石井隆の描く“下絵”は門外不出を原則とするらしく、ほとんど目にすることが叶わない。これまで見たのはあれとこれ、指折って数えるほどしかないのだけど、その際に想起したのは“素描”という単語だった。また、グスタフ・クリムト Gustav Klimtのそれを即座に思い浮かべた。石井隆がクリムトに言及したことは一度も無いから、まったくの個人的妄執でしかないのだが、性器描写をめぐる思案の終わりに書き残したい。
無地の紙に鉛筆で伸び伸びと引かれた線は適確で迷いがなく、両者の面影はとても近しい。絵画の勉強をしていないので専門家から鼻で笑われそうだが、おんなの肢態は共に美しく、身体の曲線をはっきりと打ち出し、肌のなめらかさを思念することを妨げない。クリムトは“素描”で石井の方は“下絵”である。前者は起点であり、後者は劇画や挿絵のために描かれた後半地点にあるのでそもそも次元が異なるのは承知しているが、人体特有のおおらかさを私たちの面前へと差し出して、ほのぼのと豊かな気持ちにさせられる。
最終過程できらびやかな金色の工芸風装飾が施されたり、石井の場合は魂と密接する暗闇や雨滴、海岸にあっては白波、はたまた廃墟や新宿の高層ビルを背後に従えていく。それぞれの作家の内宇宙へと分岐し、やがて別方角へと飛翔していく宿めなのだが、直前のふたりの筆跡は同じ師に就いて学んでいる兄弟弟子の習作のごとき雰囲気で、時代を超えて並列する。紙面に追い求めたものが実在のおんなたちであり、創意をやや抑え気味にし、あくまでも目の前で寝そべり、はたまたネガフィルムの中でポーズを作る実在のおんなたちの輪郭を正確に捉えるべく奮闘した結果だろう。彼女たちを謙虚に写し描こうとするところに同質化、面影の一致が起きているのだ。
ひとつの確信があって綴っているのだけど、つまり石井の下絵はクリムトの素描に近いものであり、性器を表わす描線が仮にあったとして、それも多分クリムトの筆に似るに違いないと考える。石井隆のまなざしをクリムトのそれに重ね、人間という存在に迫る絵描きとして再認識する時間が私のなかで脈打っている。
クリムトの厖大な素描を見返すとそこに好色の香りを誰もが嗅いでしまう。それと同時に女性という性が抱える宿命的なリスクも透けて見える具合であって、単純なポルノグラフィとしてのみ機能していない。たとえば名作「ダナエ Danaë」(1907-08)の構想を助けたと言われる下絵数点と完成品とを見比べてみれば、クリムトが人間の本源にある生殖の哀しみを刻印しているのが分かる。
完成作にて黄金の雨となって降りそそぐ雄雄しき大神は、おんなの足の間に無数の滴(しずく)となって滑り込み、股の付け根に至って方角を急に変えている。この角度は性器の具体的な位置と構造を踏まえている。素描のなかにも当然ながらそれは顔を覗かしており、性愛がもたらす愉悦だけでなく、懐胎へと雪崩れ込んで以降に私たちを長々と縛る局面から目をそむけていない。
ダナエの人生が苦難の旅路であったことを画家は当然承知の上で描いているのであって、妊娠と出産という重責、そこから派生する運命の転換を現実に則した重たいものとして認識し、これを鑑賞者に想起させようと躍起になっている。おまえの半生はこの瞬間に決まったぞ、もはや逃れられないぞ、覚悟は出来ているか。おんなの夢見心地の表情は溶け落ちそうに甘いのだけど、その分ひどく淋しくこころを打つ。
画家の透徹したまなざしは好色の次元に止まらず、存在をめぐる総体へと注がれ、執深く、けれど諦観にもひどく苛まれながら切々と霙(みぞれ)のようになって素肌の上へと降り積もっている。石井隆がおんなに向けるまなざしとは、人間を描くということは、多分これにきわめて近接していると想像を廻らしていて、自分の中ではそんなに間違っていない気がするのだ。
性愛を避けて人間を描くことは最初から責任を半ば放棄し、中途半端なものしか作らないと公言するに等しい。我々がこころを寄せるものは等身大の鏡像じゃないのか。トリミングやマスキングばかり巧妙な加工画像は、最終的に飽きられ捨てられるだろう。全部を描く、逃げないで全てを描く、その覚悟に裏打ちされた圧倒的な模写だけが鏡となって囁き続けるのだ。そのような自覚を持って石井は私たちの物語をつむいで来た、と自分なりに解釈している。
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