2018年11月10日土曜日

“放冷を誘うもの”~隠しどころ~(6)


 『フィギュアなあなた』(2013)で人形を見つけた青年(柄本祐)は熱狂し、その独り言はけたたましさを増すのだったが、私たちはそんな反応にただ乗って気分を疾走させることが出来ない。文字通りの死体の山が築かれ、その上に横たわっているおんな(佐々木心音)の奇妙な様態を固唾呑んで見守るのがやっとである。

 一個の静物となって風景の断片となりながらも微温と違和感をにじませて横臥する様子は、振り返れば石井の初期の短篇【淫花地獄】(1976)の終幕近くに生き人形に加工された少女の姿に通じるし、抵抗する術も気力もなく、呼吸さえまるでしない様子で浴室に横たわる『夜がまた来る』(1994)での夏川結衣であるとか、一眼レフのカメラを携えて夕暮れや深夜、黒い木立の脇に半裸のモデルを横たえさせて撮った一連の写真作品にも通じるものがあり、石井が好んで採用するモティーフとなっている。

 そこでじわじわと這い上がってくる感慨は、欲情とは裏腹の速やかな“放冷”を誘うものだ。いずれも殺害や強姦といった性暴力の痕跡を彷彿させる構図と面持ちであって、熱狂とは無縁のしんしんとしてどこまでも昏い性質の絵柄となっている。今この瞬間にもどこかの密室や隔絶した場処で起こっている弱き者への暴力。人によっては最近見聞きしたニュースをまざまざと思い出し、脳内で結びつけるかもしれない。実際わたしは性暴力の被害者にしてその根絶を目指す活動者が著名な国際賞を受賞したことを紹介する報道に目を奪われ、一瞬後、石井が半生を賭して積み上げている物語世界の伽藍と彼らの闘争が完全に通底すると感じた。

 現実世界の酷薄さと自身の世界を直結させることを石井は嫌うだろうか。私はそうは思えないでいる。読者や観客の内側に醸成される新たな視点、ちょっと待てよと足踏みや振り返りをする時間を彼は本気で望んでいるように感じる。これまでのインタビュウなり単行本のあとがきを読むと石井が実際に起きた事件やこれを伝えるニュース映像に言及することが多く、自身の創作活動と世間が無縁でないことが分かるのだし、おのれの物語に対して複数の切り口を常に用意し、世間一般の読解とは異なる風を絶えず懸命に送り込んでいるのは察しがつく。その風に煽られて受け手がよろよろと体勢を崩し、日頃とは違った仰角で景色を見直すことを強く念じているし喜んでいる気配がある。

 時には鬱々とつづく内省を強いられる類いのものだが、物語が世間に果たす役割にはそういう重いものが有って良いはずだし、むしろそのような学びの時間を劇場で自分はもらえたのだ、陰惨な陽の射さないきびしい境遇を描いて何が悪いんだ、と、ヒール(悪役)を担う覚悟を決めて見える。つくづく男であることが厭になり、性欲という熱源を抱える身体を恨めしくなる。一時的であれ性能力を奪い、断種に導く負の圧力で満たされる。それが石井世界の激烈な薬効となっている。

 石井隆の劇には前景と背景があり、それが同一画面に混在すると先に書いたが、視座や価値観の“往還”が起こると言い替えても良い。私たちは石井の物語を前にしてしばしば道に迷い、時に逆転した場処へと招かれて自身の思い込みを粉々に砕かれ、茫然として過ごす羽目になる。

 そのとき、私たちの身に何が起きるかといえば、あれだけ性愛にまみれた描写を前にしながら、刺激や官能から距離を大きく取った、いくらか後退した、謙虚で不思議と乾いた、堅実な視線を託される気がする。単に私がある程度の年齢を経て性愛のビジュアルにすっかり飽いてしまい、生殖機能も落ちて、欲望の感度がいちじるしく鈍ったせいだろうか。いや、石井隆の作品とは最初からそうであった。血の池めいた地獄の淀みを潜りながら、なぜか汚臭を感じることなく、やがて透明度があがっていく。光は届かず先はまるで見えないが、指先や髪の毛を撫でる流れに濁りはいっさい無くなっていく。そんな水底のイメージがいつもしていた。

 劇画も漫画に限らず小説も絵画もそうだが、詰まるところ物象のすべてをどのように捉えるかは完全に個人に帰属しており、胸に飛び込んでから先はひとつとして同じものは無い。わたしの受け止める石井作品と、あなたのそれは見え方も感動の反射具合も少しずつ違っている。読者や観客の資質なり観賞にのぞんでの真剣度により段差が出るのは止むをえないが、それでも石井作品に触れて、多くの読み手の内部がかき乱され、女性観や道徳観といったそれまで抱え続けた一元的な主観を分裂させられた事は間違いない一定の事実と思う。


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