男には、どこかしら、ふつうの人間らしい感情というものが、欠落している、と思われてならなかった」(*7)と書き残している。名誉毀損の訴訟によく発展しなかったと思う。なんて思慮の浅い、粗雑な記述だろう。「ふつうの人間らしい感情というもの」が欠落しているのはどっちだろう。
石井隆が劇画世界でどれだけ大きな風穴を開けたのか、どれだけ画期的な仕事をしたのか、栗本はそれが全然理解出来なかったのだ。世間の熱狂をいぶかしみ、発行部数の伸びを後押しする男性読者は性欲持て余す牡(おす)の群れと処断し、浅はかなやつらと一瞥しほくそ笑んで紙面に黒々とした私見を刻んだのだ。
「どのみち読者は、一部の知識人のさわぎとは別に、この雑誌、この作家、などとえらんで買いもとめているのでありはしなかったようだ。(中略)佐崎賢治も石川豊も、かれらにとってはどういうちがいはなかっただろう。」(*8)
違いが分からないであんな熱狂が起きようか。栗本はなぜ石井が支持されているか皆目わからなかった。他の作家との違いがわからなった。わからなくても全然平気で、さらにわからないまま勝手に自作のモデルに石井を選び、誤ちだらけの解釈を世間に押し付けることを何ら躊躇しなかった。これが灼熱の焼き鏝(ごて)、「ナイトアンドデイ」が内包する禍々(まがまが)しさである。
(*1):「ナイトアンドデイ」 栗本薫 文春文庫「ライク・ア・ローリングストーン」所収 文藝春秋 1986年8月25日発行 あとがき 223頁
(*2): 同 172頁
(*3): 同 181頁
(*4): 同 181頁
(*5): 同 173頁
(*6): 同 176頁
(*7): 同 178頁
(*8): 同 213頁
栗本薫(くりもとかおる)の小説「ナイトアンドデイ」(1982)が衆目を集めたのは、これまでに都合三度である。「別冊 文藝春秋」に載ったときが最初で、その後しばらくして単行本「ライク・ア・ローリングストーン」の一編として収まったとき、最後はこれが文庫本となり陳列されたときだ。(*1) 当時の世評を知りたくて何かないかしらと探してみたのだが、実のところ反応も何も今のところさっぱり見当たらない。鈴木いづみが表題作「ライク・ア・ローリングストーン」と別のもう一編にさらりと触れているくらいで、見事に忘れられた作品と言えそうだ。 (*2)
私の場合、初見は文庫版であった。蒼空(コバルト)色のよれよれになった帯がかろうじてへばり付いている。「今月の新刊 70年代の匂い、雰囲気、思い ああ、ぼくらの青春よ!」なんて書かれていて鼻白んでしまうけれど、奥付を見ると1986年8月25日とあるところを見ると多分その頃に購入したのだろう。
あれから三十年以上が経過している。引き足しして当時の年齢を数えれば、列島を北へ北へと移動していた頃だ。六畳かそこらの風呂もなければトイレもない下宿部屋が懐かしく思い出される。書棚代わりにしていたダンボール箱に石井の劇画と共に「ライク・ア・ローリングストーン」は居座りつづけ、ともに寝起きしては流し目を送って寄こした。
1986年といえば、創樹社から石井が自身の名を冠した「自選劇画集」を出したちょっと後ぐらいになる。その頃のインタビュウかあとがきを読み、慌てて買いに走ったのだったかそれともまったくの偶然だったか。人生には運命的な出逢いというやつがあるけれど、この本に限っては石井から教わった口じゃなかったかな。まあ、その辺はさして重要ではないから、保留してさっさと本題に進もう。
著者の栗本薫とは世代にずれがあって、彼女が過ごした七十年代と私のそれは時間軸こそ同一ながら色彩は大きく異なる。三編にひしめく喫茶店や同棲、ギターや長髪は、淡い憧憬を覚えはしてもよくは知らないからコメントしづらい。「安保、内灘海岸、安田落城、マンガブーム、ロックバンド、新宿」(*3)のいずれもが背の届かない先に在って、正直実感するものがない。「匂い、雰囲気、思い」を共有していない以上、口を挿む資格がそなわっていないと言われたら黙るより仕方ない。これまでそんな風に考えてきたし、いまも幾分かはそう感じている。
