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2021年8月22日日曜日

“籠をすり抜ける鼓翼(こよく)” ~石井隆の鳥たち(1)~

 


 六十年代、七十年代の映画やテレビドラマ、漫画作品では鳥と鳥籠(かご)が重要な立ち位置を与えられることが多かった。炭鉱夫が小さな籠(かご)を持ち歩いて酸素濃度計の代用にしたり、都会暮らしのカップルのかたわらにはいつの間にかちょこんと準備され、見通しの利かず不安な日常に束の間の潤いを与えたり、場合によっては諍いの種に発展したものである。

 小鳥を籠(かご)の中にて飼い慣らす行為はかつて一般的であり、決して珍しい光景ではなかったからだ。上の世代の霞みかけた記憶の中には、落巣したり、時には木の幹に登って略取したいたいけな雛鳥を育てることを愉しんだ時間なり空間が今なお鮮やかに焼き付いている。小説や詩の同人誌などを発行するとき、題名に鳥にかかわる単語、たとえば「笹(ささ)鳴き」といったものを選んだりする時代であった。

 ペットショップが登場してからは雀なんかじゃなく、文鳥やカナリヤがもてはやされ、親にせがんで飼いたがる子供が増えた。大概はすぐに糞の臭いと掃除に辟易してしまい、鳥の寿命が尽きたり、猫や何かに襲われて死んだり、窓の隙間から逃げ去ってしまった事を契機として急速に興味を失っていった。居住者の消えた空の籠(かご)は縁側の隅あたりに置かれつづけて、やがて埃にまみれ、徐々に輝きを失っていくのだったが、子供たちも大人も最初からそんな籠(かご)は存在しないかのように振る舞うのだった。数年後の大掃除のときに処分されて、ぽっかりした虚無がしばらく居ついて淋しかったが、いつの間にか誰もが忘れてしまい、思い出話が咲くこともなかった。ペットとして何万、何十万、いやいやそれ以上かもしれない無数の鳥が人間と同居させられ、寵愛を受けようと競ったあげくに次々と姿を消していった。

 だから、石井隆が彼の劇画作品で都会暮らしの孤独な女子学生を主軸となした物語を編んだとき、その娘が小鳥と同居していてもまったく不思議はなかった。【赤い陰画】(1977)はそんな東北から単身上京して美術学校に通っている少女が主人公であり、数羽の小鳥を籠に飼っているという設定だった。アルバイトに応募した小さな出版社で、勤務初日にグラビア撮影の現場に強引に連れて行かれ、そこで乱暴に遭った挙げ句に繊細な魂をひどく病んでしまうという掌編だ。

 自宅アパートにようよう送り届けられた娘だったが、食事の世話をしようと買い出しに出た若い出版社員が戻ってすぐ、包丁を手にして彼を襲撃し滅多刺しにしていく。欲望のために限度を越えていく男たちの安直な打算や独善が一個の人間を破壊せしめ、過酷な血の惨劇を招くという幕引きである。

 この掌編はチュンチュン、チュンチュンという鳴き声に始まり、バサバサ、バサバサという羽音のオノマトペで完結する。鳥の存在を強く意識させる構成となっている。人間の意に反して好き放題にさえずり続け、金属の網に接触してはカチャカチャと不連続性の物音を鳴らしていく鳥にピントを合わせることで、神経症を抱えた人間の内心を描く手法というのは、探せばおそらく先例が幾つも見つかるから、それ自体は特筆すべき事象ではない。ここで私たちが注視すべきなのは、最後の頁で激しい羽音を立てる鳥の陰影が怖しいほども巨大に、またどう見ても籠(かご)の外を飛翔しているところだ。

 劇画製作において石井は早い時期から「映画」を意識し、思い切った時間の跳躍を劇中に配していたから、その文体に慣れた読者は小さなアパートの一室でバサバサ、バサバサと飛び回る鳥の姿を目撃しても気にすら留めない。包丁で一撃を加えたとはいえ、若い社員は直ぐには事切れなかったのだ、男とおんなは狭い室内で正視に耐えぬ血みどろの時間を過ごしたのだ、石井は室内乱闘の様子を詳らかにしないが、読者の想像力にその部分は委ねられていると誰もが判断するからだ。

 何かの拍子に鳥籠(かご)は倒れて破損し、隙間から鳥は逃げ出したのだろう、そのように大概の読み手は読み流すであろうが、しかし、よくよく目を凝らせば、室内の壁も本棚の上板ものっぺりとして、血の描写にとことんこだわる石井なのに不自然に白いままである。鳥籠(かご)に至っては娘が出発前に置かれたままのように立ったままで、わずかに動いた様子も見受けられない。これはすこぶる奇妙である。

 石井隆という作家は直線的な説明描写を嫌う傾向があって、「不自然さ」を無言で提示しながら我々の気付きをひたすら待つ、そういった特質がある。鳥はなぜ外をバサバサ、バサバサと飛び回るのか。そもそも部屋での殺戮はあったのか。娘が見たり聞いた暴力的光景は劇中の「現実」として本当に在ったものだろうか。

