所用で遠出する際は、近在の寺社や遺跡の場処を下調べしておいて時間調整に利用する。靴を汚さぬよう、転んで尻餅をつかぬように気は遣うけれど、緑深い参道を歩くと精気を分けてもらえて緊張がほぐれる。霊験あらたかな古刹(こさつ)じゃなく、人がほとんど立ち寄らないところの方が好い。なるたけ保存の手が加わっておらず、古びる一方の物だとなお嬉しい。
過日訪れた丘の上の社(やしろ)も、だから人気がなく、へびやハチもまだ活動しておらず、まったくの独り占め状態だった。辺りには白い野生の辛夷(こぶし)が群生していて、肉厚のたっぷりした花びらがいかにも爛熟した装いとなっている。こんなに大振りの花だったろうか。そうか、急斜面を登っていく途中に点々と生えているから、枝先や花が思いがけず目の前に迫るのだ。抑えきれない淫靡さをにじませ、開花の際にぱっこりぱこりという乾いた音でも出すのじゃなかろうかなんて余計な想像をさせる大きさだった。
建屋の内壁には江戸から明治に掲げられた絵馬が並んでおり、素朴な筆致や構図に見惚れた。半畳ぐらいの裁縫図絵馬が二枚並んでいて、華やいだ空気を放っている。裁縫図絵馬はこの辺りの寺社ではよく見かける物だ。ささやかな願いの成就を求めて古来よりひとは絵馬を掲げてきたけれど、昔はどの家庭も地味な暮らしをしていたから自ずと祈りの質にも量にも上限があったように思う。今なら趣味や習い事が星のごとくあるが、往時の女性は裁縫教室に通うぐらいしか選択肢はなかったし、ほかに知的好奇心や欲望を充足させる場処や職業が見当たらなかった。裁縫の上達を神仏に祈るという現在ではとても考えられぬ慎ましい願いが、漁り火みたいにちらちらと寄り添って描かれていた。
プリント倶楽部も自撮りして世間に知らしめるソーシャルネットワークサービスも無い時代である。それどころか人生のうちに写真に撮られる機会が何度もはめぐって来ない、そんな人生が大概だった。目鼻立ちを詳細に写し取られたものでない、どちらかといえば型にはめられ単純化された描線ではあっても、自分が極彩色で大画面の板絵のなかに取り込まれることは眩(まばゆ)い快感があって身体の芯を明々と貫いたことだろう。衆人の視線を集めて、どうにも火照って仕方なかったのじゃあるまいか。
それにしても実在した人物をモデルとした絵馬を面前にすると、淋しいというか、湿った土くれを触っている瞬間にも似た丸みのある諦観に胸を満たされる。かれらは一人残らずこの世から消えてしまい、絵馬のなかの微笑みだけが残響のように在りつづける。肉体的苦痛や慙愧にさいなまれた顔ではなく、一所懸命に、しかし端然として、わずかに微笑んだだけの穏やかな顔貌がこの世に焼付けられている。ある意味で生の理想像かもしれないな、こんな風に生き切ることが出来たならどんなに素敵だろうな、と彼女らにならってちょっとだけ口角を上げてみたりする。
午後の陽射しが飛び込み、反射して明るくなった堂内の壁に裁縫図のおんなたちが浮き上がるのとちょうど向き合うようにして、薄墨の影のなかに一枚の小ぶりの絵馬が視止められ、今度はそちらの顔立ちに好奇心がからめ取られる。黒い額の中に一組の人物が向き合うように描かれているのだが、その顔がどちらも白く染まっている、と言うより溶けている。白絵具だけが経年により変質し、じんわりと流れ落ちて表情を奪うということがあるものだろうか。ドリアングレイじゃあるまいし、一体これはどうした現象だろう。
醜いといえば醜い様相ながら不思議と清らかなものを感じる。フォーヴィスムの画家の作品に磔刑されたキリストを描いたものがあって、それが思い出された。宗教画のモティーフとしてはありきたりであるし、この画家も似た構図のものを大量生産しているのだけれど、私が目にした磔刑図は中央の聖者だけでなく、両側に控えて見上げたり深くうなだれる者たちも顔の部分が絵具でべったり覆われていて表情が読み取れない。未完成品という話もあるが三人揃って表情が失われた分、なにか理性の枠を越えた凄みというか奥行き、陰影がそなわって瞳を捕らえて離さない。あの西洋画とこの絵馬には同等の妖しさと聖域を主張する力がそなわっている。(*1)