そもそも栗本薫を読んで来なかった。続きものを数巻買って読んだ時期があるけれど、なんだか肌に合わなかった。人が人と向き合い喋ったり動いたりするほんの刹那にきらめく感興や不快を立ち止まって掘り起こさず、話の筋の勢いだけを重視して見えた。ピント送りがなく照明も不十分な雑駁な映画みたいで落ち着かず、間もなく新刊購入を控えるようになってしまった。そんな読者とも呼べない自分が栗本の何を語れるものだろう。対象物と飽くなき同衾を重ね、汗だくの抱擁を経ずに唇を開けば、言葉はたいがい表情乏しく、たちまち体温を失って虚しい時間に陥りがちだ。
無資格者を自認しつつもこの四十年前の忘れられた著述を蒸し返す理由はどこにあるかかといえば、ひとえにこの小説が石井隆と深く関わるからだ。石井劇画の積年の読者としてならば、また、往時の掲載誌の一読者としてならば、その時分の生身の読後感を振り返り、確固たる調子で意見を投げ返すぐらいは許されるのではあるまいか。乗り遅れの感はあるけれど、それでもなお私は石井劇画が盛んに掲載されていた雑誌の購読者だったし、入手可能な単行本のほとんどを買い揃えていた。その一点を頼みの綱にして、これから少し囁いてみたいと思う。
「ナイトアンドデイ」が初めて掲載された雑誌とその後出た単行本も気になり、あらためて入手している。ざっと三冊を見比べて見たのだが、「ナイトアンドデイ」に限って言えば改訂の跡は見当たらない。栗本にとって迷いのない仕上がりだったのだ。いくつか為す引用は、すべて最終形である文春文庫版からで注釈の頁数もこれに拠る。
(*1):「別冊文藝春秋 161特別号」 文藝春秋 1982年10月1日発行
単行本 文藝春秋 1983年5月1日発行
文春文庫 文藝春秋 1986年8月25日発行
(*2):「退屈で憂鬱な10年―栗本薫『ライク・ア・ローリングストーン』」鈴木いづみ 「鈴木いづみコレクション〈8〉 対談集 男のヒットパレード」文遊社 1998 頁
(*3):単行本の帯に記載。ちなみに惹句は「レクイエム・私の青春」
年明けて直ぐに漫画家つげ義春にかかわる書籍が書店に並んだ。年三回刊の「スペクテイター」41号(*1)と「つげ義春『ねじ式』のヒミツ」と題する単行本(*2)だ。三十年程も前に休筆したにもかかわらず、滔々と弁をふるう識者がいまも次から次と躍り出る。つげ独特の眩(まばゆ)さを覚える。
貸本時代の初期作品は巧みな話術で支持を取り付け、当時の子供たちの脳裏にあざやかな光跡を刻んでいる。その後の掌編たち、【紅い花】(1967)、【ねじ式】(1968)、【ゲンセンカン主人】(同)などに至って、青年層の記憶の裾野に雨滴のごとく滲み入った。素朴な描線の人物像ながら、雷雲の如きただならぬ変動を隠して思えた。読者の心に低くたれこめ、振り払えない蔭(かげ)をもたらした。
ずいぶん前の本のなかで評論家の梶井純(かじいじゅん)は、つげの貸本作品群を評して次のように書いている。「作家の本質的な社会観などとは無関係に理想をえがくことができる子どもマンガ志向をもつことこそ、「一流」の子どもマンガ家が約束される最大の手形であった」のだが、「同じ子どもマンガをかきながらも、つげ義春は、無意識にこの時代の暗部からうきあがることを肯(がえ)んじえなかった」。また、後続の「ガロ」を主体に発表された佳作群については「読者の存在を半ば無視してみずからの作品を切りひらいていく道すじをたどった」とも記している。作品および作家の性向を簡潔に表現して感心させられるが、要するにつげは時代におもねることのない孤峰として在り続けたのだ。(*3)
折々に書棚から引き出してはじっと視線を注いでいく年季の入った読み手だけでなく、いまも若く新しい読者を獲得し続けているところがつげの見事なところだ。加えて間欠泉のごとく噴出をくりかえす研究本、解析本の出版である。その事実の堆積にはただただ舌を巻き、不思議な作家がいるものと感嘆させられる。