 迷宮のごとき様相を示す【赤い陰画】の真相は石井にしか分からないのだが、我々は劇中に突如出現した籠(かご)の外の鳥影にここで明確な境界杭の役割を認めて良いように思うし、せめてそこまでの認識無くして【赤い陰画】の観賞は終わらないように思う。すなわち、ここでの鳥は、生と死、もしくは、正気と狂気の境界を跨いだ際に穿たれ設置された三角点標石として機能している。

 映画『天使のはらわた 赤い淫画』(1981 監督池田敏春)とこの劇画【赤い陰画】とは幾つか血流を通じさせる箇所があり、それがタイトルに結実したと想像するけれど、あの映画の中でヒロインに蹴飛ばされ、裏表が引っくり返された赤外線ランプ式の電気炬燵(こたつ)に準じた立ち位置にここでの鳥籠(かご)は在る。

 『天使のはらわた 赤い淫画』のヒロインはグラビア冊子のモデルを強要されて以来、世間の視線を極端に怖れて暮らしていたが、そのがんじがらめの倫理観を転覆させて再生しよう、生き直そうと決めた矢先に電気炬燵(こたつ)は大きく裏返っている。深紅に染まる境界杭たる電気炬燵が分かつのは、劇画【赤い陰画】の彼岸此岸とは陰影をかなり違えているから、単純に両者を同一視は出来ないけれど、石井が「鳥」という小道具を用い、のっぴきならない事態に飛ばしていること、そして、それで何事かを訴えようとしていることは、石井隆の作家性を考察する上で記憶に値する事象ではないかと考える。



2019年6月15日土曜日

“二等辺三角形”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(1)~


 萩原健一と内田裕也、強烈な個性に彩られたふたりの俳優が相次いで亡くなったことを受け、映画専門誌「キネマ旬報」が追悼特集を組んだ。(*1) その扉絵を石井隆が描いていることを知ってファンはざわめき、書店に走って対峙する時間を持った次第である。雨に濡れた情感あふれる絵、見た瞬間に石井隆の絵だと分かる、度肝を抜かれた、そのものがまるで映画のよう、拓かれたのは正にスクリーン、二人をスクリーンに甦らせるなんて何て痺れる弔いか(*2)。そのような反響がすぐにウェブ上にきらめき、はげしく瞬いた。

 わたしもその一人であったのだが、同時に石井隆のひさしぶりの「一枚絵」に強い関心を惹かれ、しばしの時間、思索にたゆたう成り行きだった。ここ数年、過去作のDVD再発売の際に、石井はパッケージ画の提供を要請された。雨雲を呼び込み、濡れた絵画を幾つも描いている。無数の滴(しずく)と、とぐろ巻いてもわもわ漂う硝煙が紙面を埋め、濡れた肌と髪が妖しく照り光った。むせび泣くがごとき秀抜なこれ等“役者絵”に遭遇してその都度戦慄の時間を持った訳なのだが、今回の扉絵ほどは考え込むことはなかった。

 役者の表情を定着させている点において、ここ数年来石井が挑んでいる肖像画や劇中場面のコラージュと似た面持ちではあるのだけれど、そこに留まらない真剣味が染み出て感じられた。創作活動の初期段階で石井は、どう受け止めて良いか分からない摩訶不思議な一枚絵を射出することが度々あったが、あれとどこか通底していて、軽々しく頁を閉じ日常に舞い戻る訳にいかなかった。

 何よりも瞳が吸い寄せられたのは、涙をひと筋流している色香あふれる萩原の顔でもなく、あぶら汗なのか雨なのかそれともその両方が混じったものなのか、たっぷりとした液体の筋が額に溜まる様子がいかにも剣呑な内田の顔でもなくって、その両人に挟まれて立つおんなの背中、いや、もっと絞り込んで言えば彼女が装着しているコートの下半分、腰のあたりがヨットの帆みたいに風をはらんで膨らんでいる様子である。

 はたしてここまでコートの裾(すそ)は鮮やかに広がるものであろうか。服装に無頓着な私はトレンチコートを購入したことがない。大概がベルト辺りまでのジャンバーであるのだし、冬の盛りに厚めのロングコートを着ても、戸外ではボタンやジッパーをあらかじめすべて締めて完全防備し、ああ、いやだ、寒いのはいやだ、雪の降らない街に引っ越したい、と恨み言をつぶやきながら背中を丸め、厭々と、のそのそと歩むばかりだ。薄手のお洒落な外套(がいとう)を羽織り、肩で風切って街路を突き進む場面など皆無だから、その辺の衣服の特性がまるで分からない。

 トレンチが一世を風靡した時期の外国映画を懸命に思い出そうとするが、こんなに綺麗に広がる様子を思い出せない。確かにゆらゆら、さわさわと裾が舞い踊ることは普通にあるだろう。たとえば、石井が脚本を担い盟友池田敏春が監督した『天使のはらわた 赤い淫画』(1981)は凍てつく季節を舞台としており、観賞中に頬のあたりが涼しくなる具合だったけれど、そのなかで主演女優がコートの裾を揺らめかせ、寒気に抗して歩く場面がとても印象深かった。それでもこの絵のようには決して広がらなかったように思うが、はたして記憶違いだろうか。単にわたしの経験値の低さがそんな連想に誘うものだろうか。

