2018年11月4日日曜日
“陶酔から距離を置いた”~隠しどころ~(5)
誰もが認めるように、石井隆の持ち駒のひとつは肉体の描写力だ。女優を撮らせたら光一(ぴかいち)という自負もあり、面貌や四肢をどの方向から撮れば良いか、ミリ単位での試行を重ね続けた。くねりや反りがたたえる淫靡さ、髪間から覗くわずかな表情の変化を飽かず追求し定着させてきた経緯がある。劇画であれ映画であれ、ひとたび発表された際の世間の反応は激しく社会現象となる事も少なくない。
そのような作風にあっては、劇中で創り上げた人物が聖人君子然として目の前に露わとなった性器に一切の関心を寄せないという訳には当然いかない。いや、むしろ極度のこだわりさえ見せる場面が過去作に幾度も顔を覗かせた。蜘蛛の巣に捕らえられた羽虫のように、おんなの身体に吸い寄せられる男が数知れず描かれている。
異常な、穢れた行為ではないように思う。わたしたちはそのように作られているからだ。時に性愛の波間に身をゆだね、皮膚や粘膜への接触を重ねてこの世の憂さや厳しさから逃避し、他者であれ自己であれ、愛する対象とともにより高い頂きに昇り詰めたいと願う。そうしなければどうにも淋しい、苦しい時間というのが面前に現われる。難局や課題を回避することは許されないけれど、ほんの少しだけ延期させて気持ちの平衡を保とうとする。性行為の本質に在るものは無垢な救済行為であると思う。
性愛に埋没する時間のなかで私たちは互いの性器を間近にし、その湿りや温かさ、匂いというものに五感を奪われて思考を停止していく。この行為を愚かしいと侮蔑することは生きることそのものの否定となる。人間はすべからく性的であって良いし、むしろ真剣にそうあるべきなのだ。性を軽んじる事は大きな誤りであり、人生の密度を希薄にするという実感がある。栗本薫の小説「ナイトアンドデイ」(1982)に登場する漫画家がおんなの性器描写に囚われていくことはだから不自然ではないし、そういう人間がいてもそれはそれで普通であるとしか私は思わないけれど、栗本が創作したその漫画家が石井隆をモデルにしたと言われてしまうと、これは完全に間違いだと言いたくなる訳なのだ。
石井隆があつらえる肉体との邂逅は、フィティッシュの陶酔からはやや距離を置いたものだからだ。そう書くと語弊があるか。桃色の柔らかい器官にのみ焦点が定まるのではなく、がっちりとした腰部に据えるおんなの生い立ちなり、それを公然に晒すに至った過酷な状況といった人生の総体に対して男が対峙する瞬間であって、ひとまわりもふたまわりも広い画角を保持している。周囲を観察することから逃げていない。さまざまな視覚情報が混在一体となった風景であり、のめり込む行為を冷静に、いくらか憐憫の情をたたえた目でいつも俯瞰しているのが石井の劇と言えるだろう。常に眼光紙背に徹すべく自らを追い立てるというか、熱狂よりも深慮や共鳴が先行している。
たとえば『フィギュアなあなた』(2013)で死の狭間に置かれた青年(柄本祐)は、夢現の空間で一体の生きた人形(佐々木心音)と出会い、その局部の精巧な作りを確かめて感嘆の声を放つ。鼻先が触れるほども人形の股間に顔を寄せ、性器の色かたちに興味の先を集中させる青年の姿には「ナイトアンドデイ」で栗本が幻視した佐崎という漫画家の異常な執着がオーバーラップしないでもない。
けれども『フィギュアなあなた』において私たちには、その局所的な視点と同時に妖しげな「背景」もしかと差し出されている。人形がどのような場処にどのような形で置かれているかを石井は丹念に、心血そそいでステージ上にあつらえ、わたしたち観客に無言で提示している。廃棄された人形が山積みにされ、蓮の花を模したランプが赤々と灯り、あたり一面を幽玄な光で照射している様子が否応なく網膜に焼き付き、どうしたって逃げおおせない。公開時に識者が綴っていたように、この景色は第二次世界大戦で独軍が設営し、終戦時に占領軍のカメラレンズの前に露呈してモノクロのフィルムに刻まれた強制収容所での凄惨な様子を間違いなく模している。(*1) 石井は死体の山を淡淡と差し出し、青年の一種のどかな恋着に観客が安易に同調する流れを阻止している。
浮かれ調子の股間の検分と、骸(むくろ)のおぞましき堆積が同じ土俵に載っている。劇の奥に徹底して醒めきった硬質のものが陣取るから、それが顔を覗かせた瞬間に「ちょっと待てよ」という気持ちが舞い起きる。それは石井が創った登場人物にも生じるし、読者や観客側にも湧出するのだが、何より石井隆という作り手が逡巡と憂慮の人だからじゃないか。
性愛の頂きで私たちは目をつぶり、脳幹をつらぬく閃光を垣間見るはげしい感覚を抱くのだけど、石井が作る物語においておんなは目を完全に閉じることがない。相手を冷静に観察し続ける。快楽をともなう短い死を許さず、物象を隙間なく観察し、記憶しようとするその体質は石井という絵師の画風にも当然ながら等しくあって、常に劇中の複数箇所に焦点が配され、併行する描写なり価値観がいつまでも瞬きつづける結果となる。調和の取れた完結は遂に訪れ得ない。なぜなら一点が完結しても他方は動き続け、観察し続けるからだ。
人間の行為を操るものが何であるかを透徹した視線で観察し、人間って単相じゃないよね、時どき変なことをするよね、その動機が混濁して明瞭でなくてもそれは当然だよね、と考える。人間のこころを不確かで複数の層からなると捉えているから、自ずと物語が単純化しないし、従って分かりにくい結末にも往々にしてなるけれど、そういうのが本当の世の中じゃないかとどうやら捉えている。
その二極化、作者の視点も加えれば三極化した混然一体の趣き、頁全体、銀幕全体が合奏するかのような厚みある構成は、背景が排除された極端なクローズアップでも変わらない。今度は人体が風景画となって前景と背景にゆるゆると分離し、肉体と魂、本音と虚勢、高揚と冷感が螺旋構造となってめまぐるしく立ち現われる。単純な春画では到底表現出来ない様ざまな反射光を放ち始め、紙芝居や手慰みの次元を超えて迫り来る。矛盾だらけの私たちの鏡像となってやがて機能し始めて、こちらの視線に対しあちらからもしっかりと見返すようになっていく。
石井隆を語るときに前景に置かれた人体の艶かしさ、女優の白い裸身を際立たせる扇情的な照明や演出が取り上げられる事が大概であるから、多くの人は「人物画」の名人上手と彼を誉め讃えがちであるが、本質はやはり「風景画」の達人であり、前景と共に背景を同等に物語らせる、ある意味で至極饒舌な作家である。
(*1):キネマ旬報 2013年6月下旬号 No.1639 四方田犬彦「恐怖と恍惚、悪夢と淫夢」
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