女性の性器に付随するさまざまな知識を蒐集した労作(*1)をめくっていたら、一枚のモノクロームの絵が目にとまった。17世紀フランスの詩人ジャン・ド・ラ・フォンテーヌの「小話(コント)」のために描かれたシャルル・エイサン(またはシャルル・エザン)の挿絵を紹介したものだ。
悪魔を退散させる目的でスカートをたくし上げ、おんながおのれの性器をぐいと突き出している。蹄(ひづめ)の生えた脚と黒い羽を持った悪魔は不意討ちを喰らい、露出したおんなの下腹部に眼を凝らしておののき、気の毒なぐらい顔をゆがませている。姿勢はやや傾いでもはや退却の体をなしている。対するおんなの横顔は口を真一文字にして相手をきっと睨(ね)めつけており、毅然としてうつくしい。
この本は古(いにしえ)から近代まで女性の裸身(性器)が共同体にどう関わって来たかをまとめた前段が素晴らしいのだが、ほかにも古今東西の神話や伝承をひもとき、女性器の露出が荒れ狂う海を鎮め、農作物の伸長を助け、時に悪鬼悪霊の類いの侵入を防ぐ役割を果たしていたのだと綴っている。どれもが強制されての上でなく、おんなたちの自発的な行ないによるものであった。女性主体のうねるような運動が時代や大陸を越えて認められる事に着目している。
忘れられた歴史や習俗を通じて女性の裸体を穢れたもの、劣ったもの、卑猥なものという次元から解放に導き、近年の男尊女卑の抑圧を振り払おうとする。一族郎党の繁栄と継続をささえるのが出産であり、生殺与奪に関わる絶対的な行為なのだと理解し、その主幹たる役割を性器が担っていると自覚したおんなたちの誇りが伝わってくる。確かにこれを読むと、現行の商品化された女性裸体の在りかたがひどく片手落ちで表層的、刹那的なものとなって目に映る。
先の挿画で悪魔が男の顔をそなえていた点が示唆する通り、蛮族なり悪魔の侵略を阻止する行為というのは、身勝手な男性の思惑を排除したり、もしくは破壊し弱体化させる働きと重なる。おんな対男の構図がある。ポルノグラフィの多くが担っている誘惑や身体の商品化、階層支配といった夢想のベクトルを徹底して拒否するものだ。つまり長い尺度でおんなの裸身を考えたならば、さながら磁石の物性のようであり、ひとつの肉の塊りのなかに強靭な反撥力と吸引力が同居している理屈である。
振り返れば石井隆の描くおんなの裸身というものは、そのような両極を備えたものと言える気がする。たとえば『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)の劇中で、男に裏切られたおんなが悄然とし、夜を長々と彷徨い、衆目におのれの下腹部を晒していく場面が描かれているが、なるほど見方によれば自分を捨てた夫への恋着がおんなの思考を奪い、あくまでも男恋しさ、肌恋しさに溺れ狂っている図であるけれど、ここで石井はもう一歩踏み込んだ本質めいたものを女優の演技に託して見える。そこには揺るぎない反発力や強靭な破壊力を見止めることが可能だ。おまえたち、謙虚に振る舞ったらどうよ、身の丈に合わぬ場処からさっさと降壇したらどうなの、というおんなの問い掛けが聞こえてくる。我々はこれを認め、静かに内省し、彼女たちにぬかずく刻(とき)の到来したことを了解すべきではなかろうか。
石井隆の戦場(フィールド)は承知の通り、男性主体の読者や観客を意識した雑誌や映像媒体であり、作品が世に紹介される際には、市場の要望にこたえて週刊誌のグラビアを彩るし、添えられた文章も含めて旧来の男性型欲望の消化促進剤の役割を負うことが多い。おんなの裸体は結局のところは男の性欲の餌食となっているのだが、その商流自体は全否定することは出来ない。売れなければ商いにならない以上、そのような媒体への過度な露出は作品づくりの外せない一環であるから、否定する気持ちにはなれないけれど、石井隆の差し出すおんなの裸を深く捉えるに当たっては、見えざる頸木(くびき)を意識し、そっとこれに指を添えて外していく気構えが必要と思われる。
石井は奔流に抗いながら、いや、抗う素振りを見せない工夫を図りながら、その実、男性を裏切る独立した人体としてのおんなを描こうとしている。裸身の目的をそ知らぬ顔ですり替えて、男と対等な、うむ、そうではないな、男を睥睨する族長としてのおんなを描いていく。この視座の転換は露骨なかたちで行なわれることはなく、読み手の気付きに任されている。
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