 ここには絵描き石井隆の自由で大胆な筆の運びが認められるし、読み手である私たちに無言のうちに伝えようとするものが潜んでいる。つまり、良い意味での“不自然さ”があって、活発な思索と創造の痕跡としてどうやら提示されている。

 思えば一枚絵だけでなく、劇画についても常に“不自然さ”は在りつづけた。石井劇画の作風はこれまで何度か変化を遂げているが、初期作であれ中期の作品であれ、独特の“不自然さ”が時にハイパーリアリズムの劇中に出現して私たち読者の目と感情を深々と貫いた。何だろう、変だぞ、何て描写だと息を呑ませ、コマの上での滞空時間を引き延ばされ、さらなる凝視を余儀なくされるのだった。胸の奥にいつまでも貼り付いて煮こごる具合となり、反芻と咀嚼を何度もうながした。安易に読み捨てることを躊躇わせ、他の扇情主体の劇画群とは別次元の解釈を強いてくるのが常だった。

 たとえば【紫陽花の咲く頃】(1976)で夜道を急ぐおんなが急襲され、背後から男に抱きつかれた一瞬におんなのスカートが不自然なぐらいに裾を延ばす様子であるとか、【闇が降る】(1983)で暴行を受けた後のおんなが気落ちする自分自身を奮い立たせるべく激しく頭(かぶり)を振り、髪を直線状にたなびかせる仕草であるとか、石井の劇には物性を超越してひどく歪んだり広がる物が散見されるのであって、今回の極端に広がって二等辺三角形を綺麗に形作るコートも、たぶん、その特徴的な現象の一環に置かれている。

(*1): 内田裕也 2019年3月17日死去、萩原健一  2019年3月26日死去
「キネマ旬報 2019年6月上旬特別号 No.1811」 キネマ旬報社  ASIN: B07QLB7H9F 2019
(*2):いずれもtwitterより




2015年9月2日水曜日

“ナルキッソス”~「別冊プラスアクト」 東出昌大×石井隆


 大地に横臥して、満点の星空を仰ぎ見る。うす墨で半紙に一文字を引き、そのにじみ具合をカメラで撮って白黒反転させれば、きっとこんな具合になるものだろうか、天空の河がゆらゆらと白く霞んで視界を縦断している。まばゆい光跡がすぐ側をかすめていく。いくつも、何度も、それを目で追いながら、頭に巣食っていた憂鬱なことごとをしばし忘れた。自分が負っている苦労など、宇宙の中では塵あくたに過ぎないと思う。

 前照灯の先に野兎が不意に現われ、ばたばたと跳躍する、そんな真夜中の小道を登ってきた。どっぷりと沈みこんだこんな山腹まで至ればこそ、ようやく見えて来る儚い光たち。何万年も旅してきたかもしれない星屑の終焉、最期のともし火。よく言われる喩え話だけれど、明るければ何でも見えるわけではなくって、むしろその明るさが視界の邪魔をすることって往々にしてあるものだ。見えないからといって、存在しないとまでは言い切れない。闇に足を踏み入れ、はたまた穴に蹴落とされて、そこで目を凝らすことで色んなものが見え始めることがある。そっと息づき、身を硬くしてこちらを窺っている存在にようやく出逢える。

 わたしは石井隆の作品を大切に、大事に観続けているつもりだけれど、そのように気持ちを集中することで、時どき流れ星のようなものに出くわすことがある。いや、何も特別な場処に招かれるとか、図書館の蔵書のかげにとんでもない発見をすると言った大袈裟なものではない。一介の読み手に過ぎないから、手に持ち、銀幕で真向かうものは、誰もが目にする一般的な事物に過ぎないのだが、そこに見過ごし得ない閃光を見てしまう。一瞬後、目の奥や胸のうちが煌々と照らされる時間が訪れる。

 先日も「別冊プラスアクト」という雑誌(*1)を読んでいて、これは眼福、素敵な眺めだ、とうれしさの余り膝を打った。この号には「東出昌大×石井隆」という両者の対談が採録されており、これはもちろん新作『GONINサーガ』(2015)の宣伝の一環な訳なのだが、合わせて載せられた写真数葉がなんとも魅力的なものだった。

 床から背後から、目に留まるすべてが重たい調子の暗幕で覆われたスタジオにて撮影されていて、腰をおろした東出の手前には大きな鏡が、冷えた面(おもて)を天井にむけて横たわっている。東出の様子が鏡に映じて、さながら水辺に休息する牡鹿か、水面にしだれる忍冬(すいかずら)のような風情だ。

 この構図は石井がこれまで幾度も自作に採用したものであって、挿絵や劇画作品の扉絵、そして映画にも反復して登場している。たとえば劇画作品【聖夜の漂流】(1976)、【赤い教室】(1976)、【停滞前線】(1979)の各扉絵(*2)や、近作では『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)の冒頭や、そのメイキングDVD(*3)のカバー画像がそうだった。カラヴァッジョ Michelangelo Merisi da Caravaggio が描く「ナルキッソス」にも似る、闇、鏡、屈んだり座った人体、鏡像、両者を斜め上から捉えた構図。寂寂たる湿霧に包まれながら、鏡面もしくは水面と一個の人体が向き合うこの絵面(えづら)を、石井はとても好んで描き続けている。