石井隆にもつげと同様の、いや、それ以上の引力なり渦がそなわるとわたしは一心に信じているのだけれど、石井が評論や研究の対象に選ばれることは少なく、それが至極残念でたまらない。でも考えてみれば、そもそも一人の漫画や劇画の表現者に対してとことんこだわり抜いた書籍が編まれること自体が珍事なのである。手塚治虫や石森章太郎、水木しげるや白土三平、それに楳図かずおといった鮮烈な作家性を前にしてこれまで幾人もの評論家や研究者が腕まくりして挑んだが、手塚とつげ以外はそれほど目立った出版の隆起はない。
過去の作品群を二言三言で簡潔に紹介しまくるとか、憧憬や尊敬の念をとろりとろりと綴ってみたり、これまでの親交を目尻下げて回顧する、そんな軟らかでモザイク状の構成ならば大概の雑誌の作家特集に見受けられるからさして珍しくないのだが、「読み解き」であるとか「作家論」と冠した重心の低い活字で頁が埋め尽された本というのはそうそう見ない。特に単著は多くない。
青土社の「ユリイカ」や河出書房新社「文藝別冊」のバックナンバーが並ぶ大型書店には、押切蓮介(おしきりれんすけ)、志村貴子、東村アキコ、こうの史代(ふみよ)、古屋兎丸(ふるやうさまる)、江口寿史(ひさし)、岩明均(いわあきひとし)、諸星大二郎、岡崎京子、いがらしみきお、いしいひさいちといった私があまり読んだことがない最近の漫画家と懐かしい作家の名前をそれぞれ背表紙に記した両誌の特集号が並んでいる。どの程度売れるかは知らないが需要はあるのだろう。単独で一冊の作家論を編むまでには至らないものの、往年の「漫画主義」的なかたち、複数で多角的に切り込む布陣はメンバー替えしていまも健在なようだ。「スペクテイター」のつげ特集の構成はどちらかと言えばこれに近い。作業を分担し、ひとりの創作者を取り囲んで皆で迫ろうとする。
一方の「つげ義春『ねじ式』のヒミツ」は矢崎秀行ひとりの筆によって書かれている。こういうスタイルは確かに見なくなった。何も漫画に限ることではなく、映画についても単独執筆者による作家論の出版は稀である。あっても長いインタビュウを文字に起こし、上手く構成したものが主流と思われる。
単独で上梓することの難しさは一体どこにあるのか。一個人が作家論を試みる上で困難な側面は「歳月」の断崖にある。日常の現実世界で他者、それは友人でも恋人でも良いのだけれど、その人柄とその内部に広がる精神世界をある程度理解するには相当の時間を要する。出会い、幽かな途切れ途切れの交信を開始し、やがて打ち解けてお喋りに興じ、なにかの拍子に深刻な対話を始めてそれを延々と連ねるという行程を踏まえることが肝心となる。いやいや、本当に相手を知るには「時間」なんていう生ぬるいものでなく、「歳月」という強面(こわもて)の集積が求められていく。
私たちが作家に出会うときは喝采を博した後が大概であり、駆け出しの頃など全く知らないのが普通だ。「歳月」を持たずにいきなり人間と対峙する訳だから、どうしても臆病になる。響きがどうも嫌いで普段は使わないようにしているが、人生を賭して創作に挑む作家の孤影をどこまでも“フォローする”こと自体が容易な道筋ではないのだ。まして作家の内奥に迫り、したり顔であれこれ論ずることなど土台最初から可能な次元とは到底思われない。立ちふさがる岸壁の偉容に怖じ気づいて、こりゃ手ごわいと登る気が失せてしまう。
人生を理解するのは結局のところは当人のみじゃないのか。誰もが雨のなかに佇む村木のように、そのかたわらを肩と背中を濡らしながらも歩み行く名美のように、ほんの少し距離をおき離れ離れとなって踏ん張るしかない。足裏に力をこめて大地に仁王立ちし、互いをひたすら見守って見守って、見守り続けるより仕方ない。そんな当たり前の真実に足がすくみ、誰もが口を閉ざしていく流れではなかろうか。
