眼球を通じて脳に映し出されるあなたの石井隆作品と私のそれは似た景色に違いないが、そこから先の受け取り方は各人に委ねられる。性別、年齢、家族構成、持って生まれた嗜好や感受性、体調と周辺環境といった諸々の条件で人の反応は千差万別となる。どう愛してどう嫌悪するか、百人百様の石井作品に分岐していく。しかし、それでは作家の実像に誰ひとりたどり着けない理屈となる。無理矢理押しつけるなよ、それはおまえの作家論とやらでしかないよ、勝手な事を書き散らすなよ。いくら言葉を尽くして魅力を説いてみても、そう言われてど突かれても仕方がない。
そもそもが他のひとと石井隆の作品を観てどのように感じたものか、とことん夜を跨ぎ、朝を迎える程も語り尽くした経験がない。可能な限りの作品論に目を通し、ウェブでの囁きにも耳を澄ませているが、性愛と暴力が跋扈する石井作品について本音で語る者は少ない。劇中乱舞する白い肢体に人はいったい何を想い、どのように読み解くものだろう。だいたい私の感性なり性的欲望の度量が他人とくらべて酷くお粗末であり、物が正しく見えていないという点はないだろうか。そっちの方が問題かもしれない。だって、石井隆の差し出す幾多の裸像を前にしても、昔からどうも煽られカッカすることがないんだ。生物学上、どこか重大な欠陥が私には潜んでいるのではないかしらん。
年齢相応のありきたりの話でしかないのだが、このところ魂の器たる肉体につき、どうしても考えさせられる時間が増えてしまった。上に書いた萎える気持ちの根源には、いくらかそれが巣食っている。友人や親戚と家族、もちろん自分も含めて身体の故障を間近な距離で目撃したり戸惑う場面が列をつくる。靭帯が切れる、睡眠時に急に呼吸が止まる、光を失いかける、破壊的な決壊が生じて体液がだだ漏れ、息も絶え絶えとなる。次々と筋骨や内臓器官が消耗して悲鳴をあげていく。
肉体の栄光など一瞬の瞬きであって、道のりのほとんどは険しい岩場か急斜面だ。悲鳴を上げ、ごろごろと墜ちてばかりいる。健康そうなすべすべした肌も均整のとれた体躯も、弾力を保つあちらこちらの部位も、艶めいて量のたしかな髪の毛も、澄んで玉のようにきらめく白目も何もかもが失われる。生殖能力もたちまち根尽きて色香を減じ、もはや相手の唇をどうやって吸ったものだったか、間合いもやり方も忘れてしまった。
そのような無惨に瓦解しつつある肉体こそが実は常態であり、イコン化してメディアに取り上げられがちな旬のタレントや女優、はたまた若い男性アイドルなどがかえって不自然の極みで、非人間の紙芝居という実感が日に日に強まっている。綺麗な肉体を誉め讃えてばかりいて、どうして存在に迫れるのだろう。頂(いただき)はせいぜい数年間といったところだ。人間はひたすら壊れゆく存在だ。
石井隆という作家は幼年時から喘息をわずらい、喉を押しつぶされる恐怖と闘いながら育っている。大概の男子は十歳ぐらいまで知恵熱や自家中毒、思春期特有のこころの不安定さを抱えてバタバタと過ごすが、それ以降しばらくは野太い成長を遂げて厚い胸板や逞しい腕を誇るようになるのだが、石井は物心ついてから今日まで持病に悩まされ、常に肉体を崩れるもの、頼りないものと視てきた。
創作の題材や構成の総てが彼の病いから発しているとはもちろん言わない。しかし、若い肉体を描いても、彼女らは閉塞した状況に置かれて破壊や損耗の宿命を負わされていることや、男たちが揃いも揃って死に向かってひた走る姿というのは、彼なりに学び取った肉体に対する圧倒的な諦観とまったく無縁であるとは思えない。石井隆の描く裸体はつくづく切ない。面前にするとただただ哀しくなる。その憂愁にこそ私たちは惹かれ続け、黙々と後追いして現在に至っているのじゃないか。
洋画を眺めていると、石井の描き方との通底する切実な裸体に出喰わすことがある。たとえばヴィスコンティの『イノセント』(1976)でのシャワー室での描写や、最近ではサラ・ポーリーの『テイク・ディス・ワルツ』(2011)でのそれは、石井と同じ目線で裸体が取り込まれており、作り手が果敢に人体に向き合って感じられる。トム・フォードの『ノクターナル・アニマルズ』(2016)やオリヴィエ・アサイヤスの『カルロス』(2010)の惜しげもない露出と石井のそれは、一体なにが違うものだろう。たとえ石井が登用する被写体がくびれのある魅力的な身体であっても、どことなく儚く淋しいものがべったりと付き従っている。妙に覚めたタッチが似ている。(*1)
どれもが“赤裸(あかはだか)”な人間描写に挑んでいるという刻印であり、その迫力と意気に身震いさせられ、これは刮目に価すると暗がりの座席の上でのっそりと身を起こしていく。強面(こわもて)の映画群に石井の作品は連なっている。
あの手の押印をよいしょ、よいしょと続けているのだ。邦画が観客動員とメディアミックスに血眼になり、赤裸々な性描写や生々しい肉体の排除にいそしんでいるその頃、肉色の実印をしかと掴んで手放さず、これが人間だろ、これが肉体だろ、これが人の死だろ、皆どうしたって壊れるんだ、苦しい道のりなんだ、それでも生きていくんだ、と床を染める鮮血を朱肉代わりにし、全体重をかけてうんうんと押し当てて見える。
(*1):
イノセント L'innocente 1976 監督 ルキノ・ヴィスコンティ
テイク・ディス・ワルツ Take This Waltz 2011 監督 サラ・ポーリー
ノクターナル・アニマルズ Nocturnal Animals 2016 監督 トム・フォード
カルロス CARLOS 2010 監督 オリヴィエ・アサイヤス
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