 単なる偶然ではないように私は思う。たまたま意図せずに編集者が求めたのであれば、それはそれで面白い星めぐりであるのだし、意図的に“石井世界”の再現または連結を図ったものであるなら、これは記憶にとどめて良い大きな波紋であろう。撮影は本多晃子(ほんだあきこ)とある。映画の演出にも挑む新進のフォトグラファーのようだ。透明感のあるポートレイトを得意とし、実績も手堅く積んでいる。信頼を得て、多くの若手俳優が身もこころも任せているようだ。

 撮影の前後には石井も同席したようであるから、そこにはさまざまな想いが交差したのではあるまいか。東出と本多が石井世界に敬意を表した可能性もあるし、石井がコンセプトを任せられ、東出をふたたび自身のふところに招いたのかもしれない。この辺りの経緯は私たちには分からないのだけれど、こういう不思議な符号は見るだけで嬉しいし、なにより楽しい。

 これから先、いくつこんな流れ星にめぐり合えるだろう。まだしばらくは、この夜の遊歩を続けてみよう。転ばぬように、熊に咬まれぬように注意しながら、歩けるだけ歩いていくつもりだ。


(*1):「別冊プラスアクト」第21号 「東出昌大×石井隆  19年という“時の旅”を経て『GONIN』シリーズが復活!『GONIN サーガ』主演・東出昌大と監督・石井隆が今作の撮影を振り返る」
ワニブックス  2015年8月21日発売
(*2):これら石井劇画の扉絵を模したのが、『天使のはらわた 赤い淫画』(1981 監督池田敏春)のポスターだ。背景のホリゾントに鮮烈な赤を配しており、石井の静謐な空気感とはすこしだけ乖離があるけれど、石井世界の良き理解者であった池田だけに丁寧な仕上がりだ。同心円の波紋を描いて、今に至るまで共振をつづけている。
(*3):『女優・喜多嶋舞 愛/舞裸舞 映画「人が人を愛することのどうしようもなさ」より』 東映ビデオ 2007


2014年5月22日木曜日

“縮約”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[8]~


 映画『天使のはらわた 赤い教室』(1979)には、石井隆の脚本第二稿と異なる箇所がいくつかある。読解の糸口とするため挙げていくが、先ずもって村木(蟹江敬三)の恋人でやがて妻となる川名裕子(水島美奈子)の造形が突飛であり、これが足懸りとして適当と思う。

 先に紹介した「映画芸術」によれば、石井をひどく当惑させ、撮入を危うくした曽根の加筆とはこの裕子というおんなの台詞であった。往時の関係者は具体的にどの箇所が問題視されたか明言していないのだけど、なるほど目を凝らし耳をすませば、言動やそれに対峙する村木の物腰は石井の書くものとは全くもって異質である。

 裕子は村木の仕事場兼住居である雑誌社に押しかけ、仮眠用の寝台に自ら服を脱いでもぐり込んでは情交を迫るのだった。気持ちが乗らない村木は「今日は帰ってくれよ、ひとりでいたいんだよ」と叫んで、裕子をはね退ける。ブルーフィルムに刻まれた名美の表情に囚われ、また偶然にも彼女を街なかに発見して言葉を交わした村木である。「あっちもこっちも、そんなに器用な人間じゃないんだ」と思わず口を滑らせてしまうのだった。裕子に内奥を見透かされると慌てた村木は、仕事に行き詰って頭がいっぱいなのだと話題のすりかえに懸命となる。

 石井作品に深く潜水するに至らぬ人にとっては、特段おかしな点は感じられない“ごくありふれた男女の会話”かもしれないが、これと近似する場面なり台詞をわたしは石井の作品に見とめたことがない。立ち姿から言葉から、何から何まで馴染まない。明らかに曽根の世界が侵入して異なる拍子で明滅している。石井の劇は能やパントマイムにどこか通じる静謐さ、寡黙さが身上であって、単純に現実をトレースするものではない。このような底の浅い“ごくありふれた会話”の場を石井は通常用意しない。

 承知の通り『赤い教室』の村木は“映像に淫する者”であり、『天使のはらわた 赤い淫画』(1981 監督池田敏春)の青年や、『死霊の罠』(1988 同)の怪人、『フィギュアなあなた』(2006)の造型師、それに『花と蛇』(2004)の老人といった者たちの源流に立っている。写真やモニターに映されたおんなの一瞬の表情にこころを鷲摑みにされ、命を賭して接近を図るのが石井世界の“映像に淫する者”の定めであり、私たちはエウロペやペルセポネの誘拐にも通じる物狂おしい執心や集中、そして暴走の軌跡を目撃することになる。