ずるずると長い枕で𠮟られそうだから本題に移れば、このつげ関連の二冊を続けざまに読んで評論の難しさと怖さをまざまざと目にしたのだった。この場はつげについて語る場処ではないから詳細は触れないが、作品に引用された写真の出自をめぐる解釈に段差が生じている。どちらかと言えば「『ねじ式』のヒミツ」の方がすこし分が悪い。執筆者が生真面目な性質(たち)で作品に対する愛着の強さがよく伝わる分だけ、余計に哀しく、吐息を凍らせるものがあった。
人が人に惚れ、理解しようと努める行為はなんと微笑ましく、そして、なんと残酷なことか。ひたすらに気持ちを深めていくが、往々にして道を誤っていく。相手の求めるものと真逆のことをしてしまう、妙ちくりんなことを思いこむ。熱情のとばしりに負けて、胸にそっと貯め置けずにいよいよ苦しくなって、気を許した相手に半熟の私見をべらべらと喋ってしまう。
なんだなんだ、自己弁護にその本を使う気かね、あのなあ、君の勘違いは上の本と比べたら数段ひどいよ、まったく偉そうなことを書けた身かね。分かっている、その通りだ。つまり私は矢崎のこの本から我が身同様の暴走気味の、同時に真面目すぎる性行を受け取り、彼と自分を、そして人間という総体をどこまでも温かいものとして信じたいのだ。同情のような自己憐憫のような湿った気持ちに完全に呑まれている。
間違いは確かに犯したが断罪する(される)までもなかろう、そう思いたいのだ。読み解きのどこかに誤りがあるからといって、作家の内実、魂の基幹部分から大きく外れているとは限らない。今ごろがっくりと肩を落として落ち込んでいるだろう矢崎に近づき、よく迫れている方じゃないかと誉め讃えたい。どちらの本をつげが喜ぶかと言えば、きっとこっちの本の内容や熱情を興味がり微笑んでくれるに違いない、なんて想像する。
実娘の手になる清楚できっちりした装丁の可愛らしい“絵本”をめくりながら、ひとりの人間、ひとつの家族の柔和なまなざしが宿っていると感じる。寡黙な作家と結線を果たそうとする読者の分身が、うつくしい本の形態となってわたしの前に腰をおろしている。
(*1):「スペクテイター〈41号〉 つげ義春」 エディトリアル・デパートメント編集 幻冬舎 2018年2月
(*2):「つげ義春『ねじ式』のヒミツ」 矢崎秀行 響文社 2018年1月
(*3):「現代漫画の発掘」 梶井純 北冬書房 1979 199頁、201頁
愛していれば何を言っても、何を書いても許される、ということではない。妄想ぐらいならよいだろうが暴想になってはいただけない。そのように友人に諭されて、穴があったら入りたい気持ちでいる。
自戒の念を刻むつもりで再度記せば、この場に書いた内容には石井隆の作品と石井自身を大きく傷付けかねない「暴言」が含まれる。先述の振り向く、身体をひねるというありがちな動作を写し取った赤木圭一郎ほか日活無国籍アクションのスチルと漫画家つげ義春の作品とを各々石井の創作に結びつけたのは乱暴が過ぎたと反省するし、振り返れば『死んでもいい』(1992)と同名タイトルの映画でアンソニー・パーキンスが出ていた『死んでもいい Phaedra』(1962)とを安易にヒモ付けしたのも醜悪な放言だった。ベルイマンの『狼の時刻 Vargtimmen』(1968)と石井劇画の森を癒着させたのも安直だったように思う。石井が読んだらさぞかし哀しみ、怒りに震えることの連続じゃあるまいか。それを想像すると胸が苦しい感じになっていく。
割合と石井の劇画や映画を観てきた方だと思っているが、それなのにこんなに沢山の失敗を犯してしまう。恋は盲目という喩えがここで正しいかどうか分からないけど、いつになっても本当のところを見切れない、まともな事が書けない。石井世界の美しさ、儚さ、烈しさを讃えるつもりが、かえって足を引っ張っているところがある。
情報が削られると人は想像をめぐらせ無理矢理に物語を補完しようとする傾向がある。妄想はぐんぐんと膨らみ、あっという間に脳裏に映像と音声が次から次ぎと立ちあがって満杯になってしまう。時にひとを厄介な袋小路へと追い詰める。
