2013年12月23日月曜日
“入獄の日月(にちげつ)”~『甘い鞭』の背景(5)~
視座をおんなの側から男へと移して、『甘い鞭』(2013)を眺め直すことも一興である。
『甘い鞭』で語り手は、誘拐犯である男の家族が不協和音を奏でている、いや、譜表(ふひょう)に終止線を引くようにして断絶した事実を明かすのだった。大石圭(おおいしけい)の原作(*1)でも、それは変わらない。家族の分裂と崩壊を招いた一因が自身の不甲斐なさ、能力の欠如にあると長男は捉えており、終始自責の念に襲われている。幾つか抜き書きしてみれば、男がどれ程の深傷を負っていたか解かるだろう。状況説明の域を越えている。くどくどとしく連なって木霊(こだま)を成し、執拗に物語を覆っていくのだった。
「かつて勤務医の夫妻が暮らしていた家で、数年前、母親が亡くなったあとは夫妻の長男がひとりで住んでいるはずだった。」(21-22)「勤務医だった彼の両親の仲はひどく悪く」[153]、長男は「3年連続で医大の試験に落ちてしまった。両親はひどく失望し、その直後に離婚した。」[173]「離婚によって夫が家を出て行き、残った妻が何年か前に病気で亡くなって」[106]いる。「外科の勤務医だった父が離婚によって家を出て行き、内科の勤務医だった母が病気で死んでから」[150-151]男は隣家の若い娘を誘拐し、地下室に監禁して自由にする邪まな夢を抱き、それを実行するのだったが、「眠るとすぐに夢を見た。もうとっくに死んだ母親の夢だった。」[372]
石井は上の文言を直接描写することなく、ナレーションにも極力盛り込まず、かどわかされた少女に角度と焦点を絞ったシンプルな構成としたのだったが、先の通りで地下室の荒廃ぶりは建屋の主(あるじ)の精神の座礁を如実に語るのだったし、劇中の幾つかの描写からはこの藤田赴夫(中野剛 なかのつよし)という男に関して石井が軽々しく捉えておらないどころか、実に丁寧に差配して劇への定着を図っているのが読み取れる。終幕で私たちは、ああ、この男は『ヌードの夜』(1993)の行方(なめかた)(根津甚八)と似た膨らみと色相を担わされている、と唐突に気付かされもするのだ。
何より中野剛という俳優の起用そのものが、石井隆という作家の柔らかな特性とまなざしを明瞭に示すのである。指こそ明瞭に差されてはいないが、『甘い鞭』をひも解く上で欠かせない最大の“異変”の横たわるのを見落としてはならない。
『甘い鞭』は誘拐と密室での監禁、終わりの見えない性暴力という陰惨なパーツを内包する劇であるから、「15歳の高校一年生」[19]であった被害者を演じ得る女優はそうそう見つからない。設定を17歳に底上げした上で20歳の壁を超えた間宮夕貴(まみやゆき)に演じさせて突破した訳だが、ならば対峙する藤田という男の年齢も多少のかさ上げなり“ぶれ”があっても構わない道理だ。されど、「30歳の無職の男」(22)をプロフィールに従えば40代中盤に差し掛かった中野が演ずることは、いかにも“不自然”な登用だろう。本来ならば、前作『フィギュアなあなた』(2013)の主人公を演じた柄本祐(えもとたすく)あたりを使って良いのだ。
武道で鍛え抜かれた中野の肢体はしなやかさと強靭さを纏い、実に見栄えのする外観を具えている。そこに惚れ込み、また、諸条件に照らして年齢には目をつぶったものだろうか。大石の原作の細かい部分を軽視して、結果的に「甘い鞭」という物語を石井は改悪したものだろうか。私たちは原作を同じく持つ『花と蛇』(2004)の“不自然さ”をここで思い返すべきだろう。あれだって原作では50代の田代一平が、映画では95歳という異常な設定となっていたではないか。
私見ではあるが、原作から映画『花と蛇』へ移行するにあたって生じた40余歳という段差は、連載が開始された昭和37年(1962)当時から映画公開までの歳月を計算し、加算したものだ。“未完”の原作世界が今もずるずると続いていたら、あの誘拐犯はどうなっているかしら、という一点から発想を膨らませている。石井は原作への献辞の意を込めると共に、人が人に執着することの陶酔、情欲の奈落、恋慕の地獄を語っている。
上梓されて数年しか経っていない大石の「甘い鞭」の場合、もちろん意味合いは違ってくるのだが、深慮が働いて地平が捩じ曲げられたのは違いない。「3年連続で医大の試験に落ちて、両親はその直後に離婚し」、「残った母が何年か前に病気で亡くなって」しまい、気付けば「30歳の無職」の身になっているのでなくって、なんと映画での藤田という男は40代の中盤まで幽閉に等しい酷(むご)い扱いを受けていた訳である。原作の時間軸は創り手のまなざしに応えて一気に軟らかさを増し、引き伸ばされ、十年以上の空白の歳月が真っ赤な口を開いて男を呑み込んでいる。
(だからこそ地下室は黒かびに覆い尽くされもしたのだ。だからこそ、貯金は底を尽き、原作にはいた家政婦も存在感を消し、娘のために差し出した一個の林檎も貧相な安物となったのだ。季節外れとはいえ、あんな果物を買い求めるしかなかった男の懐具合は推して知るべしだろう。籠城に限界が迫り来ている。)
脱出の際に男を殺めてしまったことで17歳の奈緒子は呪縛され、家族はそれをきっかけに崩壊し、15年もの間ずっと迷走を続けている。背中や尻を何ら事情を知らぬ倶楽部の客に鞭打たせ、その中で自問自答して過ごすのだったが、その歳月と同じ厚みと長さの時間“15年もの間”が石井の手により藤田という男に付与され、彼を記憶に縛り付け、傷めつけている。修羅の坩堝(るつぼ)に蹴落とされたのは奈緒子というおんなだけでなくって、藤田も同様なのだった。どちらかと言えば添え物に近かった冷徹な男は息を吹き返して、“取り残された地獄”を延延と味わうのである。(壁の傷は母親の介護と死に耐え切れず、男が黙々と狂気の瞳で穿ったものではなかったか。その幻影を透視し得たとき、物語全体の色相は本来の石井らしいメロドラマへと転じるのではないか。)(*2)
ひとを殺めて(ひとを失って)、15年近い年数を経てもなお幽閉は続いていく。もしかしたら自身の心拍が停止するまで喪失感は霞むことなく、ありありと遠い記憶は再現されて頭と心を責め苛むのではないか。人の誰もを“別れ”が襲うが、切れ目なくその後に連なる“入獄”の厳しさをこそ『甘い鞭』は訴えて見える。
(*1):「甘い鞭」 大石圭 角川ホラー文庫 2009 括弧内は引用頁数
(*2):地下室を支点として両翼に、ひとりのおんなとひとりの男は同等の比重で配置された。名美と村木にも似た内実をようやく蓄え、互いをどこか似た者同士と視止め合い、石井世界らしい微妙な間合いを形成するのだった。
2013年12月19日木曜日
“亀裂の向こう側”~『甘い鞭』の背景(4)~
内藤昭(ないとうあきら)は大映の中軸を担った美術監督であるが、自身の仕事を総覧するインタビュウ本で次のような発言をしている。「リアルだけで作ってもしょうがない。ある観念上のポイントを見つけなきゃいけない。ポイントというのは雑多なリアルなものの中で何を核にするかを見つけるということでね。一見リアルに見えながら、観念的な要素が入っているとか、観念的でありながらリアリティがあるとか、両方ですね。」(*1)
石井作品の背景とは、まさにこの一点を際立たせたものだ。リアルと観念の境界に築かれ、蜃気楼さながらにゆらめいては観客のまなざしを屈折させていく。また別の瞬間には霧となって澱(よど)み、本来在るべきものを視界から隠していく。不穏さと甘美さが入り混じった悪夢的な気性を具えている。
『甘い鞭』(2013)の地下空間やひび割れは、上の内藤の言を借りれば脚本の“ポイント”なり“核”をスタッフが咀嚼し、腹におさめ、血肉に育てて観客に示した物だ。深思(しんし)に値する舞台と思う。気持ちをもう少しだけ馳せたいし、そこまで拘泥しなければ往々にして石井の劇の肝となる“見えざる場処”へと到達することは難しい、とも考える。
少女(間宮夕貴)が引きずり込まれた際に、既に地下室の壁には異常がはっきりと見止められるのだった。十五年後には、それが壇蜜演じる主人公に憑依した夢魔のごとき物であるにせよ、崩壊が進んで漏水さえ起きている。ひび割れが側壁を貫通する程も生成なって、建築物として危険な水域に入ったことを暗に告げているのであったが、劇の当初からどう見ても“不自然”で硬い面持ちのへこみ様なのであった。一体全体、いかなる経緯をたどって“あれ”は産まれたものだろう。
想像力を働かせた末に浮上するのは、以下の三通りの景色である。
1.建設に当たって施主が設計を無視して、あのような亀裂を強引に作らせたのではないか。刀傷(かたなきず)を模したか、それとも女陰なのかは判らないが、奇妙でかさばる木型をあつらえ、枠板(わくいた)の向こうに打ちつけ、コンクリートを流し込み、養生(ようじょう)の後で壁から型を抜き取って完成させた特殊な“装飾”じゃなかったのか。側壁の厚みが全く不足しており、周辺土壌からの漏水が始まってしまう。装飾だったものは、いつしか本物の亀裂へと育っていく。
2.斜め方向に走っている事から、あれは“剪断(せんだん)ひび割れ”が元々あの位置に生じたものと推察される。建屋全体の荷重を支え切れなかったものか、それとも地滑りのような外部からの大きな圧力によって壁面に剪断(せんだん)力が作用したのだった。損傷や漏水が危惧され、湿潤型のエキポシ樹脂や超微粒子セメントなどで早々に塞ぐつもりだったのだろう、ひび割れに沿って劣化したコンクリートの表面をU字型にえぐり取ったのがあの異様なへこみであった。いよいよ充填材を詰め込む段になって何故か作業が中断してしまい、勢いを得た漏水は鉄骨とコンクリート素材を次々に劣化と膨張に追い込み、亀裂を押し拡げて行ったのではなかったか。
3.それ程重大な異変が生じていなかった壁面に対し、何者かの手により穴が穿(うが)たれていったのではないか。がつがつと壁を貫通するまで掘り進められてしまい、当然ながら漏水を招き、亀裂の幅と深さが拡がっていったのではなかったか。
いずれも身勝手な妄想に過ぎないが、仮定されるそれぞれの景色には共通点がある。「破壊」へと雪崩れ込む力だ。圧が高まり破裂寸前となった「狂おしさ、猛々しさ」だ。1.で思い描かれるのは戸主の常軌を逸した行動、内在する暴力志向、同居人を拒絶する暗黒願望といったもので、自身と家庭を内側から崩していく。2.で思い描かれるのは建物をねじ曲げ、ぺしゃんこにしようとする運命の潜在的且つ不可避な力である。住まう人間の心も身体も当然潰されていく。3.で思い描かれるのは孤立した魂が崩壊の際に発する雄叫びである。どれが正しいとか間違いではなくって、どれもが同じ色調で染め抜かれている点がここでは大事だろう。家屋と家庭の崩壊しつつあることを訴え、固く集束するところがある。
私たちは荒んだ監禁部屋を被害者であるおんな(檀蜜、間宮夕貴)の胸奥に居座る洞窟と捉えがちであるのだが、こうして考えてみれば誘拐犯である男の心象風景としても十分に成り立つ訳である。おんなの側から男側へと視座を移動して、『甘い鞭』という物語を眺め直す時間に私たちは踏み入っていかねばならない。
(*1):「映画美術の情念」 内藤昭 聞き手・東陽一 リトル・モア 1992 102頁
参考書籍:「徹底指南 ひび割れのないコンクリートのつくり方」 岩瀬文夫 岩瀬泰己 日経BP 2008、「長寿命化時代のコンクリート補修講座」 日経BP社 2010、「図解 コンクリートがわかる本」 永井達也 日本実業出版社 2002 「コンクリート技術用語辞典」 依田彰彦 彰国社 2007
2013年12月14日土曜日
“在り続ける場処”~『甘い鞭』の背景(3)~
石井隆は小説「甘い鞭」の映画化にあたって、“快適さ”の徹底的な排除に努めた。舞台となる地下室を無明の地獄に変えるために、石井と彼のスタッフは全方位に目を配り尽力したのだった。壁を“黒かび”だらけにし、“食べもの”をほとんど与えず、口にふくんだ“おじや”すら少女に嘔吐させ、鎖を付けて閉じ込め、歩行を制限し、湯浴みを禁じ、モニター脇に積み上げられたテープは笑いを誘うコメディ映画ではなく、暴行の顛末を写し取った無残この上ないものだった。
ひときわ目をひく巨大な“ひび割れ”も、多分不快感を煽る目的から登用されたのだろう。原作の青年も映画での誘拐犯も体調を崩して悪寒に震える娘に果物を擂(す)ってその汁を与えたりするのだったが、大きく“ひび”の走った映画『甘い鞭』(2013)での壁は暴力的な印象をどこまでも強めて、男が発するかいがいしさや優しさを見止める心の流れを堰き止めるのだった。所詮は子供じみた偏愛じゃないか、捕えた虫を金魚鉢やプラスチックケースに押し込める行為、つまりはひと夏に限って愛でる程度の“飼い殺し”に過ぎない、と娘は勘付いたろうし、私たち観客にもそう予感させ導く力があの“ひび”の凶悪な面相にはあった。
ウェブおよび誌面での論評では、女陰を形づくったものとの見方が多い。なるほど、歳月を経て横幅をひろげ奥行きも増している。崩れた部分はわさわさした細かい“ひだ”を生成しているし、地下水が滲(し)み出てじゅわんと湿った面持ちは確かに熟(う)れた女陰そのものであったから、丹念に模したものであることは否定しようがない。
旬のおんなふたりを銀幕に引き込み、素裸にするエロティックな作品である。淫靡さや猥雑さをとことん匂わす仕掛けとして彫りこまれた面もあったろうが、十代の奈緒子(間宮夕貴)から三十代の奈緒子(壇蜜)への身体変化に呼応して壁の亀裂が“不自然に変貌した”ことは、現実と魂の境界を曖昧にし、分離と融合を繰り返す石井隆らしい背景描写と言えるだろう。破壊的な印象と官能的な面影を同居させる荒技(あらわざ)も石井らしいものであって、その勢いのある仕事ぶりにはただただ舌を巻くばかりだ。
さて、この亀裂はさらに沢山の事を私たちに囁くように思う。穴が深まりひだひだが拡大しているのは空気中の酸素や塩素イオンが内部に浸透して、鉄筋などの鋼材の表面に届き、腐食し膨張すると共にコンクリート素材もまた膨張して剥離を起こしている事を表現している。血なまぐさい事件の発生から経過してしまった十五年という長い年数を、浸食が進んで傷口を広げた壁は雄弁に語ってみせる訳なのだが、よくよく考えればこれもまた“不自然”なことなのだ。
私たちの国民性に限ったことではないかもしれないが、災いが身近に降りかかった際にその場処を清め、はたまた排除することに対して人は如才なく、実に迅速に動くものである。私の住まうところから歩いて五分もかからぬ住宅で火事があり、ふたりの幼子が可哀想に亡くなっている。半焼した建物は程なく解体処分され、無愛想な更地となって新たな利用者を待つようになり、確かそれから二年程を経て県外から来たらしい若い夫婦に買われたのではなかったか。今その前を通るとこじんまりした柔らかな風合の家が建っており、家庭の放つ暖かな波動をこちらに返して来る。こんな田舎町ですらこの調子であるから、都会の一等地ではその“無かったことにする流れ”は押し止めることなど出来はしないだろう。