 一心不乱に熱視(みつ)め続ける、その集光の凄まじさこそが石井の劇の肝であるから、裕子と名美というふたつの人格に挟まれ、焦点が絞りきれない曽根版『赤い教室』にて減速感が生まれるのは当然だろう。浮気がばれそうになって詭弁を弄する村木というのは、これは石井世界では類を見ない風変わりな造形と言わねばならないし、石井の劇の底流にある無骨さや生真面目さ、並外れた一途さといったものの踏襲や再現から逸脱してひどく矮小化されている。

 そうなった理由は簡単で、曽根が物語の順序を大幅に入れ替えたからだ。オリジナル脚本においてシーンナンバーは全部で77あるのだけれど、村木が名美の写ったブルーフィルムと邂逅するのは12と付された場面であって、映画にあるような端緒ではない。石井の発案では冒頭からしばらくは村木の身辺に寄り添い、その日常を通じてこの男の真情を垣間見ようと努めるはずだった。別の出版社を辞めてまでエロスを模索し、三年もの間試行錯誤を続けている、内向的でやや湿った情熱を秘めた男の日常が淡々と綴られるはずだった。曽根はそういう堅苦しい描写は観客をうんざりさせると踏んだのか、完成作品では名美のブルーフィルムの仔細とそれを見て凍りつく村木の様子をいきなり見せてしまった。

 物語がゆるゆると上昇をはじめ、安定飛行に入った辺りになって名美は村木の眼前に出現し、そこで気流が大いに乱れるはずだった。それがシーン12である。ところが、脚本の1から10番あたりまでの日常描写はすべて12の後方へと迂回させられ、6番目に配置されていた村木と裕子とのホテルでの情事も同様に劇の中ごろへと跳ばされてしまった。つまり、裕子の出番は主演女優に席を譲るかたちで遅らせられた訳である。

 石井原案での裕子というおんなはシーン6の自らの出番を終えると村木の前からいったん退場し、完全に気配を殺している。「三年後」に妻となり母となって再登場するのは同じだけれど、裕子にとっては村木と名美との出会いやそれに対する村木の灼熱、そして、煮えたぎる奔流に足をすくわれてじたばたする男の動向というのは一切感知し得ない遥か彼方に置かれてあるはずだった。

 村木と名美の間に神話的とも言える荒ぶる狂恋なり暴走をうながす為に、邪魔になる裕子という存在をそっと石井は舞台袖へと引き入れたに違いないのだが、曽根の改訂によって名美という暴風圏は開幕直後に発生してしまったのだし、裕子は舞台からしりぞく機会を失い、劇の中頃を風に玩(もてあそ)ばれる木の葉のように行きつ戻りつする羽目になった。“名美の表情にすでに囚われ”、魂が“ひかれている”男が裕子の前に無残にも立たされ、村木は神から生身の男に立ち戻って保身にひた走る体たらくとなったわけである。

 蟹江を追悼する記事が週刊誌をいくつも飾ったが、その中のひとつで曽根は『赤い教室』に蟹江を起用した経緯を次のように語っている。「家庭があるのに女に惚れてしまい、かといって仕事を投げ出すほどはのめり込めない、このような忸怩(じくじ)たる思いに駆られる男を、ただ居るだけで演じることができる人がいないか? と同じ映画監督の神代さんに尋ねました。すると、『蟹江ってのが、中々良いよ』と教えられたのです」(*1) 

 三十五年も前の仕事場の風景なり会話を、どれだけ人は鮮烈に記憶にとどめ得るのか。大抵は不可能と思うから、記述どおりのやり取りが実際にあったかどうかは分からない。けれど、これが曽根の内部にある『赤い教室』の輪郭なり影であるのは間違いないだろう。「家庭があるのに女に惚れてしまい、かといって仕事を投げ出すほどはのめり込めない、このような忸怩(じくじ)たる思いに駆られる男」が“村木”とは。ここまで石井の描く男の内情を縮約(しゅくやく)してしまえば、神話性が崩れて減速するのは自明である。

(*1):「週刊文春」四月十七日号 「追悼蟹江敬三 ロマンボルノ監督が明かす迫真の“寝取られ演技”」 32頁




2014年5月11日日曜日

“稜線をむすぶ”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[6]~


 『天使のはらわた 赤い教室』(1979 監督曽根中生)の題名をウェブで検索すると、“傑作”という言葉が即座に返る。主演の蟹江敬三の死を悼む書き込みも多く、演技や存在感を褒めたたえるものが目につく。かれこれ三十五年も経っているのに、まだまだ愛されている。 

 はじめに断わらないと怖い気がするのだけれど、以下に書くのは私個人が漂着した、それも現時点に限っての読み解きとなる。一本の映画に想いを馳せれば、劇場に至る街路や取り巻いていた人間関係もありありと蘇える。先が読めずにむしゃくしゃしていたっけ、何とか映画がなだめてくれたのだったよな、そんな感傷に浸ることもしばしばだ。折々の心理状況は映画の色彩なり解釈を変えるし、記憶まで捩じ曲げるから、詰まるところ映画は人それぞれ、その時々のものとなり、誤解や思い違いも含めて各人の所有物と呼べるだろう。どのような『赤い教室』の評価があっても良いわけだし、各人が抱くそれを否定する気もなければ折伏(しゃくぶく)するつもりもない。
 