出版という桧舞台で作品論、作家論を闘わせていた往年の評論家にしたって人間である以上、時に筆禍に叩きのめされ、暗澹たる思いで机に俯(うつぶ)す夜もあったろう。強靭な劇画愛、映画愛がなければ多分立ち直れなかった。言われる作家も言う論者も兵(つはもの)でなければ到底務まらなかった。頑丈な弾機(ばね)が無ければ、たちまち胃に穴が開き、頭の血管は破れただろう。評論とか感想というのは本来そのぐらいも厳しいものだった。
それと比べたらどうしようもない甘ちゃんだと思う。この場の即時的な機能に助けられ、こうして弁解や訂正の頁を与えられているだけ救われるところがあるけれど、粗忽で無遠慮な自分がつくづく情けない、創り手に申し訳ない。
所用で遠出する際は、近在の寺社や遺跡の場処を下調べしておいて時間調整に利用する。靴を汚さぬよう、転んで尻餅をつかぬように気は遣うけれど、緑深い参道を歩くと精気を分けてもらえて緊張がほぐれる。霊験あらたかな古刹(こさつ)じゃなく、人がほとんど立ち寄らないところの方が好い。なるたけ保存の手が加わっておらず、古びる一方の物だとなお嬉しい。
過日訪れた丘の上の社(やしろ)も、だから人気がなく、へびやハチもまだ活動しておらず、まったくの独り占め状態だった。辺りには白い野生の辛夷(こぶし)が群生していて、肉厚のたっぷりした花びらがいかにも爛熟した装いとなっている。こんなに大振りの花だったろうか。そうか、急斜面を登っていく途中に点々と生えているから、枝先や花が思いがけず目の前に迫るのだ。抑えきれない淫靡さをにじませ、開花の際にぱっこりぱこりという乾いた音でも出すのじゃなかろうかなんて余計な想像をさせる大きさだった。
建屋の内壁には江戸から明治に掲げられた絵馬が並んでおり、素朴な筆致や構図に見惚れた。半畳ぐらいの裁縫図絵馬が二枚並んでいて、華やいだ空気を放っている。裁縫図絵馬はこの辺りの寺社ではよく見かける物だ。ささやかな願いの成就を求めて古来よりひとは絵馬を掲げてきたけれど、昔はどの家庭も地味な暮らしをしていたから自ずと祈りの質にも量にも上限があったように思う。今なら趣味や習い事が星のごとくあるが、往時の女性は裁縫教室に通うぐらいしか選択肢はなかったし、ほかに知的好奇心や欲望を充足させる場処や職業が見当たらなかった。裁縫の上達を神仏に祈るという現在ではとても考えられぬ慎ましい願いが、漁り火みたいにちらちらと寄り添って描かれていた。
プリント倶楽部も自撮りして世間に知らしめるソーシャルネットワークサービスも無い時代である。それどころか人生のうちに写真に撮られる機会が何度もはめぐって来ない、そんな人生が大概だった。目鼻立ちを詳細に写し取られたものでない、どちらかといえば型にはめられ単純化された描線ではあっても、自分が極彩色で大画面の板絵のなかに取り込まれることは眩(まばゆ)い快感があって身体の芯を明々と貫いたことだろう。衆人の視線を集めて、どうにも火照って仕方なかったのじゃあるまいか。
それにしても実在した人物をモデルとした絵馬を面前にすると、淋しいというか、湿った土くれを触っている瞬間にも似た丸みのある諦観に胸を満たされる。かれらは一人残らずこの世から消えてしまい、絵馬のなかの微笑みだけが残響のように在りつづける。肉体的苦痛や慙愧にさいなまれた顔ではなく、一所懸命に、しかし端然として、わずかに微笑んだだけの穏やかな顔貌がこの世に焼付けられている。ある意味で生の理想像かもしれないな、こんな風に生き切ることが出来たならどんなに素敵だろうな、と彼女らにならってちょっとだけ口角を上げてみたりする。
午後の陽射しが飛び込み、反射して明るくなった堂内の壁に裁縫図のおんなたちが浮き上がるのとちょうど向き合うようにして、薄墨の影のなかに一枚の小ぶりの絵馬が視止められ、今度はそちらの顔立ちに好奇心がからめ取られる。黒い額の中に一組の人物が向き合うように描かれているのだが、その顔がどちらも白く染まっている、と言うより溶けている。白絵具だけが経年により変質し、じんわりと流れ落ちて表情を奪うということがあるものだろうか。ドリアングレイじゃあるまいし、一体これはどうした現象だろう。
