石井隆の劇において性器は他者との連結器具として必ずしも働かないばかりか、時に相手を退ける砲台や剣先の役割を担わされる。どうしたってもどかしい展開になり、画布のなかで“隠しどころ”は存在感を急速に減じて、言葉そのままに奥まった目立たぬ処に引き下がる。代わって皮膚の下の収まっていた骨格がごろごろと盛り上がり、筋肉や腱が軋むように伸縮を始める。
やがてにゅっと肉色の棘(とげ)が生えてくる。緊迫した局面での接触の無理強いは自ずと肉弾戦の様相を呈していき、戦闘機能をそなえた男たちの身体が俄然際立っていく。映画においては『フリーズ・ミー』(2000)での北村一輝、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)の竹中直人であるとか、『甘い鞭』(2013)の中野剛や伊藤洋三郎が脳裏にごわつく触覚をともなって百年杉のごとく林立する。
よく練られた演出術に助けられ、肉体の隆起や陥没がもたらす陰影が銀幕に浮かび上がる。キリストの磔刑図のような構図もあるし、ベルニーニの「プロセルピナの略奪」(1621-22)、ジャンボローニャの「サビニの女たちの略奪」(1574-82)にも似た陰鬱でかなしい抱擁が繰り広げられる。反撥しながら絡み合って、見ていて胸が酸っぱくなるような、圧迫されるような怖い気分になっていく。特に最近の石井は、裸体を画面中央に長い時間配置する傾向が強まって感じられる。塑像に取り組む職人のまなざしにも似た、重たい空気に包まれながら、一個の、複数の裸体がたっぷりと記録されていく。
筋肉や骨格はあんなにも泣き叫んでいる。動く悦びに溢れ、相手を羽交い絞めして自由を奪う歓喜に震えて笑いまくる、そんな一瞬もある。性器はぶらぶら、むにゃむにゃするばかりで結局のところ表情に乏しい小さな突起や袋口に過ぎない。あんな物で人間は描けないのだし、面倒で諸悪の根源でさえある。この世から無くなってしまえば良いのだ、と石井隆はひそかに祈っているものだろうか。霊肉一致の至高の抱擁などこの世には無いのだと絶望し、性器をないがしろにしているものだろうか。
具体名をここで挙げるつもりは無いが、石井隆の劇画作品で書籍化なったうちの何篇かには性器が描かれている。それは栗本が妄想したような「恐しく偏執狂じみた細密さでもって、描きこまれて」いるものではなかった。「異様な執念」を無理矢理抑え込んで、悔し涙にくれながら間引いた線でもなかった。官憲に挑みかかるような露骨なものではなく、ごくごく控えめであっさりと墨が入っていた。拘泥するでもなく、疎外するでもなく、私たちの身体のひとつの器官として、素直に、ある意味「ちゃんと」線が引かれていた。
石井劇画において世界を構成するものは総てが同等に在って、統一されたタッチで描かれる。背後を飾る日本家屋のうす汚れた壁紙も、狭いワンルームマンションに明るい未来を想って買い揃えられた小さなテーブルと本棚も、酒場のカウンターに並んだ涙壺のような幾多のガラス容器も、過剰に装われた恋人たちの集うホテルのベッドも、これから殺戮の湾岸に向かうスポーツカーの合成樹脂のシートも、それらはすべて石井にとって“風景”として大切に扱われ、緻密に描かれていった。
前景に置かれた肉体もまた“風景”のひとつであり、おんなや男の服の風合いも、頭髪や目鼻といった露出した肉体のパーツも、石井隆にとっては同等に等しく置かれている。石井にとっての物語とは、それら総てを同等の熱意で描き切ることであった。
私たちは【赤い教室】(1976)の白い空隙の向うにさまざまな夢想をすることになるが、そこに虚無ではなく、ましてや「何ともおぞましい、ぬめぬめしたなまこか、なめくじのたぐいの化け物」でもなく、手堅くもたおやかな実線でさらりと描き添えられた丘や襞(ひだ)を淡淡と思い描かねばならない。悪戯にこころ乱すのではなく、ひたすら人間という孤独な生き物と共に在る哀しい肉体を察知し、黙って凝っと向き合うべきである。
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