 さて、曽根発言とこれを正そうとする「映画芸術」誌の書評(*1)について、どう捉えたらよいのだろう。方法はいたって簡単で、石井隆の書いた台本と完成作品を比較すればよい。手元には現物はないから、脚本を所載する「別冊新評 石井隆の世界」と「シナリオ」の二冊が頼りとなる。発行時期には五年程の開きがあり、前者は石井の劇画が熱狂的に読まれた頃に編まれた評論集であり、後者は『ルージュ』(1984 監督那須博之)の公開に合わせ、脚本家としての石井隆に焦点を絞った特集が組まれていた。

 掲載されている二篇を比較すると両者の間に差異を探すのが困難であり、石井が自信をもって呈する『赤い教室』の全身像はここに尽きるということがわかる。また、末尾には注釈が添えられてある。「このシナリオはにっかつ映画「天使のはらわた・赤い教室」のために書かれた第一稿です。決定稿ではありませんが、もっともオリジナルなものであり、石井隆氏の希望によります」(*2)、「決定稿は、曽根監督がこの稿に手を加えて撮影台本としましたが、編集の都合上、石井氏のオリジナル第二稿を掲載しました」(*3) ───先ずこの数行を何度か読み返し、噛み締めなければなるまい。

 話の腰を折ってしまうが、私が『赤い教室』にどう触れてきたかを先に書いてしまいたい。実はこれらの本の入手が先で、映像はかなり後から目にしている。脚本を読んで夢想するばかりの時間が長く続いて、その後で名画座かどこかで完成品を観たのだった。ふつうとは違う、ちょっと変則的な流れになってしまった。

 その頃、つまり、わたしが『赤い教室』を観た時期の、劇画家石井隆は堂々たる面持ちだった。闊達且つ華麗な独自の世界を誌面に築いていて、何よりも描線に艶が乗っていよいよ美しいのだった。長編作品にはさまざまな大きさのコマや大胆不敵な見開きが挿し込まれ、人物の動作なり表情を緩急自在に操った。短編での語り口もあざやかで、色盛りの印象を強めた。【黒の天使】(1981)だったり【女高生ナイトティーチャー】(1983)がそれに当たるのだが、構図や適度なボリュームで盛られた台詞には映画に近しい薫りが充満し、すいぶん酔わされた。

 また、脚本家としても着実に歩を進めていて、相米慎二(そうまいしんじ)や池田敏春と組んだ作品が次々に開花していた。『ラブホテル』(1985)や『魔性の香り』(1985)なんかを銀幕で観終わって外に出ると、街のどこもかしこもロマンティークな光を帯び、道行くおんなたちは誰もが秘密をかかえて見えた。すれ違うたびに濃厚に匂って、どぎまぎさせられた。石井の世界が急速に実体化して日常になだれ込んで来たように錯覚して、そわそわした気分にさせられるのだった。そのような劇画と映画世界の橋渡しが盛んに行われた日々に、やや出遅れて私は『赤い教室』を観ている。

 『ラブホテル』やその少し前に撮られた『天使のはらわた 赤い淫画』(1981 監督池田敏春)といった作品は、もちろん各演出家の生理が反映されているし、お得意の技巧が随所に用いられていて、“彼ら監督の”代表作に数えられている。それと同時に石井の劇画世界を映像化することに対して妙な気負いや反撥が感じられず、結果的になだらかに稜線を結んで“石井の”作品にも成っていたように思う。

 曖昧な表現しかひり出せなくてもどかしいが、石井世界には独特の気圧というか霧(ミスト)のようなものが各情景の隅々まで立ち込めていて、それを手で払いのけるような過剰な構築(セットであったり小道具だったりする)に走ってしまうと途端に劇そのものが求心力を失い、ぼんやりと拡散して安手のメロドラマ然としてしまう不思議な特性がある。『沙耶のいる透視図』(1986 監督和泉聖治)しかり、『ルージュ』(1984 監督那須博之)もそうだった。

 わたしが石井の劇画に心酔するあまり、目新しい道具を異物として感じて拒絶反応を起こしているわけではなく、石井の劇は本質として極めてシンプルであり、視線は大概一点に、男女の立ち姿なり表情に誘導されていくのであって、その間無闇に目玉をきょろきょろさせるきっかけとなるものは巧妙に排除されるか、よくよく吟味された上でそっと置かれる傾向があるように思う。監督の体質が似ていたのか、それとも彼らなりの石井世界への歩み寄りの結果であったのか、その辺は今でも判然としないのだけど、『ラブホテル』や『赤い淫画』の寂寞とした空間構成はわたしの目線を心地好く縛り、結果的に石井世界の裾野に着地させられたのだった。

 『赤い教室』をそれ等の後に観てしまった自分には、ああ、これはやはり昔の作品だな、ちぐはぐな部分は仕様がないな、と感じた訳なのだった。劇画で見たような河原なり公園を無難に選び、意識して似通わせた構図が劇中に点在しているにもかかわらず、何故かがちゃがちゃとして迷走する印象を抱いた。