貪欲な商魂は禍(わざわい)にまみれた土地といえども躊躇せず、重機を押し込み、叩き砕き、掘り返して砂利を放り込み、平地にしてしまう。ほとぼりが冷めた頃を見計らって「売地」の看板が立てられ、不動産会社のネットワークに情報が駆け巡り、複数の買い手が現れて商談が重ねられ、やがてそのひとつが成立してしまうものだ。神主が呼ばれて祓(はら)い清められ、惨劇は遂に“無かったこと”になる。あの家だって、あの部屋だってそうなったはずである。
亀裂が拡がるだけでなく、天井付近には蜘蛛が巣を張っているのが認められる十五年後の荒廃を極めた監禁部屋というものは、だから“物語上の光景”として有り得ないものではなかったか。漏水によって濡れた女陰状の“ひび”であったが、よくよく目を凝らせばこれも“不自然”な感じを与えていて、それはその艶(つや)に起因するのだった。コンクリート中の水酸化カルシウムが水とともに表面に溶け出し、空気中の炭酸ガスと化合して白華(エフロレッセンス)と呼ぶ白い結晶が生成されるものだが、それが一切見当たらない。現実感が微妙に損なわれている。
存在するとすれば、それは主人公の内部にしかない。十五年の歳月を経て、さらに凶々(まがまが)しさを増長させた部屋が奈緒子というおんなの心に“だけ”、くっきりと像を成して在り続けていることを石井は教えているのである。私たちは着地点を見い出せずに浮遊し続ける被害者の内側にいつしか獲り込まれて、その魂の諸相に直に触れている。人が人を傷付ること、殺めることを“無かったことになど出来るはずがない”という石井の人生観と性犯罪に対する妥協ない憎悪が刻まれた秀抜なカットであったと捉えている。
2013年12月3日火曜日
“嚥下し得ぬもの”~『甘い鞭』の背景(2)~
大石圭(おおいしけい)の原作小説と石井隆の手になる映画最新作。両者の間には当然ながら、異相がいくつも見つかるのだった。中でも興味を覚えたものは“食物”をめぐる描写である。小説と比して石井の脚本では、登場回数が極端にしぼり込まれていた。
上映時間の制約で泣く泣く割愛したものだろうか。まさか、そんなはずはなかろう。刃先を入れ、皿に盛られて食卓に供されたものだけを私たちは観ているのであって、取捨選択の道程では石井独自のまなざしが注がれ、意味あって今の姿に落ち着いたはずなのだ。ナプキンを置きテーブルを離れ、思い切って厨房を覗いてみよう。まな板脇に取り残された食材にこそ、私たちは目を凝らす必要がありはしないか、そこまでしてようやくこの『甘い鞭』(2013)を存分に食したことになりはしないか。シェフ役の石井の手腕を推しはかるには、そんな無作法も時に大事かと思う。
一ヶ月間に渡る監禁生活を描く上で、大石は実に多彩な“食べたいもの”を少女の元へと運ぶのだった。先日と同様に単行本「甘い鞭」第15版(*1)から引いていくと、「男は毎日、朝と夜に、トレイに載せた食事を地下室に運んで来た。朝はいつもトーストと、たくさんの野菜が入った透き通ったスープ、それにバナナやパイナップルなどの果物だった。夜はたいてい、男の手作りの料理だった」[172]とまず説明が為される。食材のテクスチャーが口腔に再現され、これだけでも膨満感を抱かせるのに十分だ。
続いて作者は夕食について、その具体名を次々に連ねて読者の鼻腔と胃袋を刺激する。「鰻重(うなじゅう)」[172]、「握り寿司」[同]、「とんかつ」[同]、「餃子(ギョーザ)と焼売(シューマイ)」[同]、「八宝菜」[245]、「ビーフシチュー」[246]、「石川精肉店のいちばん高いお肉」の「ステーキ」[267]、「冷たい(飲み)物」と「ポテトチップやポップコーン」[269]、「コーラ」[291]。客人をもてなす饗膳(きょうぜん)に等しい、過ぎた量目とカロリーになっている。少女が風邪をひいた際には、病人食が準備されもした。「擦り下ろしたリンゴをガーゼで絞り、その果汁をスプーンでわたしの口に運んだ。それはヒリヒリと喉に染みたけれど、よく冷えていて、とてもおいしかった。」[316]
“とてもおいしかった”と、少女は思ったのである。日毎夜毎に繰り返される性暴力に満身創痍となりながら、驚いたことに“とてもおいしい”という感覚が湧き起こるのだった。いつしか細い身体の奥の方で、それはそれ、これはこれ、と男の言動がふるい分けられていくのが何とも不思議である。この手の事件にも小説にも決して明るくはないのだが、何冊かのレイプ被害を主題とするノンフィクションは読んでいる。以来、被害者の慟哭と怨嗟、そして底無しの惨痛(さんつう)とがゆらゆらと自分の周りを浮遊し続けてどうにも振り払えずにいて、それに照らせば、“よく冷えていて、とてもおいしかった”という「甘い鞭」の独白はずいぶんと呑気に感じられたものだった。
あまつさえ原作では「少女のために映画やドラマやアニメのビデオ」が「たくさん借りて」[270]来られ、「音楽のCDもせっせと買い与え」[同]られるのだし、「家の中を毎日、散歩したいという少女の要求にも応じたし」[同]、「とても広くて、とても清潔」、「湯船もとても大きかったから、両脚をいっぱいに伸ばして湯に漬かることができた」[307]、そんな「浴室で入浴したいという要求にも応じた」[270]ことにより、最終的には「確かに不自由ではあったけれど、あの地下室で、わたしは観たいテレビやビデオを観、聴きたい音楽を聴き、読みたい雑誌や本やマンガを読み、食べたいものを食べ、眠りたいだけ眠り、性交の相手を務める以外には何もしないでいられた」[275]とまで、十五年後のおんなに述懐させてしまう。
「観ていた映画がとてもバカバカしいコメディ」[330]で少女は“笑い声”さえ立てるのである。そうして、「甲斐甲斐しく掃除を続ける男の姿を眺めているうちに、さっきまでわたしの中に燃え盛っていた怒りと憎しみは、夏の朝の霧のように急速に薄れていった」[422]とまで言わせている。
もちろん人の感情は複雑に入り組んだものであって、色画用紙のように平坦でもなければ単色でもない。たとえば先の震災で電気が完全に絶たれてしまったあの夜、空を埋め尽くした星々を見て美しく感じなかった人はおらないだろう。考えてみれば酷い話ではないか。何千もの命が波にさらわれたのだ。親しい者の名を声を限りに叫んでは夜通し歩いた人だっていたろうに、一時とはいえそれを忘れ、わたしは天河(てんが)を振り仰いでしまった。あの輝きに見惚れてしまった。
胸の奥に多面体の魂を潜ませて共に歩む以上、時には紋切り型の反応とは違う、思いもよらぬ反射光をぎらつかせるのが人間だろうから、「甘い鞭」の原作世界で十五歳の少女が“とてもおいしかった”、“怒りと憎しみは霧散した”と語ったとしても、それを否定する術(すべ)を私たちは持たない。そういう事もあったかもしれないと目線を落とし、言に向けて掌(てのひら)を差し出すしか道はない。そもそも小説家という職業は、紋切り型の思考に囚われた読者にむけて予想を超えた筋や台詞をひり出して吃驚させる役回りであるから、この奇妙な回想だって実は作為的な混沌なり脱線である可能性が大いにある。いちいち考えては切りがないだろう。
が、けれども、それをバトンリレーされた石井隆は果たしてどう受け止めたものだろう。残酷な性暴力の時間を最終的に享受してしまう少女にならい、自らもそれはそれ、これはこれと考え、混沌もろとも物語を嚥下(えんげ)して見せただろうか。
高熱を発した末に「卵を溶き入れた熱いおじや」[316]を「母親から離乳食を与えられる子供のように、口の中に入れられ」[317]、それを呑み込んでいくのが原作の少女であったが、石井は少女役の間宮夕貴(まみやゆき)に対し、自身の細い指を口奥に突っ込み、上舌(うわじた)を強く刺激して呑みかけのおじやを嘔吐し、それを吐き散らすという無残この上ない演技を振ってみせたのだった。
脱出の機会をうかがう少女が武器を入手する目的で為した捨て身の演技、という伏線が張られていたにせよ、原作で給された山盛りの“食べもの”のほとんど全てを捨て去り、わずかに選ばれたものすら一瞬後には吐瀉物に変えて押し返してみせた石井の演出と映画『甘い鞭』での奈緒子の造形には、明確な意志が添えられている。
“食べもの”程度では人の罪はぬぐえるものではなく、隔たった魂の距離が縮まるはずはない。怒りと憎しみがそんなもので霧散などされてたまるものか、という石井らしい頑なな倫理観が噴出した瞬間だった。サボタージュの一環であるから、指を突っ込む少女は誘拐犯に対して背を向けており、銀幕越しにこちらに向かって、つまりは私たち観客に向けて嘔吐は実行されている。劇中の犯人への抵抗の意を示すに止まらず、苛烈きわまる飛沫(しぶき)をもろに浴びせ掛けることにより、強姦劇の顛末を興味本位で見守る私たち男の馬鹿げた夢想の芽をも、石井は叩き潰そうとして見える。
(*1):「甘い鞭」 大石圭 角川ホラー文庫 2009 括弧内は引用頁数
2013年11月29日金曜日
“壁にうごめくもの”~『甘い鞭』の背景(1)~
人物の台詞なり姿態だけでなく、同等の存在感を示して“背景”が語りかけて来る。石井隆の創作劇を貫くその特徴は、当然ながら最新作である『甘い鞭』(2013)にも視とめることが出来る。大石圭(おおいしけい)の同名原作を読むとその事がよく解かるから、映画を見て興味を覚えた人は是が非でも単行本を入手してもらい、風呂にでも浸かりながらひとり耽読するのが良いように思われる。
思われるのだけれど、皆の読了するのをのんびりと待ち構えるゆとりが今の私には全然なくって、原作者には大変申し訳ないのだが、このまま勢いを弛めずに筆を走らせようと思う。ざわつく胸を一刻も早く落ち着かせたい、正直言えばそんなところがある。
(注意/物語の結末に触れています。)これから具体的に引用していくが、原拠は平成25年10月15日発行の15版である。(*1) 改めて購入し直したものだ。以前買ったものは蔵書の奥に埋もれてしまい、どこに行ったか皆目分からない。括弧[ ]内の数字は頁数を表わしている。
映画は現在と十五年前の記憶がカットバックする構成をとっており、それは大石の原作もほぼ同様である。少女が男に誘拐され、一ヶ月に渡って監禁される。性行為を強要され続けた末に犯人を殺害して脱出するが、出迎えた家族の反応には硬く冷えたものがあり、それがしこりとなって少女の心を侵し、長じて医師となったおんなの人生に妖しい影を落としていく、という内容だった。
少女が閉じ込められた場処は「かつては男の父親だった勤務医がクラシック音楽を聴くために造らせた、防音整備の行き置いたものだった。だが、少女が連れ込まれた時には、窓のないその部屋は音楽室ではなく、座敷牢(ろう)のようになっていた」[23]のであるが、この部屋の色調が大石の原作と石井の映画ではひどく段差のあることを、私たちはまず何よりも強く意識せねばなるまい。原作者はこの部屋を“白い部屋”として設定し、その色をくどいほど強調していたのだった。
「真っ白な天井と真っ白な壁と真っ白な床に囲まれたその部屋は、和室に換算すれば10畳か、12畳ほどの広さなのだろう。それほど高くない天井に埋め込まれたいくつかの照明灯が、部屋全体をまんべんなく、柔らかく照らしている」[68]のだったし、「真っ白な天井と真っ白な壁と真っ白な床とに囲まれたその部屋には、窓がひとつもない」[69]のだった。少女が「あの真っ白な地下室に閉じ込められていたのは約1ヶ月」[170]で、十五年後の現在から振り返るおんなが「自慰の時に思い浮かべるのは、いつもあの真っ白な地下室であの男に犯されている自分の姿」[185]なのであった。「あの日、あの真っ白な地下室で、あの男はわたしの体に、いったい何度、あの皮製のベルトを振り下ろしただろう?」[400]と自問する日々がうねうねと続いていく。
「腹部にナイフを突き立てられた男は、両手でわたしの体を抱き締めるようにして何歩かふらふらと後ずさった。そして、背後にあった真っ白な壁に、背中を擦(こす)りつけるような姿勢で寄りかかった」[428]のだった。「床に崩れ落ちた男は、真っ白な壁に寄りかかるようにしたわたしを見上げていた。」[435]「そして……死んだ男を真っ白な地下室に残し、1ヶ月ぶりに自宅に戻るために、ゆっくりと」[440]立ち上がって少女は地上へ戻っていく。
このように少女と男の、二人だけの地下室というのは全体がぼうっと発光したようであり、床から壁、そして壁から天井と瞳を転じていくと各々の境が曖昧となって分からないようなまばゆい空間なのであった。70年代に作られたSF映画(*2)のなかに、真っ白で虚無的な無限空間の牢獄が描かれていた事を思い出したりするけれど、あそこまで人工的で荒唐無稽ではないにしても、小説「甘い鞭」の地下室というのは徹底して白く輝いた場処だった。
石井は映画『甘い鞭』において、この部屋の照明器具の数を極力減らしてしまい、終始暗く沈んだ調子で描いていくのであるが、それだけでは全然足らないと思ったものか、もやもやとした汚れでもって景色をさらにくすませている。ナレーションのおんなの声によれば、それは繁殖しまくりコロニーを次々に生み落とし、隙間無くひしめくに至った“黒かび”の群れなのであって、ベッドや簡易トイレ、オーディオセットなんかを起点として四方に放たれ、煮こごり状となって壁際に貼りついていく汚らしい影に加勢して、天井から床まで、どこも彼処(かしこ)も覆い尽くしているのだった。
工法に何か問題が潜んでいたものか、コンクリート打ちっぱなしの壁には稲妻のような亀裂が何本も走っている。その中のひとつはナイフによる裂傷にも似た巨大な縦の割れ目となって、私たちの目を否応なく射抜いてしまうのだったが、原作の地下室はどうであったかといえば、先の引用にあるような描写ばかりであって、欠陥住宅じみた壁のひびなど何処にも見当たらないのだった。防音を兼ねた断熱素材で覆われ、その上には染みひとつない上張りが為されて品良く温かく仕上げられている。そんなイメージをほとんどの読者が受け止めたはずである。
舞台で演じられる古典歌劇の大胆さ、奇抜さにも似て、“原作を持つ映画”を作ること、そして、観ることの醍醐味のひとつは意表を突く脚色や美術であろうから、地下室の明暗に関わるこの変調を悪戯にあげつらう行為は愚かしく目に映るかもしれない。何を言ってるのよ、原作は“ホラー文庫”の一冊じゃない、お化け屋敷の要領でしょ、観客をきゃーきゃー叫ばせたいだけよ。そう捉えるのが自然と感じる人が大半だろうが、石井隆という作家は“背景”と“前景”、ふたつ共に同等に重んじる画家である以上、事はそう単純ではないように思う。