醜いといえば醜い様相ながら不思議と清らかなものを感じる。フォーヴィスムの画家の作品に磔刑されたキリストを描いたものがあって、それが思い出された。宗教画のモティーフとしてはありきたりであるし、この画家も似た構図のものを大量生産しているのだけれど、私が目にした磔刑図は中央の聖者だけでなく、両側に控えて見上げたり深くうなだれる者たちも顔の部分が絵具でべったり覆われていて表情が読み取れない。未完成品という話もあるが三人揃って表情が失われた分、なにか理性の枠を越えた凄みというか奥行き、陰影がそなわって瞳を捕らえて離さない。あの西洋画とこの絵馬には同等の妖しさと聖域を主張する力がそなわっている。(*1)
背伸びして再度絵馬に目を凝らせば、左側に立つのは若い婦人であり、着物の胸をはだけて乳房をむき出しにし、さらに手を添えて相手の顔に尖った乳首を差し出しているではないか。先にある人物の顔がやはり白く溶けているのだけど、なんだかおびただしい射乳によって顔面がすっかり濡れたように見えてきて、いけない物を垣間見てしまったような、後ろめたさと昂揚が同居する妙な気持ちの具合に今度はなった。
出産して間もない女性と交わり、とろとろと生温かい乳にまみれた時間を過ごした体験もなければ願望も私のなかにはなく、想像するだけで頭が混乱して整理がつかなくなるのだけど、世の中には性交渉で重ね合わせる胸板をだらだらに濡らしながら相手と溶け合いたいと恋うる人もいるだろう。そんな奴はこの世にいない、いたら異常者だと貴方は笑うだろうか。
酒宴に招かれて末席に座ることが誰でもあると思うが、酒量が増すとともにいつしか人はそろって陽気になり、他人の性的嗜好を酒の肴にするようになる。異端とか変態とかの言葉で断罪する人が出てくるが、あれは聞いていてちょっと苦しい気分になる。視野狭窄もよいところであって、自身の嗜好だけを正常と捉えているところがやや偏頗(けんぱ)と感じる。人間の性愛には一定の形はなく、無限の嗜好がある。互いのそれが合致したカップルには至高の時間が、不一致の彼らには苦悩が待ち受けるというだけの事だろう。乳を浴びるなり口に含むことで束の間の充実を得る恋人たちが世にいても、それは一向に構わないし、かえって人間らしい姿のようで微笑ましいと私は思う。そもそもが性愛とは一種の融合現象だから、お湯や汗と親和性がある。不思議なことではないだろう。
つまり私は社に佇んでこの絵馬に聖的な雰囲気と性的なイメージを同時に連想し、脳裏にさまざまな妄想を描いて過ごしたのだった。もしかしたら絵馬内の射乳は快楽図でなんでもなくって、目にごみが入って難渋している旅人の救済を描いたのかもしれない。けれど、いずれにしても身体の一部を提供する女性の健気さと奇蹟を覗き見したような感覚があって面白く、小さなこの神社に足を運んで本当に良かったと思う。
さて、謎を謎のままにしておくのも気持ちが悪いので今頃になって入念に調べてみれば、この絵馬は著名な中国の説話集「二十四孝(にじゅうしこう)」のひとつ、「唐夫人(とうふじん)」を描いたものと分かった。年老いて歯を失い十分に栄養を摂ることが出来なくなった姑のため、嫁が自分の乳を与えてその存命を図ったという故事である。なるほど言われてみれば乳房を与えられている側は細い肩で女性の骨格であり、また、背後には無邪気に笑う幼児も描かれている。
偉そうに何が性的嗜好、何が親和性か。若い母親と老女をめぐる自宅介護の話なのだった。私の完全な勘違いであり、無茶苦茶恥ずかしい。まったくおまえは救いようがないね、軽率なところを丸出しにして末代まで恥を晒すことになるんじゃないのと笑われそうだけど、そんな自分の幼稚な早とちりを開陳してもなんでも記憶を書き留めておこうと考えた次第である。
誰かに話してみたくもなったのだ。あの絵馬は聖なるものと卑俗なるものが同居して見え、あえかだけど忘れられない発光があった。
(*1):ジョルジュ・ルオー Georges Rouault 「十字架上のキリスト」 1935年頃
パナソニック汐留ミュージアム 所蔵