 不満に感じなかったのは、たぶん主演の水原ゆう紀のあごから唇にかけての、力んでぐっと硬い感じが石井の描く名美にすごく似ていたことがひとつ、それから酒場の二階で見せつけられる凄惨な場面が脳天を直撃し、総て押し流す勢いがあったからだろう。細かいところはどうでもよくなった。何より先に書いた新たな連結が始まっている以上は、石井にしても読者にしても、尾根をひたすら登りつづけるしかない、前に進むしかない、そのように感じられて『赤い教室』は自然と意識の外に追いやられたのだった。

(*1):映画芸術 2014年冬 446号 Book Reviews 倉田剛著「曽根中生 過激にして愛嬌あり」評 成田尚哉「『天使のはらわた 赤い教室』で何が起きたか?」
(*2):「別冊新評 石井隆の世界」 新評社 1979 218頁
(*3):「シナリオ」1984年9月号 シナリオ作家協会 140頁 『ルージュ』と『赤い教室』以外にも『天使のはらわた 名美』(1979 監督田中登)、それから『天使のはらわた 赤い淫画』も合わせて収められていて読み応えがある。


2011年4月29日金曜日

“ふたりの風景画家”


 昨年十二月、暮れも押し迫った頃に映画監督の池田敏春(いけだとしはる)が世を去った。遺された作品のうち、白都真理(しらとまり)主演の『人魚伝説』(1984)がこのところウェブ上で話題となっている。“原子力発電所建設工事”をめぐる暗躍や対立が物語の背景にあり、ささやかな漁民の生業(なりわい)と家庭が無残に押し潰されていく様子が描かれていた。巷でささやかれる声は、今この瞬間のわたしたちを脅かし続けているさまざまな事柄と映画世界が隙間なくリンクした結果である訳なんだけど、それと共に、池田が舞台(ロケ地)となった港町を再訪し、海に身を投じて自ら生命を絶ったという因縁の深さ、多層さに誰もがこころを惹かれるからに違いない。

 もちろん、事の詳細は部外者である私にはまるで解からない。いかなるプロセスを経てそこに佇んだのか、眼下に臨んだ冬の海が彼の魂にどのように機能したものか。独りぽつねんと対峙してどんな風が吹き巻き、どんな波がそのとき砕けたものか。もはや語る思いも残っていなかったのだろうか。答えの返らぬ質問がおぼろに明滅するばかりなれど、感覚として拒絶は起きない。どころか、むしろ私には馴染む部分さえ、実はある。

 三十代の血気盛んな時期に撮った映画の舞台に、なにかしら追慕するものがあったと想像するのはたやすい。それに、ある程度の年輪を重ねた者であれば、思い当たる節が誰にでもあるのじゃなかろうか。内奥の深いところに癒着してなかなかに醒めやらない、不安定でどうしようもない“場処”のひとつやふたつを抱えながら、どうにかこうにか生き長らえていくのが人間というものだ。迂回して通る時もあれば、ふらり立ち寄って気持ちの整頓をしたりする、そんな場処が確かに在る。

 彼の地が池田にとってそんな場処であったのならば、遺族の皆さんには聞かせられないが、“かたち”としてそれはありがちな、諦観をたたえて見つめることが可能な、おごそかで静謐な場景となって脳裏に投影されるように思う。

 自ら選んだ場処で自ら選んだ区切りを求めた「強靭な執着」は彼らしいな、という感慨もある。盛夏、厳冬の時期ともなれば思考をすっかり滞らせる猛烈な寒暖に襲われてしまう、四方を緑濃い山々に囲まれた狭隘(きょうあい)な盆地に生まれ育った池田敏春という男が、“風景”に過剰な思い入れ抱いた挙句に“風景”に溶け込もうと図るかのような幕引きを演出したのは、同じ北国に育った私の中に、らしいな、という感慨を湧かせて止まないところだ。

 自然を制覇し切ったとうそぶいて見える都会とは違い、葉山信仰や草木塔、山岳修行といった習俗にべったりと染まった東北の地では、町や村は自然から恐る恐る借り受けた特例の区画、自ずと謙虚にならざるを得ない間借り状態となっている。今の世にそれはあるまい、大袈裟なことを喋るものだと笑うかもしれないが、本当にそうなのだから仕方がない。人間もまた自然から猶予を与えられ、猫の額みたいな平地に生かされており、やがて時が満ちれば、鬱蒼たる山々の奥へと帰還して樹や蔦(つた)、花とか草藪(やぶ)に入り交じって一体化するのは感覚として至極当たり前である。

 そのような地で展開される“風景”は精神や思索といったもろもろをはるかに凌駕していて、(“生活”ではなく)“人生”の根底を強く牽引するところがある。終幕に訪れた“海”という風景に池田がどのような眼差しを向けていたか、だから、その一割程度は解かるような気がわたしにはあるのだ。良いとか悪いとか、哀しいとか辛いでなく、きっとそうだったのだろうと想って、今はこころ静かに冥福を祈っている。