結果的に犯罪映画にままある、つまり、拉致と監禁、隷属と暴行、終には殺戮の闘技場へと発展していく物語の舞台に似つかわしい“もの怖ろしい様相の部屋”に、『甘い鞭』の地下空間は準じていき、その事実に確かに変りはないのだが、それはステレオタイプの安易な妥協点に担当美術がすり寄った訳では決してないのだし、与えられた原作を石井がおどろおどろしい紙芝居にしてみせた訳でもない。石井はあの手この手を使い、原作を彩る“白さ”を拒絶する事に尽力している。それは何故なのか、単なる好みなのか、それとも、何かをそっと囁いているのか。
背景を丹念に凝視(みつ)めることが、石井の劇の深度と気圧を格段に増していく。それが結果的に、私たち観客のこころをより一層豊かなものにすると私は信じる。せわしい時間を縫いながら、粘り強く『甘い鞭』を考えてみたいと思う。
(*1):「甘い鞭」 大石圭 角川ホラー文庫 2009 平成25年10月15日 15版
(*2): THX 1138 監督・脚本 ジョージ・ルーカス 1971
2013年11月20日水曜日
“深淵を覗く者”
遅い時間に夕食をしながら、録画しておいたテレビ番組を眺めた。幼少時に親しんだ犯罪ドラマのリメイクで、懐かしさと好奇心が背中を押したのだった。けれど、これが予想以上に生々しい殺人描写の連続であり、陰惨な感じの筋運びと画面づくりにほとほと閉口した。閉口しながらも茶碗を置いて、しばし見惚れてしまった。
『深淵を覗く者』(*1)という題名であったのだが、登場する捜査員たちは死者の大量生産に嫌気が差しているのだったし、中のひとりは己の病的な探究心を持て余し、仕事も身体も何もかもを放擲(ほうてき)する寸前に追い込まれる。ぎりぎりで踏みとどまって生還を果たすものの、最後まで酷い“ぶれ”は続いていく。人の内奥で繰り返される異常な加圧と減圧が描かれていて、どこか石井隆の劇と通じる気配があった。
大団円の場に選ばれたのが、石井の『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)で重要な役割を担う代行屋(竹中直人)の、住居兼仕事場とそっくりであるのも面白かった。今は使われておらない人気(ひとけ)のない工場であり、壁にはくたびれた外階段が蔦(つた)の張り付くようにして伸びている。その先の最上階は、かつては代行屋の仮寓(かぐう)だった訳なのだが、今度は犯人の隠棲する危険な巣穴と設定されていた。思わず食事をやめて見入った理由としては、実際のところ、こちらの方が大きい。
そうして気付くのは、見捨てられて埃だらけの殺風景な部屋に、一方は無表情の犯罪者が居つき、夜な夜なおんなたちの殺害方法を試行錯誤するのに対し、石井の創った場処では寄る辺ない魂ふたつが出逢い、声を交わしてお互いを励ましていくのだったし、ついには身体を重ねる奇蹟さえ起きてしまう、その“柔和(やさし)さ”なのだった。
殺人鬼の部屋には、華やかな舞台から引きずり降ろされ、今は実験台となって日々焼かれ、切り刻まれていくマネキン人形が何体も淋しげに置かれてあったのに対し、石井の最近作『フィギュアなあなた』(2013)ではそんな用済みのマネキン人形を慈しみ、守ろう、救おうと奮闘する男が描かれていた、その事の“寂しさ、切なさ”なのであった。
逃げ場を失った犯人が怪光線を自らに向けて照射し、紅蓮の炎につつまれ死んでいったのに対し、石井の描く村木哲郎という、これもまた孤独な身の上の男は、寒々しい空間に置かれたテーブルにぽつねんと座り、涙ぐみながらも懸命に箸をあやつり、めしを口に運んでいった、その事の“強さと哀しさ”であった。
廃墟となったビルや工場をロケーション先に選んだ場合、大概の創り手は悪鬼なり外道が跳梁跋扈する伏魔殿に変えてしまうものだが、石井隆という男はその逆に、いや、そのような“背景”にこそ、邂逅と恋情、救済と復活といった明明(あかあか)とした生命の焔を持ち込もうする。“地際(じぎわ)に近接した目線”が、堕ちた人間をおだやかに見守っていて、本当に特別と思う。
冷えてしまった味噌汁の椀を唇に寄せ、のど奥に流し込みながら、石井の劇のこの世に存在することはつくづく有り難く、救われるような気がするのだった。
(*1):「怪奇大作戦 ミステリー・ファイル 第4話 深淵を覗く者」 脚本 小林弘利 演出 鶴田法男 美術 池谷仙克 2013
2013年11月14日木曜日
“森に溶ける”
当時連載ものを託された雑誌の、その編集部による膳立てなのだろう、被虐性愛に主題をすえた専門書籍でつとに知られた写真家杉浦則夫(すぎうらのりお)の作品集(*1)に、石井隆は一枚の絵と短文とを寄せていた。
面白いのは杉浦の特性を称(たた)えるために別の写真家を引き合いに出している点であり、それも一見場違いと思える相手を大胆に挿し挟むのだった。「けもの道 Animal Paths」(*2)という本を上梓したばかりの宮崎学(みやざきがく)がそれであった。少女やおんなを被写体に選んでぎりぎりの至近距離から凝視(みつ)め続ける杉浦の、体臭なり吐息が紙面から放散されるかのような本の末尾に、「けものみち」と題したもの(*3)をひょいと対置してみせる。石井という作家は、やはり目の付けどころが違うのだった。
読んでみると回りまわって書いた当人、石井自身の嗜好なり体質を露わにする箇所が認められ、実はこの事こそが特筆に価する点である。「山道に赤外線感知装置付きのカメラを設置して、深夜人知れず行き来するけものたち演技なしの道行きを、ストロボで写し止めた写真集である」のだが、「偶然が生んだ快感に似た何か」に包まれた本なのだと熱く語っていた。林道からそれて草むらに分け入り、「道行きの素顔」を見たいばかりに森のかなたへゆっくりと溶暗していく写真家の孤高、そして、彼が切り取ってみせた数々の景色に対して明らかに石井は共振して見える。
いや、単なる親近感を越えて、両者は表現者として歩み寄るように思う。 もちろん、宮崎のそれにはヒメネズミ、ニホンカモシカ、ノウサギ、テンといった動物ばかりが写されているのであって、人間はほとんど姿を見せない。気付かずにセンサーを横切ったのだろう、登山靴のいかつい足元だけが二葉ほど息抜き程度に紛れ込んでいるだけであるから、石井が追い求めてきたおんなのおの字も見当たらない訳なのだが、漂う気配は石井の劇画をどこか連想させるのだった。「ストロボで停止された雨の線が暗闇をバックに写ってい」たりして、端的にはその辺りが強く印象を刻みはするのだけれど、決してそればかりではない。
石井の撮った写真、たとえば「けもの道」と同時期に出された「石井隆写真集/ダークフィルム 名美を探して」(*4)の中から森や林を舞台にした画像を抜き取って両者を並べてみると、いよいよその感は強まっていくのだった。
「ダークフィルム」の末尾を飾る座談会で、同席した編集者が極めて重要な発言をしている。「石井さんは、場所設定の注文ばかりで、モデルをあの女がいいとか、名美に似てる女を、とか注文よこした事はなかったですね。湖のある山奥とか、廃屋とか、屋上とか……それも夜で、雨が降ってなければダメとか」(*5) ──これに対して石井は、「ヌードを撮りたかったわけじゃない。」「ポツンと放置されているイメージを、この世の果てといったイメージを撮りたかった」(*6)と返していた。
この会話ひとつからも石井隆の目指すもの、示されるものが“背景込み”であることが読み解けよう。宮崎の「けもの道」とも通底する点であるのだが、風景のパーツそれぞれが、同等に世界を支えていくのである。雨や土、草や枯葉といった“背景”と偶然そこにさ迷い入ったかと想像される“被写体”とが、同じ密度なり存在感をもって目前に迫る。互いに反撥したり拒絶することなく、より合わされて一体化していくのだったし、それら全体が私たちの内面をずぶずぶと侵していき、どうにも振り払い難い“ざわめき”を産み残していく。
作品が醸(かも)し出す凄み、緊張、その逆の安堵、法悦といったものが人物の面差しなり台詞のみで表現されるのではなくって、背後から、地べたから、変幻する天空から、陽射しから、視界の一部を遮る草からさえも穏やかに示されていく。
そういう独特の親密さ、もしくは騒々しさが石井世界には宿るように思う。
(*1):「早春譜 ヘイ!バディ12月号増刊 杉浦則夫写真集」 白夜書房 1980
(*2):「けもの道 Animal Paths」 宮崎学 共立出版 1979
(*3):“女のけものみち” 絵と文 石井隆
(*4):「石井隆写真集/ダークフィルム 名美を探して」 白夜書房 1980
(*5): 同「あとがきにかえて スタッフ一同お疲れサマ座談会」157─158頁
(*6): 同 158頁
2013年10月30日水曜日
“草むら”
作り手が石井隆の劇画作品に執心する余り、そのコマの“忠実なる再現者”となって頻出した時期がある。絵を生業(なりわい)とする者は盛んにトレースしていくのだったし、フィルムを回す者はナイトシーンの一端にそっくり採り込もうとした。幾つか例示することは可能なれど、ここでは後述する一冊をのぞいて言を控える。好きなものを模写したい、徹底して再現してみたいという気持ちは人間誰しもが抱える欲求だからだ。
撮影機材やモデルを揃えられる身であれば、私だって試したい。世間から隔絶されたホテルの小部屋などで、撮るものと撮られるもの、熱視(みつ)める者とすべてを晒す者となって石井の創って来たと同様の濃厚な時間を過ごしたいと願わないでもないのだが、機材はさておき、石井の描くおんなを捨て身で演じてくれる人はそうそう身近には居らないし、そもそもが臆病者ゆえ、生身の女性に話を振ること自体が端(はな)から無理な相談である。そんな体たらくなので、つまり私もまた石井作品の中毒者だからこそ、彼らがどのような狂熱をおびて石井劇画に挑んでいったか分かるのである。
背景と人物がとことん写実的で完璧に溶け合い、かちこちと秒針を刻むが如き擬似空間を湧出させるハイパーリアリズムの旗手“石井隆”の劇画を読み込むということは、そういう“なぞりたい、真似したい”という衝動なり欲望を懐胎するものだし、現実を侵食しかねない獰猛(どうもう)な行為に手を染める覚悟なり諦観が要る。
さて、石井の森や林は舞台設定上、どちらかと言えば“地獄”として劇中登用されている訳だけれど、狭い我が国土では北海道の針葉樹林なり沖縄の熱帯雨林にでも足を踏み入れない限り植物相は近似するから、ある意味、そこら中が石井作品の背景と化して機能し得るはずである。あの野辺もこの裏山も、たちまち石井隆の地獄になるのではないか。ところが、いざ林道を突き進み、木立の奥に分け入って周囲を眺めてみると、そこに石井の描くおんなや男の姿を幻視することがなかなか難しくなる。仮に想像し得たとしても、石井の紡ぐ劇の情調(じょうちょう)には遠く及ばない安手の印象を残すは必定で、この妙に乖離した気分なり現象については前回書いた通りである。
馬鹿、おまえが不甲斐なくってモデルを調達出来ないからじゃないか、と笑われそうだが、仮に劇中人物そっくりの女性の手を引いて来て立たせても状況はあまり変らないと考えられる。例えば「自選劇画集」(*1)の巻末で石井は一冊のポルノグラフィーを取り上げていた。これを入手して眺めてもらえば、私が言わんとする意味は掴めるであろう。
昭和54年(1979)とかなり以前に刷られた冊子であるし、時折ウェブのオークションで見かけはするものの中身が中身だけに大概の人は手に取ることは難しい。要点をかいつまんで紹介すれば、この表裏の表紙を含めて64頁の小冊子(*2)は二人のヌードモデルを起用した扇情目的の成人雑誌であるのだが、中盤の25頁あたりから石井の初期の短編劇画【淫画の戯れ】(1975)を丁寧に“模写”し始めるのだった。連絡船に乗って島に向かう劇画の展開を汲んで、実際にカメラ片手に海を渡って見せる入念さである。ストーリーラインを踏襲するという事に止まらず、石井の描いた絵、すなわち、おんなの姿態、表情、背景といったもの全ての再現を試みている。写し描かれたその数は、実に23コマに及んでいる。
石井の劇画が墨一色であるのに対し、模倣画像はカラー印刷であるからモデルの肌の発色もあざやかで、また、盗作の訴えを回避する言い訳か、多くの画像で右と左の向きがオリジナルとは異なっている。(*3) おそらくは石井の作品を左右反転なるよう複写(コピー)し、現場に携行していちいちの構図を決めたものと推察されるのだが、そんな違いはあるものの複数のほぼ同一の画像が絵物語風に配置され、架空の時間をかちこちと刻んで息づくことに変わりはない。これは石井劇画の再現のため、“そっくりの舞台に、名美そっくりの女性の手を引いて立たせた”ひとつの好例になっている訳である。(*4)
モデルの奮闘振りはいじましい。劇画のおんなのおきゃんな性格を表現しようと努めて、さまざまな顔を作り身体をくねらせる。こと切れて野に横たわる惨(むご)い姿さえも、終わり頃には果敢に模して見せるのだから大したものである。後年、石井の劇画作品は数多く映画化されていくが、それらを含めてもこの冊子の“再現をもくろむ意気込み”は突き貫けている。
こうして現世に再築された地獄絵図であるのだが、穴が開くほど凝視(みつ)め続けても不思議と切迫するものは湧いて来ないのだった。“草むら”を背景にして凶行直前の数秒間が写されている。海水浴場からやや離れた場処であり、近場にトイレが見当たらぬことから茂みの陰で屈んで用を足しているおんなである。カメラを持った男がそこを襲い、細い首筋に手が掛けていくのだったが、そこに【淫画の戯れ】とそっくりそのままの構図なり姿態は認めても、終ぞ“石井世界”は起動しない。
何が、どうして違うのだろう。首ひねらせながら考えていくと、擬音語が欠如していることや演技のつたなさ、ぞんざいなレイアウト等、幾つかの要因が数えられる訳なのだが、そのひとつに“背景との微妙な乖離”が見止められるように思う。感覚的な物言いとなってしまうが、完全なロケーション撮影であるにもかかわらず“人物と背景との一体感”が損われており、表層的でつまらないものに留まっている。
草葉は太陽に照らされて燃えゆらめき、生きていることの歓喜で膨張するものか、厚ぼったい印象を与えている。成長することと繁殖すること以外には余念が無く、当たり前と言えば当たり前なのだが、手前のおんなの生死にはひたすら無頓着である。この自然界の鉄則たる“独り立ち”は、しかし、石井世界の領内にあっては全く当たり前ではないのだ。おんなの肌と乖離したこの緑色の乱反射は、石井の背景に全然なっていないだけでなく、劇空間を未完成で貧弱なものに貶(おとし)めている。
