栗本薫が原型は石井隆とほのめかす小説「ナイトアンドデイ」(1982)で作中登場した一枚絵、「画面いっぱいに、女が大股をひろげていた」姿というのは、十中八九の確率で初期の作品【赤い教室】(1976)の最終頁に触発されたものだ。石井隆を発見して社会が騒然としていた頃、この頁は雑誌の特集記事にも紹介されていた。「生きたマンガ史」を自認する栗本が反復して瞳におさめ、記憶の貯水槽にざぶざぶと留め込んだ上で「ナイトアンドデイ」の構想を練ったことは想像に難くない。
黒板前の教壇に座り、太腿をぐっとせり出したおんなの姿態は見るものをただただ圧倒し、石井劇画を代表する構図として大衆の胸に巣食った。誰だっておかしくもなる。硬く張ったこむら、はだけた衣服、顎から頬にかけての輪郭、半開きの唇、そこに覗いた歯、丁寧にひと筋ひと筋をペン入れされ、乱れ流れて肩をまさぐる厖大な量の髪の毛、そういった石井入魂のハイパーリアリズムが周りの空間を満たしているから、どうしたって妄想の背中は後押しされていく。
股の付け根に気持ちを奪われ、若い肌と溶け合って輝く空域が最初から何も描かれていない虚空であったのか、それとも最初は“何か”の影がもっと克明に息づいていたのか。皆そろって新生児に戻ったかのように画面中央の白い亀裂に向かってのめり込む。これほど妖しくこころ掻き立てる絵はない。
“この頁だけ”を瞳に焼き付けてしまえば確かにそうならざるを得ない。しかし、劇画は連続体である。いくら魅了される絵だからといって最後のコマのみを悪戯に取り上げ、そこに至る迄に作者が綾織ったものや読者に生じた感情を無視してはどうかと思う。ひとコマに拘泥して石井隆の幻影を築こうとした栗本の試みは、無謀を越えて正直愚かしい。
見開きでぐんぐんと【赤い教室】の大股開きが迫って来るのだけれど、その直前の最後から2コマ目も同じく見開きという組み立てとなっている。ここは極めて大事な点だろう。同じ面積の、それも見開きで各々が揃って断ち切りされた極大値のコマが連続している。
コマの面積は読者の共振を誘発する上で大切な道具のひとつであって、漫画界の名工は巧みに使い分ける術を持つ。同時代の作家に【同棲時代】(1972-73)の上村一夫がいたが、見開きを縦横無尽に駆使していて今も色褪せない頁がある。漫画界の匠(たくみ)によって挿し入れられる見開き頁に読者は言葉を失い、目を白黒させ、時に涙ぐみながら劇空間に突入していったが、石井隆は先駆者である彼らの技を観察し、独力で解析して自身のスタイルを開拓していったのだった。この【赤い教室】の二枚続きの見開きというのは上村に比肩する勇壮苛烈さであり、漫画史のなかでも特筆に価する秀抜な構成となっている。
コマを自在にあやつる描き手の術策にまんまと捕り込まれるとどうなるかと言えば、「コマの大きさは読者の感情を吸いこむかのように次々と膨張し、いやがうえにもその期待を盛り立ててやまない」(*1)のであり、すっかり気持ちが持っていかれる。【赤い教室】の二枚連続の見開きは上の識者の表現を借りるなら、感情を総て吸い尽くす、または、骨も肉も砕けて消えるほども感情を一気に膨張させた極限の時空と言える。
ラストカットとその前頁が同等の重さで胸にのしかかるように仕組まれていて、どちらが上とか下とか、どちらが前でどちらが後というのは意味がない。両者があってこそ強烈に押し出されるものがあり、別々に切り離して語るのは無意味だろう。
両者は“切り返しの構図”となっており、おんなが股間を突き出しているその先の景色がはじめに示されていた。露出した性器を向けられているのは教室の机に並んで座る生徒たちであった。醜聞を耳にして口々にこれを囁き、階層上位にいる教師をからかい困窮する様を楽しんでいたのだった。同僚教師からも孤立し、忌まわしい記憶に嬲られつづけたおんなは正気とも狂気とも区別のつかぬ荒々しさでえいやと教壇に登り、下着をずり落として生徒たちに突き出すのだった。
石井はその時の反応をひとりずつ丹念に描いている。戸惑いや羞恥する者がいくらか混じってはいるが、総じて重厚な気分が黒々と噴出している。「パプフィギエールの悪魔」さながらに目を剥き、唇をゆがめる。机にうつ伏して震える。立ち上がっておんなの狂態を茫然と見守る。烈しい表情や硬直した四肢からむらむらと発せられ、この場に充満しているのは恐慌と悲哀の叫びであった。
紙面を破りかねない程の白い刻印である。二度と回復しないほど押しまくられ、少女たちの眼(まなこ)に安穏とした日常空間は大きく裂け墜ちた。生涯を縛るであろう無惨な記憶の傷痕が生徒たちの外貌に刻まれている。そのような痛ましい破壊の後に、あの「画面いっぱいに、女が大股をひろげていた」姿が置かれたのだった。誘惑や扇情のための裸身ではなく、抵抗を試み、退散を祈る姿なのである。石井隆という作家のまなざしと、彼が私たちに何を訴えているかを明確に語っている箇所であり、石井世界の真柱(しんばしら)が顔を覗かしているように思う。
石井の【赤い教室】を土台として、おんなの大股開きは幾度か映像化されてきた。脚本作品である『天使のはらわた 名美』(1979 監督田中登)があり、『甘い鞭』(2013)がある。劇画にあった驚愕する生徒たちの役割を担うのは、前者にあっては主人公の会社の同僚たち、後者にあっては嗜虐プレイの虜になった中年男であって、どちらも銀幕のなかで咆哮し蠢いていた。
でも、石井が狙いを定めて仕掛けている本当の相手、拒絶されるべき者とは、実は銀幕に映される男優たちではなく、幕前に並ぶ客席や自宅のソファに漫然と座る者ではあるまいか。きわめて狭い了見を世間の常識と信じ、無責任な言葉を絶え間なく放出してマウンティングにいそしむ私たちにこそ、石井は白くまばゆい光りを発信している。自分本位に世界を見ちゃいけない、常に切り返しのまなざしを維持しながら相手と接しなさい、と切々と語ってくれている。
(*1):「漫画原論」 四方田犬彦 筑摩書房 1994 38頁
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