2018年8月5日日曜日

“やましさの片鱗なく”~隠しどころ~(3)


 出立予定の時刻まで間が空いたので、ワイシャツ姿でごろ寝して浮世絵研究家の林美一(はやしよしかず)の書いた物を読んだ。薄曇りながら夏の陽射しは健在で、シングルベッドは読書するには十分に白く明るかった。

 歌麿が艶本(えんぽん)で最初に登用されたのは、『花合瀬戀皆香美(はなあわせこいのみなかみ)』という題名の墨摺の本と書いてある。1780年のことだから、映画『歌麿 夢と知りせば』が描いた1788年よりかなり以前になる。娯楽作にけちをつけても仕方ないが、事実とはかなり段差があることがその点からも窺い知れる。

 『花合瀬戀皆香美』がどんな図案であったかは確認していないが、後の1786年に出された『艶本幾久の露(えほんきくのつゆ)』のなかの一枚が同じ本で紹介されていた。トリミングされて頭のてっぺんや足先を切り取られ、画面一杯で重なる男女の姿は清楚で品が良く、白黒の線がどこか後世の劇画に似通っても感じられて可笑しかった。素足をさらけ出したおんなに向かってむくむくと隆起した陽物が迫る様子は生命力が溢れており、当時の絵師の内部にみなぎる自信と相通ている。絵が悦んでいる、描くことの愉しさが伝わってくる。やましさの片鱗はどこにもなく、ただただ生きることの嬉しさで輝いている。

 どうやらこの絵師は性愛描写に抵抗がないばかりか、むしろ勇んでこれに臨んでいたのであって、それも前傾の姿勢のまま時間をかけて自家薬籠中の物にしたことが分かる。人間の陰部を丹念に線描することは当時まったくタブー視されてはいなかっただけでなく、一流の絵師の嗜みのひとつであった。交合の様子をちゃんと描けないではプロとは呼んではもらえなかったのだ。

 くだくだしく歌麿や春画について書き出したのを見て、こいつは鞍替えしたのか、いよいよ妄想は打ち止めかね、はいはいお疲れさまでした、と早合点される人もいるかもしれないが、白状すれば私のなかでは脱線も手のひら返しも起きてはおらず、相も変わらずに石井隆という作り手について考える時間が続いている。朦朧と思考する日々の果てにふと昔観た映画が思い浮かんだというだけであるし、そこに付随するようにして絵描きにとって人体描写とは何かを延々と考えている流れである。

 石井と歌麿とは確かに関係がない。余計なことを書き散らしてと𠮟られるかもしれないが、絵画美術の潮流や時代変遷と石井の技法なり戦術は連結して関わっているのであり、頬杖ついて頁をめくったりモニターに向かう孤絶した趣味嗜好の内側だけでは、作品の輪郭は摑めても作家の体内に宿る陰影にまでは触れられない気がする。

 ちょっとだけ真摯に向き合うべきなのだ。自身の回路を開放して追憶や慚悔(ざんかい)を差し出し、石井から贈られる景色と結びつけていく。息を潜めて頁やスクリーンを見守るうちに世界を観る角度が微調整なっていく。私は人と比べて何ごとにつけ経験値が低いから、古今東西の書物や絵画を引き寄せながら頭を整理していかないと言葉をつむぐ自信がない。束になってかからないと石井隆を語れない。

 さらに言い添えれば、まだ栗本薫(くりもとかおる)の小説「ナイトアンドデイ」(1982)について反芻(はんすう)し切っていないという気持ちがある。いや、そうじゃないな、「ナイトアンドデイ」の奇怪な物語展開を通じて石井隆をより深く掘り下げようと試みている気持ちだ。あんな無責任で乱暴な小説にもう心は引かれないが、なぜあんな風に彼女が脱線したかを考えている。

 栗本馬鹿じゃん、リサーチ不足じゃんと断罪するのは容易いが、あれは栗本のみの陥穴(おとしあな)ではなくって、私たちあの時代に生きた多くの日本人の過剰でいびつな倫理観が鏡像となって現われ出た瞬間じゃなかったか。小説中の誤った石井隆の黒いイメージとにらめっこしていると、日光写真のようにして本来の石井世界のまばゆいディテールが浮んでくる予感がある。

(*1):「別冊文藝春秋 161特別号」 文藝春秋 1982年10月1日発行
単行本 文藝春秋  1983年5月1日発行
文春文庫 文藝春秋  1986年8月25日発行
(:*2):引用画像の『艶本幾久の露』(1786)は「歌麿の謎 美人画と春画」 リチャード・レイン Richard Lane、林美一ほか共著  新潮社 2005 38頁より

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