三十年以上も前に刷られたもので奥付もない、いわゆる自販機本と呼ばれる猥褻な写真集を必死の形相で眺めている様は、他人の目からはさぞ不気味にも、また無意味にも映るであろうが、石井劇画、ひいては石井の映画を考察する上での“対照区”として面白い位置を占めているとわたしは捉えている。
(*1):「石井隆自選劇画集」 創樹社 1985
(*2):「事件白書シリーズ第1弾!! 密室現像 犯した!」 1979(推定)
(*3):いかにオリジナル作品を模したものかを可視化するため、引用画像の左右を反転して掲載しようかとも当初思ったが、そこまでしなくても模倣の徹底振りは理解できるだろう。
(*4): 石井とオリジナル作品を掲載した雑誌、および単行本の編集者とが連れ立って抗議に訪れ、決着がついた事を石井は「自選劇画集」に記している。既に終わった話である訳だし、石井自身が紹介している事から問題ないと判断して取り上げた。石井作品の信奉者である若い作り手がオリジナルへの愛情と実験的な野心を持って臨んだ珍作であり、往時の石井作品の人気の程を後世に伝える語り部ともなっている。
2013年10月24日木曜日
“林道”
先日の豪雨によって枯れ葉や土が斜面から流れ、びたびたとかさぶた状になって道を覆っている。にちゃりとした振動が背中にも伝わり、気色悪くて仕方がない。旅の友にと買い求めたコンパクトディスクの江守徹、それとも荻野目慶子だったか、さっきまで嬉しく聴いていた朗読はまるで耳に入らなくなり、苦しくなって停めてしまった。
こんな奥に樹齢八百年と言われる古木が在るのだろうか。ホテルのロビーにあったリーフレットでその存在を知り、一期一会の機会をもらったと信じて足を伸ばしたのだった。途中立ち寄った小さな駅の、番をしていた背の高い駅員はどこまでも先へ進めと言ったはずだが、ナビゲーションを操作して彼方へ、さらにその向こうへと地図をたぐってみても、それらしき印や文字は全然出て来ない。そもそもが教わった分岐点を見誤り、自分はとんでもない方向へと迷い入っているのじゃなかろうか。どうしよう、いよいよ道は狭くなる、あきらめて引き返そうか。
汗でぬめつく手で右へ左へとハンドルを切るうち、突然、朱色の鳥居が目に飛び込んで来た。どうやら辿り着けたのは良かったが、ああ、やっぱり、停まっている車は一台もなく、当然ながら辺りに人の気配はまるで無いのだ。安堵と不安がない交ぜになった溜息をつきながら、車外へと降り立つ。
小板で土留めしてあつらえた階段の、半ば朽ちかけ、落ち葉の堆積してざらついた様子から、最近参拝なり観光に訪れる者がいない事が察せられた。直ぐ間近で、ぎゃうぎゃうという異様な鳴き声を聞く。耳を澄ますと無限の木立を通し、微かに、ぎゃう、ぎゃうと吼えて答えるのが分かるから、鳥ではなくって野猿かもしれない。
こいつ一匹で来やがった、地上に這いつくばる馬鹿な奴、皆で襲って食ってやろうか、と、ひさしぶりに侵入した人間を樹上から監視しているだろう彼らの、群れてゆらゆらする影を想像すると恐怖が増すのだけれど、向き合った“神の木”の威容と妖しさはそれをねじ伏せ、忘れさせてくれるものはあった。恐るべき歳月を無心に、無欲に幹と根を伸ばしてここまで大きくなった、その存在感は強烈だった。飽かず眺め続け、柄にもなく祈りもした。何か願をかける気持ちはなくって、ただただ生命力に圧倒されて頭が下がるのだった。
前置きが長くなってしまったが、道中の不安を追い払う目的もあって私は窓越しに流れる森の景色と石井隆の劇画とを重ね見ようと努めたのだった。主にタナトス四部作と【魔樂】(1986)であったのだが、この現実の寒々とした林道を石井の描いて来た名美に代表されるおんながふらつき、または追っ手を逃れて駆けてくる情景を思い描いた。
が、どうしても上手くいかない。もわもわした草の茂りであるとか、男根や乳房のごとき瘤を抱いて佇立する樹木、空を覆って密生する枝葉などが頁の隅々まで丹念に描き込まれ、埋め尽くされたのが石井隆の森であるから、こうしてリアルな密度ある樹林に囲まれていると、確かにあの風景のようだ、あそこにそっくりだ、と感じられてくる。そこにおんなが配され、ふらふらと彷徨(さまよ)い出ることは、だから石井の世界をそっくり再現することになるはずなのだが、どこか味気なく、空疎でいんちき臭いものになってしまうのだった。
本州の最北端に位置する地域の、さらに集落から離れた場処だからか。主に新宿の裏通りに寓居(ぐうきょ)する石井のおんなが、夢に破れ、自傷する己自身を繰り返し幻視したあげくに疲労を極め、ついに薬の小瓶(びん)を握りしめてしまう。はたまた、投身するきっかけを探って歩み出してしまう。そんな彼女たちがこころ定める目標としては、あまりにも此処は遠く隔たっているのは確かである。その途方もない距離感が、私のなかの夢想を妨げるところがあった。
石井が劇中に用意する幽冥(あのよ)というのは、けれど、路地裏と荒野を、海中と雑居ビルを、風呂場と石切り場を容易に橋渡しするものであるから、新宿だ、東北だ、地の果てだとする言い訳は説得力を持たない。人がいる限りにおいて、石井の森というのは身近に在り続ける。
結局、わたしの想像力の決定的な乏しさがおんなを招(よ)ばないのだろうか。いや、緑の屏風を背景とする一本道の向こうから、ワンピース姿のおんなが必死に手を伸ばすのは見えていたし、愛しく想う容貌風姿をそっと霊木の脇に立たせるくらいは決して難しくはない。しかし、それは日毎夜毎にお茶の間の液晶モニターに映し出される安直な犯罪ドラマか恋愛劇の一場面に何故か思えてしまい、これまで私が熱視(みつ)めてきた石井の描く劇画なり映画の手触りとは少し違うのだった。
一体全体、何がどうして違うのだろう。帰ってから一ヶ月も経つのだけれど、そんなことをずっと考えてしまい、気持ちは林道から戻れずにいる。
2013年10月11日金曜日
“大伽藍”~『フィギュアなあなた]を再見して②~
(以下の文章は物語の結末に触れています)
“生”と“死”とは円環を成しており、分かつ垣根はないに等しい。職場での商談室や酒舗で隣り合った同士が挨拶を交わすようにして、いずれ私たちは気負いなく死者たちと膝をまじえ、おだやかに会話を始めるのではないか。石井隆の近作『フィギュアなあなた』(2013)を観終わって、そんな想像を連ねた。柄本祐(えもとたすく)と佐々木心音(ここね)、生者と死者の若いふたりは紆余曲折を経て融合を果たして見えたから、それはひとつの勝利とさえ呼べそうだ。
けれど同時に、どこか噛み合わせの悪さが感じられて仕方がない。これまで石井は人間に巣食う禍禍(まがまが)しき物、日常を浸していく無限の欲望や、手綱を操れず、逆に自分の方が無様に引きずられてしまう恋情という悍馬(かんば)、幸福感と絶望とが戸板返しの要領で突如入れ替わっていく非情さ、切なさといったものをこつこつと刻み続け、独自の大伽藍(がらん)を形成してきた。その多層にして荘厳な構造体の一部として『フィギュアなあなた』を捉えたとき、上に書いた程度の一種平和な割り切り方で果たして通用するものかどうか。『フィギュアなあなた』とは何かを探るだけでなく“石井世界”とは何なのか、といった俯瞰した目線で眺めなければいけない気がする。
物語の真相は既に本人の口で明かされており、それは前述の「キネマ旬報」誌のインタビュウ中であったから秘密でも何でもなく公然の事実となっている。書き写せばこうある。「今回は青年のほんの一瞬の夢想、車にはねられる寸前からドサッと地面に落ちて息絶えるまでの、最後に見るもの、最後に聞く音ってなんだろう……それが撮れないだろうかと思った」(*1) 知られたところで大勢に影響はないと、石井としても興行サイドにしても踏んだのだろう。
二度目の観賞を経たことで映画の場景がつぶさに思い出されることもあって、ざわつきは倍化している。不穏な渦巻きの中心にあるのは、鮮やか過ぎるひとつの景色だ。同様に首をかしげた人もいたはずだが、劇の佳境で違和感を抱かせる場面が“一瞬だけ”挿入されており、それは若者が道路を横断中、けたたましいブレーキ音で振り返って見止めた光景なのであった。「シナリオ」誌に収められた台本採録から抜粋すると以下のようなくだりであった。
「驚いた内山が自分の背後を振り返る。内山の直ぐ後ろに、一人の若い女性が内山を追うようにして大通りを渡ろうとしていて、走って来たトラックを見て、固まっている。(中略)その女性の顔を見て内山が驚く。ココネだ。若い女性がトラックのヘッドライトを浴びて固まっている。(中略)内山が咄嗟にその女性を庇うように抱きつく。ブレーキの音とタイヤの軋む音。クラクション!トラックのヘッドライトがグン!と迫り、(中略)内山とココネにそっくりな女の引きつる顔がヘッドライトで真っ白になり──。」(*3)
どうして“ココネにそっくりの若い女性”が登場するのだろう。おいおい、それがどうした、この映画は最初から支離滅裂なところばかりじゃないか、何も不思議はないよ、若者の窮状を見るに見かねた人形が意識を持ち、歩き始め、語り掛け、遂には添い寝まで成し遂げている訳だから、その延長でしかないじゃないか。若者が心配でたまらぬ人形は、ベランダから外へと飛び降りて後を追い、その挙句に事故に遭ったと考えたら良いじゃないか。だいたい夢か現(うつつ)なのか皆目判らぬ劇なのだから、車道に飛び出した若い女性にしたって単なる幻覚かもしれないし。
それでも構わないと作者は思っているに違いないが、おそらくは、次のような現実こそが想い描かれてあったのだ。若者が道路を横断していく後ろ姿につられて、若い女性(人形ではない)は左右を十分に確認することなく足を踏み出したのだ。名は何といい、どんな性格か、どのような境遇に置かれてあるのか、何を望んで生きてきたのか、ほか一切を含めて読み解く術はない。時間は残されていなかったのである。迫る車の巨体と耳をつんざく警笛に足がすくみ、慌てて駆け寄ってくれた若者と顔を見合わせた瞬間、鋼鉄の塊(かたまり)がふたりの身体に接触した。
薄れゆく意識の奥で若者は、ここ数週間の“見たこと”を反芻する。泥酔の果てに廃棄されたマネキン人形を“見つけて”持ち帰ったときもあった。ヤクザ者と肩がぶつかり、怖い目を“見た”夜もあった。そこに先ほど“見合った”若い女性の顔と瞳が溶け合っていき、生命を吹き込まれた不思議な人形との出逢いの物語『フィギュアなあなた』の精製が開始されたのだろう。唖然としてしまうのだが、冒頭から幕引きまでのその多く、徹頭徹尾とまでは言わないけれど、ほとんどが石井の言う「青年のほんの一瞬の夢想」であった可能性が高い。
夜明け前の屋上で煙雨に染まった空を軽やかに飛んでみせた人形であったが、実際はどうであったかと言えば、突進してきた鉄の壁にもんどり打ってそのまま黒いアスファルト上を滑空したのであり、まるで飛翔して“見えただろう”その若い女性の姿を若者はおのれの網膜にしかと定着させたのだ。混濁する意識のなかで、だから、それだからこそ、フィギュアは空を飛ぶのだろう。屋上に、トンと着地して見せた人形は衣装も笑顔も艶やかであったけれど、実際ははげしく地面に叩きつけられ、頭骨や背骨、肋骨なんかがみしみしと砕ける音と、血管が破れて生温かいものが流れていくを遠くの方で感じながら、ぼろきれとなって横たわったに違いないのだ。まぶたを人形のようにかっと見開いて、しかし、もはやそこには現世の何ものも映じていない。私たちが見守った銀幕の裏側では、そんな悲痛な時間がかちりかちりと刻まれて有ったのじゃないか。
そうして見れば『フィギュアなあなた』とは、実にシビアな物語だ。生者と死者との邂逅、ひとつの勝利などと暢気(のんき)に構えていた私であったが、死に臨むということはそんな奇麗ごとではない。肉体が破壊されていくことの納得しがたい哀しみ、生命の焔(ほむら)が消失することの重みが眼前に黒々と立ちはだかって来る。
上記の推測、“秘匿された轢殺の場景”を起点として劇の全てが築かれてあったと考える理由は、そうであるならば石井のタナトス四部作の一篇、電車に轢かれた瀕死の名美が霞んでいく意識の奥で瓦礫の町をさまよってみせた【赤い眩暈】(1980)と面立ちが瓜二つとなる(*4)からだし、現実は一瞬間だけ描かれ、そこ以外は主人公静子(杉本彩)の記憶と狂気とがまぐわって産み落とした音と光とによって埋められた『花と蛇』(2004)の酷烈な構造(*5)と一致するからだ。当作を石井の新境地、別世界と捉える向きもあるが、その印象は“画角の違い”に由るだけであって、フレーム外に置かれ、裏側へと折り込まれてあるものは変わらぬ景色なのである。ここに至って『フィギュアなあなた』は石井の大伽藍に吸い込まれ、たちまち輪郭を溶かして一体となっていく。
【赤い眩暈】と『花と蛇』二作のヒロインに与えられた役目は“内なる地獄”を凝視め続けることであり、かろうじて救済(らしきもの)があるとすれば“永劫にたゆたうこと”にあった。その川下に位置する『フィギュアなあなた』をこれに照らせば、自ずと明るさを減じていくのだし、闇の侵食は逆に勢い付いて物語の端々を塗り固めて行きはしないか。“見えないもの、見せないもの”を真摯なまなざしで透かし見すれば、酷薄さが型押しされて銀幕からぶわりと浮き出し、私たち観客の心胆を鷲づかみにして悲鳴へと導くのである。
上っ面を眺めただけで分かったつもりになって無責任にうそぶく私に対し、石井映画は微笑みつつ先を歩いてゆくのだが、しばらくすると赫然(かくぜん)と振り返って猛烈な平手打ちを喰らわせてくる。安易な期待、甘ったるい希望的観測を頑強で尖った靴の踵(かかと)でがしがしと踏みしだき圧砕するのである。これこそが石井世界の惨たらしさ、烈しさである。油断しては決してならぬ間合いと切っ先であることを、あらためて了解して血の気が引く思いでいる。
(*1):「キネマ旬報 2013年6月下旬号 No.1639」38─39頁
(*2): 同40頁
(*3):「シナリオ 2013年8月号」 112─113頁
(*4):絶命寸前となった若い女性もまた何かしらを幻視したと仮定すれば、極端な話、『フィギュアなあなた』とは若者のものでは最初からなく、若い女性の内部で一から十まで築かれた城塞であった、と言えなくもない訳だし、もしかしたら死に至る両者の暴走する意識を編み手の石井が交互に丹念に綾織ったものかもしれぬ。石井の「そっくり取り替えた物語」とは、そういう可能性さえ指すのだろう。“怖ろしいもの”を見せつけられた、とつくづく思う。