背伸びして再度絵馬に目を凝らせば、左側に立つのは若い婦人であり、着物の胸をはだけて乳房をむき出しにし、さらに手を添えて相手の顔に尖った乳首を差し出しているではないか。先にある人物の顔がやはり白く溶けているのだけど、なんだかおびただしい射乳によって顔面がすっかり濡れたように見えてきて、いけない物を垣間見てしまったような、後ろめたさと昂揚が同居する妙な気持ちの具合に今度はなった。
出産して間もない女性と交わり、とろとろと生温かい乳にまみれた時間を過ごした体験もなければ願望も私のなかにはなく、想像するだけで頭が混乱して整理がつかなくなるのだけど、世の中には性交渉で重ね合わせる胸板をだらだらに濡らしながら相手と溶け合いたいと恋うる人もいるだろう。そんな奴はこの世にいない、いたら異常者だと貴方は笑うだろうか。
酒宴に招かれて末席に座ることが誰でもあると思うが、酒量が増すとともにいつしか人はそろって陽気になり、他人の性的嗜好を酒の肴にするようになる。異端とか変態とかの言葉で断罪する人が出てくるが、あれは聞いていてちょっと苦しい気分になる。視野狭窄もよいところであって、自身の嗜好だけを正常と捉えているところがやや偏頗(けんぱ)と感じる。人間の性愛には一定の形はなく、無限の嗜好がある。互いのそれが合致したカップルには至高の時間が、不一致の彼らには苦悩が待ち受けるというだけの事だろう。乳を浴びるなり口に含むことで束の間の充実を得る恋人たちが世にいても、それは一向に構わないし、かえって人間らしい姿のようで微笑ましいと私は思う。そもそもが性愛とは一種の融合現象だから、お湯や汗と親和性がある。不思議なことではないだろう。
つまり私は社に佇んでこの絵馬に聖的な雰囲気と性的なイメージを同時に連想し、脳裏にさまざまな妄想を描いて過ごしたのだった。もしかしたら絵馬内の射乳は快楽図でなんでもなくって、目にごみが入って難渋している旅人の救済を描いたのかもしれない。けれど、いずれにしても身体の一部を提供する女性の健気さと奇蹟を覗き見したような感覚があって面白く、小さなこの神社に足を運んで本当に良かったと思う。
さて、謎を謎のままにしておくのも気持ちが悪いので今頃になって入念に調べてみれば、この絵馬は著名な中国の説話集「二十四孝(にじゅうしこう)」のひとつ、「唐夫人(とうふじん)」を描いたものと分かった。年老いて歯を失い十分に栄養を摂ることが出来なくなった姑のため、嫁が自分の乳を与えてその存命を図ったという故事である。なるほど言われてみれば乳房を与えられている側は細い肩で女性の骨格であり、また、背後には無邪気に笑う幼児も描かれている。
偉そうに何が性的嗜好、何が親和性か。若い母親と老女をめぐる自宅介護の話なのだった。私の完全な勘違いであり、無茶苦茶恥ずかしい。まったくおまえは救いようがないね、軽率なところを丸出しにして末代まで恥を晒すことになるんじゃないのと笑われそうだけど、そんな自分の幼稚な早とちりを開陳してもなんでも記憶を書き留めておこうと考えた次第である。
誰かに話してみたくもなったのだ。あの絵馬は聖なるものと卑俗なるものが同居して見え、あえかだけど忘れられない発光があった。
(*1):ジョルジュ・ルオー Georges Rouault 「十字架上のキリスト」 1935年頃
パナソニック汐留ミュージアム 所蔵
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