2019年1月2日水曜日
“アトリエと画廊”~隠しどころ~(11)
字面と音の響きに怖じ気づき、伏せ字にしたり、照れてはしゃいで話題をすり替えて良い段階ではない。生々しい性愛行為や堂々たる裸身を劇中に怖れずに盛り込む石井隆という劇作家を考える上で、「女性器」の立ち位置を確認することは避けて通れない。
どんな表現が為されたか、分かりやすい例が映画『花と蛇2 パリ/静子』(2005)だろう。最初に『花と蛇2 パリ/静子』とはどんな作品だったか、簡単におさらいする必要を感じる。石井のほかの作品とは趣きを違えて見えるからだ。
主人公のおんな(杉本彩)が男社会に翻弄され、完膚無きまで虐(いじ)め抜かれる点はいつも通りであるから、構造や展開は他の作品と共通項が多いのだけど、何というか一種穏やかで清清しい、抑制された美意識に貫かれて見える。舞台には銃声が一発も轟かず、若い身空での非業の死もない。凄惨を極める人体の損傷や解体作業も伴わないから、粘性ある血だまりは何処にも見当たらない。魂は常軌を違(たが)えることなく、だから破滅的な決壊も起こらない。
実際ここで終盤に発生し波紋を広げるひとりの老人の死は、外部から銃弾や刃物で傷付けられての結果でなく、内部から派生した自然死に近しい。心臓に無理強いしての突然死であって、それも痙攣をともなわない程も急激な病死だった。心室壁もしくは心房壁が裂けて数秒で失神するいわゆる「心破裂」にも似た圧倒的な頓死である。密やかな願望を無事に成就させ、愛する家族に看取られての幸福な旅立ちであって、石井世界では珍しく健全な末路が用意されたように思う。
いつもと雰囲気が異なるというだけでなく、わたしは石井隆という作家を考える上で『花と蛇2 パリ/静子』は重要な位置を占めると捉えている。おんなを悩ませる男たちはヤクザ者ではない。浮気癖のある色悪でもなく、うだつの上がらぬ放浪者でもない。ふたりの孤高の画家が両端に佇み、中央の奥まったところに夫である美術評論家兼画廊のオーナーが立って、魔法陣のようにおんなを取り囲んでいる。
黒い背広に染みこんで落ちない尖った死臭や整髪油のくすんだ薫りに代わって、鼻孔をくすぐるのは油絵具の匂いと生乾きの画筆から放たれる重たい獣臭、インクジェットプリンターが吐き出す化学薬品の刺激臭だ。それ等がゆらめき混ざる薄明るい屋内風景が主な舞台となっている。途中お約束として挿し込まれる怪しげな絵画市場があるが、主催するギャングたちは割合とおとなしく殻に収まって、映画全体の基調を荒らしに来ない。あくまでも主役はアトリエと画廊であって、珍しく体育系とはまるで無縁の静謐な地平が拡がっている。
インタビュウのなかで石井は、映画の小道具として登用された自作の絵に触れながら、物語に出てくる絵描き(遠藤憲一)と彼を二重写しに捉えられては困る旨の発言をしていた。巴里の廃墟然としたホテルの小部屋にて無聊を託(かこ)ち、酒量だけやたらと増えている。さらには、実の兄妹の身でありながら一線を越した異形の親和性を抱えた画家とその家族である。塾柿(じゅくし)のごときその湿った姿は、現実の石井の生活と確かに違っている。分身と決めつけるのは誰の目にも乱暴に過ぎるのだけど、しかし、だからと言ってこの『花と蛇2 パリ/静子』という話を徹頭徹尾がフィクション、現実から乖離したお伽噺と捉えて思考の道筋から追い払って良いのだろうか。
シナリオライターが舞台用の台本やテレビドラマのプロットを思案し、劇中人物のひとりを職業作家に設定したその刹那、作品は特殊な光彩を帯びていく。見るずっと前の段階からわたしたちは緊張させられ、胸騒ぎを覚えずにいられない。虹色を帯びた雲母状の薄い膜をドラマ表層に幻視するようにして、書き手のあえかな情念の波光を台詞のなかに見出していく。眼窩あたりを力(りき)ませて、矢のように放たれる台詞に耳を傾けてしまう。
作り手の暮らす現実世界から投射される光線を発見してまばゆく感じ、また、ほんの少しの内奥の吐露といった実に人間的な面影が露出していると感じる。作り手もこの影響を相当に意識して尺を埋めに掛かっている。うがった見方をせずに鑑賞を済ませられる者は、たぶんこの世に一人もいないのではあるまいか。
石井隆が一枚絵、もしくは連続体である劇画中のひとコマひとコマに渾身の思いで取り組んで来たことは周知の事実であるし、その筆のタッチがやがて一葉の写真、もしくは連続体である映画のカットに段差なく受け継がれ、確固とした自分だけの世界を持続している点はよく知られた事だ。ジャンルを越えて同一の陵線を表現し得る作家中の作家が石井隆である。ぞっとする、それとも陶酔を誘う絵画の伽藍を構築しており、いまに至るまで強固にして稀有な絵描きである。それが石井のまぎれもない実像と捉えている。
母親に連れられて詣でた社(やしろ)の壁にかかった不可思議な絵馬にこころを奪われ、父親の書斎に所蔵されていた美術全集を覗いて過ごした幼少年期、キャンバスと格闘して県展で入賞を果たした学生時代、睡眠を削って芝居小屋の幕絵を仕上げた若い時分、そして、それからの波乱に富んだ劇画家時代の暗闘。石井隆の根っ子にあり続けるのは絵画である。
その石井がアトリエを舞台に物語を編んだことは、これはもう何というか、極めて私的なまなざしをそなえた特別な作品と宣言するに等しかろう。『花と蛇2 パリ/静子』の一切は作家性と無縁で掘り下げる意味が無い、くねる女体を愛でて欲望を発散させれば十分なんて到底断じ得る訳にはいかない。『花と蛇2 パリ/静子』の行間を読み解く行為は石井世界の探求にとって大事な課題だから、いつか時間をかけてみっちり行なうつもりでいる。
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