(*5): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=153959433&owner_id=3993869
2013年10月5日土曜日
“たどり着いた神話”~『フィギュアなあなた]を再見して~
石井隆の作品は一度きりでは容易に呑み込めないことも多いから、間をおいての再見が欠かせない。近作『フィギュアなあなた』(2013)もそういう訳で、映画館に足を運んで観直している。次の観賞時には黙って劇場を後にすると以前書いたのだったが、それを早々に破って言葉を接ごうしている。我ながら節操なくみっともない気がするのだけど、どうしても想いが爆(は)ぜる。
既に識者の手で方々に書かれてあるし、石井本人がインタビュウ(*1)で語っている通りなのだが、『フィギュアなあなた』とはマネキン人形をめぐる単なる妄想劇ではなくって、死者との邂逅こそが重点的に描かれている。原作となった石井の短篇(*2)は至極あっさりしたもので、失意の若者が廃棄されていたマネキン人形を見止め、自宅に持ち帰って共同生活をしながら希望を手探りしていく内容の短編であった。それが忠実に映像化されていたならば、人形譚の血筋として小奇麗に仕上がっていた事だろう。映画は混沌としているしお世辞にも小奇麗とは言いがたい。尺合わせの目的も多少はあったかしれないが、若者がマネキンの入手するに至る経緯を執拗に、粘性を持って描いていくのだった。
劇中、佐々木心音(ここね)が埋もれていた膨大なマネキン人形の堆積について、映画は台詞や描写によって幾度もヒントを刻んで見せて、これはひとつひとつが死者なんだよ、元々は息をしていた人間のなれの果てなんだよ、と伝えていた。石井が(自作であれ、他人のものであれ)原作を創作の骨格として取り込み、映画として自立なるよう肉付けを図る際には、決まって差し加えた部分が能弁さを増して観客に強く訴えかけてくるものであって、私たちは彼の創造の意図を常にそのはみ出した肉ひだの部分にこそ読み解くべきなのだが、『フィギュアなあなた』においての肉ひだはまさにこれであろう。
ここで思い出すべきは、『GONIN』(1995)を最新の画像処理でリストアしてみせたDVD(*3)のジャケット画である。石井自身の筆で描かれた本木雅弘の、雨にうたれながら疾走する姿であった。愛する者を失った男がその遺品であるコートを羽織り、懐に拳銃を握って、闇を切り裂き仇に向かっていくクライマックスの場面を再現した絵である。着目すべきはそのコートの肩あたりに蒼白い尾を引いて人魂(ひとだま)が寄り添っていることだ。『GONIN』のフィルムのコマにコンピューターグラフィックや多重露光で光球が最初から加えられたわけではなく、石井が映画公開から12年を経て、“見せざるもの、想いを密かに託したもの”をそっと視覚化して見せた結果である。コートという“物質”に“亡者のまなざし”がしっかりと宿っている、そのような想いと死生観が如実に語られている。
佐々木心音が演じたのは確かにマネキン人形であったわけで、それはその通りなのだが、あれもまた死者の魂が浸入した依代(よりしろ)として登用されたと見て良いのだろう。魂の交流をこそ、語らなければならない。もはや『フィギュアなあなた』を語る上で“人形”は、まったく度外視しても構わないように思う。
さて、亡霊である女性と生者との情愛なり秘め事というものは古今東西のお話で扱われたものであるから、そのように『フィギュアなあなた』を見てしまえば決して珍しくはないだろう。しかし、実際のところ物語は面妖この上ない展開へといざなって私たちを戸惑わせるのだった。柄本祐と佐々木心音の演ずる男女は面識を持っておらず、劇の中盤でようやく“出逢っている”。これはあまり見ない形ではなかろうか。通常生者と死者は“再会を果たす、果たそうとする”ものではなかろうか。
黄泉国(よもつくに)に伊邪那美(いざなみ)を探す伊弉諾(いざなぎ)であったり、妻エウリュディケを冥界から連れ戻そうとするオルフェウス、夜な夜な牡丹灯籠を手にして浪人萩原新三郎のもとに通いつめるお露もそうであるが、生死の境界をまたいで成立する逢瀬というのは生命ある間に燃え盛った恋慕の念が埋め火となって残留し続け、やがてその熱が野火のごとく赤赤と連なり広がっていく、そんな“人の追憶のどうしようもなさ、はげしさ”に頼っている。
柄本演じる若者は職場の同僚である娘(間宮夕貴)にかねてから心を奪われており、泥酔した末に彼女との情交を夢に見るほどだ。登場人物のひとりの台詞から探れば、在りし日の面立ちを写し置くのがあの山となった人形の群れのどうやら特徴であるようだから、その中に置かれてあった人形心音(ここね)の生前の目鼻立ちは今と寸分違わないはずなのだが、その出現に対して若者は目を白黒させるばかりなのであった。男のなかには心音(ここね)を慕い、追尾しようとする気負いは見当たらない。もしかしたらおんなの方に何かあるのだろうか。私たち観客の見つめる銀幕の枠をこえた場処で、おんなは若者の日常を物陰からそっとうかがっていて、牡丹灯篭の娘のように恋い慕ったまま死んだのかもしれない、なんて無理に想像を膨らませてもみたが、出逢った当初の人形の若者へ向けられたまなざしには昏く沈んだ色調ばかりがあって、念願叶って再会できたことの歓喜はどうしても見出せない。ふたりは初対面であったと捉えて構わないように思う。
一方は生の苦闘にさいなまれ、一方は停滞した死のなかで横たわっている。そのふたつが出逢い、そこで声を交わし身体を重ねていく。生と死を分かつ深淵を橋渡しするはずの灼熱の恋情を互いに持たぬまま、見ず知らずの者同士がゆるりと身を寄せ合っていく展開は私たちに馴染みがないだけにカタルシスが生じにくい。なんなの、どうしちゃったの、と混乱の渦がどうしても生じるし、こりゃ妄想だな、夢落ちだな、と早合点する流れも仕方のないことだ。
けれど、私みたいな天邪鬼には、そして石井隆の仕事を見つめ続けて来た者の目には“吹っ切れたもの”が映って見えるし、視野が広がるような爽快さもあるのだった。季節が二巡し“311”から時間を経ている。この特別の月日を振り返ったとき、ひと握りの作家たちが時局に真向かい多様な表現手段で自らの記憶や感懐を線に刻み、形に成そうと試みた事実が思い起こされる。世間から注目を浴びたものもあれば、まるで無反応に終わったものもある。琴線に触れるものもあれば、眉をひそめてしまう無遠慮なものもある。すべてが成功しているとは言い難いが、災厄の大きさからすればどれもが意味のある大切な行為と形ではなかったかとわたしは思う。
この特別の時期に石井は何を語るだろう、どのように物語を紡(つむ)ぐだろうと気にしていたところが私にはあったのだ。石井が生まれ育った町は海岸からかなり離れているから大きな被害はこうむっていないけれど、それでも報道を注視し、親族や知人と言葉を交わしながら事態をはらはらして見守ったに違いない。夏ともなれば足を伸ばしただろう浜辺は、建物や数限りない車の残骸で埋まりもしたろう。たくさんの人が不意を突かれて、愛しいひとに別れを告げることなく亡くなり、いまだに多くの人が行方知らずでどのような形であれ帰ることが許されていない。
石井の作風は政治や世相(固有的なもの)の描写を巧妙に避け、人間が生きて死んでいく上での普遍的な苦しみや哀しみを突きつめることに注力してきたから、この天災なり人災について直接的に取り上げることは最初から有り得ないのであるが、これほどの死と哀しみが降りかかった生まれ故郷を面前にして特別なこと、一時的なこと、巨視的で自分のドラマには馴染まないこととして捨て置くことはさすがに出来ないのではないかと思ったし、何かしらの“手向け”があってしかるべきではないかと感じて、この宮城県仙台市に生まれ育った作家をずっと見守ってきた。
『フィギュアなあなた』と震災とは線を結ぶことはないから、身勝手な感懐に過ぎぬ訳なのだが、銀幕で交差する生者と死者、柄本と佐々木との魂の交感を目にしながら、石井隆が“死”について存分に語っていると思い、劇中で広げられたその死生観を素直に受け止めることが出来れば随分と楽だろうとも思った。
柄本祐が死者たちと出逢うための試練として、仕事上の失敗があり、失意があり、暴力があり、怪我がある(、そして死がある)。それら全てが負の方向への急速な傾斜であって、生命のきらめきや力、生産性とは真逆のものであった。そのような冷え切った身体と気持ちであるにもかかわらず、死者は待っていてくれるのであり、さらには新たな出逢いさえ起こると『フィギュアなあなた』はささやくのだった。
生と死の汀(みぎわ)に佇み、向こう側に渡るという事は、限られた力ある者に起きる特別なことではない。気が遠くなる階段やけわしい坂を上り下りする健脚も不要なら、手を引く道案内と足もとを照らす灯かりもいらない。強靭で不屈の意志も必要ではない。傷つき、苦しむ誰の身にも、そして老いていく身にも必ず出逢いは待っているとささやいている。道は閉じられない、きっと拓けると諭すのだった。目を細めれば、耳をすませば、あちらこちらの“物質”に“人のまなざし”が既に見止められ、会話だって何だって今すぐに可能になるとささやくのだった。生と死はなめらかに溶け合って、連環を開始する。
石井自身がようやく手にした達観でもあるのだろう。今この世界に生き続ける私たちにとって反芻するに値する、実のそなわった言葉が投げ掛けられたと思っている。
(*1):「キネマ旬報 2013年6月下旬号 No.1639」
(*2):【無口なあなた】 初出「ヤングコミック」1992
(*3): DVD「GONINコンプリートボックス」 2007 松竹
既に識者の手で方々に書かれてあるし、石井本人がインタビュウ(*1)で語っている通りなのだが、『フィギュアなあなた』とはマネキン人形をめぐる単なる妄想劇ではなくって、死者との邂逅こそが重点的に描かれている。原作となった石井の短篇(*2)は至極あっさりしたもので、失意の若者が廃棄されていたマネキン人形を見止め、自宅に持ち帰って共同生活をしながら希望を手探りしていく内容の短編であった。それが忠実に映像化されていたならば、人形譚の血筋として小奇麗に仕上がっていた事だろう。映画は混沌としているしお世辞にも小奇麗とは言いがたい。尺合わせの目的も多少はあったかしれないが、若者がマネキンの入手するに至る経緯を執拗に、粘性を持って描いていくのだった。
劇中、佐々木心音(ここね)が埋もれていた膨大なマネキン人形の堆積について、映画は台詞や描写によって幾度もヒントを刻んで見せて、これはひとつひとつが死者なんだよ、元々は息をしていた人間のなれの果てなんだよ、と伝えていた。石井が(自作であれ、他人のものであれ)原作を創作の骨格として取り込み、映画として自立なるよう肉付けを図る際には、決まって差し加えた部分が能弁さを増して観客に強く訴えかけてくるものであって、私たちは彼の創造の意図を常にそのはみ出した肉ひだの部分にこそ読み解くべきなのだが、『フィギュアなあなた』においての肉ひだはまさにこれであろう。
ここで思い出すべきは、『GONIN』(1995)を最新の画像処理でリストアしてみせたDVD(*3)のジャケット画である。石井自身の筆で描かれた本木雅弘の、雨にうたれながら疾走する姿であった。愛する者を失った男がその遺品であるコートを羽織り、懐に拳銃を握って、闇を切り裂き仇に向かっていくクライマックスの場面を再現した絵である。着目すべきはそのコートの肩あたりに蒼白い尾を引いて人魂(ひとだま)が寄り添っていることだ。『GONIN』のフィルムのコマにコンピューターグラフィックや多重露光で光球が最初から加えられたわけではなく、石井が映画公開から12年を経て、“見せざるもの、想いを密かに託したもの”をそっと視覚化して見せた結果である。コートという“物質”に“亡者のまなざし”がしっかりと宿っている、そのような想いと死生観が如実に語られている。
佐々木心音が演じたのは確かにマネキン人形であったわけで、それはその通りなのだが、あれもまた死者の魂が浸入した依代(よりしろ)として登用されたと見て良いのだろう。魂の交流をこそ、語らなければならない。もはや『フィギュアなあなた』を語る上で“人形”は、まったく度外視しても構わないように思う。
さて、亡霊である女性と生者との情愛なり秘め事というものは古今東西のお話で扱われたものであるから、そのように『フィギュアなあなた』を見てしまえば決して珍しくはないだろう。しかし、実際のところ物語は面妖この上ない展開へといざなって私たちを戸惑わせるのだった。柄本祐と佐々木心音の演ずる男女は面識を持っておらず、劇の中盤でようやく“出逢っている”。これはあまり見ない形ではなかろうか。通常生者と死者は“再会を果たす、果たそうとする”ものではなかろうか。
黄泉国(よもつくに)に伊邪那美(いざなみ)を探す伊弉諾(いざなぎ)であったり、妻エウリュディケを冥界から連れ戻そうとするオルフェウス、夜な夜な牡丹灯籠を手にして浪人萩原新三郎のもとに通いつめるお露もそうであるが、生死の境界をまたいで成立する逢瀬というのは生命ある間に燃え盛った恋慕の念が埋め火となって残留し続け、やがてその熱が野火のごとく赤赤と連なり広がっていく、そんな“人の追憶のどうしようもなさ、はげしさ”に頼っている。
柄本演じる若者は職場の同僚である娘(間宮夕貴)にかねてから心を奪われており、泥酔した末に彼女との情交を夢に見るほどだ。登場人物のひとりの台詞から探れば、在りし日の面立ちを写し置くのがあの山となった人形の群れのどうやら特徴であるようだから、その中に置かれてあった人形心音(ここね)の生前の目鼻立ちは今と寸分違わないはずなのだが、その出現に対して若者は目を白黒させるばかりなのであった。男のなかには心音(ここね)を慕い、追尾しようとする気負いは見当たらない。もしかしたらおんなの方に何かあるのだろうか。私たち観客の見つめる銀幕の枠をこえた場処で、おんなは若者の日常を物陰からそっとうかがっていて、牡丹灯篭の娘のように恋い慕ったまま死んだのかもしれない、なんて無理に想像を膨らませてもみたが、出逢った当初の人形の若者へ向けられたまなざしには昏く沈んだ色調ばかりがあって、念願叶って再会できたことの歓喜はどうしても見出せない。ふたりは初対面であったと捉えて構わないように思う。
一方は生の苦闘にさいなまれ、一方は停滞した死のなかで横たわっている。そのふたつが出逢い、そこで声を交わし身体を重ねていく。生と死を分かつ深淵を橋渡しするはずの灼熱の恋情を互いに持たぬまま、見ず知らずの者同士がゆるりと身を寄せ合っていく展開は私たちに馴染みがないだけにカタルシスが生じにくい。なんなの、どうしちゃったの、と混乱の渦がどうしても生じるし、こりゃ妄想だな、夢落ちだな、と早合点する流れも仕方のないことだ。