 彼の死は新聞に多く取り上げられることはなかったが、追悼する写真付きの小文(*1)が大きく一紙に載せられており、嬉しくそれを読んだ。故人の内実を探り切れずに、やや途方に暮れた感じで断絶してしまう文章であったが、かつて映画青年だったらしい書き手の池田作品への敬意と憧憬を含んだ記述はためらい無く地平線を広げてみせ、石井隆が脚本を書いた『天使のはらわた 赤い淫画』(1981)もすらりと紹介してあって、とても綺麗な筆致だった。

 根岸吉太郎と並んで、石井もほんの少し言葉を寄せている。書き写すとこんな具合だ。

──織田作之助の短編小説の映画化で、大阪を舞台にした男女の純愛物語。「天使のはらわた」などの脚本を書いた石井隆さん(64)は、「秋深き」を見て、主人公の2人が手をつないで歩く姿に目が留まった。以前、池田さんに「こんな風に書いて」と言われ、示されたアメリカ映画「コールガール」(*2)の1シーンに似ていたからだ。それは、「体を売る相手でしかなかった、“男性”という存在を初めて愛した女性の気持ちがよく出ている」印象深い場面だった。

 石井の指す場面とは一体どんなものであったか、そして、池田の遺作との連関は本当にあるのかが気になって、続けざまに観て先の休日を過ごした。

 失踪した中年男の行方を追って田舎町からニューヨークにやって来た私立探偵が、ジェーン・フォンダ演ずる事件の鍵を握っていそうな若い娼婦に接近し、おんなの住まうアパートの一階にある半地下の小部屋に調査の拠点を構える。騒動を嫌って、最初はつっけんどんな態度で探偵をあしらっていたおんなだったが、最上階に位置する自分の部屋の頭上で怪しい影がちらつき、ごとごとと徘徊する物音が天井に響き始める。遂に耐え切れなくなって階下の探偵に助けを求めてしまい、それを機縁にして両者は急接近していくのだった。

 調査と護衛、幾ばくかの恋慕とがない交ぜになった昼夜が重なっていき、なかなか緊張は解けないまま膠着した状態だけが連なっていくのだけれど、ところが、街角で買い物をして過ごす生活臭溢れた場面が不意に挿入されて流れが一変する。紙袋を抱えて先を歩く男の大きな背中を見やる、おんなの瞳の、奥が一瞬ぐらりと揺らいで、次の瞬間にはすっと細い指先が、前に伸び、男の上着の裾をきゅっと摑んで、何事もなかったようにして後を追うのだった。

 男は背中を引かれて違和を覚え、瞬時にそれが何かを理解し、驚くでも破顔するでもなく、片手をおんなの背にさっと回すと、何事もなかったようにして並ばせ、一歩を踏み出していく。おんなの手を掴みふたりが腕組んで歩き始めるまでのその間、台詞は一切ないのが秀抜であった。雄弁な風景に触れた想いがある。石井が盟友たる池田を偲び、『コールガール』のこの場面を引き合いに出したことは記憶に価する言及だろう。

 『秋深き』が池田版『コールガール』であったかどうかは分からないけれど、あいかわらず光と影で掘り込まれた場面が鮮烈であって、最後の最後まで池田は彼らしい“絵作り”を徹した事が読み取れ感服した。さえない中学教師が惚れたおんなに夜道で追いすがり、街灯の下で唐突に求婚するくだりで、ふたりの輪郭をちろちろと真白く発光させるように配された照明の、それに付随して天空より舞い下りて寄り添うカメラの、活き活きとして堂々たる演出に息を呑んだ。

 『秋深き』と『コールガール』の両者と、加えて池田敏春と石井隆という映像作家の間で共振する箇所に想いを馳せれば、台詞以上に絵でもって語る、光と影で世界を波動させる、そんな技法に行き着くように思う。池田の追悼上映で招かれていた根岸が口にした言葉をここで借りれば「ワンカットに過剰に執着する」ことにより「視ている者のこころを揺れ動かす」、そんな徹底した絵作りを共有しているのは誰の目にも明らかだ。“黙して語る”とでも言うのか、“能弁なる風景”とでも呼ぶべきか、奥があって密度の高い絵画世界が峰を連ねていたように思う。

 性愛や暴力を軸とする物語を池田も石井も紡いできたが、その多くは思えば“風景”と総称されるものだった。恋情や欲望を題材にした作品を眼前にすると、カッと頭に血をたぎらせ、杓子定規にやれ陰部だの尻だの陰毛だの、性的だの、わいせつだのと騒ぎ立てては封殺を目論むひとがいるけれど、彼らは風景に畏怖や敬虔を抱けないこころ貧しい都会人に見える。

 わたしたち人間もまた自然の一部であり、風景の一部となって活かされていることを本質的に悟った者でなければ読み切れない映画、絵画、写真というのはあって、まさしく池田と石井はその贈り手であった。大切な画家をひとり失ったと感じている。

(*1):讀賣新聞 追悼抄「悲劇のヒロイン映す」 東京本社文化部 近藤孝 2011年3月7日(新聞の場合、掲載日は地域によって異なることがある)
(*2): KLUTE 監督 アラン・J・パクラ 1971