けれど、私みたいな天邪鬼には、そして石井隆の仕事を見つめ続けて来た者の目には“吹っ切れたもの”が映って見えるし、視野が広がるような爽快さもあるのだった。季節が二巡し“311”から時間を経ている。この特別の月日を振り返ったとき、ひと握りの作家たちが時局に真向かい多様な表現手段で自らの記憶や感懐を線に刻み、形に成そうと試みた事実が思い起こされる。世間から注目を浴びたものもあれば、まるで無反応に終わったものもある。琴線に触れるものもあれば、眉をひそめてしまう無遠慮なものもある。すべてが成功しているとは言い難いが、災厄の大きさからすればどれもが意味のある大切な行為と形ではなかったかとわたしは思う。
この特別の時期に石井は何を語るだろう、どのように物語を紡(つむ)ぐだろうと気にしていたところが私にはあったのだ。石井が生まれ育った町は海岸からかなり離れているから大きな被害はこうむっていないけれど、それでも報道を注視し、親族や知人と言葉を交わしながら事態をはらはらして見守ったに違いない。夏ともなれば足を伸ばしただろう浜辺は、建物や数限りない車の残骸で埋まりもしたろう。たくさんの人が不意を突かれて、愛しいひとに別れを告げることなく亡くなり、いまだに多くの人が行方知らずでどのような形であれ帰ることが許されていない。
石井の作風は政治や世相(固有的なもの)の描写を巧妙に避け、人間が生きて死んでいく上での普遍的な苦しみや哀しみを突きつめることに注力してきたから、この天災なり人災について直接的に取り上げることは最初から有り得ないのであるが、これほどの死と哀しみが降りかかった生まれ故郷を面前にして特別なこと、一時的なこと、巨視的で自分のドラマには馴染まないこととして捨て置くことはさすがに出来ないのではないかと思ったし、何かしらの“手向け”があってしかるべきではないかと感じて、この宮城県仙台市に生まれ育った作家をずっと見守ってきた。
『フィギュアなあなた』と震災とは線を結ぶことはないから、身勝手な感懐に過ぎぬ訳なのだが、銀幕で交差する生者と死者、柄本と佐々木との魂の交感を目にしながら、石井隆が“死”について存分に語っていると思い、劇中で広げられたその死生観を素直に受け止めることが出来れば随分と楽だろうとも思った。
柄本祐が死者たちと出逢うための試練として、仕事上の失敗があり、失意があり、暴力があり、怪我がある(、そして死がある)。それら全てが負の方向への急速な傾斜であって、生命のきらめきや力、生産性とは真逆のものであった。そのような冷え切った身体と気持ちであるにもかかわらず、死者は待っていてくれるのであり、さらには新たな出逢いさえ起こると『フィギュアなあなた』はささやくのだった。
生と死の汀(みぎわ)に佇み、向こう側に渡るという事は、限られた力ある者に起きる特別なことではない。気が遠くなる階段やけわしい坂を上り下りする健脚も不要なら、手を引く道案内と足もとを照らす灯かりもいらない。強靭で不屈の意志も必要ではない。傷つき、苦しむ誰の身にも、そして老いていく身にも必ず出逢いは待っているとささやいている。道は閉じられない、きっと拓けると諭すのだった。目を細めれば、耳をすませば、あちらこちらの“物質”に“人のまなざし”が既に見止められ、会話だって何だって今すぐに可能になるとささやくのだった。生と死はなめらかに溶け合って、連環を開始する。
石井自身がようやく手にした達観でもあるのだろう。今この世界に生き続ける私たちにとって反芻するに値する、実のそなわった言葉が投げ掛けられたと思っている。
(*1):「キネマ旬報 2013年6月下旬号 No.1639」
(*2):【無口なあなた】 初出「ヤングコミック」1992
(*3): DVD「GONINコンプリートボックス」 2007 松竹
2013年9月1日日曜日
『壇蜜 仮面を脱ぐとき ~映画「甘い鞭」より~』
衣装や美術にかかわる数限りない打ち合わせに忙殺されるし、撮影所に入れば俳優の所作に神経を注ぎつづける立場だから、石井が遊撃班的な記録(メイキング)係に対して具体的な指示を下せないのはもっともな話だ。後になって少し余裕が出てきたとしても、メイキングに関するいちいちの作業は信頼するスタッフに託していく、そんな間合いだったのではあるまいか。
撮影は元より膨大なテープを見返しての編集も人まかせであるから、純粋な石井隆作品とは言い得ない『仮面を脱ぐとき』であるのだが、モニター画面を見つめながらこれまで抱いたことのない印象を得て私は無性に楽しかった。ここには石井隆の世界が写っている、石井の求める景色が在る、そう思えてならなかった。
石井の近作は杉本彩、喜多嶋舞、佐藤寛子、佐々木心音といった女優陣を迎え、その素肌の露出、不敵な物腰、妖しくもうつくしい姿態を売り物にしている。先行して頒布されるこの手の宣伝媒体さえも身悶えして心待ちにするファンは多い。石井作品の“手ざわり”や“光と影”を好ましく思う者にとってもそれは同様で、かく云う私も立派な中毒者である。円盤をケースから気忙しく取り出し、ノートパソコンに投げ込み、明滅を開始する景色に身もこころも浸されていく。意味ありげなセットや小道具に色めき立ち、神話に取材した石像めいて佇立する男女の様子を見止めては惚れ惚れする。白い肌を覆っていく黒くて粘性のある血糊(ちのり)の途方もない量に息を呑み、大粒の銀の雨に打たれて、やがて道を見失う。
暗い密閉された空間に照明がぎらついて、気持ちがざわめく。奥には半裸もしくは全裸のおんなの姿があって、周囲から掛けられる指示にしたがい懸命にポーズを続けていくのだった。日常では絶対にしないだろう極端な伸びや曲げに関節が悲鳴をあげていくのだが、カットの声が寄せられた瞬間に表情は一変し、疑うような、戸惑うような強いまなざしが光源奥にふき溜まる男たちに投じられる。迂闊であったが、そこには“撮る者”と“撮られる者”が対峙していて、往年の石井の劇画作品【緋の奈落】(1976)や【雨のエトランゼ】(1979)、【夜に頬よせ】(1979)、それにSM誌に載ったイラストなどをゆるゆると想起させるに十分だった。それ等はかしゃりかしゃりと連結して、螺旋を組み始める。無理なく石井世界に組み込まれていく。
これ程までに貴女のことを凝視(みつ)めている男は俺以外には無い、俺がいちばん分かっているさ、とファインダー越しに撮影者は低く長く呻くようであり、黒い髪をふり乱し、白い肌に走る縦すじさえ大気に晒して声に応えるおんなはおんなで、男たちの影が自分とは土台から違う生物、まるで昆虫のがさごそと蠢くさまに思えてならぬのだった。どうせ表層止まりなんだ、私の深いところなど分かりっこないのよ、と口惜しさと諦観がこころを締め付け、耐え切れずに瞼を伏せるようでもある──もちろんこれは、過去に見た石井の映画や劇画の記憶を栄養にして芽吹いた幻想に過ぎない。森の微生物が倒木にやみくもに着床して菌糸の音なく伸ばすがごとき、意味を持たない妄念の茂りなのだけれど、その無遠慮で無責任な連想をひどく喜んでいる自分がいた。
なぜ今ごろになって、そんな事に思い至ったのか。ナレーションが減らされ、迫真性がより増したせいもあるだろう。先の女優たちとこのたびの壇蜜(だんみつ)が内在する特性なり方向の相違が関わるのかもしれぬ。暴姦を劇の主軸とする『甘い鞭』の様相が、【紫陽花の咲く頃】(1976)、【白い汚点】(1976)といった石井の代表的な劇画の面貌と相似することも一因だろう。
巧みな編集の賜物であるのか、それとも当初からの狙いであったのか分からぬが、本編撮影班(佐々木原保志、山本圭昭)の背後にまわった記録者が二台のムービーカメラ付属の小さなモニターににじり寄り、それ越しにおんなを凝視していくカットが『仮面を脱ぐとき』には幾度も挿し込まれていて、これが石井らしい詩的で複雑なまなざしを見事に醸成、再現していた。それが私の記憶を揺さぶり、想いを石井世界の沃野へ飛ばした理由の第一のように思える。
ぎりぎりまで接近し、時には相手の肌に指先を接しながらも容易には繋がらず、完全に溶け合うこともなく、やがては風の侵入を許してするりと乖離を始めていく。そんな石井らしい男とおんなの距離や宿命をそれとなく暗示しているようで、心の鐘を無闇に打つところがあった。
(*1): 『壇蜜 仮面を脱ぐとき ~映画「甘い鞭」より~』 角川書店 2013
2013年8月14日水曜日
山口椿「甘い鞭 アルゴスとラグネイア」
いま書店に並ぶ「映画芸術」最新号(*1)には、石井隆の最新作に関わる文章がふたつ載っている。ひとつはヴィヴィアン佐藤が『フィギュアなあなた』に(2013)ついて語る「永遠の子供部屋の王国」(*2)であり、視角の広い読解が愉しく、粘り腰と瞬発力の混然としたところがここちよかった。確かに映画を楽しむ際の姿勢なり心もちには決まり事など一切無いのだけれど、石井世界に遊ぶ、石井の創作に踊るという事はどうあるべきか、その良いお手本が示されていると感じる。
『フィギュアなあなた』ではいちいちの事象に主人公の青年(柄本祐)が反応し、おのれの意見を喋り散らす。物語の歯車が「主人公の独り言の“言葉”だけによって描写され」、刻まれていくことの妙を佐藤は指摘するのだった。「本来映像作品はその特徴として、言葉を超えた視覚によって訴えることが容易な媒体である」はずなのに、これは一体全体どういう訳なのか。
さらには、天空を染めていく明け方の光の強弱に目を凝らし、先ほどの場面よりも暗くなっているではないか、太陽が地平方向に戻って夜の闇が勝ってしまっているではないか、と銀幕を指差していく。時間の錯綜する様子をおざなりな編集のためと単純に捉えるのではなくって、観客に対して「時間がいつの間にか引き戻されてしまう」世界を石井はあからさまな形で提示したがっていると推察をめぐらす。“閉じられた”しかし“完全に満たされた関係”を、計算づくで構築していると受け止めるのだった。
この佐藤の指摘は、『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007 )以降に石井作品で目立っている不自然で膨大な数の独白、その奇妙さ、くどさに通じるものであって、石井の新たな“文体”の出現と用法を言い得ており、幾度も頷かされるところがあった。モノローグという絵具をパレットに大量にしぼり出し、筆先に載せては波打つように画布に塗りつけていく際の“画家”石井隆の狙いが、明瞭に表わされているように思う。石井が世界をどのように変えたいと希求しているか、私たちは佐藤の文をよく咀嚼した上で頭の片隅に覚えておいて損はないだろう。
「映画芸術」に載ったもう一篇は何と言えばよいのか、なかなか適当な言葉が浮かんで来ないのだけど確実に気持ちが捕えられてしまっている。山口椿が『甘い鞭』(2003)に触れた「アルゴスとラグネイア」という文章(*3)であり、大変にうつくしく、読んでいて激しい揺れが内部に生じたのだった。世間に溢れる批評の定型に染まらずに、独り毅然としてたたずむ気配があって面白く感じた。
浅学を恥じるばかりだが、“アルゴス”も“ラグネイア”もよく知らなかったものだから、一読した切りでは言わんとするところが皆目分からなかった。これは石井の映画『甘い鞭』とは全く無関係の山口個人の妄念じゃなかろうか。それとも、間近に迫った締め切りに慌ててマス目を埋まるだけ埋め、お茶を濁したのじゃあるまいか。そのように当初は勝手な推測をめぐらし、掲載誌の懐の深さに感心したり呆れたりしたのだった。薄馬鹿で呆れるのは手前の方である。ギリシャ語で前者が苦痛を、後者が快楽を指しており、サディズム、マゾヒズムよりもずっと根源的で厚みの在る語句と知って読み返していけば、この文章はなるほど石井の『甘い鞭』を目撃した者が石井世界に言及している内容であった。
確かに文中にあるような「瘤だらけの女の頭」、「泥だらけの会陰」は映画では見えない(ように思う)。確かに「浅黒く鼻の平たい男は寝台のそばに蹲(うすくま)って切り裂かれた腹腔から膀胱をつかみ出していじり回した」りはしない(と思う)し、「隣の男は発狂してしまい」、「女の振りかざした杭に打たれ、血だらけなふたつの孔から跳び出した眼球(めだま)をもとに戻そうと、虚しい手つきで試みては失敗し、焦(じ)れた揚句そのぬるぬるを口に押し込んで噛もうとした」りはしない(と思う)。石井隆の美学から言って、そのような露骨な内臓描写を取り入れることは考えられないのであるが、山口の文章が『甘い鞭』の鑑賞に因ってほとばしったものであるのは間違いないし、その勢い、飛距離というものは確かに石井の『甘い鞭』に宿った強さ、烈しさと十分に似通っている。
山口が綴る男とおんなの心理描写のなかには、『甘い鞭』という砂時計構造に閉じられた二重の世界で息づく複数の登場人物の、悲鳴や独白の裏側でとぐろを巻く鋼鉄の意識、氷結した感情といったものがすくい取られた箇所がある。それらは石井の書く台詞ではもちろんないから、山口の綴ったものが『甘い鞭』と連結する保証はないのだけれど、綾織られた文中に目を凝らして探し求め、歩みをしばし止めて玩読(がんどく)することで、闇に集うおんなの、そして男たちの像は輪郭をより明確にするだろうし、瞳の明度を一段上げることだろう。そうすることで映画『甘い鞭』は、強靭さと艶をきっと増して読み手の心髄を射るに違いない。石井の美学に甘苦しい陶酔を覚え、再度の酩酊を期する人には機会を作っての一読をお薦めしたい。
(*2):同44─45頁 ヴィヴィアン佐藤「フィギュアなあなた 永遠の子供部屋の王国」
(*3):同42─43頁 山口椿「甘い鞭 アルゴスとラグネイア」
2013年7月21日日曜日
“廃工場”
ひさしぶりに見た建物は下屋(げや)が雪の重みに耐えられずに折れ下がり、植物の侵入も一部始まっているし、漂う空気の質もいくらか硬く、表情を失ってのっぺりしている。荒廃は確かに進んでいて、淋しさ、切なさが倍化していた。
無人の湿った大空洞を歩きながら、先日読んだ文章を反芻した。「幻燈」という雑誌(*1)の巻末に漫画評論家の権藤晋(ごんどうすすむ)が石井隆の新作に触れた短文を寄せていた。石井の創作活動をその黎明の時期から着目し、まばたきをせずに丹念に追い続けた人だけに、頷かされる箇所、内省をうながす記述がたくさんあるのだった。
権藤は文のなかでこんな事を言っている。「なぜ廃屋が、廃病院が、廃ビルが登場するのかは、もうほとんど石井の美意識=思想に裏付けられている。石井の美意識をフェティシズムに解消しようとする論調は、「趣味」と「拘泥(こうでい)」の落差が理解できないに違いない。」(*2)
わたしも廃屋や幼児すら敬遠する古い遊具が肩寄せ合って在る公園、人通りの絶えた路地なんかを好んで歩く日があるが、これはその時の気分で選んでいるのではなく、生理が、気持ちの根っ子が否応なしに定めた行動である。どうして、と尋ねられても答えに窮してしまう、そういう景色が目の前に拡がる時が人にはあるように思う。ならば、どうして、と尋ねても詮無い映画があっても良い理屈だろう。
先日まで私はキーボードにしがみつき、『フィギュアなあなた』(2013)のひどく混沌として見える景色につき、さらに言葉を選びつないで(自分を納得させる)道理を導こうと躍起になっていた。フレデリック・ショット Frederik L. Schodt に対して(*3)石井本人が吐露した言葉“相交じりあえない距離感”を手がかりに、『フィギュアなあなた』が逆説的な理想郷を描いたものと仮定し、その上で魂が歩み寄って“二方向”から“風景の変容”が加速し、激しくカットバックしたのではないか──そのように想うまま書き綴ろうとしたのだった。
しかし、そんな勝手な推測や後付けの理屈というものは、権藤が別の箇所で指摘するそのままの、「理解している」ふりをして「自らをより高い位置に留めおくため」に施すメッキ細工にも思えて来た。絵画を眺めるように、分からないなら分からないまま、それを素直に受け止めることも大事と思えてきたところだ。
そもそも、石井の『フィギュアなあなた』には額縁も音声ガイドも一切不要なのかもしれない。余計なお喋りをする暇があったら、もっと長く立ち止まって眺めよ、こころを開いて感じよ、そう言いたそうでもある。純粋なファンの立場にそろそろ戻って、深くシートに座り直す時が来たようだ。近いうちにもう一度、銀幕を見つめ直して石井の色と筆づかいを味わうつもりでいるが、その時は唇を閉じ、微笑むのみで静かに会場を後にしたいと思う。
(*1):「幻燈 13」 北冬書房 2013年6月15日発行 定価1600円+税
(*2):「石井隆の映画にふれて─切れ切れの感想」 権藤晋 214-215頁
(*3):「ニッポンマンガ論」フレデリック・ショット マール社 1998
2013年7月11日木曜日
“手を添えて洗うこと”
若者(柄本祐 えもとたすく)と廃墟ビルから拾われてきた等身大フィギュア(佐々木心音 ささきここね)とのほろ苦い同棲模様を描く一端として、『フィギュアなあなた』(2013)にはシャワーシーンが挿し込まれている。狭いブースに押し合うように立ち、硬直して動かぬフィギュアを男が一方的に洗い清めていくのだった。フィギュアの肩から足先をシャボンの白い泡が薄っすらと覆っており、男は柔らかい声で言葉を投げ掛けながらその表皮を撫ぜていく。
胸の奥にたたずむ羽根車に風を吹き込み、からころと回してはエロティックな夢想へ手引きする役目がある種の映画には担わされていて、『フィギュアなあなた』もどうやらその範疇に含まれる。豊かな乳房やくびれた腰、ふんわりとふくらんだ腹などが大きく舐めるように映されていくのだったし、男の手の甲と長い指先がさわさわと滑り降り、やがて谷間に入って奥を探る気配であって、私たちの瞳は自然と銀幕に縫いつけられてしまうのだった。
恋慕う相手と共に浴室に入って肌を撫ぜてみたり、湯をほとばしらせて洗い清めることは誰にとっても嬉しい行為だ。もたらされる五感のときめきは原初的な悦びと直結しているから、柄本演じる若者だって手ごたえのある快感を得たに違いない。視覚と触覚をいたく刺激するこの浴室の情景は、だから裸を見せたいだけなのだ、扇情目的なのだ、と割り切るのが当然と言えば当然だろう。
それはそれで結構なのだけど、石井の映画というのは熟考をうながし違った角度の意見を受容する力がそなわっている。別な視方はないだろうか。私事で恐縮だが、かつて手を怪我してギブスの世話になったことがある。『フィギュアなあなた』を想うとき、あの時の景色がどうしても思い出される。
二週間をひとサイクルとして古くなったギブスは裁ち割られる。電動カッターで一文字に切れ目が入れられ、開排器と呼ばれるいかめしいハサミ型の道具でみしみしと割られてひさしぶりに自分の手のひらを見たのだった。包帯の奥に幽閉された人間の皮膚というものに始めてお目にかかった訳だが、全体的に黄色かかって生気なく、さすがに痛々しくって哀れなものである。隅の流し台に案内され、ざっと洗った後にすぐさま新しいギブスにくるもうとする、そんな慌ただしい流れなのだけれど、筋肉はひどく硬直しているし、なにぶん利き手でもある。縫合の痕は紫色のかさぶたとなって触ると痛いから、力の入れ加減こすり加減が分からずに難渋した。
突然におぞましい景色が出現して蒼ざめた。老廃物が手袋よろしく堆積しており、それが水を浴びてしばらくするとふやけ出す。こすればたちまち糸状、もっと直線的に喩えれば、おびただしい数の回虫が手にたかってヌタヌタと蠢くような陰惨この上ない様相を呈したのだった。聞いてはいたが、こんなにひどいとは思わなかった。無尽蔵に垢(あか)はひり出され、いくら洗っても洗っても一向に減ってくれない。恥しさを覚えてたじろぐ。
“穢(けが)れ”ということをそのときに実感したのだった。塗料や粉塵、食品残渣から出る汁、煤(すす)にもろもろの油、そこに労働や運動にともなう汗を加えてもいいのだけれど、それらは表層に貼り付いた“汚れ”であり、根本的にこれとは異なる。肉体の奥に強制的に溜め込まれてしまい自力では回避しえないそれが、直腸や陰茎といった宿命(さだめ)られた器官ではない、本来は清潔を保つことが容易な素肌なり四肢を割り裂いて突出すること、その様を他人に見られることがひたすら悔しいし、たまらないのだった。さむけと恥辱の火照(ほて)りがない交ぜになって、居心地は最悪だった。
私の緩慢な動きを封じる勢いで看護師は両手を差し出し、挟み込み、シャボンを泡立てて洗い始めた。表にも裏にも気負いは一切感じられず、それでこちらも無心のまま、それこそ人形にでもなった心持ちで身を任せていった。あまりに自然過ぎて礼を言うタイミングすら摑めなかったほどだ。医療にたずさわる人の鍛え抜かれて鋼(はがね)と化した心は、垢(あか)に覆われてざらつく患部に触れることなど何程のこともなかったのだろうが、それでも見事と思うし、つくづく有り難い一瞬だったと感じる。
『フィギュアなあなた』のシャワーブースでの若者とフィギュアというのは、もしかしたらそのような看護師と患者にも似た間合いにあった、と捉えるべきではなかろうか。廃墟ビルに棄てられた無数のマネキン人形たちと同様に佐々木演ずるフィギュアもまた虚栄や欲望を煽るための道具として酷使され、十年分かもしれない夜露やほこりにまみれ、ひどく穢(けが)されていたはずなのである。何がしかの深慮が及んで銀幕には示されぬだけであって、排水口に渦を巻いて去った洗い水は、正体の分からぬ残滓を交えて黒く濁ったはずなのだ。
時に石井は禊(みそぎ)の景色をはめ込んだ、踊り場めいた空間を創出してきた。性愛を目的として衣服を脱がせるのでなく、肌のなめらかさと弾力に舌鼓を打つために洗うのでもない。地に倒れて心を閉ざしてしまった相手を同じ生きものとしていたわり、手を添えて回復を図っていく、そんな場面だ。つまり、私たちはここで『天使のはらわた 名美』(監督田中登 1979)の終盤の浴室や『夜がまた来る』(1994)での地下室を振り返り、穢(けが)れたおんなの身体を懸命にぬぐっていく男を想起して良いのではなかろうか。くたびれ果てた身体を男に預け、ゆっくりと蘇生していくおんなを想っても良いのではないか。
シャワーシーンに前後して執拗に繰り返される一連の児戯にしても同様であって、あれを単なる“ままごと”と見るか、それとも廃人寸前の魂にぴたり寄り添った“介護”や“リハビリテーション”と捉えるかで、この『フィギュアなあなた』という物語の深度と色彩はがらりと転じるように思う。
2013年6月23日日曜日
“森を歩くもの”
「キネマ旬報」誌上の撮影現場ルポ(*1)と特集(*2)にもあるように、石井隆の新作『フィギュアなあなた』(2013)はポール・ギュスターヴ・ドレ描くところの「神曲」挿画で幕を開く。人生の途上で森に迷った男が、天上にて見守るひとりの女性“ベアトリーチェ”に導かれ、地獄めぐりをする話である。
石井が過去ダンテ・アリギエーリの「神曲」に触れたのは、雑誌に掲載なった四頁の絵物語(*3)のみと記憶している。1974年に発表されており、作歴上ずいぶんと早い時期に置かれた作品だ。下降と上昇を劇中に織り込み、観客の生理を独特の緊張なり昂揚に導く石井の劇にはどことなく「神曲」の影響を感じさせるものが有るが、39年も前にそのものズバリをモティーフに選んでいて、世界観の交差が明示されている。石井の方では隠す意思など最初から無いのである。石井が「神曲」を劇中に再度掲げることは、その点から言っても奇異なことではない。
それにしても劇の冒頭で高々と両手で掲げるようにして「神曲」を示す、その語り口の烈しさはどうだろう。幼少の頃から絵画集に親しみ、ルーベンスやデルヴォーをおのれの創作世界に(気負いなく)馴染ませる石井であるから、ドレの版画が新作を飾っていても何らおかしなところはないのだが、メインタイトルと同時に銀幕に長々と押し出される様子は只事ではない。劇の内実をひもとく鍵なり符号が含まれている、剋目すべしと石井が指差している、そのように解釈するのは当然だろう。
四方田犬彦と伊藤俊治の両氏はだから揃って「神曲」にからめて解題して見せるし、その方向はたしかに誤っていないように思う。。“死者の召喚”(四方田)、“地獄を突き抜け、浄化力を秘めた煉獄へ向かう”(伊藤)という解釈は絶対的に正しい。(*4) 特集「映画作家の肖像 石井隆の性(エロス)/死(タナトス)」で先陣を切る石井自身のインタビュウの内容をこれに重ねれば、自ずと私たちが進むべき航路は示されるだろう。彼らの向こうを張る意識はないのだけれど、ここでは私なりに「神曲」越しに覗く『フィギュアなあなた』についてもう少しだけ踏み込んで語り、創作者の特質に幾らかでも近付きたいと思う。
本当を言えばわたしが「神曲」を読んだのは年齢もだいぶ経ってからであり、あまり偉そうに語る資格はないかもしれない。ドレの版画を添えたA4変型の本を1989年に購入し、谷口江里也の訳で読んだのが最初であった。その前には星野之宣(ほしのゆきのぶ)の「美神曲 APHRODITE INFERNO」(1981)を「週刊ヤングジャンプ」で目撃して、其処にやや強き磁場を覚えもしたし、大江健三郎の「懐かしい年への手紙」(講談社1987)にも多数引用されていたことも幾らか背中を押したのだったが、そもそも体質的に冥界やら悪鬼、死人(しびと)といったものに惹かれることもあって、また、書店で手に取った際に挿画にも魅了されて自然に持ち帰ったように記憶する。
地下深く漏斗状となってひしめく階層を一段一段と降り立つごとに凄惨この上ない地獄の情景が展開するのだったけれど、添えられたドレの絵画の緻密さは神々しくさえあって、裸身をさらす亡者たちの身をよじる様子も大層美しく感じられたものだった。ウイリアム・ブレイクによる水彩とは違い、単色でおごそかなあの世の状景は石井の劇画が懐中している鋭さ、冷たさとも似た気配があったように思う。友人に紹介したり、無理に押し付けて読ませてみたりもし、要するにわたしの波長に大いに合ったのだった。石井がいつか「神曲」とがっぷり組んで、その面影を劇中に取り込んだら面白かろう、さぞかし胸に迫る作品となるだろうと勝手な夢想もしていた。
焼き鏝(ごて)で「神曲」と押印された具合の『フィギュアなあなた』は、だから石井にとっても、私にとっても(並べて書くとなんだか偉そうな感じになるが)意味深い作品となっている。生半可な感想を返しては済まないものと緊張するし、同時にこうして丹念に咀嚼するのが無性に楽しくもある。心もとない己の読解力をおぎない消化を進めるには薬の助けが是非とも必要と思われたものだから、いそぎ解説書を入手してひもとき、まずダンテの「神曲」を理解するところから始めたのだった。
選んだテキストは(映画を観て興味を覚えた人には是非薦めたいのだけど、)「神曲」の翻訳者でもある比較文学者の平川祐弘(ひらかわすけひろ)が実際に講義した内容を文字に起こし、それに加筆を加えた「ダンテ『神曲』講義」(河出書房新社 2010)である。大著ではあるが、随所で頷かされ、笑わされ、驚かされしながらそれ程の日数をかけずに読了している。にわか仕込みの知識ではあるけれど其処を起点として振り返る『フィギュアなあなた』は、もしかしたら石井の劇で顕著になっている“救済の意志”がとんでもなく色濃い、そういった意味合いでは極めて大切な作品と考えられるのだった。“誰を救おうとしたか”について私たちはよくよく噛んで呑みこむ必要がありそうだ。
文の最初の方で、「神曲」を人生の途上で森に迷った男が天上にて見守るひとりの女性に導かれ、地獄めぐりをする話、と説明した。ひとりの男(詩人=ダンテ)と永遠のおんな(ベアトリーチェ)との、高度差を物ともせずに注ぎつづけ、絡めあう視線の物語(*5)──平川の「講義」を読むまでは私もそのように「神曲」を理解していたのであるが、これは実際の旅の諸相ではない。名を付された登場人物すべてに力点は配分されており、おんなの影はむしろ後退するのだった。人生の森に迷った男が、天上の存在のこころを汲(く)んだ先師“ウェルギリウス”に導かれて地獄めぐりをするのが「神曲」という物語であり、ダンテはこの先師の描写に主人公やおんな以上に言葉を費やしていく。卒倒してばかりいる主人公をいたわり、声掛けしながら先導する先師の存在感には独特の密度と体温がある。
『フィギュアなあなた』と「神曲」を重ねて透かし見れば、登場人物の輪郭は完全に合致はしないにしても誰がどの役割を担うのか、おおよその見極めはつくだろう。詩人は柄本祐(えもとたすく)演じる内山であるのは見ての通りだし、廃墟に巣食う悪漢三人組(伊藤洋三郎、山口祥行、飯島大介)は詩人の退路をはばむ三匹の野獣(豹、獅子、狼)、もしくは三つの頭を持つケルベロスではなかろうか。佐々木心音(ここね)演じる等身大フィギュアは若者に影となって終始寄り添うから、どうやらベアトリーチェではなくって、性別こそ違えどもウェルギリウスの立場を担わされている。
それは佐々木の動作にも反映していないか。劇中でのフィギュアには急回転や飛翔といったアクションに付随する“浮遊感”と、身体に宿る“重量”が執拗に肉付けされ、それ等はめざましい勢いで交互に起こって“不自然”に強調されている。(山口祥行を弾き倒す、あの途轍もない重さは一体全体なんだろう!) 半ば崩壊してぐらつく岩場をウェルギリウスは悠然と渡り歩いて見せて、後を追う詩人を呆然とさせるのだったけれど、佐々木の劇中での遊泳はそれと同質の不可思議と言えるだろう。そうとなれば、私たちは一気に『フィギュアなあなた』の足元を見きわめ、この物語(地獄めぐり)がどんな使命を負っていたかを理解することが可能ではないか。
ダンテより遥か以前に世を去った魂が、地獄にも幽閉されず、かと言って天国にも召されず、辺獄(へんごくlimbo)という中途半端な場所に止め置かれて物憂げにたたずんでいる、それが「神曲」におけるウェルギリウスの今である。そんな永久(とわ)に座礁して虚ろとなった魂をフィギュア(佐々木)は白い肌に写し染めしている訳なのだが、若者は地獄を模した廃墟からこれを連れ帰り必死に介抱していく。これの意味するところは何か。
洞窟のような昼とも夜とも判別出来ぬ場処のさらに奥深く、死骸のごとく硬直し続けるマネキンが山積みなっており、炎の舐め走るようにして真っ赤に照らされている、その光源は何だろうかと目を凝らせば、それは蓮(はす)の花弁のような形をしたライトであるのだし、人形たちの四肢に群がり絡んで床を波打つロープライトは、これも泥に埋まった黒い池を気味悪く這い茂る蓮の根っこのようである。思えば上に書いた石井の初期の絵物語は、地獄の第七圏、第二の環である“自殺者の森”を描いたものであった。亡者はその身体を樹木に変えられ、硬直して自由が利かず、魔鳥に目やら耳やら手足を突かれて痛みに泣き叫ぶも誰も救ってはくれないのである。両者は色彩こそ違えども植物の群生と死体の堆積が交錯して描かれて、同じ認識のもとで創出された風景と見て差し支えないと思われる。その森に交じり置かれていたフィギュアが呪縛を解かれて立ち上がり、からくもその場処を離脱して人間の街に戻っていく。これの意味するところは何か。
石井が原作本を映画の脇に置くとき、そこに凄まじい救済の念が生じて劇の根幹を揺さぶることがあるのを、私たちは『花と蛇』(2004)で学んでいる。(*6) あの時と同じような劇烈な化学結晶が生じている気がしてならぬ。不況で組織から追い払われ、存在意義を見失ってのたうつ一人の若者を描くことが主旋律ではあるだろうが、裏側に縫い付けられたものは別の大胆不敵な救出劇ではなかったか。
どこからそんな希求が湧き上がるのか、そこまでして手を差し伸べる気持ちになるのはどうしてなのか。問い掛けに答える者はおらないが、石井の指先が現世と彼岸の境を越えたところにも及びはじめた事だけは、どうやら確かなようである。「神曲」という壮大且つ永劫なる書の隙間から、希望を抱くことさえ許されぬ囚われし魂や、死して後に樹木に姿を変えられ泣き暮らすおんなを連れ還ろうとするのである。なんという救出劇であろうか、なんという気概であろうか。そのような強いまなざしを持った創作者を、私は石井隆以外には知らない。
(*1):「キネマ旬報 2013年5月上旬号 №1635」 86-87頁
(*2):「キネマ旬報 2013年6月下旬号 №1639」 36-49頁
(*3):【悲しい奴】 「SMキング」 1974年5月号
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=210007688&owner_id=3993869
(*4): そのようにして細やかな視線で鑑賞するに値する“読む映画”になるほど『フィギュアなあなた』は成っているとも思われ、ふたつの重い文章は私の目には石井世界に馴染んで思われた。映画という媒体が一過性のものではなく、木霊(こだま)を呼んでしばらく残響する“魂の交歓作業”であると伝えるところがあって、この度の「キネマ旬報」は読んでいて二重三重に幸せだった。
(*5):上にあげた星野の漫画作品にしてもそのような性急さが全篇を覆っている。灼熱の惑星に地質調査のために送り込まれた宇宙船のシステム“ダンテ”がエラーを起こし、作業員を次々に事故死させていく。それは地獄のごとき苛酷な環境に耐え切れなくなったコンピューターの嘆きや悲鳴が顕在化したものであった。最後、宇宙船は高温のガスと溶岩に沈むのであるが、溶解寸前の宇宙船から発せられたホログラムが一筋、天空に真っ直ぐのびて女神“ベアトリーチェ”像を結び、孤寂する存在からのまなざしを受け止めるという結び方である。ダンテとベアトリーチェは直線で結ばれ、他の者は傍観の身に徹するしかない。一応“ウェルギリウス”も登場するが、やはり添え物の域を出ることはない。
(*6): http://grotta-birds.blogspot.jp/2011/12/blog-post.html
2013年6月14日金曜日
“重なりあう絵”
乱暴な例えになるが、劇作家が第一線で闘い続けることは終わりなき出産である。移り気な大衆に独創的な作品を送り続けるのは、どれ程の労苦であろう。
1970年代の後半から三十年以上に渡って物語をつむいできた石井隆とて、踏破して来た道の険しさに変わりはない。名美、村木と名乗る男女が劇中に決まって配され、最後そのどちらかが死んでしまう(*1)──そのように石井のドラマをひと括りにする読み手もなかには在るが、それは枝ぶりを見ずに剪定(せんてい)した結果の坊主に近しいのであって、現実はそこまで単調ではない。街を舞台(一部を除いて)と定め、恋情と性愛を題材とし、時代設定を現在もしくは近過去に限定しているがために舞台は馴染みの風貌となる嫌いはあるが、よくよく見れば実に色彩に富んだ構成になっている。よくもまあこれだけ違った花果(かか)根茎を、鉢ひとつ(劇画と映画であるから、鉢はふたつか)に育て上げたものだと感服を禁じえない。
さて、そのような堅く多彩な作歴を誇る石井世界のなかで、ほんの時折に限られるのだけれど、既視感(デジャ・ヴ)にも似たざわざわした心持ちにさせる構図や語り口に出会う瞬間がある。いや、そんな曖昧模糊としたものではないのだ。確信的に透過法を駆使し、“物語の上に物語を築く”ことが石井の作劇では稀に起きるのである。たとえば、AV業界で衣裳係として働く夏海と、共に暮らしている母親との葛藤を描いた短編【花の下にて】(1989)は、その終幕、蒼白き雷光が夜空を切り裂いていく凄絶な風景のなか、初期の代表作【紫陽花の咲く頃】(1976)との連結を果たして私を叩きのめした(*2)のだったし、麻雀誌に連載なった中篇【赤い微光線】(1984)では、名美と村木との間に【天使のはらわた】(1977)の主人公をほうふつさせる名前と顔立ちの“川島”という男が強引に割って入り、そのクライマックスは【天使のはらわた】で断絶したままとなった“道行き”に決着をつけて見える。(*3)
前者は十三年、後者は七年以上の歳月を経て物語と物語を(作者はその事をおくびにも出さず、素知らぬ顔で)線で結んでいるから、ほとんどの読者は特別な感懐を覚えることなく読み終えるのだろうが、わたしのように石井の世界に長く囚われた身には相当の衝撃があった。おのれの十三年、作中人物の七年を当然振り返りもし、フレームの裏に隠されて見える記憶や景色といったものに想いは馳せたのだった。石井によって丹念に描かれていく“人の一生の奥行き”を真剣に見つめ、思考せぬわけにはいかなかった。
過去の作品を写し描く(トレースする)ことは、だから、石井の積極的な想いが大量に注がれる瞬間なのであって、アイデアが枯渇したわけでは決してないのだし、マンネリズムの軍旗に降(くだ)ったのでも当然ない。過去が付かず離れずして、やがて現在を侵蝕するのである。表層に定着したドラマ以上の物語が派生し、膨張して世界をひたひたと潤すのである。
高名な絵画作品をX線で透視すると別の作品が下に塗り込められているのが見つかることがあるが、感覚的にはあれに近い。下地の絵が先になければ新しい絵も存在しない。また、両方の絵を共に含んで世界が完遂することを密かに画家が望んでいる節もある。石井の謙虚さはその事をつまびらかにしないが、だからと言ってどうでも良いことと放擲(ほうてき)するでもなく、読者の眼識を試しているような気配も色濃く感じられる。石井の仕事(映画を含めて)を観る行為には、そのような“過去を視る”、そして“もう一枚の絵を読む”ことが多少要望されるように思う。
前置きが長くなってしまった。先日の話に戻ると、新作『フィギュアのあなた』(2013)においても石井の作劇の特徴である“物語の縫合”は明らかに視止められ、それは横並び型の『天使のはらわた 赤い教室』(1979)とは少しちがった仕方であって、踏み入って考えていけば、それは原作であるコミック【無口なあなた】(1992)の成り立ちとどうやら関係がありそうなのだ。上に掲げた【花の下にて】と【紫陽花の咲く頃】、【赤い微光線】と【天使のはらわた】のように結線する相手を【無口なあなた】は持つのであって、その短編の題名を明かせば【女高生ナイトティーチャー】(以下【女高生】)という1983年発表の作品なのであった。(*4)(以下、物語の結末に触れる)
両者の前半部は酷似しており、石井のなかで何がしかの結線が起きているのは違いない。主人公は出版社に勤めており、所属するのは編集部門である。このところ業績は悪化の一途をたどり、失職をおびえる日々だ。同僚たちが上手く立ち回るなか不器用な男だけが孤影を深めていき、逃げるように街を徘徊しては酒と風俗業に溺れていくのだった。けれど、元来の生真面目さがたたって鬱憤は去らぬばかりか酔ってチンピラに喧嘩を売る始末であり、当然のごとく叩き潰されるという顛末である。
新宿辺りの解体工事現場であろうか、ずる剥けの鉄筋が無残な感じのコンクリート瓦礫が足元を埋めている。暗い夜空を屏風にして、何本かの高層ビルが墓石のように突き立っているのが見えるのだった。ぼこんとした窪地が出来ており、気を失った男が棒切れとなって伸びている。やること為すことが全て裏目に出て、捨て鉢になる寸前の男である。目覚めた男が傍らに見止めたのは、【無口なあなた】では一体の裸のマネキン人形であった訳だが、【女高生】では手提げ袋を持ってひとり佇む少女であった。朦朧の体で男は少女に声掛けし、連れ立って宿に入っていく。導かれて唇をようよう開いた少女は、自らのことを重い質感の声で語り始めるのだった。
物欲や金銭欲に染まっては見えない。どんな理由によるものか数ヶ月前に学校を退学し、闇に獲り込まれてしまった娘である。表情も言葉も少なく儚げな影がさらに薄れていくような、それでいて下手に触れば一気に瓦解しかねない繊細な局面にある。そんな制服姿の娘の小さく丸まった背中を、男は黙って見つめ続けるのだった。抗(あらが)いがたい力で日常の平穏を切り裂き、子供時分には思いもしなかった方角へと圧し流していく黒い浪(なみ)。途轍もないその厚み、その密度、そして高さよ。私たちはただただ波間にあえぎ、かろうじて息をするのがやっとである。男は性差と年代こそ違え、人生に弄ばれ疲弊し、同じように途方に暮れている魂を目の当たりにしてようやく冷静さを取り戻すのだった。
救済された感をつよく抱いた男は、ひと月に渡って娘の姿を探し求めたのだったが終(つい)ぞ再会は叶わない。傾くばかりの会社を自ら発って、男はライター業へと転身するのだった。物語は(私の目には【無口なあなた】の鏡像と映るのだが)、娘の非業の死を報せる新聞記事を男が見つけたところで終わっている。死因は十階の部屋からの転落であり、娘が好んだ歌の詞と奇(く)しくも符合するのだった。“鳥になって”苦境を脱出したい、飛翔したいという切なる祈りを歌った内容だった。それがあまりにも哀しい形で実現されたことに言葉もなく、身じろぎもならず、男は食卓に座り続ける。男の丸まった背中を長々と映して、劇は幕を閉じていく。
『フィギュアなあなた』の謎解きがしたいのではない。『フィギュアなあなた』を丁寧に読んでいく過程の一部を開陳しながら、石井の劇の面白さ、奥深さ、恐ろしさを共有したいと願うのだ。映画のなかで佐々木心音(ここね)が演じるのは等身大のフィギュアであるが、その事は等身大のフィギュア“だけ”を佐々木が演じるのではなく、それと同時に(十年程も先行して描かれていた)表情も言葉も少なく、儚げな影がさらにぼんやりと薄れていくような、そんな制服姿の少女の容姿や想いをも同時に宿すことが期待されていた可能性を示すのだし、私たち観客も銀幕越しにそれを透かし見ることが望まれるわけである。
屋上を蹴って佐々木が宙に舞うとき、視線はクラシックチュチュの下に集中してしまうのは仕方ないにしても、これは“鳥”の飛翔を表わすのではないかと感づき、唐突な死を逃れ得なかった若いひとつの魂へと想いを馳せてもここでは決して深読みには当らないはずである。原作に託された石井の想いを読むこと、観ることの域内であって妄想や暴想とは言えないのじゃないか、と固く信じてこれを書き留めている。
(*1):名美と村木のメロドラマは石井世界の機軸と思い、至宝とも思うけれど、全てをそれに集束させてしまうと劇作家石井隆の面白みは半減するように思う。石井世界の沃野(よくや)は広大であり、収獲される作物の種類は膨大である。
(*2):【花の下にて】は「月物語」(日本文芸社)所載。【紫陽花の咲く頃】は「イルミネーション」(立風書房)ほかに所載。両者の連環については以前次の頁に書いた。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=526358041&owner_id=3993869
(*3):昭和59年(1984)3月から「別冊近代麻雀」に連載された【赤い微光線】と石井の代表作【天使のはらわた】(1977-79)との連環については、次の頁に述べている。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=216419068&owner_id=3993869
また、石井の創る物語に潜む多層構造や透過構造、または鏡像を例証するにおあつらえ向きなのが【象牙色のアイツ】(1983)、【ひとり遊戯(あそび)】(1984)、【昨年(こぞ)の恋】(1985)の三篇である。以下の頁に述べてある。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=233575013&owner_id=3993869
(*4):【女高生ナイトティーチャー】は「ラストワルツ 石井隆作品集②」(日本文芸社)所載。
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